| 看護学生の頃のお話 就職後のお話
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保健婦学科時代、自宅から一山越えた市にある保健所に3日間泊り込みで実習に行ったことがある。保健所保健師と一緒に新生児訪問に行ったり、ケース検討の真似事のようなことをさせていただいた。実習の反省会の席で、家で療養している方たちの”訪問看護”の話題になった。今でこそ介護保険が施行され脚光を浴びているが、その頃はあまり目立たないまさに縁の下の力持ちのような分野で、どれだけの人が家で療養されているのか、どうやって介護しているのか質問したけれど、そこに居並ぶ先輩保健師は当時それほど問題視していないようだった。就職したら訪問看護をしてみたい、私の中でそんな思いがはっきり具体化したのはこの頃だった。
私の母方の祖母は脊椎カリエスにかかり、40代の若さで寝たきりになった。まだ小学生だった母は、自分の母親の下(しも)の世話をしていたそうだ。母親の死後、母は祖母に育てられた。私が生まれたとき母の祖母、つまり私の曾祖母は80歳。嫁が若くして亡くなり、4人いた孫も病気や事故で母を残して次々に夭折(ようせつ、若くして亡くなること)し、やっと生まれたひ孫である私の誕生を殊のほか喜び、母に向かって「お前が入れるより、大勢入れたことのある私の方が慣れているから」と、まだ首も座らない赤ん坊である私をお風呂に入れたいと言って聞かなかった。私は生まれた時から、この曾祖母と祖父・父母と、4世代がそろう家庭で育ったのである。3歳の頃曾祖母は他界する。
祖父の言動がおかしくなったのは、私が小学校高学年の頃だったろうか。傍から見るとごみとしか思えないものを拾い集めてみたり、落ちてつぶれた熟柿を食べたり、酒など一滴も飲めなかったのに一升瓶を空にして泥酔状態で玄関に倒れていたこともある。往診してくれた医師は母に「脳軟化症ですね」と言った。今で言うところの多発性脳梗塞、祖父は脳血管性の痴呆症にかかっていたのだ。毎日何かつぶやきながら家の周りを歩き、お風呂にも入らない。異常に空腹を感じるのだろう、台所に入り込んで手当たり次第に食べてはおなかを壊すので、父がたまりかねて台所の入り口に鍵をつけた。それまで孫思いで小さい頃は相撲をとったりして遊んだおじいちゃんが変っていく。最初は悲しかったが、大事にしまっておいたおやつを食べられたりすると疎ましくもなった。そのうち次第に身体も弱り、寝たきりになった。家の奥の一室で、おじいちゃんはそれから亡くなるまでの数ヶ月間、ずっと同じ布団に寝ていた(おじいちゃんの死後、布団を上げると畳が黒く腐っていたことを思い出す)。時には体を拭いてもらい、お尻には布のオムツを当てられ、養ってもらって食事をしていた。亡くなる日、おじいちゃんの周りを家族が囲み、私たち孫3人で息が細り冷たくなっていくおじいちゃんを”温めようと”交代で腕や頬を擦った。近所に住む開業の先生が往診し時には点滴をしたり、最期も看取ってくださった。おじいちゃんの死は段々にろうそくの炎が消えていくような、自然な、静かな最期だった様に思う。
この経験が私の在宅介護・在宅医療の原風景となった。就職し、様々な方の様々な死に立ち会うことになったが、いつもここに立ち戻り思いをめぐらす。これが「いつか訪問看護を」「家で闘病されている方の手助けを」と考え出したきっかけである。
ページのトップへ戻る私は小学生並みに背が低い。看護学校の入学要件である「身長147センチ」に数ミリ足りなかった。それでも国語と理科の成績が良かったからなのかなんなのか、無事に入学できたのである。私の他にも小柄な同級生が何人かいたが、揃って担任の教務に(なぜか)辛く当たられた。学内実習でシーツをたたもうとしてどうしても床に着いてしまい「あなたは背が低いから」と怒られ、友人は注射器を持つ手つきが悪いと「背が低いと手も小さいのね」と嫌味を言われた。背が低いと、体が小さいと、どうしたって自分よりも背の高い患者さんを支えたり運んだりするのには不利である。臨床では自分よりも重い患者さんの体を動かしたりもしなければならない。私は1年目の学内での基礎実習から壁にぶち当たったわけである。身長が伸びる時期はとうに過ぎている。こんなことなら、給食の牛乳を残さずに飲むんだった…。
数ヶ月経ち、実習はシーツをたたんだりタオルをそろえたりすることが済んで、いよいよ「患者さんの体を動かす」ことに移っていた。ベッドに寝ている患者さんの肩と腰に手を当てて、「えいや!」と横を向かせるのである。今ならどんなに大きなおじいさんが相手でも「えいや!」とできるが、こつを覚えないうちはこれが至難の業。実習室で教務の冷ややかな視線を背に受けながら同級生を相手に悪戦苦闘し、家に帰ってからも母をモデルに練習の日々だった。「…私は体が小さいから」思わず漏らした弱音に、母は「『山椒は小粒でぴりりと辛い』と言うよ」と励ましてくれた。その言葉がそれからの私を支えてくれたような気がする。「小さいから」できないこともあるけれど、重心がもともと低いので腰を傷める危険が少ない。「小さいから」と言って、その看護師の中身(ハート)には関係ない。
数年後病院に就職し、臨床も経験したけれど、「小さいから」勤務する上でハンディを負うことはそれほど無かった。小柄な看護師も思っていたほど少なくなかったし、こつさえつかめば、自分では動けない患者さんを動かすこともそれほどたいへんなことではない。それでも今は、早いうちから自分の弱点を知ることを教えてくれた厳しい教務と、不器用な娘を励まし単調な自己学習に付き合ってくれた母に、とても感謝している。
ページのトップへ戻る看護学科の3年生にもなると、授業のほとんどが病院での臨床実習になる。周りはみんな自分よりも目上の方々で、今まで机上で学んできた知識や未熟な技術が試される。患者さんも付き添うご家族も、医師も看護師も、机上で習っただけの存在ではなくて、今ここで「病気と闘っている」生身の存在としていやおうなしに未熟な私に迫ってくる。これは20・21歳の若造にしてみればかなりの重圧である。
流石さん(仮名)は78歳の男性で、胃がんの末期だった。8人部屋の窓際の、日当たりの良いベッドで、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた。「おなかが張って苦しいのですよ。」既に胃がんが周りの臓器に散らばり、腸がうまく動かなくなっていた。腸の動きをよくするために、「看護技術」の教科書に載っていた温湿布や腰のマッサージをすると、拙い技術ではあったがガスが出て少し症状もよくなる様子で、「ありがとう、楽になったよ。」と相好を崩して喜んでくださった。流石さんはクリスチャンで、枕元にマリア様の絵が飾られていたり、親戚の方が”奇跡を起こすという”「ルルドの泉」の水を届けたりしていた。やがて実習期間が終わり、私は別の病棟に行くことになった。数週間の後、「流石さんはどうしているだろうか」とふと気になり訪ねてみると、元の部屋に流石さんのネームプレートは無く、個室に移られたようだった。
「失礼します」声をかけ扉を開けると、ベッドに横たわった流石さんと目が合った。鼻に太い緑色のチューブを入れ、枕元には大きな点滴が下がり心電図モニターを付け、骸骨のようにやせ細った姿だった。無言で、うつろな瞳でこちらを見ていた。かすかに微笑んだようにも見えた。しかし、私はあまりの変りように声も掛けられず、部屋にも入れずに一礼しただけでその場を後にした。それから間もなく流石さんが亡くなった事を、新聞の死亡欄で知った。
今ならなんと声を掛けただろうか?瀕死の患者さんを前にして、あまりに無力な自分が情けなかった。個室で、機械に囲まれて、一人きりで、きっと流石さんは寂しかったに違いない。心細かったのに違いない。思い出すたびに流石さんの気持ちが胸に迫り、切なくなる。
ページのトップへ戻る臨床実習も中盤に差し掛かり、わたしは泌尿器科病棟で学んでいた。看護学生が数人のグループで、2週間から3週間のローテーションで各病棟を回るのである。その頃は、主に学校の近くの県立病院が実習の場となっていた。たいてい老人の患者さんが多いのに、泌尿器科で私が受け持ったのは36歳の工藤さん(仮名)という男性の患者さんで、腎結石の手術を控えていた。学生指導の看護婦さんの質問によどみなく答えられるように、腎臓の解剖生理から腎結石の病態・治療まで教科書を暗記する。(今までの一生の中で、国家試験の前までのあの時期ほど勉強したことはない。)少しでも答えにつまると、「今日の実習は見学しなさいね。」という冷たい一言が待っている。何とか質問の嵐を切り抜けると、看護婦さんはにっと笑いながら「明日は手術だから、今日は剃毛をするのよ。どうする?やってみる?」と訊いてきた。一通り技術的なことは習ってあるので、二つ返事で(何の迷いも恐れもなく)「はい、させていただきます!」と答えた。続いて「剃毛」の範囲、処置の根拠、必要物品から留意点、作業手順を質問され、何とかクリア。自分で看護室の奥にある処置室で物品を用意し、病室で患者さんに処置の内容を説明、処置室のベッドに工藤さんが身を横たえたまではよかった。「それでは、始めますので」と、こちら以上に緊張で身を堅くしている工藤さんに声をかけると、それまで後で腕組みしていた看護婦さんが急に「あ!いけない。田中さんの点滴が終わっちゃう。じゃ、学生さんあとよろしくね。」とぽんと肩を叩いて出ていってしまった。二人きりで残され、処置室の空気がとたんに重くなったように感じた。が、「私はプロ(の卵)なのよ」と自分を奮い立たせ、「大丈夫です、工藤さん」と微笑を浮かべて見せた。どんな場合も、患者さんを落ち着かせなければならない。息をつめるようにして(工藤さんも同じく顔を真っ赤にして)必要範囲を剃り始めた。泣く子も黙る「全剃毛」である。工藤さんには黙っていたが、初めての経験である。「どうか『術前執刀』しませんように・・・」とかみそりを当てるごとにお祈りした。天の助けか?ビギナーズ・ラックか??血を見ることはなく剃毛が完了、工藤さんともどもホッと胸をなでおろす。「工藤さん、無事に終わりました。シャワー室で流してきてください。」今度こそ偽りのないにっこり満面の笑顔で言うと、工藤さんも「どうも、ありがとう」と少々こわばった笑顔を返してくれた。「私はここを片付けて・・・」とすっかり散らかった処置台の上のちり紙をむんずと掴んだ瞬間、指が熱くなった。「え?」と手元を見ると左手からぽたぽたと赤い血が!あろうことかちり紙と一緒に抜き身のかみそりの刃のほうを掴んでいたのである。「切っちゃった!」と気付いた瞬間に、指がずきずきと痛んできた。これ以上ないほど緊張していたので、痛みも感じなかったのだろう。まさに流血の惨事だった。
