私がパソコンを買ったのは1996年の4月でした。ちょっと前に雑誌「ニューズウィーク日本版」でウインドウズ95の特集をやっていて、今始めないと時代に乗り遅れるみたいな強迫観念を覚えたのでしょう。
最初に買ったマシンは富士通のデスクパワーSEというデスクトップパソコンでした。CPUペンティアム120MHZ、メモリー16MB、HDD1GB、モデム28800BPSという今からすればとてつもなく貧弱なスペックでしたが、私にとってはそれは魔法の箱でした。すぐにINFOWEBに加入してネットスケープ・ナビゲーターをブラウザにインターネットを始めました。モデムのプロトコル音が「これからこの部屋を世界に繋げるんだ」という意思をもった存在に思え、どきどきしたものです。当然寝不足に陥り、就寝時間3時4時が日常茶飯事となりました。気に入ったサイトを片っ端からお気に入りに放り込み、せっせと作者にオンラインでメールを書き、10に1つくらいの返信に心ときめかしました。当時はマイクロソフトのエクスチェンジというやたら重く使い勝手の悪いメールソフトを使っていたこともあり月の電話代は軽く1万を越えました。
しかしそのうち一方的な情報の単なる受け取りにつまらなさも覚えました。そんな時私がインターネット以上に嵌ったのがニフティサーブのフォーラムでした。そこはテキストのみのやり取りではあるけれども、私の書いた発言を何千人もの人が自由に読むことのできる場でした。私の書いた他愛もない発言に対し数十分後にどこの誰かも分からぬ人からの返事がアップロードされるという現象は、今まで私が決して体験したことのない不思議な世界でした。最初は海外旅行関係のフォーラム、そして酒のフォーラムと変遷し、最後に辿り着いたのが昭和40年代生れの人たちが集う同窓会のようなフォーラムでした。そこで私は、同時代を生きてきた人たちの集まりという他のフォーラムに見られない居心地のよさを感じたものでした。
元来文章を書くのは好きな方でしたが、時には調子に乗りすぎて相手に不快感を与えることもあったようです。意図したことはすべて文章で相手に伝えられる、という幻想は時として打ち砕かれました。表情の見えない人間関係では予期せぬひとことが相手の怒りを買うこともあるということを思い知らされたものです。そんな風にパソコン通信にのめり込んだ末、その延長線上に生涯の伴侶を得ることになるとは当時としてはとても想像のつかない出来事でした。今でこそこのような形での出会いはよくある話ですけどね。
前置きが長くなりましたが、熱病に冒されたように書きまくった時代のログを少しずつ収集し、私にとっての印象的なものを掲載してみようかと思います。他人の発言を掲載するのは色々と問題があると思うので、対話形式で進行していくフォーラムのログのうち私が発言した部分を抜き出しています。そのため、整合性がとれるように若干編集してありますが、文意は変えないように心がけます。
CONTENTS
1.映画「フィールド・オブ・ドリームス」が女性に評判が悪い理由私も好きな映画はいくつかあるのですが、あえて違う角度から皆さんにおうかがいしたいのです。「フィールド・オブ・ドリームス」という映画がありました。おとぎ話のようなストーリーですが、私は非常に感動しました。特にラストシーンで主人公が若き日の父親とキャッチボールをするシーンなど、劇場でも涙が止まらず慌ててトイレに駆け込みました。同じような男性を何人かそこで見かけたのですが、この映画どうも概して女性には評判がいまひとつのようなのです。先日、明石屋さんまもテレビで同じようなことを言っていました。肉親を失っていたり、父親とキャッチボールをした経験のある男性には間違いなく受け入れられる映画だと思うのですが、皆さんはどうお感じになったでしょうか。
ちなみに私は劇場で泣いたことなど、これ以外には一度もありません。決して泣き虫ではないのです(笑)。
なにものにも束縛されず、若くてこれからの可能性に満ちあふれていた頃の父の実物は、普通の子供には見えないものだと思います。この映画は、誰もが年老いていくという現実を時系列的に描くのではなく、年老いたりすでに故人となってしまったこの人にも、光り輝く時代があったのだ、とさりげなく語ってくれているように私は感じました。
