その16 自分史永和会への入会とその後
平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応募した。パソコン講習会では、一クラスに二十名の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
私は専門学校のコンピユータ実習講師を九年間行ったが、学生に日本語の漢字変換など教えたことはなかった。
専門学校のOA授業の九割はワープロ授業であり、これには選任の講師が指導していたため、日本語ワープロの指導は不要であった。
十二年七月二十二日と二十三日に杉並区永福・和泉地域区民センターで、センター祭りが開催され、同センターに団体登録を行っている「自分史永和会」が展示会に出品していた。同じ展示室に書道の展示があり、家内が友人と書道の展示を見に行ったついでに、「自分史永和会」の展示に立ち寄った。ここで、自分史研究会があることを知り、私に自分史永和会に入会するように勧めてくれた。
私は八月二十日よりの会合から自分史研究会に出席することとなった。最初の出席の前に私の自分史「生い立ちから終戦まで」を事務局担当山口氏に送付した。八月二十日の会合には、私の自分史を山口氏が朗読してくれました。当日、午後三時より暑気払いを兼ねての懇談会があり、参加した。
二十一年四月まで例会は百五回があり、全部、出席した。これに毎年七月センター祭りがあり、自分史の展示を行ったのは八回であった。事務局を担当する山口氏が平成十四年三月から八月まで六ヶ月間、バンコックへ会社の業務で長期出張することになり、また十八年八月より十九年一月までの六ヶ月間、ヨルダンのアンマンに会社の業務で長期出張となる。
このため会計と事務局とを担当するケースが発生した。山口氏の海外出張の余暇にデジカメで撮影された映像とレポートとが、週に二回程度会員に送信されるが、インターネットを利用していない会員もあるため、送付資料は私のパソコンにダンロードして、センターより借り受けた液晶プロジェクターで内容の紹介を行った。
十六年九月より十八年十二月までの二年四ヶ月、自分史永和会の代表になった。ここで色々はことを学ぶことが出来た。
十九年一月より代表は山口氏、会計担当は私、事務局は高橋氏となり、山口氏の海外出張での会の運営の円滑化を図るため、運営業務を会員に分散するため改選を行った。
自分史永和会の会員は五名前後である。お互いパソコンで作成した資料を発表している。A4版の資料、一頁を読み上げるための時間は五分である。私は毎回、五頁程度の使用を作成し、会員に紹介している。太平洋戦争前後から現在までの私の体験事項の紹介であった。
十八年の永福・和泉地域区民センターでのセンター祭りを見学された高橋直之氏が自分史永和会に入会された。同氏はM重工業出身で、経営コンサルタントである。研究会にはお互いが持っていない知識、経験を、他人がもっている場合も多く、一人でワープロやインターネットという技術にこだわるよりも、集団で勉強していたほうが、進歩が早いと考えられる。
永和会の高橋氏が、ブログなるものを紹介した。十九年八月よりブログに「新規業務へのチャレンジ」、二十年八月よりブログの「新規業務への研究」と題して投稿した。先月で丁度、千件となった。ブログに投稿してどのようなメリットがあったか?これから得た収入はゼロである。しかしながら、目標を設定してこれに努力することは、健康にはプラスである。健康を害することによる経済的な損失を、最小限にする手段として、「自分史」なるものを継続編集することは意味があるものと考えたわけである。
終わり