Qe 古希以降と自分史編集メモ

 

第百十三話 国際観光専門学校非常勤講師の契約の終了

 

 昭和六十三年四月に国際観光専門学校東京校国際ホテル学科のコンピユータ授業に必要

なホテルフロント会計システムを開発、納入し、毎週水曜日に午前九時より午後四時まで

コンピユータ実習授業を担当した。

これは学校とソアレックス株式会社で講師派遣契約を締結し、ソフト開発を行った私が

講師として派遣された。当初の実習はホテルフロント会計が主であったが、次年度から

は学校側に提案し、宴会管理や食材管理などを実習に追加して教材の充実を図った。

 平成八年四月からは航空輸送学科の[航空貨物]という授業を担当、プログラムを開発し

て、阪急およびフライング・タイガー航空会社に在職中研究していた航空輸送分野の業務

処理をパソコンにより紹介した。

 平成九年三月、古希を迎えた。学校側のパソコンにおける授業方針の変更があり、講師

として九年間継続した時点で講師契約の終了となった。昭和十六年四月に航空機乗員養成

所に入所したが、六十九歳になって航空輸送学科の非常勤講師となったことは、きわめて

意義があったものと思う。

 ホテルコンピユータソフト開発・販売をビジネスとして、ソアレックス会社を設立して

おり、一週間に一日だけは講師派遣契約により学校へ出勤しているが、その他の日は会社

に出勤していた。
ホテルに機械を販売し、ソフトを開発、納入すると約五年間はアフターサービスを必要

とし、高齢化して健康を害して保守サービスができないと顧客に迷惑がかかるため、六十

五歳以降はホテルヘのセールスを行わなかった。
専門学校のOA授業と共同出資会社から依頼されホテル建設事業計画のソフト開発と計

算業務を行い、専門学校の講師の仕事が終了すると、ホテル建設事業計画の計算業務に専

念することとなった。


DCFホテル建設事業計画
,

 

第百十四話 ソアレックス株式会社の事務所の移転の推移

 

 昭和六十二年二月にソアレックス株式会社を設立した。事務所は港区赤坂三丁目十三番

地の東相ビル七階で、共同出資社潟Gクスブレーイン(以後、EX社と仮称)の事務所の一

角を借りていた。
社員は私だけであるが、EX社の関連会社で、同社の経理関係のソフト開発ならびに保守

も行っていたので昭和五十四年より二十年にわたり取引関係にあった。

 平成五年十月にEX社は新宿区下落合三丁目四番十一号、三木宅の構内に移転し、ソアレ

ックス鰍燻O木宅に移転した。三木宅は古い建物であったが、戦後、皇太子殿下の英語の

先生であった バイニング女史が住んでおられた家であった。

三木宅は十一年四月に取り壊しとなり、ソアレックス鰍フ事務所を杉並区高井戸西一丁

目の自宅に移転した。SOHO業者として最初から一名で仕事をしており、ソフト開発と

いうのは、後継者を育てることはきわめてむずかしい。
高齢となるにつれて廃業せざるを得なくなったが、還暦より七十五歳まで仕事があった
ことは恵まれていたかもしれない。


第百十五話 杉並区のIT&パソコン講習ボランチィア

 平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応
募した。昭和四十四年五月より航空と海上との輸送方法比較でSOHO業者として独立、
四十六年七月より現在のパソコンの元祖となるマイクロ・コンピユータのソフト開発と機
械の販売に従事し、六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実
習講師となった。
 
Window95が発表されていない時代ではソフトや機械を販売する取引先に対し
て、漢字などの入力方法を教える必要はないが、開発したソフトの説明では、メモ程度の
知識でワープロ操作ができれば充分であった。
 専門学校のOA授業の講師を九年間従事したが、学生に日本語の漢字変換などを教えた
ことはなかった。これはワープロの講師が別に任命されており、私が開発したプログラム
を学生が機械操作することにより、業務の流れを理解させることが、実務教育であった。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習会では、一クラスに二十名
の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講
者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。
 初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習ボランチィアは初級コー
スであり、十三年四月より杉並区内の図書館でパソコン講習補講講座に切り替わった。
 これは初級コースで理解できなかった人に対する補講で、私は属していた高井戸図書館
では十台のパソコンで、ボランチィアが三名で毎週木曜日の午前九時から十二時、午後一
時より四時を担当、特別な授業はなく機械操作や質問事項があれば、これに対応する。初
級コースが前提であるため、表計算やデジカメなどの質問はあまり発生しなかった。
 