ページのトップへ戻る昼間は先輩や同僚の看護婦がフォローしてくれるが、夜勤ともなるとそうはいかない。夜勤が始まったのは勤めて数ヶ月経った頃だったろうか?70人の患者さんを、その頃は2交代制だったから夕方から朝まで、2人の看護婦で受け持つのである。新人にとってはすべてが緊張の連続だった。遅番の看護助手さんと一人で食べられない方の夕食の介助をして、就寝前のおむつ交換が済むと、消灯時間になって病棟は静まりかえる。次の日の点滴の用意を済ませ、お部屋周り。懐中電灯を持って一人一人のベッドサイドを巡回する。重症の患者さんの点滴をチェックしたり、時間毎の処置を済ませたり、おむつ交換に自分で体が動かせない患者さんの体の向きを替えること…時計と睨めっこしながら一つ一つの作業を黙々とこなしていかなければならない。
夜だからといって、みんながぐっすり眠っているわけではない。
ある晩看護室にもどって看護記録の整理をしていると、「火事だぁーっ!」という叫び声がして仰天した。「火事だ!火事だ!誰か来てぇーっ!」不思議なことに叫ぶ声と裏腹に、病棟はしんとしたままで煙の臭いもしてこないし、異常を知らせる警報も鳴らない。「誰が叫んでいるの?」声を頼りに女性の大部屋の一つに入っていくと、奥のベッドで、前日転倒し足の付け根の骨を折って牽引をしている清水さん(仮名・87歳)が興奮した様子で叫んでいた。清水さんにはもともと痴呆症の症状が現れていて自宅で部屋を徘徊するうちにカーテンに足を取られて転んで動けなくなっていたのだ。「看護婦さん、火事よ!」私の顔を見て必死で手招きしている。「清水さん、どうしたの?」傍によって小声で呼びかけると「火事なのよっ!ほら、そこで赤い火が燃えている…」私の手をぎゅっと握って足元を指差す、その指の先を辿ると、そこには「赤い」ベッド柵の部品があった。清水さんにしてみたら、夜ふと目を開けたら廊下からの薄明かりで足元の赤い色が目に付いて、自分は足を牽引の針金が貫いていて動けない。赤いのは「火」かもしれない、火事に遭って逃げようにも自分は動けない…暗闇の中で不安ばかりが膨らんで堪らずに叫びだしたのだろう。「清水さん、大丈夫。火は消えたからね。」赤い部品をさりげなくタオルで隠して声をかけると、やっと安心したのか微笑んだ。一件落着である。
こんなこともあった。いつものように懐中電灯で足元を照らしながら足音を忍ばせて女性の大部屋に入って行った。「絶対に患者さんの顔を直接照らさないこと」というのは、学生の頃に夜勤実習の前に厳しく言われた事柄である。と、いきなり背後から「泥棒っ!」と杖で打ちかかられ、寸でのところでかわした。肝を潰して振り向くと、病衣を着た小柄なおばあさんが肩で息をしながら杖を構えている。「あ、鈴木さん(仮名)じゃないの。私よ、看護婦よ。泥棒じゃないのよ。」慌てて自分の顔を懐中電灯で照らして見せた。「巡視中に泥棒に間違われないこと」なんて、もちろん看護学校では習わない事柄だった。すると、当の鈴木さんはしばらくあっけに取られた顔をして、「あら、さっちゃんじゃないの。子供はこんなに遅くまで起きていたら駄目よ。早く寝なさい。」と、お孫さんとでも勘違いしたのか、今度は叱られてしまった。やれやれ…である。
冬の冷え込んだ夜のこと、同僚が血相を変えてお部屋周りから帰ってきて叫んだ。「大変!水野さんがベッドに居ないの。」水野さん(仮名)は入院後から痴呆の症状が強くなり、たびたび病室から出て迷子になっていた。トイレにも、別の階にも、病院中を探してみたが見つからない。「まさか、外に出たのかも」別の病棟の看護婦に留守を頼み、同僚と二人で外を探しに出た。白衣にカーディガンで、夜気が深々と身に沁みた。吐く息も真っ白である。水野さんが病衣のまま出て行ったのなら、早く見つけないと凍えてしまう。「あっ!居た居た!」駆け出す同僚の後を追いかけると、街灯の下にたたずんでいる人がいる。水野さんだった。「こんなに寒いのに、どこに行こうとしたの?」と尋ねると、悪びれるふうでもなく「家に帰ろうと思って、バスを待っていたの」と答えた。「夜中だから、バスは走っていないよ。風邪を引くといけないから病院へ帰ろう。」手を引くと意外に素直にうなづいたが、数歩歩くと「ああ、疲れてもう動けないよ」とその場に座り込んでしまった。仕方なく同僚が背負って歩いた。もともとゆっくりしか歩けない患者さんでも、何かに夢中になるとずいぶん遠くまで徘徊してしまう。転んだり、事故に遭わずに良かったとほっと胸をなでおろした。
ページのトップへ戻る私の勤めていたような小さな民間病院には、医師不足の解消のために医大の付属病院から半年ほどの期間で医師が派遣されていた。たいていインターンを終えて数年の若い先生で、温泉病院でそれほど仕事が忙しくなかったため(?)、夜勤の後など独身の気楽さで、みんなでお茶を飲んだりカラオケに行ったこともある。
その頃私は人間ドックの管理を任され、「管理」といっても宿泊のドックの方のベッドメイクからお茶の用意(!)、胃カメラの介助・検査結果の説明までを、怖い(失礼)婦長さんと二人組みでこなさなければならなかったので、戦戦恐恐とした毎日を送っていた。実際何度も失敗(例えば、胃のバリウム検査の後に、腰痛があるというので腰部のレントゲン撮影をしたら、バリウムの影で腰椎が見えなくて怒られた)をやらかし、ひどい神経性の下痢もわずらった。
そんな時、内科に赴任してきた青年医師がいた。M先生といって、30を少し出たぐらいだったろうか、若いのに落ち着いていていつも静かに笑っているような穏やかな先生だった。ドックの最後の説明で、一つ一つの検査をわかりやすく丁寧に話す姿と、看護婦にも丁寧に接してくれる姿勢に、たちまち憧れてしまった。循環器が専門だったので、心電図の見方を教わった。(これではまるで、教師に憧れる中学生のようである)
あるとき外来で後から声をかけられ、振り向くとM先生だった。「ちょっと頼みがあるんだけれど」と手招きされ、嬉しくて舞い上がっていると、「悪いけれど、”妻と子供の”カルテを出してきてほしいんだ。そろって風邪をひいてしまってね。」と屈託ない笑顔で頼まれた。「あら、先生、妻子持ちだったんですか。残念だぁ。」顔で笑って心で泣いて。実にあっけない片思いの幕切れだった。
教訓:医療職、特に医師・看護婦の類は「感染予防のため」指輪をつけない習慣がある。よって、指輪のあるなしで既婚未婚を区別してはならない。
ページのトップへ戻る実習病院は規模が大きくて医師もたくさんいたので、点滴は医師の仕事で、看護婦の役目は患者さんの腕を押さえたりテープを切るぐらいだった。ところが私が就職した民間病院ではそうも言っていられない。点滴は、今でこそ「静脈注射は看護師の仕事」ではあるが、その病院ではその時から立派に看護婦の業務の一部だった。採血なら何回かしたことはあるが、愛称?トンボ針と呼ばれる翼状針はそれまで扱ったことがない。
病棟の日勤帯朝一番の仕事は「創処置」と「点滴」である。朝のこの数時間で、今日一日の仕事の流れが決まってしまう、看護婦にとっては大切な時間帯なのだ。先輩看護婦は処置台を押したり、点滴台にテープを使う量だけ貼り付けたりしながら、わき目も振らず足早に各病室に散っていってしまう。私も「出遅れてはいけない」と焦るのだが、なにしろ「初体験」、何をどうしてよいのやら分からない。
一人だけ出遅れて用意している若い同僚をようやく捕まえ、「あの、初めて点滴しなくちゃいけないんだけれど、どうすればいいの?」と切羽詰って正直に訊ねた。彼女は私よりも3つほど年若い、準看護婦免許を取ってさらに勉強している”看護学生”だった。忙しいだろうに、真面目な顔をして「こうしてそうして・・・」と手を取って説明してくれた後、親切にも私をある病室の入り口まで引っ張っていって「ほら、あの真ん中の患者さん、駆血しなくてもいい血管が出るんですよ。オススメです。」と小声で耳打ちしてくれた。
もう後には引けない。点滴のボトルの名前とベッドネームを確認し、ごくりと生唾を飲み込んで病室に入った。「佐々木治郎さん(仮名)ですね。点滴を始めますが、御手洗をあらかじめ済ませてください。」とにっこりと笑いかける。
佐々木さんは機嫌よく「おう」と返事して、「どこへでもしてくれや」と豪快に腕を捲り上げた。見ると、捲り上げられた袖口から、桜の花びらだか竜のウロコだか分からないが、刺青が見え隠れしている。私の勤めた病院は温泉街に程近く、時々その筋の人たちが(刃傷沙汰の末に)救急で運び込まれたり、時には時間外に(指を詰めたけれど血が止まらないといったことなどで)自分から飛び込んできたりしていた。内心のドキドキを隠して、「大丈夫、こんなに血管が浮いているんだもの」と自分に言い聞かせる。
2回目までは「おう、そんなこともあらあな」と涼しい顔でうなずいていた。が、しかし、さすがに3回目で佐々木さんの太い眉毛が釣りあがった。「おうおう、いい加減にしろ!」とすごむ佐々木さんに、何と言って弁解したかは記憶にないが、数度目のチャレンジでようやく成功、点滴を開始したのである。
ERというアメリカの医療ドラマで、医学生のジョン・カーターが同じような目に遭っている。皮膚科から救急室に配属され、「点滴?今までしたことがありません」と答えて先輩医師にあからさまに嫌な顔をされる。夫婦喧嘩の末に、ピストルで誤って自分の足を打ち抜いた血の気の多そうなオジサンを相手に、「初めての点滴」を試みる。なかなか入らずに「なにやってんだ!」と患者さんにどやされるところまで私といっしょ、額に汗をにじませてやっと血管に入った時の「やった!入りましたよ!これで一番の難局は過ぎました」というあの気持ち。まるで自分のあの頃を見ているような懐かしい気分になるのだ。
ページのトップへ戻る父方の祖母のことを書こうと思うと、子供の頃までさかのぼる。