誤解を恐れずに言えば、ここから先の受け止め方が男女間に違いがあるのではないかという気がしてきました。一般に男として生を受けた人間は、紆余曲折はあるにせよ、いずれ結婚しひとつの家庭を少なくとも金銭的には支えていくべきものと、ある時期から少なからず認識していると思います。夢だけを求めて生きて行ければそれは素晴らしいことですが、現実にはなかなかそうは行きません。この映画の主人公の父親も、主人公にとってはしがない老人でしかないように見えましたが、父には父の人生があり夢があったのに、その人生を少なからず犠牲にして自分を支えていてくれたのだということを、今は一家の主である主人公は最後に悟ったのではないでしょうか。そしてすでに父親を失った男性は、このラストを観て、なぜもっと理解してやれなかったのかという自責の念に駆られ、存命であるならば、柄にもなく親孝行をしてみたくなるのではないでしょうか。その意味でキャッチボールは、今さら口に出しては言えない親子それぞれの気持ちを投げかけ、受け止めあう行為を象徴しているように思います。
そのあたりがこの映画に対する評価が分かれるところではないかと思いました。
なんだか説教おやじのようになってきましたね。このままだと会議室を変えろと言われかねないので、今日はこの辺で。長文、失礼しました。
映画の中で、「色々なものが変わったけど、野球だけは変わらなかった」というセリフがありますが、宅地化が進んだ今の日本の都市部では、キャッチボールをする場所も少なくなりました。私は1年前にパソコン通信の世界に入門しましたが、こんなのやファミコンが20年以上前にあったら、きっと外で遊ばない子になっていたでしょう。そういう意味で娯楽がまだ少ない時代に育ったことを感謝すべきかもしれません。
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| 2.思い出のBGM 私にとっての思い出のBGMはたくさんありますが、今日は旅行中に聴いた音楽について書いてみます。 いわゆる卒業旅行で私は単身中国へ渡りました。それまで海外旅行はおろか飛行機すら乗ったことのない私はただひたすら不安でした。それでも中国を卒業旅行先に選ぶ日本人は結構たくさんいて、どこへ行ってもあまり寂しい思いはしなくて済みました。西安から列車でトルファンという新疆の田舎町へ向かいました。3泊4日の汽車旅の末辿り着いたその街は、私が思い描いていたシルクロードのオアシスの街そのものでした。漢民族とは明らかに違う姿形をした人々が暮らし、コーランが流れ、ロバ車が走り、バザールが開かれていました。 そんな街に何日か滞在しているうちに、昔日の遺跡を見に行く機会がありました。改造トラックの荷台で砂ぼこりをスカーフで防ぎながらの道中でしたが、かつての住居跡に着いたあと、自由に辺りを散策しました。かなり崩壊は進んでいるとはいえ、土壁の向こうから今にも人が出てくるのではないかと思えるような気さえしました。私は広場になっている場所に大の字に寝ころび、日本から持ってきたウォークマンで喜多郎の「シルクロード」を聴きました。 古来この地で繰り返された諸民族の興亡を思い描きながら、ただのんびりと地面に横たわっていると、何とも地球の果てまで来てしまったものだと不思議な感慨が湧いてきたのを覚えています。 NHKの「シルクロード」は出発前に観て行きましたが、帰国後にはまた違った印象を持ちました。原体験と結びついたこの曲は今でも聴くたびに、見るものすべてが物珍しかった当時の自分を思い出させてくれます。 社会人となった今、時間的な制約から短期の旅行を繰り返すしかないのが残念ですが、いつの日か「点」としての渡航先を「線」で結ぶような旅をしてみたいと思っています。 TOPへ↑ |
3.北朝鮮関係書籍の紹介
こんにちは。夜更かし癖が直りませんが、北朝鮮関係の書籍を 2つほどご紹介します。
『38度線の北』寺尾五郎・著 出版社失念
昭和30年代後半から始まった帰国事業に大きく影響を与えた とされる一種の北朝鮮紀行文。新生国家の建設にもえる北朝鮮人 民の躍動的な姿を描き、祖国を夢見た多くの在日朝鮮人がこの本 から少なからぬ影響を受けて新潟から帰国していった。朝鮮総連 の事務所などには必ず置いてあるらしいが、それ以外で見つける のはおそらく困難。東京・広尾の「中央図書館」の閉架式の書棚 に1冊だけありました。私が思っていたほど「地上の楽園」を大 袈裟に強調するものではなく、経済的に遅れている部分もそれな りに記述してありました。それがかえって祖国のために働こう、 という気持ちをかき立てたのかもしれません。
『RENK』 救え!北朝鮮の民衆!緊急行動ネットワーク編