十六年三月に各地図書館でのパソコン講習補講講座は終了した。この時点で受講者のう
ちの二名の方に自分史永和会の会員となるように勧誘し、会員となってもらった。
 十六年四月より杉並区高井戸地域センターで毎月、第二木曜日と第四日曜日に午前十時
より午後五時までの間、パソコン相談室が開設された。十六年度のボランチィアの希望者
が少なかったのでボランチィアを応募したが、十七年四月より希望者が多くなったため二
ヶ月に一回のボランチィアとなり、十一月よりの相談員の仕事を修了することにした。
 パソコンで発生する諸問題を研究し、質問があればこれに応ずるという相談員の仕事は
年齢が高齢化すると記憶力が低下するため、困難になってくる。
 
平成十二年四月よりスタートしたパソコン講習のボランチィアで、現在もボランチィア
として活動されている方々は、当時の一割程度であり、プロ中のプロが生き残っており、
[
パソコンなんでも相談]に無料奉仕で対応できる人は限られている。
 自分史の編集というのは、パソコンを道具として使用しているため、パソコンで自分が
なれた方法で、[メモ]程度のソフトで、自分史を作りたいという意志があれば充分である。
 単純労働の繰り返しというのが記憶力減退の高齢者向きのパソコンの利用術である。




第百十六話 自分史永和会での研究発表

 平成十二年四月よりスタートした杉並IT&パソコン講習会で地域社会のボランチィ
ア活動に参加した。同年七月二十二日と二十三日に杉並区永福・和泉地域区民センター祭
りが開催され、同センターに自主グループとして団体登録を行っている「自分史永和会」
が展示会に出品していた。
 同じ展示室に書道の展示があり、家内が「自分史永和会」の会場で、パソコンの勉強会も
行われるとのことで私にこの会に入会するように勧めてくれた。早速、入会した。
 八月二十日よりの会合から出席することとなった。最初の出席の前に私の自分史「生い
立ちから終戦まで」を事務局担当山口氏に送付した。八月二十日の会合には私の自分史を
同氏が朗読してくれました。当日、午後三時より暑気払いを兼ねての懇談会があり、参加
した。平成十九年三月まで例会は八十回があり、全部、出席した。
 事務局を担当する山口氏が平成十四年三月から八月まで六ヶ月間、バンコックへ会社の
業務で長期出張することになり、また平成十八年八月より十九年一月までの六ヶ月間、ヨ
ルダンのアンマンに会社の業務で長期出張となる。このため、会計と事務局とを担当する
ケースが発生した。山口氏の海外出張の余暇でデジカメで撮影された映像とレポートとが、
週に二回程度会員に送信されるが、インターネットを利用していない会員もあるため、送
付資料は私のパソコンにダンロードして、センターより借り受けた液晶プロジェクターで
内容の紹介を行った。
 平成十六年九月より、十八年十二月までの二年四ヶ月、自分史永和会の代表になった。
十九年一月より代表は山口氏、会計担当は私、事務局は高橋氏となり、山口氏の海外出張
での会の運営の円滑化を図るため、改選を行った。研究会は第二日曜日の午前九時より十
二時までであるが、発表できる資料を常時、準備しておく必要がある。自分史の作成経過
を研究会でしばしば発表している。

第百十七話 古希以降の航空機乗員養成所本科三期生会

 平成十七年九月十五日、北九州の脇田温泉ホテル菊水閣で第二十四回、米子航空機乗員
養成所の同期生会が開催された。会員三十名のうちの十名参加した。高齢を理由に同期生
会は解散となったが、後日、総務幹事松本好信氏より各会員に「米航養本科三期情報」なる
ものを配布されることになった。編集作業を手伝ったのでワードの原本を所持していた。
 当時、私のホームページの基本料金でカバーされる容量は二十メガバイトで、実際に使
用していた容量は十一メガバイトで九メガバイトが未使用であった。私の自分史をインタ
ーネットにより同期生に紹介したいと考え、この[米航養情報]と手持ちの関連写真約六メ
ガバイトの資料を私のホームページにアップロードし、残りは三メガバイトになった。その後
ホームページの基本容量は百メガバイトに拡大された。
 戦時中、四年半、航空機整備の整備工学を学んでいた同期生は終戦の時、戦闘機[飛燕]
の改装整備に従事しており、メカには強いグループであるが、戦後、事務系の仕事に進ん
でいる人が多く、八十歳という高齢にため、パソコンをやっている同期生は二割程度と思
われる。しかしながら、パソコンが普及するにつれて子どもや孫の助けを借りて同期生情
報の内容を知ることができる。