名前は松枝さん。享年96歳。明治生まれの、頑固で、それでいてとても茶目っ気のある女性だった。6人の子供(男4人女2人)に恵まれ、盆や正月ともなると、実家にそれぞれの子供を連れて帰省するのでそれは賑やかだった。小柄だけれど活気にあふれ、70歳を過ぎても尚、急な坂道をすっすっと背を丸めて早足で登っていった。気取ったことが大嫌いで、言葉も昔からの甲州弁がそのまま。「はぁ、えべ。(さあ、行きましょう)」と散歩に誘われ、一緒にどこまででも歩いた。「ごっちょう(面倒)」が大嫌いで、ビスケットを「ハクソガシ(歯糞菓子!・・・これは甲州弁にあらず)」と呼んでいた。私が風邪で熱が出てふうふう唸っていると、「ちょっくら待ってろよ(ちょっと待っていなさい)」と言って、その頃は外にあったトイレの裏の石をはがし、その下から捕ってきた丸々太った”ミミズ”を、ろくに洗わず生きたままなべで煎じて「熱さまし」(これは地竜と言う立派な漢方薬になります)にしてくれた。孫たちに混じって山路で「狼煙(のろし)」を上げて歓声を挙げ、夏ともなれば庭で一緒に爆竹を鳴らして遊んだ。休みのたびに山に遊びに行き、沢蟹や山菜をとってその場で料って食べる。せっかく捕って可愛がっていた沢蟹を食べてしまったと泣いている私や妹に、「ああ、ああ、なんちゅううるさいびくっちょずら!(なんてうるさい女の子達だろう)」と顔を真っ赤にして怒ったこともあった。私も含め孫たちはみんな「松枝おばあちゃん」の大ファンだった。何かと言うとおばあちゃんの家に集合していたので、あるとき叔父が「おばあさんはまるで、『ゴッドマザー』だねぇ」と笑っていたのを思い出す。
おばあちゃんはずっと元気でいるものと思い込んでいたのが、80を過ぎた頃から脚が弱くなり、山路でも「どっこらしょ」と杖を頼りにして座り込むことが多くなった。2階から降りてトイレに行くのが大変だからと、布団の脇にはポータブルトイレが置かれていて、泊まりに行って夜外のトイレに行くのが怖い時などつい借りたことがある。農繁期になると「別荘に避暑に出かけてくるだ」と言って、同じ町内にある病院に1ヶ月ほど入院(今で言う社会的入院?)していた。
90を過ぎた頃から物忘れをすることがたびたびあり、生来の頑固な性格にも拍車がかかって、お客に来てもすぐに「へえ帰るぞ。早くぶんださねぇと暗くなっちもうわ!(早く出かけないと日が暮れて暗くなってしまうよ)」と言い始め聞かないことがあった。妹の子供を見て(祖母にとっては曾孫になる)「てぇ!(あらまぁ:びっくりした時の感嘆詞)どこの坊(赤ちゃん・子供)だい、えらいお大尽のぼこのようだよう!(たいそうお金持ちの家の赤ちゃん・子供のようだ)」とおばあちゃんにしたら一番の褒め言葉で褒めてくれるのだが、説明しても数分したら「誰の子供なのか」忘れてしまうことがあった。だが、そんなことを差し引いても、やはり私たちが松枝おばあちゃんを大好きなのに変わりはなかった。
「ずっと元気で、変らずにいてほしい」と思っていたのに、夏の厳しい暑さで食欲が落ち、おばあちゃんはあっという間に「寝たきり」になった。昼休みに伯父から電話があり、仕事帰りにおばあちゃんの主治医に会ってほしいと言う。病院に医師を訪ねると、「高齢なのでどこまでよくなれるか分からないが、腎機能はそれほど悪くなっていないので、点滴をすればあるいは回復してくるかもしれない」という話で、それ以後毎日、仕事帰りに点滴をしに訪問することになった。布団から同居するいとこが二人がかりで抱き起こしてポータブルに座らせていたので、「町からベッドを借りるように(介護保険施行以前でした)」と助言し、町の保健婦の訪問も受けた。往診した主治医に「腎機能が悪くなってきたので、もう後数日もたないでしょう」と言われてから徐々に食欲が回復したので、「せめて最後にお風呂できれいにしよう」と勤務先から借りた簡易浴槽を持ち込んで、みんなでお神輿でも担ぐようにしてお風呂に入れた。子供・孫・曾孫の何本もの手が差し出され、小さくなった身体をそっと運び、薄くなった髪を洗う手、深いしわの刻まれた腕や足を撫でる手、大事に大事にお風呂に入れた。
点滴が効を奏したのか、息子や娘・孫たちが根気よく食べ物を口に運んだのがよかったのか、日に日に食欲が戻っていったが、もう自分で起き上がることはなかった。それでもそれから何回かはデイサービスにも行った。
厳しい夏を乗り切り秋になり、おばあちゃんは風邪をこじらせて肺炎になり入院した。病室を見舞うと、いつもの大部屋ではなく、病棟の入り口にある狭い個室に入っていた。物置と見間違えるような窓の無い薄暗い陰気な部屋に、中央配管ではなかったので、枕元に置かれた私の体ほどもある黒い酸素ボンベが異様に映った。すでに肩枕をしていて、浅い不規則な呼吸だった。シューシューと言う酸素の漏れる音だけが響く中で、「おばあちゃん」と耳元で呼びかけると、目をうっすらと開いてうなづいた。点滴が漏れたのか、腕が青黒く腫れて両方の手の甲が浮腫んでいるのが痛々しい。痰が絡むのか喉がぜいぜいして、目尻に涙がにじんでいた。もう後数時間で呼吸が停まるのは、明らかだった。ベッドの脇で、同居する伯父といとこが沈痛な表情でうつむいていた。帰って数時間後、いとこから「たった今息を引き取った」と知らせがあった。
家で亡くなった祖父の最期と松枝おばあちゃんの最期を比べた時、はたしてどちらが自然で幸せなのだろうかと思う。
病院で専門的な治療を受け、その道のエキスパートである看護師の看護を受けるのと、住みなれた我が家で家族の手を煩わせはするが、最期の数日を過ごすのと。「必ず回復できる」のなら入院治療もよいのかもしれない。だが、「回復できない」と分かっているなら、私はやはり家で好きなように過ごしたい。
若い人に比べてお年寄りでは、「治療のため」の点滴で、輸液を体がうまく処理できずにかえって浮腫んだり痰が増えて苦しい思いが増したりすることがある(一概に点滴が悪いと言っているわけではありません)。モニターや人工呼吸器、何本もの点滴のボトルと、見知らぬ他人に囲まれて送る最期の数日と、すぐ近くに医師・看護師は常時いないが、慣れ親しんだものに囲まれて過ごす数日と、どちらが貴重だろうかと。
ページのトップへ戻る内科病棟から連絡があり、来週退院して訪問看護を希望されていると言う太田さん(仮名)に会うため、私はその日の午後病棟を訪問した。太田さんは85歳の女性、脳梗塞で倒れてもう2ヶ月入院している。状態が安定したため、在宅療養に移るのだという婦長の話だった。寝たきりでオムツを当てているが介助すれば何とか食事は食べられ、同居する長男夫婦が介護にあたるのだと言う。
ネームプレートを頼りに、大部屋の真ん中のベッドに寝ている太田さんを探し当てた。「太田さん・・・」声をかけても返答はなく、かすかに口を動かすだけ。無表情で、透けるような顔色である。看護師も家族も「ずっとこの状態なんです」と気にも留めていないが、太田さんは薄目を開けたまま、起きているのか眠っているのか、私はただただ「こんな状態で、よく口から物を食べられるものだなぁ」と感心した。
退院後、太田さんは細々とお粥を食べ、尿便はオムツに失禁状態で、主にお嫁さんがオムツを替えていた。退院した次の日に、在宅の主治医である老医師が往診に来てくださった。家に帰れば少しは表情が違うかと期待したが、やはり意識状態は変らなかった。「ご飯は食べられますか?」と聞くと、家族が口をそろえたように「ええ、いつもと同じように食べてますよ」と答えるので、「では、また来週」と挨拶し首をかしげながら帰ってきた。
2度目の訪問の時のこと。玄関先で、お嫁さんが何の気なしに「朝はうんうん唸っていたんですけどねぇ、さっきから静かになりました。たぶん便が詰まって苦しかったんでしょうねぇ、しばらく出ていませんし。」と笑いながら言った。そうかもしれませんねぇ、とこちらものんきに答えながら枕元に寄り、太田さんの顔を一目見て「あっ!」と声を上げそうになった。
もう、呼吸が停まりかけていたのだ。
太田さんの目は落ち窪み、「下顎(かがく)呼吸」と言って亡くなる寸前の顎をかくんかくんと動かしやっと呼吸している状態だった。もう数分、いや今この時に呼吸が停止してもおかしくない。まだ状況が飲み込めないお嫁さんに「もう瀕死の状態だから、すぐに他の家族を呼んで」と伝え、すぐに駆けつけた息子さんにも状態を簡単に説明した。「こりゃ大変だ。すぐに先生を呼ばんと・・・オレは今から先生を迎えに行ってくる。」息子さんは慌ててそのまま軽トラックに飛び乗って主治医を迎えに出かけ、残ったお嫁さんも「お義姉(ねえ)さんが裏の畑にいるはずだから」と突っ掛けを履いて玄関から飛び出していってしまった。後には瀕死の太田さんと、私が残された。
家族が看取ることなく亡くなってしまっては困る。意味もなく血圧を測ってみたが、急激に下がってきていてもはや測れない。かくんかくんという呼吸が次第にかくん・・・かっくんになり、かく・・・か・・・・っくんになっていく。「太田さん、誰もいなくなっちゃったよ!まだ、死んじゃだめっ!!」口走りながら”血圧を少しでも上げようと”足の下に枕を入れたり、肩を叩いて名前を呼んだ。静かに消えようとしている生命の火を無神経にかき乱すような気がして、病棟で普段行っていた心臓マッサージや人工呼吸をその時の太田さんに行うのは憚られた。そうこうしている内に玄関が騒がしくなり、息子さんが先生を連れて戻り、続いてお嫁さんたちが戻ってきた。「太田さん、みんな帰ってきたよ」ホッとして思わず言葉にし、慌てて足元の枕を外し姿勢を整える。「母さん」息子さんが母親の顔を覗きこみ、先生が黒い往診鞄から聴診器を取り出した時、太田さんはため息をつくように静かにほうっと最後の息を吐いて、それきり静かになった。「・・・ご臨終です」静まり返る中、老医師が厳かに宣言し、私は太田さんを囲む医師と家族を部屋の隅で背後から見つめながら、深々と一礼した。
家族と一緒に医師を見送って玄関先まで行くと、息子さんが呟くように「こんなに早く駄目になっちもうなんて・・・」と言い、私は死期が迫っていることを見落としていたことを指摘されたような気がしてはっとした。すると老医師が振り返って「看護婦さんが今日来てくれてよかった。そうでなければ、亡くなるのにも気付かなかったかもしれない。」と言い、こちらに向かって静かに微笑んだ。お嫁さんが横でうなづきながら「まったくねぇ。私は『静かになった』ってホッとしてたら、息が停まりかけてたなんてねぇ。看護婦さんが来なければ気がつかなかった。」と重ねて言った。もやもやとした気持ちが、ただこの一言で救われたような気がした。
