Q3 米空軍輸送部隊、憲兵隊通訳で就職
第十五話 福岡公共職業安定所統計課臨時雇員
二十四年十月十七日、検閲局が解散されてから一週間後に福岡公共職業安定所、統計調
査課に臨時雇員として就職した。検閲局で郵便物の検閲業務を行っていたとき、統計学で
の事例研究を行い成果が上がっていたため、私自身、統計分野の仕事に向くと考えた。
義兄の姉が六月田荘という料亭を経営して、知合に安定所の職員がいたので紹介しても
らった。私の戦後の就職には公共職業安定所の職員にコネがあったのが特長である。
福岡公共職業安定所は天神町付近で、西南学院へ通学するには電車で三十分の距離にあ
った。通学に便利な職場を見つけることが重要であった。 統計学には興味があり、統計
調査課に就職した。職業安定所は失業者が職を求めてくるところであった。安定所の前に
は失業対策日雇労働者が行列していた。
これらの人々はニコヨンと呼ばれていた。日当が二百四十円であったため、そのような呼び名
となっていた。統計課では求人数や就職希望者、就労者などの月別統計が集計され、これを月
報として福岡県庁労働局へ報告されていた。
私は潜在失業者の推定を担当した。臨時の雇員の仕事ではこのような業務は担当しないが、
特別の計らいでこれを担当した。学歴社会である官庁に就職したため、公務員の試験を受けな
ければ臨時の雇員であり、検閲局と比較しては環境がよい職場ではなかった。
西南学院専門学校英文科に通学しており、公務員の試験を受ける考えはなかった。 二十五
年三月末で退職した。勤務期間は約五ヶ月であった。 労働統計の仕事よりも英語の仕事の方が
本命であると思った。
統計は得意であるが算盤は不得手であった。統計学やO-Rには興味があり、英文科の同級生
で日本ゴム株式会社、品質、管理室に勤務していたものがおり、 抜取試験などを見学したとこが
あった。
推計学という本をよみ標本抽出法などを研究していた。多くのデータを集めて集計を取
るためには、算盤が必要であったが私は不得手で、集計業務には不向きであった。
しかし、数多くのデータを抜きとり、これを精密に分析するには割算が必要で計算尺は
使い慣れていた。 経理には不向きであるが科学計算には強い。 数多くのデータを乱数表
により抽出するする手法は、コストと精度との関係にあり、現在の抜取検査が導入された
のはこの頃であった。
小数例による統計手法を使用していたために、これより十五年後、航空貨物分野に転職
したとき航空貨物の研究では小数例での処理方式を採用、非常に役に立った。この時代に
パソコンが出現したら早速これに飛び付いたと思われる。四月より母が経営する不動産事
務所で給料なしの手伝を行った。事務所が
り、学校の所在地である西新町へは一本線であったので便利がよかった。
母は戦前より土地を借り受け、米や麦を作っており、私も農業の手伝いをしたが、母が不動産
の仲介業をしており、土地の造成、分譲などの利益計算の手伝をしていた。

第十六話 専門学校夜間部での交友関係
二十五年三月、西南学院専門学校二年が終了し、三年に進級するとき学制改革により、
新学期より短期大学部二年に編入するか、あるいはそのまま専門学校として卒業するかを
諮問された。このとき英文科ではクラスの幹事をしていた。
福岡公共職業安定所の臨時の雇員をやめて、母の不動産の仕事の手伝いをしていた関係
で、時間的なゆとりがあり、クラスの世話役となっていた。大学三年に編入する場合、短
期大学部の一、二年の単位(六十四単位)は認められるが専門学校の単位は認められない。
このため短期大学部への移行を有利と判断し、短期大学部への編入を学校側へ表明した
ことがあった。新学期から西南学院大学短期大学部英文科二年に編入された。このとき、
私は短期大学部の自治委員会委員長に選ばれた。
自治委員会の委員に西原一男氏がおり、元大日本航空整備訓練所の出身であった。西原
氏は専門学校一年の時よりの友人で、彼の両親が売り家を探していたので、母に相談し家
が管理していた空き家を一軒、庭つき平屋、土地二十坪程度で二十三万円で売却した。手