RENKは Rescue the North Korean People! Urgent Action Network の略称。在日(元朝鮮総連系?)の人たちを中心にした 団体。北朝鮮政府を金銭的・物質的に支えている朝鮮総連に批判的 で、北朝鮮に対して、自国民の人権と自由を尊重することや日本か らの帰国者が自由に日本を訪問できるよう配慮することなどを要請 しています。季刊『RENK』はその活動状況や亡命者の談話などを 伝えています。定期講読も受け付けていますが、東京・神保町の「アジ ア文庫」などでは店頭売りも行われています。
(発言の背景)
この発言がアップロードされた97年2月というのは北朝鮮の黄書記が韓国へ亡命した直後で、某フォーラムに特設会議室が設けられました。私は北朝鮮に旅行したことを契機として「近くて遠い」この国に関心を持ちました。ここの会議室にはそれこそ朝鮮半島の情勢に極めて詳しい人が多く、オープン当初から活況を呈していました。臨時のはずだったこの会議室はその後参加者の声に応える形で常設となりますが、いつの頃からか罵詈雑言が飛び交い手に負えなくなったスタッフは会議室閉鎖という戒厳令を発令しました。いつも思うことですが、朝鮮半島や中国、台湾の話になるとなぜ口汚い罵り合いになるのでしょうね。
なお、会議室は消滅しましたが、穏健派のメンバーは今も公開パティオでご活躍されています。私は二度この会議室関連のオフ会に出たことがあります。平和的なフォーラムでは考えられないでしょうが、初めてのオフは非公開で参加者はすべて事前にメールで打ち合わせしました。題して「北朝鮮秘密集会」。場所は東京有楽町の「レパント」というビアレストランでした。二度目のオフは大阪の鶴橋でした。この時もオフをやることは告知されましたが、場所は公開されませんでした。当時の雰囲気からして物々しいものがあり、公開した場合のリスクを考えると正解だったと思います。なお、参加者は極めて常識的な方ばかりであったことを付記しておきます。
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| 4.地上の楽園 私も当時の文献を色々調べた訳ではないのですが、北朝鮮の 実態が明らかになってきたのはそんなに昔のことではないと思 います。例えば私は当地を旅行する以前からある程度書物等で その実態を知っていたので、「ああ、やっぱり」という印象を 持ちましたが、何も知らない人は違った感想を抱いたかもしれ ません。知っていて太鼓持ちをやったのなら本当に許せません が、そうでないとするなら当時の状況ではある意味でしょうが なかったのかもしれません。 問題はそのあと実態が明らかにな ってくる状況の中で、昔、結果的にウソを書いてしまった人た ちが自己批判しているのか、ということです。たぶん公には謝 罪などしていないのでしょう。少なくとも新聞はそうですね。 中には最近でも「地上の楽園」を捏造した本を書いている議員 さんもいて、腹立たしい限りです。「総連が北を褒めちぎるの は信用できないけど、日本の新聞がこぞって褒めるのだから間 違いない」と考えて帰国した人はたくさんいたようです。 そういう意味で、当時恐らく「手を汚さなかった」サンケイ 新聞が、北朝鮮情報を詳しく報道している点は興味深いです。 在日の人たちに対する差別意識が今よりも強い中、日本での 暮らしよりもまだ見ぬ新生祖国への憧れから帰国して行った人 たちに対して、「地上の楽園」を喧伝した人たちだけを責める 訳にはいかないのもまた事実なのでしょう。 私は現地で「演技」をたくさん見ました。スーツを着て男同士でボート遊びをしている人々、おばさん同士で遊園地へ行く人々、待ち構えていたかのようにホームに入ってくる地下鉄の電車、街頭で公衆電話を使っている人々(電話の普及率は絶対にすごく低いと思う)、観劇に動員されたとてつもない数の観客。このいわば劇場国家のわざとらしさに気付かなかったのでしょうか。先入観とは恐ろしいものです。 寺尾五郎氏は、北朝鮮を後日訪問した際、帰国者から殴り掛かられたそうです。「朝日新聞と総連の幹部はただでは済ませない」と思っている帰国者も大勢いるやに聞いています。でもそれは決して人ごとではないですね。北の現状を面白がってみている場合ではもはやないと思います。 TOPへ↑ |
5.タモリの番組
たぶんプロシードが発売された頃だと思うんですが、日本短波放送で夕方、 「BCLワールドタムタム」という番組をやっていたのを覚えていらっしゃいま すか? タモリが司会をやっていました。今思うと、BCLの番組をしかもタモ リがやっていたことに時代の違いが表れていますね。もっとも当時タモリはまだ 眼帯つけてイグアナの真似なんてやってたかけだしの頃でした。