ページのトップへ戻る訪問看護でその頃使っていた車は3台。いずれも白い軽自動車で、「訪問看護ステーション」の名前入り。かなりの距離を走ったらしい”中古車”で、あちこち内装が傷んでいたり、時々へそを曲げて動かないことがある。忙しさにかまけてまったく手入れをしないので、車もストライキを起こしたくなるのかもしれない。訪問看護師が一人で乗って訪問することもあれば、同僚と一緒だったり、隣に往診の先生を乗せて行ったり、車椅子やシャワーチェア、簡易浴槽などの荷物を積んでいくこともある。
その日はアパートに住んでいる老夫婦の訪問だった。尾崎さん(仮名)夫婦、奥さんのすみ代(仮名)さんは83歳で多発性脳梗塞と軽いうつ病。白内障で遠くのものはぼんやりとしか見えないが、髪をきちんとまとめ、部屋もこぎれいに片付いている。だんなさん(喜久雄さん・仮名)は90歳で、従軍中に患った肺結核が再燃し、内服治療中だった。お互いに労わり合い、足りないところを補い合っていた。すみ代さんが座って洗濯物のしわを丁寧に伸ばし、喜久雄さんが立ったまま(腰をかがめると腰痛があるので)それを受け取り、まさに二人三脚で洗濯物を干していた。訪問すると、まるで孫が訪ねてきたように喜んでくださり、帰りには必ず「これはお土産に」と言って、赤いパッケージのビスケットを1袋手渡してくれる。今も買い物中にこのビスケットを見つけると、懐かしく思い出す。
いつものようにアパートの狭い庭に車を乗り入れると、すみ代さんは待ち遠しいような顔で、縁側からこちらを眺めていた。「こんにちは。遅くなってごめんなさい。」挨拶をしながら玄関を入ると、喜久雄さんは居間に座って新聞を広げていた。眼鏡がずいぶん鼻の下にずれているが直そうともせず、目を上げて私を認めると「ああ、いらっしゃい」と相好を崩した。抗結核薬も今月で飲み切り中止、もう微熱も咳もとっくに治まり、顔色もずいぶん良くなっている。副作用がないことを確認し、「良くなりましたねぇ、あと一息ですから薬をしっかり続けてください」と励ました。結核が見つかった時にはひどく落胆し、まだ微熱があり入院を勧められていたのに、体の弱い奥さんを独りで家に残しておくのが心配だからと、思いつめた厳しい表情で治療途中のまま退院してきたことが遠い昔のことのような気がした。「若い時には保健所で『気胸療法』を受けたですよ、苦しかったなぁ」昔話をしばらく聞いていたが、なかなかすみ代さんがこちらに戻って来ない。見ると、まだ縁側に立ったまま、車の方をじいっと見ている。「すみ代さん、どうかしたですか?誰か待っているんですか?」縁側に出てすみ代さんの隣に並んで立った。すみ代さんは日の当たる庭先に向かって、目を細めるようにしてじっと車の方を見つめている。「どうしました?」もう一度聞いて、すみ代さんの顔を覗きこんだ。すみ代さんは車に目を注いだまま、不思議そうに「看護婦さん、どうしてあの先生は降りてこられないんですか。連れの方も一緒に降りて、ここでお話するように言って下さいよ。あんな車の中で待っていたんじゃ、暑いじゃありませんか。」と言った。車に乗って来たのは私一人のはず。驚いて車の方を見たが、もちろん誰も乗っていない。「・・・どんな人が乗っているんですか?」こわごわ聞くと、すみ代さんは真面目な顔で「男の方で、ベレー帽をかぶってネクタイを締めて、うつむいていますよ。」とはっきり答えた。人は乗っていないというと、怪訝な顔で首を捻っている。
帰って同僚に話すと、一様に怖がって、それからしばらくその車に誰も乗ろうとしなかった。今も、冬の夕方や夜の訪問でその車に乗ると、バックミラーを見るのが怖い気がする。もっとも、同僚の一人は「車に憑いているんじゃなくて、あなた自身に憑いているんじゃないの?」ともっと怖いことを言ったのだが・・・。(喜久雄さんは後に別の話で登場、こちらも少々怪談めいています)
ページのトップへ戻る小林さん(仮名)は38歳、35歳の奥さんと5歳になる息子さんと3人で、駅の近くのしゃれたアパートの2階に暮らしていた。
小林さんが初めに体の異変に気付いたのは、勤め先で行われる職員検診の直前だった。胃が重い、もたれる、最近食欲もないしなんだかだるい気がする。仕事で新しい企画を始めたばかりで、神経性の胃炎だと思っていたと言う。「ちょうど職員健診もあるし、一通り検査してもらおう」。検査は偶然、奥さんが事務員として勤めていた職場の近くの病院で行われた。
「小林さん、ちょっと」検査をして数日後、事務室で働く奥さんに、浮かない顔の担当医が声をかけた。「旦那さんの結果が出たんだけれど、精密検査をしたほうがいいんだ。詳しく説明したいから、近いうちに二人で受診してくれないかな。」血液検査、CT、一連の検査の後に出た診断は「末期の膵臓癌(すいぞうがん)」だった。「先生に呼び止められたとき、『これは悪いものだ』と直感したんです」何回目かの訪問の時、奥さんが淡々と話してくれた。癌はすでに腹腔内に広がり、手をつけられない状態になっていた。「余命6ヶ月」。38歳、これから力を合わせて家庭を築き子供を育てていく小林さん夫婦にとって、あまりにも過酷な診断だった。
初めて訪問した時、小林さんは和室に敷かれた布団に正座して、私たち看護師を迎えてくれた。不思議なほど、澄んだ穏やかな表情だった。「若い癌の末期の患者さんが、在宅療養を希望している」どんなに緊張した悲壮な雰囲気で過ごされているだろうと思っていたが、その予想は裏切られた。「いよいよ食べられなくなってきたんですよ。起きていると辛いので、すみませんが横にならせてください。」布団にやせ衰えた身体を横たえ、口元に静かな微笑さえ浮かべながら、一つ一つ症状を説明する。奥さんは横に正座して、時々うなづいたり補足している。奥さんの表情にも、悲壮感は認められなかった。部屋を後にして車中で、同僚と「悩んで苦しみぬいて、死を受容したところなのかな。なんて穏やかな表情をされているんだろう、すべてを達観(たっかん:物事の事態に動じることなく、喜怒哀楽を超越した心境に達すること)しているような。」と話し合った。エリザベス・キューブラー・ロスというアメリカの精神科医の書いた「死ぬ瞬間」という本(「死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話」E・キューブラー・ロス著 川口正吉訳 読売新聞社)の一節を思い出した。人が自らの死を受容するまでには、いくつかの段階がある。まず「否認」し、「怒り」、「取り引き」し、「あきらめ」、そして「受容」していくと言うものだった。小林さん夫婦がそれまでどんな思いで病気と向き合ってきたのかは想像するしかないが、初対面でのお二人はまさに「受容」している姿だった。
「食べられない」「痛い」「苦しい」「眠れない」・・・。死を前にした患者さんに訪問し、様々な訴えに耳を傾け、一つ一つの症状を何とか緩和していくのが私たち看護師の勤めでもある。「食べられない」のには、少量でも高カロリーを取れる流動食を勧め、何とか食べられる方法を検討し、「痛み」については医師と連携しながら麻薬を含め痛み止めでコントロールしていく。「苦しい」「眠れない」も在宅酸素や薬で対応し、後はゆっくり患者さん・家族に寄り添う。発せられる一言一言、表情のちょっとした変化を見落とすことなく、限られた日々を安らかに過ごせるように気を配らなければならない。
夏の暑い盛りになり、それまで気丈に、穏やかな表情を崩さずに療養してきた小林さんにもしだいに疲れが見え始めたようだった。癌のために消化管が圧迫され、口から食べたものも受け付けずに殆ど吐き出してしまう。ある夏の夕方小林さんは奥さんに、「疲れたから、今日はゆっくり眠りたいんだ」とつぶやくように言った。顔色は透けるようになり、腕や足は骨に皮が張り付いたようで、起き上がる体力もなくなっていた。奥さんが手渡した安定剤の小さな粒を少量の水で飲み下すと、小林さんはそれきり目を開けなくなってしまった。「今朝から意識が戻らないんです」震え声の奥さんからの電話で訪問すると、小林さんはもう一両日、眠り続けているところだった。入院は「本人が絶対にいやと言っていたから」奥さんは頑として希望されなかった。すぐに主治医に連絡し、「脱水予防のため」点滴を開始した。
夜中に「呼吸がおかしい」という緊急呼び出しを受け訪問すると、小林さんはすでに昏睡状態、下顎呼吸となっていた。亡くなる直前の、あえぐような呼吸である。昼間と同じアパートの一室に布団が敷き詰められ、奥さんのほかに、父親と妹さんが目を真っ赤に泣き腫らして傍に付き添っていた。ふすまを隔てた部屋には、小林さんの幼い息子さんが寝息を立てている。まだ保育園に通っているのだろう、真っ黒に日焼けした小さな脚がタオルケットをはだけて飛び出していた。血圧や脈拍を一通り測り、「瀕死の状態です。もうあと数分で呼吸が停まるかもしれません。」と説明すると、それまで黙り込んでいたお父さんがたまりかねたように「何とかならんのですか。病院に連れて行って、何とか、助けられないのですか?」と強い口調で詰め寄るようにして聞いてきた。何もせずに瀕死の息子をこのまま死なせたくない、そんな切実な思いが痛いほど伝わってきて私は思わず絶句した。すると横から、奥さんが「もう、入院はいやだと言っていたから。本人が家で死にたいと言っていたから、このままここで、いいんです。」と、一語一語かみ締めるように言い、お父さんもそれきり黙りこんだ。それから三人三様に手を握り、額に手を当て、足をさするうち、しだいに小林さんの息は細くなり、呼吸の回数も間遠くなってきた。奥さんは耳元に口を寄せ、「俊ちゃんは私がしっかり育てるから。安心していてね。お友達にもちゃんと挨拶をするから、ほら、このノートにあなたが書いておいた全部の人に、ちゃんと手紙を出すから。安心して。」必死に明るく話しかける声も、だんだん涙声になる。奥さんの声がきっと聞こえているのだろう、小林さんの顔は穏やかで、まるで深い眠りについている人のようだった。細いかすかな呼吸がふっと停まった瞬間、奥さんが小林さんのもう動かなくなった唇にくちづけし、涙を流しながら、「愛してる、愛してる。ありがとうね。」と言うのを、私は部屋の隅でただ見ていた。私の隣では幼い息子さんが、父親の亡くなったすぐ隣で、口元に笑みを浮かべてすやすやと寝息を立てている。この子が目を覚ますと、もう父親はこの世に居ないのだ、そんなことをぼんやり考えたら目頭が熱くなった。しかし小林さんは、愛するものに囲まれ、慣れ親しんだ家で亡くなることができて、きっと満足したに違いない。