数料は取らないで無料奉仕となったが、彼の両親からもよい家を世話したと感謝された。
西原氏からみると信頼がおける物件であったに違いない。西原氏とはこのような関係が
あった。
二十五年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発した。
前線基地になり、雁ノ巣、西戸崎方面に米軍基地や宿舎の建設で建設会社が現場の通訳を
募集していた。八月より二ヶ月程度、現場建設工事の通訳となった。
西原氏は米空軍雁ノ巣基地の労務管理事務所に勤務し、マネジャーであった。雁ノ巣空
軍憲兵隊の通訳を募集していることを知っていた。このため空軍憲兵隊の通訳の仕事を斡
旋してくれた。西原氏は日本人従業員の採用の権限があった。 私は英会話には不慣れで
あるが、和文英訳は得意であることを西原氏が説得したため、通訳に採用された。同級生
が米軍の従業員を採用する部署のマネジャーであったことは幸いであった。
この西原氏のおかげで二年半にわたり雁の巣、空軍憲兵隊の通訳としての職場を確保し、
短期大学部、大学文商学部へ通学することが出来た。 学生運動が盛んで授業料の値上げ
では、昼間の学生は値上げ反対で騒いでいたが、夜間の自治会では反対運動はしないで、
授業料の分割方法などの交渉を行った。学校側からは物判りがよいという評価を受けてい
た。自治委員会委員に商学部の田尻重彦氏がいた。陸軍予備士官学校出身で西原氏と同じ、
雁の巣、基地労務管理所に勤務した。商学部の学生が授業をうけている教養学科の統計学
の単位を私は取っており、授業では顔を会わすこともあった。

第十七話 米国空軍、雁の巣、基地憲兵隊通訳
二十五年十一月より福岡市「海の中道」にある西戸崎に近い、雁ノ巣、米空軍憲兵隊の
通訳として勤務した。この空軍基地はブレディ、フイルドと呼ばれ、ここに米空軍輸送部
隊第三一四部隊が駐屯しており、北米、イリノイ州の出身が多かった。
朝鮮戦争における本土の最前線基地であった。戦争が勃発して五ヶ月目で勤務するよう
になった。居住している福岡市桜町と勤務地の雁の巣との間は、距離にして三十キロ程度
あり、夜間は交通機関がないため、特殊な通勤手段をとっていた。
福岡市天神町にある千代田ビルは検閲局勤務当時、一年ぐらい居たことがあったが、そ
のビルに米軍憲兵隊司令部があり、雁ノ巣憲兵隊の福岡市内パトロールの憲兵が派遣され、
夜十一時ごろ雁ノ巣基地にジープで帰るのが日課であった。
ジープは兵隊の運転手をいれて四人乗りで、兵隊は二名であった。憲兵隊通訳は四名が
定員の交代制で日勤、夜勤、深、夜勤を行っていた。私は深、夜勤の場合は家から徒歩で
四十分の距離にある天神町の千代田ビルへ行き、このジープに便乗して勤務地へ出発、午
後十一時五十分ごろ到着、零時より翌朝の八時まで勤務した。次の勤務は、二十四時間後
の午前八時より午後四時までの勤務であり、次の勤務は二十四時間後の午後四時からの勤
務であった。このため午後四時より翌日の八時まで十六時間勤務すると、次の勤務は四十
八時間後の午前八時よりの日勤となった。これは月間百六十時間、週三十七時間労働であ
った。勤務シフトは就職の二十五年十一月より退職の二十八年三月までの約二年半、変更
されなかったので事前に学校に出席可能な曜日と時刻とを予想することができた。また勤
務終了後の会合や教育訓練などはないため、通学するには好都合の職場であった。
深夜勤のとき出頭していた千代田ビルには米軍の特別電話局があり、夜勤のオペレーターの
半数は、西南短期大学英文科に通学している女子学生で、同級生か下級生であった。憲兵隊司
令部の待合室の隣が、電話交換室で、オペレーターの交替が一時間ごとであっため、その交替
時にしばしば顔をあわせる機会があった。
憲兵隊の勤務では四つの班に分かれており、各班では米空軍憲兵が十名程度で班長は軍曹
(S/SGT スタッフ・サージヤン)であった。日本人警備員が約二十名で、これに通訳が一名加
わるわけである。通訳は事件がなければ何もしなくともよく、事務所で本を読むことも認められて