私も海外放送を聞くことによって、随分視野が広がったと思います。ベトナム 戦争が終わり、南北が統一された頃の「ベトナムの声」は喜びに満ちた雰囲気が 伝わってきました。他方、「朝鮮中央放送」と「ラジオ韓国」はお互いの非難合 戦に明け暮れていました。この違いに、「なんで世界は仲良くなれないんだろう」 と子供心に疑問を感じたことを思い出しました。
(発言の背景)
世の中にBCLは潜伏しているものです。特に北朝鮮に興味を持つような特殊な人々の間ではかなりポピュラーな趣味だったといえるでしょう。実際、このような話題でも会議室ではずいぶん盛り上がりました。今やインターネットで瞬時に世界の動きはキャッチできますが、当時はこのような手段が最も早く情報を得る手段だったわけです。
なお、タモリのこの番組のオープニングを公開している驚くべき人がいます。BCLなんて関心がないという人も、あのタモリがこのような番組の司会をしていたことはネタとして知っておいて損はないでしょう。音声はこちらのサイトでお聴きください。 「ひできのBCLギャラリー」
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| 6.マスゲームの写真をご覧下さい みなさん、こんにちは。今回の亡命事件とは直接関係ありませんが、 一昨年の北朝鮮旅行の際に撮影した写真がライブラリ#86に登録され ていますので、興味のある方は一度ご覧になって下さい。3万人規模の マスゲームの模様を撮影したものです。バイト数が大きいためちょっと 表示に時間がかかる点はご了承下さい。 写真は、3万人のマスゲームの模様です。昨年の年賀状に使ったら、心ある人たちからはなかなか好評でした。 (写真をダウンロードした人に対して) ありがとうございました。当局が用意してくれた特等席から撮影したものです。 分からない人には全然訳が分からないシロモノだったようで、初歩的な質問をよく受けました。「金日成」という人を全く知らなくて、新聞もろくに読まない人には説明するのが大変です。中途半端に知っている人(北朝鮮についても、私自身の人となりについても)には、「アカよばわり」されたものです。前述の訳が分からない人たちにこのことを説明しても、「アカって?」と質問されて疲れるだけでした(笑)。 (写真をパソコンの壁紙にしたという人に対して) 実は私は会社にあるパソコンの壁紙に密かに設定したのですが、数日後には何者かによって削除されていました。総連の幹部クラスの人が出入りする可能性が全くないわけではない職場なので、誰かが配慮したのかもしれません。 (アカという言葉は死語であるという人について) もう、死語なんでしょうかね。冷戦時代を知っている人にはまだ通じるコトバだと私は思っていたのですが。マッカーシーのレッドパージの頃まで遡る必要があるのかもしれません。20代の後輩からも冗談でよく言われますよ。 確か『サルバドル』という映画で、スイカを割って「中身はアカだ」と選挙戦で相手候補者のレッテル貼りをするシーンがありましたが、ああいうのも若い人には分からないんでしょうか? だとしたら死語ですね。 (発言の背景) ここで話題になっている写真は、この会議室が属するフォーラムのデータライブラリに私が登録したマスゲーム模様です。私が書いている「北朝鮮潜入記」の中でも述べているあの画像です。金日成が稲穂の中で微笑んでいるという演技は、北朝鮮旅行のハイライトともいえるシーンで、プロの写真家がほぼ同じアングルで撮影したものも雑誌で見たことがあります。年賀状に関しては残念ながら今手元に残っていません。私からの年賀状を受け取った方でまだお持ちの方がいたら是非ご連絡下さい。 TOPへ↑ |
7.悪徳ベトナム人について
僕はベトナムに4回渡航し、知り合いも出来たのですが、先日、現地で余生を送ろうと考えていた60代の男性からの返信によると、ベトナム人は油断ならない民族で、下手に合弁などで手を結ぶと身ぐるみ剥がされてしまうのがオチである 云々、とありました。
彼が当地で不愉快な経験を何度もしてきたことはよく知っていますし、実際HCM CITYあたりでは拝金主義が横行しているのも事実です。しかし、決してそういう悪徳ベトナム人ばかりではないことも当然ですがまた事実です。マスコミに報道されるような明るい未来のみが待っている国であるとは、僕には到底思えませんが、皆さん、一度行ってみてください。ちなみに前出の男性は、ベトナムに見切りをつけてミャンマーに永住する気持ちを固めつつあります。
(発言の背景)
東南アジアフォーラムのアオザイクラブという会議室での初めての発言ですが、よりによってひどいタイトルですね。(^_^;)