医師の死亡診断の後、奥さんや妹さんと一緒に体を拭き着替えを済ませると、小林さんは本当に穏やかな安心しきった表情をされていた。挨拶をして外に出ると、すでに空は白み始めていた。真夜中に呼び出されてからもう数時間が経過していたのだ。「今日も晴れて暑くなりそうですね。」庭に出て後から妹さんに話しかけられ、はっとして振り向いた。彼女も悲しみの中にも、「見送った」満足感のある穏やかな表情をしている。
「家で看取ること」 家族にとっては、身体的にも精神的にも負担になることが多いが、見送った後に故人から多くのものを受け取ることができる。小林さんはご家族に、きっとたくさんのプレゼントを残して行ったに違いない。
ページのトップへ戻る24時間体制を敷いている訪問看護ステーションでは、当番の訪問看護師が携帯電話で、患者さんの急な状態変化や介護上の不安・悩みの相談の電話に対応する。日曜祭日・年末年始・真夜中でも、必要とあれば訪問している。「眠り込んでしまって、携帯電話の音に気付かなかったら困る」と言って、同僚は夜中に何度も起き出して着信履歴を確認している。たとえすべての患者さんの状態が落ち着いていても、当番の日には緊張を強いられるのだ。
その日の電話番では、状態の不安定な患者さんが一人いたため、特に緊張していた。緊急の電話にすぐに対応できるように、勤務中ならジャージの左ポケット、非番の日にはエプロンの左ポケット、入浴中は脱衣所のドアノブに掛け、就寝前にはもう一度電源を確認して枕元に置くのが、私の携帯電話の定位置である。電話番の日には「食べられるうちに食べ、お風呂に入れるうちに入り、そして眠れるうちに眠る」のが鉄則。いつかは「さあ晩御飯」と残業帰りに買った手巻き寿司を口元まで持っていったちょうどその時に電話が鳴り、涙を飲んだことがあった。落ち着かない思いでお風呂に入り、一度電話を拝むようにしてから、布団に入った。昼間の勤務でくたびれていて、「せめて30分でも眠れますように」と切に願っていた。うとうとと眠りかけた頃、着信音が鳴り響いた。「必ず起きられるように」と、わざとけたたましい音にしてある。ディスプレイで相手を確認するとやはり件の重症の患者さんだったので、一度深呼吸してしっかり目を覚ましてから電話に出る。寝ぼけていて頭が回らず判断力が鈍っていてはいけない。「はい、訪問看護師です。」答えると、川部さん(仮名、84歳女性)の介護をされているお嫁さんからだった。「もしもし、あの、おばあちゃんの呼吸がさっきからおかしいのです。夕飯も殆ど食べなかったし、呼んでも目を開けてくれないのです。」遠いところから響いてくるようなその声に、まだ充分覚めていない頭を振りながら、「分かりました。今から訪問しますが、自宅からなので40分ほどかかるかもしれません。」と答え一旦電話を切り、自分を奮い立たせるように「さあ、行くぞ」と声に出してから身支度をする。
川部さんは認知症の為自宅で転倒、足の付け根の骨を折り、車椅子の生活となっていた。1ヶ月前から食欲がなく、呼吸状態も不良なために在宅酸素が開始になり、車椅子にも乗れずにベッドで寝たきりとなり、同じ頃からできた腰の褥瘡(床ずれ)が見る見るうちに悪化して今では骨が露出していた。昼間訪問した時にはすでにうとうとと眠ることが多く血圧も下がりかけていたので、家族には「あまり良い状態ではない」ことを伝え、主治医にも報告が済んでいた。川部さんのお宅は市内でも山付きの部落で、数メートル先は林道という辺鄙(へんぴ)な所だった。昼間でも雨が降ったり霧が降りたりすると一人で運転するのが怖いような場所である。以前訪問した時には霧が降りて視界が悪くなり、今にも霧の中から何か出てきそうな雰囲気で、気晴らしにラジオを聞こうにも山間部で電波が途絶えてしまう。仕方なく「ピクニック」の歌を大声で歌いながら運転した。そんな場所を、今日は真夜中に登っていかなければならない。CDと一緒に歌を口ずさみながら、怖々登っていった。心なしか、アクセルを踏む右足が震えている。市街地を離れ急な坂を上り、やがて人家が途絶えうっそうとした杉林がしばらく続き(もちろん街灯など無い漆黒の闇である)、再び小さな集落がぽつんと現れる。市街地の家と違い、昔からのわらぶき屋根も目立つ。「まるで『日本昔話』だ」最初に川部さんを訪ねたとき、思わずつぶやいた。その小さな集落の、まだ舗装されていない砂利道を上った先が目指す川部さんの家である。砂利道の片側は沢になっていて、脱輪すればそのまま十数メートル下の川に落ちてしまうようなところだ。車から降りると、ぽつぽつと小雨が降っていた。
「こんばんは。お待たせしました。」声をかけながら玄関を入ると、急に電球の光の中に入って一瞬目がくらむ。出迎えた息子さん・お嫁さんに挨拶してから、川部さんの寝室に入った。「川部さん」声をかけながら近づくと、川部さんは目を半分開けて宙を見据えるような表情だった。目に光は無く、すでに意識は無いようだ。呼吸が浅くなり、順々にまた深くなり、そして再び浅くなる。チェーンストークス呼吸だった。血圧も低く、血液中の酸素飽和度も下がってきている。ベッドの横では、川部さんの年老いた旦那さんが心配そうに顔を覗きこんでいる。旦那さんも耳が遠く、歩くのも一人ではおぼつかない、要介護の状態だった。「・・・どんな具合で?」ぼそりとつぶやくように聞くので、「奥さんは呼吸も浅くなり、意識が無いようです。痛くも、苦しくも無いんですよ。耳は最期まで聴こえていますから、傍で話しかければきっと分かりますよ。」と伝えた。旦那さんは目に涙をため、無言でそっと川部さんの手を握る。長年の農作業でごつごつと節くれだった手が、小刻みに震えていた。後に控えていた息子さん・お嫁さんに「今晩のうちに呼吸が止まるかもしれません。交代で、目を離さないで居てください。それから、着物を、ご本人が好きだったものでよいですから用意しておいてください。」と伝え、状態を主治医に電話連絡し、在宅酸素の流量を上げる指示をもらって実行した後、再び山道を降りて自宅に戻った。
次に連絡があったのは、深夜2時を回った頃だった。今度は心持落ち着き電話に出ると、再びお嫁さんからで「川部です。おばあさんの息が、今、止まりました。」一言一言を区切るように言った。主治医に連絡したことを確認した後、身支度をして車に乗った。数時間前に比べ、不思議に怖さを感じない。急な坂道を登るため、ローギアに入れてアクセルを踏み続けた。
訪問すると、すでに主治医の大きな車が駐車場にあったので、玄関先にバックで車を停めた。ドアを半分開き、後を確認しながらそろそろと下がっていくと、薄暗い玄関先にたたずむ人がいる。真夏だというのに、カーキ色の長袖を着て”直立不動”の姿勢を取っているのが、家から漏れる灯りにぼんやりと見て取れた。(丁寧に、玄関先まで迎えに出てきてくださったんだ。息子さんだろうか?それにしてもなんだか軍服みたいな服装だなぁ)不思議に思いながら車から降り、「こんばんは、ご丁寧にすみません。」と挨拶しながら顔を上げると、「その人」の姿はもうなかった。首をかしげながら玄関に入ると、ランニングにステテコ姿の息子さんが出迎えてくれた。(さっきのは誰だったんだろう?)という疑問を胸の奥に押し込めて、川部さんの寝室に入る。死亡確認を終えた主治医に一礼し、お嫁さん・お孫さんと共に川部さんの体を拭き清め、一番のお気に入りだった着物を着せた(死後の処置)。「・・・わがままなおばあちゃんだったけれど、孫には優しかったですよ。洋子が高校に受かった時には本当に嬉しそうだったねぇ。」思い出話を聞きながら、血の気の失せた唇に薄く口紅を塗ると、川部さんは穏やかに微笑んでいるような顔になった。「あれ、おばあさん眠っているようじゃん。いい顔だねぇ。」息子さんの知らせで駆けつけた隣組の組長さんらしき人が、顔を覗き込むようにして言った。あわただしく部屋が片付けられ、枕元に焼香台と末期の水を取らせるためのコップに入った水と割り箸に巻いたガーゼが置かれる。先ほどまでの「死を悼む」雰囲気は一変し、「お葬式」を無事に始めるための準備が着々と整えられていく。川部さんをベッドから布団に移し変え、もう一度着物や姿勢を整えた後一礼し、家族に挨拶してから帰途についた。時計を確認したら、3時半、まだ辺りは漆黒の闇の中である。
一仕事した後に残る興奮状態で、不思議に眠くならない。下り坂をエンジンブレーキをかけて降りていくと、人家の途絶えた杉林に入った。すると、ヘッドライトの先になにやら動くものがある。「野良犬?クマ?イノシシ?」ブレーキを踏んでゆっくり近づいていくと、道のど真ん中を、杖をついて腰の曲がった老婆が早足で歩いていた。こんな時間に、こんな人気の無い場所で、しかも老婆である。目を擦って確認したが、車の5メートルばかり先を、すっすっと真直ぐにおばあさんが歩いているのだ。途端に背筋に氷水を浴びせられたようにぞっとした。追い越したくても、おばあさんは車道のど真ん中を歩いていて無理だったので、のろのろ運転のまましばらく追従した。「もしかして痴呆があって徘徊しているかも?」「車に乗せて実は幽霊だったらどうする?」「越したらさっき亡くなった川部さんだったらいやだなぁ」「山姥だったりして・・・」転がるようにして歩いていくおばあさんの後姿を追っているうちに、少しこちらの気持ちも落ち着いてきた。クラクションを鳴らしてびっくりさせるわけにもいかず、数分その状態が続いた。そのうちに、こちらの気配に気付いたのか、おばあさんは徐々に道路の左端に軌道修正し始めた。「いまだっ!」そろそろとおばあさんの脇を通り抜け、つい怖いもの見たさでその顔を横目で見てしまった。「似てるっ!」心なしか面差しが川部さんに似ていたので、もう堪らずアクセルを踏んだ。胸がドキドキしてバックミラーを見ることも出来ず、ただただ急な坂を下っていった。
次の朝、同僚を相手に「不思議なことがあってね」と話をしていると、病棟から連絡が入った。入院していた患者さんが亡くなった、という婦長からの電話だった。その患者さんとは、尾崎喜久雄さん(仮名)。前出の(連れの方もご一緒に)旦那さんの方である。前月、ごみを捨てようと庭先に出て転び、足の付け根の骨を負って手術を受けていた。術後に呼吸器感染を起こし、高齢で何度も肺結核を患っていたために持ち堪えられなかったのだろう、夜半に急変して2時半頃に息を引き取ったとのことだった。数日前に病室を訪ねると、酸素マスクをして荒い呼吸をしながらも、私を認めてにっこりと微笑を浮かべていた。以前訪問すると「従軍中に南方で捕虜になったから、今でも向こうの言葉を覚えていますよ。」苦労話をした後、「今までいろいろ見てきたからねぇ。もう後は、火葬場で焼いてもらってお経を読んでもらって、それでおしまい。もし家で亡くなるようなことになったら、看護婦さん、よろしく頼みます。」と世間話でもするように自分の死後の話をして、正座して、薄くなった形のいい頭を深々と下げていた。そんなことを思い出し、亡くなった時間を聞いて「はっ」とした。もしかしたら、あのカーキ色の服装をした男性は、喜久雄さんではなかったか?病院で亡くなることにはなったのだが、私に最期の挨拶をしに来たのだろうか?今では確認のしようもないが、もしも死後の世界で再会できたら、「あの時立っていたのは喜久雄さんでしたか?」と聞いてみたい気がする。