いた。勤務先においては仕事が暇なとき、勤務先で何か役に立つようなことを考えるが、通訳は
何か事故に備えて待機していることが重要であった。仮眠は処罰される職種であった。学生の仕
事としては好都合な職業であった。
深夜は憲兵隊、下士官と会話するか、学校の勉強をしていた。日本人立入禁止の兵隊食堂に
深夜、下士官と同行して兵隊の食堂で食事をしたこともあった。

第十八話 空軍憲兵隊通訳と昼間の大学への通学
飛行場の各地出入口に日本人警備員が歩哨に立っており、ピストルも携行していた。
深夜は眠気覚ましに飛行場の滑走路を憲兵のパトルールのジープに同乗して横断し、警
備のため飛行場の周辺に配置された歩哨に暖かいコーヒーを飲ませたりしていた。仮眠
は解雇となる厳しい規則があった。
何か事件があると
事は調書の翻訳が月に二、三度あった。交通事故の翻訳が多かった。
英会話は上手であるが警察の調書などの固い文章の翻訳には不得手の通訳もおり、こ
のため調書の翻訳は積極的にまわしてもらった。警備関係の翻訳もあったが戦時中、航
空機乗員養成所で軍事教練を習ったことがあり、これが大変参考となった。通訳は憲兵
が呼びやすいようにニックネームがつけられていて、私はヘンリー、他の通訳はマイク、
ジョージョージ、エディなどであった。
勤務中の居眠りは許されない。起きていればよいわけであるが、基地と学校とは距離
が四十キロはなれており、深夜勤務の場合、朝八時に勤務が終ると基地の憲兵隊ゲート
で、福岡市内へゆく軍のトラックに便乗させてもらって殆ど毎日、通学した。
夜勤あけは意識朦朧としながら通学し出席点を稼いでいた。学校を欠席する習慣がつ
くと卒業は見込みがないので通学する習慣を身につけた。肉体的には限界に達していた
が、卒業が重要な目標であった。
憲兵隊の通訳となって五ヶ月後の二十六年三月に、西南学院大学短期大学部英文科二
部を卒業したが、憲兵隊の通訳の仕事は以前と同様に継続することにした。当初、専門
学校に通学した当時、大学にゆく計画はなかったが、卒業の時点で下級生から薦められ、
大学文商学部英文科三年に編入試験を受けた。専門学校と短期大学は夜間であったが大
学の昼間の授業で単位をとることとなった。専門学校英文科の一年に入学したのは約百
名で、途中、短期大学部に切り変わったが、卒業したのは約四十名で、大学の三年に編
入したものは五名程度であった。専門学校においては出席が重要で、職場が忙しいため
に出席日数が不足した場合は、期末試験での受験資格がないため単位がとれずに留年に
なり、翌年卒業したものが多かった。占領軍はいずれ撤退するわけで、占領軍に日本
人従業員として働いていることは、何れ就職先がなくなるという不安があった。米軍基
地の縮小、家庭をもつ人が働けるところではないが、このようなところを利用できるの
は専門学校、大学へ通学している学生であつた。
大学の英文科に通学して、米軍の憲兵隊の通訳をしていることは、英会話の勉強にな
り、給料は高く、仕事が暇でかつ憲兵隊という組織に属していたため、身柄が安全な職
場であった。給料の支払者は米軍でなく日本政府である。学生が学費を稼ぐため働くア
ルバイトと異なり、専門学校、大学在学中が厚生年金の支給対象期間となった。
第十九話 働きながら学ぶことの必要性と卒業後の就職
二十年八月十五日終戦となり、戦後大変な食料難となった。学校よりもまず食べること
が重要であった。二十二年一月に西南学院専門学校第二部を受験するため成績証明書を東
京の航空局に依頼したところ、間にあわず、二十三年の受験となった。最初は商科に進む
計画であったが、英語は将来、必要と考え、英語を専攻する意味で、英文科を選んだ。
働きながら学ぶには仕事が英語と密着していたほうがよいと考えて、検閲局の監督の仕
事から、翻訳業務に転職した。英作文を重要な科目と考え、専門学校卒業の資格をとるこ
とを目標とした。英文科の学生には必須科目でない数学、統計学などの単位をとった。米
軍検閲局に就職した時より、統計学には関心があった。働きながら学ぶには仕事が英語と