この男性とは4回目の訪越時にニャチャンという中部のビーチリゾートで知り合いました。その時は「こんないい国はない」と言っていたのですが、何度か手紙のやり取りをするうちにひどい目にあったという話を聞かされました。その後実際にミャンマーへ渡り、ヤンゴンで日本語学校を開いてご活躍されていました。ミャンマーという国は軍事独裁政権下にあり、通信の自由さえ保障されていませんでした(たぶん今もそうでしょう)。手紙はすべて検閲され日本からのものは事実上ほとんど届けられないとまで言われていました。
私は氏に手紙を書き無謀にも現地を訪れ、住所のみを頼りに再会を果たしたのですが、やはり私の手紙は届いていませんでした。氏は驚くべきことに英語すらほとんど話せず、これでどうやって海外で生きていくことができるのか不思議でしたが、逆に志とバイタリティさえあれば何とかやっていけるものなのかもしれないと勇気を与えてくれる存在でもありました。氏の自宅には3泊させてもらい毎晩いろんな話をしたのですが、日本語学校を立ち上げる準備の他、かき氷屋を始めるための綿密な企画書を作っておられました。なんでも日本では経営コンサルタント会社を経営されていたとか。帰国後も何度か手紙をいただきましたが、私が書いた数通の手紙は届いたかどうか極めて怪しいです。ここ数年は音信がプッツリ途絶えてしまい、その安否が気遣われるところです。ヤンゴンのH氏(鹿児島県出身)をご存知の方がいらっしゃったらご連絡下さい。
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| 8. ニャチャンの海が懐かしい 1994年の年末から翌年の正月にかけて訪越した際、知り合いから「天国のようなところ」と聞かされていたニャチャンへ行きました。3〜4キロはあると思われる真っ白な長い海岸線とのんびりした雰囲気は、あのやかましいホーチミン市からやってきた旅行者にはまさに天国でした。ビエンドンホテルのプールサイドでお世辞にもうまいとはいえないローカルバンドの演奏を聴きながら、BGIビールを飲んだ日が懐かしい。 31日は政府による規制が始まる前日ということで、市街戦かと思える程の爆竹の嵐で、目の前が全く見えないくらいでした。「ロンリープラネット」によると、まだ「CLUB MED」は来ていない、とのことでしたが、フィリピン資本のホテルが建設中であったように、いずれ観光地化されてしまうのかもしれません。最近当地へ行かれた方がいらっしゃたら、近況を教えてください。 (発言の背景) 最初の発言に結構辛らつなコメント(そんな人は甘すぎる。そんな人はミャンマーへ行っても同じ目に遭う。等々)が続出し、びびった私はこのような大人しいことを書いたようです(笑)。プロフィールにも少し書いたのですが、ニャチャンは本当にいいところです。爆竹については、あまりに市民が熱狂して危険なので元旦からは禁止する旨が政府から告知されるというので最後のばか騒ぎとなったようです。 その後のニャチャンにはアナマンダラリゾートという巨大ホテルができ、「ABロード」のツアーにも登場するという信じられないくらいの盛り上がりを見せ、今やアジアンリゾートとしてかなり知られるようになってしまいました。そして、私はばかにしていたクラブメッドでの旅行も悪くないなあ、と思うようになりました。ベトナムの変化とともに私の置かれた環境もずいぶん変わりました。 TOPへ↑ |
9.日本人の推薦文
私は3年ほど前、フリーランスのガイドと名乗る男に、やはり推薦文ノートを見せられ、ついていったことがあります。PHU THOの競馬場をどうしても見たかったのですが
、ホテルで聞いてもはっきりしない答えだったので、バイクに乗せてもらいました。料金の交渉をしようとしたのですが、彼は「日本人はいつも金のことばかり言うけど、私は貧乏じゃない」と主張して取り合いませんでした。実は彼も競馬場の場所をはっきり覚えている訳ではなく、いろんな人に聞きまくったあとでやっと到着しました。その後、私が大学生に会ってみたいと言ったので、ホーチミン総合大学へ連れていってくれました。写真を撮ってくれたり、リコンファームの手伝いをしてくれたりと、なかなか親切でした。最後にうどんを奢ってやったので、このままとんずらしようかとも考えたのですが、彼も多分一応は商売なのだから、と思い、米ドルでいくらか払いました。
日本人の女性とまもなく結婚する、と言っており、その人の写真まで見せてくれました。みなさんの会われた人が彼かどうかは分かりませんが、昼間なら多分大丈夫なのではないでしょうか。でも、お金を払わなかったらどうするつもりだったんだろう?