ページのトップへ戻る訪問看護師の仕事のひとつに「入浴介助」がある。患者さんを自宅の浴槽を使ってお風呂に入れるのだが、これがけっこう重労働だったりする。たいてい脳血管障害後遺症などで半身が麻痺していたり、高齢で足の筋力が落ちて一人で(あるいは家族が介助して)お風呂に入れない患者さんが対象なので、神経も使うし骨も折れるのである。
その日担当したのは金井さん(仮名、91歳女性)、前の年に95歳の旦那さんを亡くしてから家に閉じこもるようになり、足腰も弱くなってしまったという。数年前、それまで住んでいた家が火事に遭い、息子夫婦とともに今いるアパートに引っ越してきた。一緒に住んでいる70代の息子さんは仕事中に足場が崩れて骨折し、その後遺症で足が曲がらなくなってしまっていた。お嫁さんも高血圧と心臓病で通院中。訪問すると、アパートの狭い部屋は布団が敷き詰められたようになり、台所の床もそこらじゅうに片付けられなかった物があふれていた。「こんなところに来ていただいて。」新聞紙やどんぶりが雑然と置かれた部屋の隅で、着物を着て長い髪を頭の上で結った金井さんが、正座をして深々と頭を下げていた。人の手を借りて生活するようになっても、着物を着て髪を結って・・・という生活スタイルは頑固に変えていない。足元がおぼつかなくなっても、目の光には凛とした明治女の気骨を感じさせる。「嫁の私がしっかりしていないから、すみませんねぇ」堂々と背筋を伸ばして座る金井さんの後ろで、背中を丸めるようにして小柄なお嫁さんが何度も頭を下げていた。髪の毛も乱れて唇にも生気が無く、手もヒビだらけで黒ずんだようになっている。姑に気を使いながら仕えてきたのだろうか。あまり体調も優れないようだが・・・。そんなお嫁さんの様子にも注意を払いながら、私は金井さんと向き合った。「腰の痛みはいかがですか?」体温・脈拍・血圧を測りながら体調をチェックする。「薬が効いたのか、だいぶいいですよ。お風呂で温まるのがいいのかもしれないです。」にこっと笑った隣で、お嫁さんがせわしなく「お義母(かあ)さん、今日も看護婦さんにお風呂に入れてもらいましょう。」とせきたてる。「血圧も落ち着いているし、今日もさっぱりしましょう。」椅子につかまらせて金井さんを注意深く立たせ、お嫁さんと二人で左右から支えるようにしてお風呂場まで歩行介助する。アパートの風呂場は一人用のユニットバスになっていて、大人二人が入るのには少し狭かった。シャワーチェアに座らせて身体を洗い、こちらの肩を貸すようにして腰を支えながら浴槽に入れる。金井さんはもちろん裸だが、こちらはTシャツにジャージの着衣のまま。夏場で、「転ばせないように」と神経を集中し、隙間風が入らないようにと締め切っているので、服を着たままサウナに入ったようで全身から汗が噴出してくる。まして時期は真夏で、滴り落ちる汗が目にしみた。「少し足を動かしてみましょうか」固くなった筋肉を少しでもほぐすようにと、浴槽に座る金井さんの足首をゆっくり動かしてリハビリをする。十分体が温まったところで、再び「手が滑りませんように」と神経を集中しながら浴槽のふちに介助して座らせ、腰を支えて上がらせた。「さっぱりしました」笑顔の金井さんに「よかったですね」と笑い返しながら、首に掛けたタオルで額を流れる汗を拭う。どっと汗をかいたせいか、喉が乾いて口の中まで粘つくようである。
お嫁さんと二人で服を着るのを手伝い、居間まで歩行介助して一段落。早く事務所に帰って冷たい麦茶が飲みたい、こんな時に冷えたビールを一気に飲み干すとさぞ美味しいだろうなぁ、頭の中は”いかにしてこののどの渇きを癒すか”で一杯だった。「さぁ、看護婦さん。のどが乾いたでしょう。」とそこに、お嫁さんが大きな空のビールジョッキを持って現れた。「え!そんな、(昼間からビールなんてっ、すごく嬉しいんだけど)あの、仕事ですから、気を使わないでください。」あたふたしながら手を大きく振って大袈裟に断ると、「ま、いいじゃないですか。一杯ぐらい。」お嫁さんが台所から手に持って現れたのは、紙パックに入ったコーヒー牛乳だった。半分ホッとし、半分がっかりしながら、あまりののどの乾きに「じゃあ、一杯だけ頂きます」とコーヒー牛乳がなみなみ注がれたビールジョッキを手に取った。一口飲んだら体の隅々まで冷たくいきわたっていくようで、とても美味しい。ごくごくと飲み干してふぅとため息をつくと、その飲みっぷりが見事だったのだろう、すかさずお嫁さんが「さぁさぁ、もう一杯。」断る暇も無く再びジョッキになみなみと注がれてしまった。一息に飲んだので、胃がたぷたぷと音を立てている。もう飲めないよ、と思いつつ「せっかく注いでもらって勿体ないから」とこれもまた飲み干してしまった。「もう一杯・・・」再び注ごうとするお嫁さんを、今度は手で制しながら「・・・ご馳走様でした。」とやっと言葉にした。動くと口から出てきそう(!)である。言葉少なに金井さんに次の訪問の約束をして、帰途に着いた。おなかが冷えすぎて腹痛を起こし、それからコーヒー牛乳が飲めない体になってしまった。 真夏の入浴介助は、看護師も身体を張った、まさに「重労働」なのだ。
ページのトップへ戻る。橋本つねさん(仮名)は御年96歳。75歳になる娘さん夫婦と暮らしていた。最初は、お婿さんの訪問に行っていてつねさんと出会ったのだ。耳がひどく遠くて、耳元でいくら大きな声で呼びかけてもワンテンポずれて鷹揚にうなづく。訪問するたびに「どこから来たですか?」から始まる世間話がひとしきり続く。「それじゃ、私は休みます。」炬燵から立ち上がった姿を見てギョッとしたのだが、つねさんのおなかがまるで妊婦さんのように大きいのだ。大きなおなかをさすりながら、「ごゆっくりどうぞ」と言って廊下をゆっくり歩いていく。娘さんに聞くと、「あのおなかはもう、若い頃から大きいのです。お医者さんが嫌いで、かかったことがありません。」と当たり前のような口調で言う。腹水だろうか?子宮筋腫か?癌で腹水が溜まるほどなら、もっと衰弱していてもおかしくないのだが・・・。つねさんはお婿さんと話す私の脇でお茶を飲み、カステラをパクパク食べている。
元気だったつねさんが、ちょっとした風邪が元であっという間に寝たきりになってしまった。「入院するのもイヤだというし、このまま家で死んでしまったら警察を呼ばなきゃならなくなる。看護婦さん、どうしたらいいでしょうねぇ。」浮かない顔の娘さんに相談され、私は近くの診療所の医師に往診を依頼することを提案した。「橋本さん、お医者さんに往診してもらって、定期的に診察してもらいましょう。病院に行くのがいやだと言うのなら、このまま家で看取ることもできますよ。もちろん、警察を呼ぶようなこともありませんし。」往診が始まり、つねさんの状態はあまり芳しくないながらも落ち着いてきた。
そんなある日、訪問した私の袖を引っ張るようにして、娘さんはつねさんの部屋の手前で引き止めた。「看護婦さん。実は・・・」耳元に口を寄せるようにして、ヒソヒソと話をする。耳が遠いのだから、聴こえないと思うのだが。「お母さんが、『夕べ弟が訪ねてきた』と言うのです。夜中に話し声がするので起きてきたら、『さあ、さあ、遠くから良く来てくれた』だの、『寒いからこの布団へ入って寝ろ』だの、一人で喋っているのです。一番びっくりしたのは、寝たきりのお母さんが、いつの間にか押入れから自分で布団を出して自分の布団の脇に敷いていたんです。お母さんの弟は、若い時に戦死しているんですよ。」「えっ!」目を大きく見開いて、真顔で興奮気味に話す娘さんに、わたしはびっくりして絶句してしまった。「不思議ですねぇ。」娘さんはため息まじりに話を締めくくった。次の間に寝ているつねさんは、もう衰弱してお茶も飲もうとしない。目を半開眼にして、夢うつつのような安らかな表情にも見えた。「つねさん、」耳元で呼びかけるとゆっくり目を開ける。「弟さん、来られたんですか?」聴こえたのかどうか、つねさんは唇を少しゆがませてかすかにうなづいた。それから数日して、つねさんは娘さんに手を握られたまま、眠るように息を引き取った。(蛇足になるが、つねさんのおなかの大きかったのは、主治医によると「腹水が3リットルほど溜まっているのでは」とのことで、なぜか亡くなるとおなかも小さくなってしまったそうだ)
人は亡くなる前になると、「お迎え」と言って自分より先に亡くなった親しい人が死出の旅路のお迎えに来てくれるという話を聞く。肉親だったり、友人だったり、愛した人だったり。あるおばあさんは、「バスが迎えに来ているから、赤い鼻緒の下駄を用意してくれ」と言って聞かなかった。「そんなものはいないよ」と否定する息子夫婦に向かって、窓を指差し「ほら、窓のところに、おじさんが呼びに来ている。遅れてしまう!」と興奮して怒り出したと言う。秋田さん(仮名)という94歳のおばあさんは、デイサービスが終わる夕方ごろになると、天井を見詰めて35歳で亡くなった夫を呼ぶ。「あんた、早く迎えに来てちょうだいよ。」最初、デイサービスの送りのバスを待っているのかと思っていたら、夫に向かって呼びかけていたのだそうだ。「お迎え」を「呆けた」とか「譫妄状態によるもの」というとらえ方もあるけれど、死者が訪ねてくる怖さよりも、私は今から出向くであろう「未知の世界」への道案内を親しい者がしてくれると言う安心感さえ感じてしまう。
私には誰が「お迎え」に来てくれるのだろうか。願わくば、今までいっしょに過ごした猫たちが、賑々しくお迎えに来てくれれば(ジブリアニメの「猫の恩返し」みたいに)いうことなし、なのだが。