密着していたほうがよいと考えて、検閲局の監督の仕事から、翻訳業務に転職した。英作
文を重要な科目と考え、専門学校卒業の資格をとることを目標とした。
英文科の学生には必須科目でない数学、統計学などの単位をとった。米軍検閲局に就職
した時より、統計学には関心があり、商科の学生でも苦手の数学と統計学とを受講したの
は将来、必要となると判断したためであった。また統計学の平岡教授は米軍検閲局で面識
があり、このため同教授の授業をうけた。
英文科の同級生に田尻和彦氏がおり、その兄の田尻重彦氏は商科の学生で統計学をとっ
ていたので、親しくなっていた。
西南学院は米国南部バプチィスト派の学院で、キリスト教が建学の精神であった。短期
大学では卒業論文はないが、ゼミにレポートを提出すると八単位がもらえた。私は「セク
スピアのハムレットの性格について」を英文で書きレポートとした。英文科四年の卒業論
文では再び[ハムレットの性格について]という同じテーマーを選んだ。卒業時、同級生が
就職と卒業論文に追われているとき、三年編入時、すでに卒業論文の下地ができていた。
これが就職ではきわめて好都合であった。
私は学校に遅刻するときもあるので同級生から教えてもらう必要があり、その代償とし
て卒業論文の英作文は手伝うという約束をしていた。このため自分の論文は早く仕上げて
おいた。学校と職場との二つをうまく調和させ、最低限のエネルギーで処理し、健康に注
意するというのが、働きながら学ぶというコツであると考えた。
検閲局で監督から翻訳に転向したが、和文英訳の仕事であったため卒業論文を英語で書
くとき大変プラスになった。働きながら学校にゆくことは勉強の時間に制約があるため、
よい成績をとることは期待できない。また就職試験に於いても一般の学生よりは不利な状
況であった。当座、憲兵隊の通訳という職業があったので、就職活動には消極的であった。
日本航空鰍ヘ二十六年十月に設立された。西南学院の同級生で雁ノ巣基地の労務管理事
務所にいた田尻氏は、二十七年に日本航空に入社し福岡支店に勤務した。日航福岡支店は
空の国内線の航空券販売代理店でもあった。阪急より田尻氏に、二十八年大学卒業の学生
で二十七年十一月より働ける学生の紹介を依頼していたため、田尻氏は私を阪急に推薦し
てくれた。
十六年四月より四年半、航空機乗員養成所で航空関係の教育を受けたが、戦後、民間航空が
禁止され、 このため航空関係の仕事は断念していたが、田尻氏の紹介で航空分野へカンバック
することとなった。
私の戦後の就職の特徴は、4年間就職した米軍検閲局が近所の友人、二年半勤務した
米軍憲兵隊通訳が英文科同級生の紹介、阪急電鉄が商科の同級生の紹介であった。働き
ながら学校にゆくということは有能な学友をもつことができるためプラスであった。
昭和二十八年は大変な就職難の年であった。学校の成績では中位の学生が、同級生よ
りも早く就職先が決定したのは、米空軍憲兵隊で二年以上通訳の実務経験が評価された
ためである。入社してまもなく米軍の基地へ航空券の販売へ行く仕事となるため、米軍
での実務経験をもつ、二十八年学卒者としての採用であった。
電鉄とういう年功序列、終身雇用の会社の少人数の地方営業所では、入社時の学歴に
より昇進が決定されるので、有能な人を嘱託として採用した場合、給与面で問題が発生
していた。給料は高いが、学卒でないとベースアップの割合が少ないので、不満を持つ
ことになり、このため阪急福岡営業所では学卒の新入社員を探していた。
米軍で働く勤労学生というのに注目されたようであった。戦後の民間航空は米国の支
配下にあり、米軍に勤務したものが、航空会社や代理店に入社したのが多い。
私は航空局航空機乗員養成所で五年間、航空関係の教育をうけた。戦後、民間航空が
禁止され、航空機整備士という仕事で航空業界に就職はできなかったが、航空旅客セー
ルス分野での就職となった。
中学校に入学できなかったものが、親からの経済的な支援なしに、大学を無事卒業で
きたことに私の戦後の特徴があった。