(発言の背景)
これは、日本人と見るや声をかけてくる自称ガイドで、たくさんの日本人の名刺や日本語で書かれた推薦文を何枚も持っている男を見かけるが信用できるものなのか、という発言に対する私のコメントです。
当時のサイゴンは交通機関も旅行産業も根付いておらず、メジャーでないところへ行くには必ず足を確保する必要がありました。私はこの男に声を掛けられ競馬場をはじめミニトリップを楽しんだというわけです。例によってスクラップブックのようなものを持っていて、たくさんの日本人が彼を褒めちぎっています。「この人は信用できる人です」なんて文章が、大手企業社員の名刺と、男とうれしそうに肩を組んでいる写真とともに書かれてあったらいくらなんでも信用するじゃないですか。実際この人は悪人ではなかったですが、「お金はアンタの気持ちでいいよ」と妙に日本人の心理をくすぐります。米ドルでいくらか払いました、と書きましたが、実際は10ドルでした。男は目を輝かせて「アリガトゴザイマス!」と受け取りました。その瞬間私は「負けた」と思いました。相場はもっと安いのでしょう。こんな風に私は今に至るまでぼられまくっているのです。
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| 10. 一年経てば景色も変わる 昨年2月まで伏見区に住んでいた者ですが、先日出張で久しぶりに京都へ行きました。鴨川の流れは以前のままですが、街の風景は一年も経てば変わるものですね。好きでよく歩いた先斗町はお店がずいぶん入れ替わっていました。具体的にどこがどう変わったのかはうまく書けないんですが。(^_^;) 同じ名前のお店でも業態を転換したことで客層が全然違っていたりもしました。まあ商売ですから、儲けに走るのはこのご時世仕方のないことなのでしょう。 住んでいた伏見桃山界隈もほんの30分程度でしたが、ちょこっと散歩してみました。駅直結でよく余りものの弁当などを買っていた「京阪ザストア」地下の食料品フロアがゲーセンに変わっていたのにまず驚き、そのままエスカレーターで1階に上がったらもっと驚きました。なんとビル全体がゲーセンではないか! ビールをよく買った1階の酒屋も、さんざん試聴してあんまり買わなかったCD屋もなくなったというのか・・・。私のいた頃からこのビルの前には若者がたむろしていたのですが、ついに彼らを室内に取り込むことにしたのですね。他にも駅前の白洋舎隣接の喫茶店が携帯電話屋に替わっていたり、早晩潰れるだろうと思っていた「たまごかけごはん」がやっぱり潰れて居酒屋になっていたりとか、いやはや一年で街の風景は変わりますね。 そうそう、以前治安の悪かった木屋町界隈がちょっとおとなしくなった替わりに河原町通りがひどくなっていますね。大音量でカーステレオをかける柄の悪い車が縦列駐車していて警察の装甲車も出動していました。このあたりは何とかならないものかと心配になってしまいます。 (発言の背景) 私が東京から京都に転勤になったのは、1996年の2月でした。以後、伏見区で3年過ごすことになるのですが、仕事が比較的暇だったこともありなかなか楽しい時代でした。休みの日には観光客よろしく一日乗車券を買って京都見物をしたり、職場で一大ブームを巻き起こしたスキューバダイビングのライセンスを取ってしょっちゅう潜りに行ったり、はたまた毎年数回海外旅行をしたり・・・。 でもそういうイベントのない休日はのんびりと自宅近くで過ごしていました。昼頃に起きて近所の「サンチェ」という無農薬野菜がウリの女性好みのレストランで日新聞を読みながらランチ。食べ終わってから大手筋という割と規模の大きい商店街でぶらぶらと買い物したり、ドトールでコーヒーを飲みながらさらに日経新聞を読みつづけたり。そんなお散歩コースの中に「京阪ザストア」のCD屋が含まれていました。京阪沿線には当然ながら京阪系のSCが多いのですが、京阪電鉄ときたら車内放送で律儀なまでにその名を連呼するのです。「次は伏見桃山ぁ〜。京阪ザストア前で〜す」てな具合で。まるでバスのよう。(^_^;) そんなSCも一年経てば業態転換ということで、古都であろうと時代の波には逆らえません。ところが、やる気のなさそうな洋服屋とかおもちゃ屋なんかはなぜか潰れずに残るんだよなあ。本業はきっと別にあるのだろう。 |