ページのトップへ戻る。聖書に、「外から人の中に入って、人を穢(けが)すものはない。本当に穢(けが)れているのは、心の中から口を伝って出る"言葉"や"行為"なのだ」(マルコ伝7章15節)と、おおまかに意訳するとそんな内容の箇所がある。すなわち、便や尿など排泄物や、膿や吐物なんて、みんなが忌み嫌うほど、そんなにたいしたことないんじゃないの、と言うような意味か(あくまで私の解釈によると)。どれもこれも、看護師とすれば日常茶飯事に目にするもの。少々手や腕についたところで、通常なら「何のこれしき、この処置が終わったら洗えばいいんじゃないの、はっはっは(^○^)」と余裕の笑顔でいられる。膀胱洗浄しながら、ぴっと排液(もちろん尿混じり)が顔に飛んだところで、涼しい顔でいられるようになるには、そうですねぇ、8年くらい経験が必要かも(?そんなことないよって、隣から同僚の声が聞こえる・・・)実はこの「たいしたことないじゃん」が大きな落とし穴になっちゃうことだって、おおいにあるんだけれども。
と、少々脱線したけれど、私たちが通常口にする「コトバ」って、実はとても重要なもの。言葉一つで人を癒していい気分にさせ、また、反対に奈落の底に突き落とすことだってできる。これさえ覚えれば、カンフーや柔道なんて目じゃない、実にちょろいかも。てことは、何の気なしに発した言葉が、相手に大きな打撃を与えることもあるってことか。
先日も親の何の気なしの(実は叱咤激励のつもりだったかも)言葉が、子供を傷つけ、考えられないような悲惨な行動を引き起こしてしまった。
「沈黙は金」なのか。でも、そうとも言えないのが言葉を羅針盤にして動く私たち人間。
折に触れて、その時と相手に応じた言葉を、それも人を癒し勇気を与える言葉をかけられれば幸い。
私たちができることは、感情に任せて激しい言葉を使ってしまう前に、一回深呼吸して「コトバを選ぶ」余裕を持つこと。これがまたとても難しいことなんだけれど、特に心身ともに傷ついた患者さん(患者様と言う言葉、何か仰々しくて私は使えない)を前にした医療従事者には特に重要なこと、それと、子供を前にした親にもきっと大切なこと。
私が発する言葉が、「呪いの言葉」ではなくて「祝福の言葉」でありますように。
「どうしてできないの」「なんて愚図なの」「先が思いやられるわ」なんて、子供をこれからの暗澹たる人生に方向付けてしまう「呪いの言葉」ではなく、旧約聖書で神が語られた「あなたは大丈夫」「これからきっと良い人生が開けるでしょう」「産めよ、増えよ、地に満てよ」(?)という「祝福の言葉」を、かけられますように。今までかけたであろう「呪いの言葉」を打ち消すような、最強の「祝福」を与えられますようにと、切に祈ります。
ページのトップへ戻る。忘れもしない2003年9月1日日曜日。外出先から帰って車を降りると、どこからともなくか細い子猫の声がする。「おや?」怪訝に思って車の下を覗き込むと、ひょろひょろに痩せて耳と目ばかり大きい子猫が出てきた。車のオイルなのか?体半分に黒いねとねとした汚れがついていて、目もやにている。私が「見るからに猫好きそう」に見えたのか、ひゃーひゃー鳴きながら(空腹で”にゃー”が”ひゃー”に聞こえた)頭を摺り寄せてくるので、シーチキンの缶詰を切ってあげた。食べると当たり前のような顔をして家に上がりこみ、トイレは前の畑に済ませに行く。あまりのなつっこさに、そのまま飼う事にして、キャットフードからトイレまで買い揃えた。
家族の一員となったら、身奇麗にしてやりたい。毛皮の汚れを洗い流そうと洗面所でこちらも泡だらけになって格闘するうち、異常に気付いた。呼吸がやけに速いのである。おびえているだけかと思っていたが、そのうちぐったり弱って動かなくなってしまった。
慌てて日曜の夕方に獣医さんに連れて行った。一目見るなり厳しい表情の獣医さん(パパイヤ鈴木似である)は、レントゲンを見ながら「横隔膜ヘルニアですね。腸が殆ど横隔膜の上に入り込み、肺や心臓を圧迫している。これだけ弱っていたら、手術をしても成功率は50パーセント。このままにしておいたら、数日で死ぬでしょう。」と説明してくれた。「動物用の人工呼吸器も完備していますので」としきりに手術を勧められたが、小さい身体にメスを入れるのが忍びなくて辞退し、「延命処置です」とビタミン剤と猫用の流動食を2缶処方してもらい、帰宅した。「せめて最後の数日、暖かい場所でゆったり過ごさせてあげよう」と仕事を休んで付き添い、注射器で流動食を少しずつ口に入れ、昼寝の時には添い寝して母猫が子猫を舐めるように身体をゆっくり撫でてやった。と、願いが天に届いたのか、3日目ぐらいからすり餌のような離乳食を舐め始め、次第に子猫用のキャットフードを食べ始めた。呼吸は相変わらず荒かったが、「苦しい」のにも慣れてしまうのか、庭を散歩できるようにもなった。
1ヶ月で体重が1.5倍に増えたので、予防注射のために別の獣医さんを訪ねると、経過を聞いて驚いて目を丸くしながら「猫というのはしぶといからねぇ。このままオトナになるかもしれないよ。」と言いながら、脇を支えて後ろ足で立たせ、「こうしてとんとんとすれば”臓物”が下に下がるから」と、裂けた横隔膜から腸管を下に下げる方法まで教えてくださった。とんとんとん・・・きょとんとした顔でおとなしく脇を支えられているにゃっ太君、子猫の時に車にはねられたのか心無い人間におなかを蹴り上げられたかして、横隔膜が破れてしまったのか。2度も生死の境をさまよったが、今は昼間は留守宅になる我が家で、居候を決め込んでいる。
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にゃっ太君に予防接種をしてくださった獣医さんは関先生。隣町の桃畑の中に、小さな動物病院を開業されている。先生はきっと忘れてしまわれたかもしれないが、10年以上前、温泉病院に勤めていた頃、捨て猫を連れて行ったことがあった。
雨の日の夕方、病院の玄関に車にはねられて怪我をした子猫が捨てられていたのを見つけ、白衣を着たままで連れて行った。猫は下半身を車にひき潰され、自力で尿ができない状態だったが生きていた。関先生はおなかを押さえて尿を出す方法を教えてくださった後、「この子は捨てられていたんでしょう?」と聞いた。うなづくと、時間外だったのに診察代も取らなかった。昔の記憶を辿りながら畑道を走っていくと、見覚えのある建物の横で、初老の男性が白衣の袖を捲り上げて車のタイヤをいじっていた。穏やかな風貌、落ち着いた口調、関先生は以前と少しも変らない。
「とんとんとん」と”臓物を下げる”方法を教えてくださった後、「避妊手術」のことを聞くと、「走り回るとすぐに苦しくなるから普通のオスよりはおとなしいでしょう。それでも外に出さずに家の中で飼った方が無難かもしれない」と仰るので、「私の傍を離れないんです」と言うと、先生にふふんと鼻先で笑われ「そんなことを言っていても、カノジョができれば見向きもされなくなるよ」と言い返されて、急に切なくなってしまった。思えば、この感情は、息子が巣立っていく時の「母心」とどこか似ているのかもしれない。
ページのトップへ戻るにゃっ太君はこちらの心配をよそに、日に日に元気に、やんちゃになってきた。尻尾を得意そうにピンと立てて庭を濶歩し、物陰に隠れていては、こちらの脚めがけて飛びついてくる。柿や葡萄の木によじ登っては、葉陰から慌てて飛び立つ鳥に目を丸くしたり、花壇に花を植えていると「何かいるの?」とでも言いたそうな顔で、一緒に土を掘り返し黒い鼻先を突っ込んでいる。時折庭に下りる小鳥がいると、花壇に身を潜めてじっと息を殺している。後からそっと見守っていると、地べたに身を低くしてじりじりと尻尾を揺さぶりながら狙いを定めている姿が、なんともけなげで滑稽なのだ。たいていぴょんと飛びついた時には鳥が逃げた後のことが多く、狙いを定めているうちにばさばさと飛び立ってしまうこともあった。失敗続きの狩りでも、いつも真面目な顔で「一生懸命」なにゃっ太君を見ていると、何とか狩りを成功させてやりたいものだと思うようになった。
仕事帰りにホームセンターに寄り、「ねずみ」を買い込んだ。帰って玄関を開けると、にゃっ太君は必ず扉のところまで来て待っている。私が帰ってくるのが純粋に嬉しいのか、それとも”お土産”が目当てなのかは不明だが、「何か捕ってきた?」と人の顔を窺いながら玄関で足の周りを一めぐりする。手に提げた紙袋を見つけると目が生き生きと輝き始め、足元に転がり出たねずみ君に夢中で向かっていく。たいてい前足で押さえておいて首筋辺りに噛み付き(たいていこれが致命傷になるらしい)、次第に気持ちが高揚してくるのか、後ろ足でかっかっと蹴りつける。弾みでぴょんと飛び上がるねずみ君を追いかけて廊下を駆け回ったりしているが、ほんの数分でねずみ君は原型をとどめないまでになってしまう。棒のついた「猫じゃらし」タイプや紐がついて引っ張るもの、ミニカーがついて「自走式」の物に写真の「起き上がりこぼし」型の物など、様々のものを買ってみたが、最短で20秒(前足でぽんとはたいただけで壊れた)、よく持ち堪えても半日と持たなかった。
今では、ホームセンターでシマリスやハムスターを見ても、「可愛い」とは思えず「よく太っているなぁ。これをにゃっ太に見せたらどんなに喜ぶだろうか」とぼんやり考えてしまう。先日訪問先で「ネズミが出て困るので、これから罠を仕掛けるところです」と相談され、「生きたネズミが捕れたら、是非私にくださいね」と喉元まで出かけた。そのうち「猫キチ」が高じて、本物のハムスターを生餌に・・・と思い始めはしないだろうかと、自分が怖くなる時がある。
ページのトップへ戻る2002年の夏休み、長野に家族旅行をした。長距離の運転が苦手なので、1ヶ月も前からガイドブックを買い込み、プランを練り、電車や宿を予約して、まるで「旅行代理店」のようだった。行き帰りの電車の中で読もうと思って隣町の図書館で借りたのが、川上弘美さんの「センセイの鞄」。川上さんの本は他にも「神様」「溺レる」など数冊読んだが、すべて不思議な読後感。クマや神様が出てくる夢のような展開なのだが、この「センセイの鞄」は300ページ近い長編”恋愛”小説である。主人公の大町ツキコは37歳、独身。仕事帰りに一人で居酒屋でお酒を飲む。そこで再会したのが高校時代の国語の教師、いつも古びた鞄を抱え、いかにも教師らしく背筋を伸ばしている。松本春綱先生という名前を思い出せず、「センセイ」と呼びかけたので、以後そのままセンセイと呼ぶようになった。年齢は「三十と少し離れて」いるが、ツキコいわくセンセイは「同じ年の友人よりも近く」感じる存在なのだ。最初の数ページを読んで、同世代ということもあってかすっかりツキコという女性に感情移入してしまい、電車の中で夢中で読んでいたので、冷房のためにドライアイが一気に悪化してしまった。