第百十八話 同期生会情報

 

 小学校、中学、高校、専門学校、大学と進学している人においては、それぞれの学校の
クラスメートが発生し、同窓会の案内を受けることが多い。私は同窓会の出席では小学校
が二回、高等小学校がゼロ、中学および高校に相当する航空機乗員養成所が三十五回、専
門学校と大学が五回程度であり、航空機乗員養成所の同期生会に出席した回数がきわめて
多いのが特徴であった。
 航空機乗員養成所は仙台、新潟、印旛、米子および熊本の五ヵ所に設置されており、各
々六十名が入所し、本科三期生は参百名であった。入所して三年間は普通学科で、四年生
より操縦科は米子、整備科は新潟に転属することになり、終戦の時点では入所時の九割に
相当する約二百八十名が同期生であった。
 戦後、開催された同期生会は最初に入所した養成所ごとに開催されたが、戦後、四十六
年経過した平成三年に五ヵ所の養成所の同期生の合同の全国三期同期会が発足した。
 米子本科三期生会は毎年一回開催され、これに出席していたが、還暦より新たに全国組
織での同期生会が毎年一回開催されるようになった。米子出身の同期生で東京二十三区に

居住しているものは私だけであり、全国組織における連絡会議には出席せざるを得なかっ
た。従来、継続していた同期生会に還暦より新たに全国組織の同期生会が発足した。還暦

前の同期生会は発足して三十二年間で十回、これに対して還暦から十六年間で米子三期会
が十四回、全国大会が十一回で、合計二十五回であった。これは還暦前と還暦後とは、同
期生会の開催が五倍に増加したことになった。
 東京在住の人が、東京の学校を卒業して、同期生会に出席するのと異なり、三期生の卒
業生は約二百八十名で同期生の居住地が北海道から鹿児島まで分散しており、戦後六十年
経過した現在、消息が判明している同期生は約百五十名である。
 
同期生会の開催は各地の同期生が世話人となって、持ち回りで行っていたため、私が出
席した同期生会の開催地は米子皆生、玉造、三朝、岡山、倉敷、坂出、湯田、別府、福岡、
京都、東京、新潟、仙台札幌であり、旅行友の会的な色彩の強い同期生会であった。記念
写真には開催年月日と同期生会開催番号が表示されているので、自分史の作成においては
有効な資料となった。
米子の同期生会が発足したのは、戦後十年経過した昭和三十年九月であった。同期生会に
は多数の教官、職員も出席されており、戦時中知らなかった情報も教官あるいは同期会幹
事より提供された資料で判明した。

養成所入所当時の募集広告、入所試験での国語、数学、理科の諸問題、応募人数と合格
者数、入所願書に添付した十三歳の自分の写真も保存しており、自分史の出発点となる少
年時代というのが文章に綴りやすいというのが私の自分史の特徴である。

米子三期会には総務幹事として松本好信君、全国大会には事務局担当として高野弘行君
がおり、これらの同期生から送られる資料をスキャナーでパソコンに取り込めば、自分史
での少年時代とその後の同期生という物語が書ける。
 全国三期生会は平成十三年六月
、第十一回を北海道定山渓温泉賞月グランドホテルで開
催、これで解散となった。また米子三期会も平成十七年九月、北九州脇田温泉ホテル菊水
閣での第二十四回同期会で解散となった。このとき有終の美を飾るため、米航養本科三期
生情報」なるものを編集、会員三十名に発送された。私はこの三期生情報に同期生会の記
念写真をスキャナーでとり、これを私のホームページにアップロードした。

八十二歳よりの耐震問題研究 ,

 

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