いっしょにお酒を飲み肴をつつき、時にはお互いにやきもちを焼きあったり些細なことで喧嘩する。「あわあわとした」二人の日常が、川上さんの絶妙のユーモアで語られていくのが時に切なくて、実に心地よいのだ。1週間足らずで読了し、何回も読み返したくてついに購入してしまった。小説の中に度々出てくる「食べる」「お酒を飲む」場面も実においしそうで、食いしん坊の私のお気に入りの本なのである。
ページのトップへ戻る高校生の頃、一時期太宰治の小説ばかり読んでいた時期があった。デカダンというのか、ニヒリズムというのか、退廃的なけだるい雰囲気が好きだった。確か、最初の一編は教科書に出ていた、有名な「富士には月見草がよく似合う」という一節がある小説(「富岳百景」だったっけ?)だったと思う。この小説を書いたという天下茶屋には、家からさほど離れていないが今まで数回しか出かけたことはない。彼の短編で一番心に残っていたのが「トカトントン」という小説。思い出し実家の本棚から引っ張り出し、昨日読んでしまった。ある小説家に宛てた手紙、という文体なのだが、なんとも不思議な感じのする話である。これを読んでから、しんと静まり返っているとどこからともなく「トカトントン」という音が実際に聴こえてきそうで怖かった。
今も怖い。
主人公の青年は、敗戦で「お国のために命を捨てよう」と決心した時に、どこからともなく金槌を打つような「トカトントン」という音が聴こえて、すっかり熱意を失ってしまう。それからも、仕事に一生懸命になった時、ある一人の女性を好きで好きでたまらなくなった時、社会運動に闘志を燃やした時、「トカトントン」という音で憑き物が落ちたように一瞬にして興醒めしてしまう。
恐ろしい話である。これ以上貴重なものはないと思っていたものが実は無価値で、身を焦がすほど好きだった異性が実はつまらない人間で、精魂を傾けていたものに意味を見失うとは。それまでの価値観を一挙に覆されるというのか。拠って立つものを失ってしまうと言うのか。それも何の脈絡もなく、予想だにできないときに、意味もない「音」だけで。
今「トカトントン」が聴こえたら、私はいったいどれだけのものを失うかと思うと、心底怖い。
ページのトップへ戻る私は俗に言う「形から入る」タイプなので、その職業の人特有の服装とか、持ち物・小道具に弱い。要するに「ユニフォーム」「制服」の類に弱い人である。(だから?こんな仕事に就いたのかもしれないけれど。)映画の中でニコラス・ケイジが戦闘服に身を包み、腰に下げた弾倉からライフルに弾を込めている姿を見てぽーっとし、ERで看護師が着ているアメリカ製の白衣(とは言わないのか?)に憧れ、「なんと言っても、やっぱり外科の先生の白衣がいいなぁ。特に肩の辺り♪」などと病棟の廊下でこっそりため息をつく。もしも私が間違えて男性に生まれついていたなら、ちょっと危ない道に走りそうである。着るものだけでなく、「ステート(聴診器)」「ペンライト(振るんじゃないよ)」「ナースウォッチ(脈を取るために、文字盤が逆になっていて15秒測ればおおよその脈拍が分かるように目盛りが振ってある)」などなど、小道具にも凝ってしまう方である。
「ナルト!」と言う少年漫画がある。アニメ化されて、キャラクターのカードやゲーム、お菓子が売られていて、小学生特に男子に人気がある。なぜか我が娘(小4)がはまってしまい、大事にためてあった図書券をはたいて、あれよあれよと言う間に16巻まで揃えてしまった。主人公の「うずまきなると」と言う少年が、忍者学校を卒業し、仲間と共に立派な忍者になるための修行をしていくと言う物語。修行と言っても並大抵ではない、命を賭けた血みどろの「死闘」である。「どうしてそんなに夢中になるんだろう?」と怪訝に思って読み始めた。
まず私の目を引いたのはやはり「ユニフォーム」。頭を守るための額当て、忍者の武器(手裏剣とか)を装填しておくためのホルダーを腰やすねに下げている。無駄が省かれ、すべてのものが理に適っていてなんとも私好みである。が、もっと惹かれたのは物語の中のメッセージ。主人公・なるとは落ちこぼれで守ってくれる家族や仲間もない、「孤独」の厳しさや寂しさ、周りに認められない悔しさを知っている。忍者学校の卒業試験を何度も落第し、周りの気を引こうとイタズラをして大人を困らせる。そんな問題児なるとが一人の理解者との出会いをきっかけに、変っていく。仲間と出会い、自分の中の秘められた力を信じ失敗しながらも地道に努力し、実力をつけてやがて周りに認められていく。何度も何度も、「自分は用の無いもの、無意味なものと思っていた」者が「自分の持つ力を信じ、あきらめないでぶつかっていく」、そこに強さや勇気があるんだというメッセージが語られる。そして、「自分のためではない、仲間や”愛するもののために”自分の力を発揮するんだ」と言うことも。なると以外の登場人物も、一人一人がそれぞれ悩みや心の傷を抱えているという設定で、単なる暴力による「勧善懲悪」だけではない魅力的な漫画である。ハリポタの設定にも通じるものがあるが、「自分は周り(特に母親か?)が言うほど悪くない、実はものすごい力を秘めているんだ」と言う思いは、子供たち全員(もちろん私、それから大人も)が胸に秘めていることなのかもしれない。このところ落ち込みがちの毎日だったが、読んだらかなり元気になれた気がする。
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娘を弓道教室に迎えに行った帰り道。7月のある日曜日の夜9時過ぎ、しとしとと小雨が降っていた。親同士の話し合いの後で、少々人間嫌いで”親同士の付き合い”が苦手な私は、緊張が解けた後にすっかり不機嫌になっていた。自宅から数分のその場所は、高速道路の側道と集落の生活道路が交わり、普段から出会い頭の事故の多い交差点だった。信号も無いので、交差点だと気がつかずに側道を飛ばしてくる車が、つい一時停止を見逃してしまう。角に古い物置小屋があり、死角になっているので尚更である。「危ない所だ」と日頃から気をつけていたけれど、その日は今までの漠然とした不安がとうとう現実になってしまった。
交差点の直前、カーブミラーに車のヘッドライトが反射する。「あ!!横から車がくるっ!」とっさにブレーキを踏みしめながら、心の片隅では「向こうは一時停止だからきっと停まってくれるだろう」と淡い期待も生まれる。が、無常にも車は停まらない。ブレーキを渾身の力で踏みしめても間に合わない。左からスピードも緩めずに迫ってくる車。助手席には娘が乗っている。「間に合わないっ!衝突するっ!!」衝撃と金属の固まりどうしがぶつかり合う、車が上げる悲鳴のようなものすごい音。口の中に金属の味がぱっと広がる。一瞬の出来事だった。が、こちらの車が押されて動いていく時間が、スローモーションのように妙に長く感じられた。私は娘と一緒になすすべもなく身体をこわばらせ、悲鳴を上げながら、どうしようもない虚無・無力感を感じていた。精一杯ブレーキを踏んだのに停まらなかった。幸い娘も私もたいした怪我ではなかったが、車はぶつかって壊れてもう動かない。あんなに努力したのに無駄だった・・・。
結局どんなに一生懸命頑張ろうとも、自分の運命さえ変えられないものなのだ。不幸や災難は不意打ちのように降りかかってきて防ぐことすら出来ない。私の車も、私の身体も、私のいのちも、いつかは必ず損なわれ、奪われていくものなのだ。そんなことが次々に心に浮かんだ。
私の車、私の財産、私の家族、私の恋人、私のいのち、私の・・・?「所有する」と言うのはいったいどういうことなのだろうか。私のものだと言い張っていても、果たして本当に”私の”ものなのだろうか?「私の」「私の」と執着し、必死でしがみついていることで、かえって自分の心を苦しめているのではないか。いっそのこと「借り物なんだ」と思うことで、ずいぶん気が楽にならないだろうか?今乗っている車も、稼いだお金や財産も、家族も、愛する人も、命も、一時的に”借りて”いるものだと思えば「そうか、時期が来たらいずれは返さなければならないんだ」とふっと力を抜いて手放すことができる。「奪われてしまう」「失ってしまう」と言う煩悶から開放され、自由になれる。「いつかは返さなければならない借り物」なのだから、丁寧に扱うことが出来る。
おうし座と言う星回りに生まれた人は、所有欲が強い傾向があるそうだ。例に漏れずこの私も「あれもこれも」欲しくなる性質(たち)である。結果、身の回りに物や本があふれ、いつも預金通帳の残高が気になり、どうにもならないことだが、煮え湯を飲むような激しい嫉妬心にもしばしばさいなまれる。物質的には豊かに見えるが、心はいつも飢えていて辛くて苦しい。
私にはかつて、マザー・テレサや第二のキリストと呼ばれた清貧の聖人、アッシジの聖フランチェスコのような生き方にあこがれた時期があった。(ずっと昔に上映された「ブラザー・サン シスター・ムーン」と言うフランコ・ゼフィレッリ監督の映画を観てすっかり”かぶれて”しまったのだ)何も持たず、すべてをひとつの価値に委ねきった生活とはどんなものだろうか。野の花のように、空の鳥のように。物質的には貧しいが、すっきりとしていて、心はずいぶん穏やかで平和なのではなかろうかと。あらかじめ「持っていなければ」無くして悲しむこともないのだから。
かといって、今の私には持ち物を手放すだけの勇気がない。「車がなければ仕事にならない」などとあれこれ理由をつけて、今の暮らしにしがみついている。もしも時が来て(必ずその日は来るのだが)、「貸していたものを返しなさい」と言われた時に、果たして素直に応じられるのだろうか?
「老い」という過程は、一つ一つ借り物を返していく、失っていく過程であると思う。「若さ」や「容姿の美しさ」が失われ、今まで一人で難なくできていたことに人の手を借りなければならなくなり、ついには最後の砦「いのち」を失う。どんな優れた人にも凡人にも、今生まれたばかりの赤ちゃんにも、必ず「老い」「死」は訪れる。大事にしていたものを壊したり失くしたり、友人や家族を亡くしたり、大小の無くす体験を積み重ねながら人は生きていかなければならないのだが、それらの「喪失」体験は、人生最後の最大の喪失である「死」のための練習なのかもしれない。なにかを無くすたびにあれこれ悩んだり落ち込んだりすることも、いかにも人間くさくて良いのかもしれないですね。
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