一栗一選・おんな偏69

               栗原一郎展

                          米倉守

女偏と女態

セックスと愛とはなぜ重なり合ったり会わなかったりするのだろう。

人間必死の努力にもかかわらず。  滝口修造

 

 絵と書なぜこんなにこんなにうまく重なり合うのか。

栗原一郎の生態、女態、姿態、形態、書態、画態。

 女偏に惹かれた書家のように どこまで書けば このエロスの呪文の中で 透明な眠りをむさぶれるというのだ。

 

 狐憑きのような女憑きの人生よ。

 なんという媚びか 裏切った股ぐらが微笑みかけるとは 陰の毛 ひなたの毛

 画家の手癖、手先、手型。

 

 物の形を描き、色を用いる点では西の絵画も東の絵も同じである。

 が、西欧の絵画は音楽の変種、日本の絵は書の変種だという。構造がちがう。

 栗原のおんなに色彩の音階はないが、着彩におんな偏の書態あり。

 栗原女態は絵の書の変態なのである。

 

 富士山の絵に「霊峰」「瑞祥」の文字を、鯉の絵に「瀧昇り」の縁起を読むように。

 私は画家のおんな絵に、もうひとつの女という文字を読んでいる。

 くノ一、くリ一、生きた千文字、女文字。

 

 画家が描くのではない.描くことが画家を生んだ。栗原一郎は女を描き、女を書き、そして、掻き女、画き女をつくりだした。

 達意の画家がさがしだした好色の千字文をナルシスが走り抜ける。

 

 こんな視姦、相姦は見たことがない。

 人は女が可愛いという。女が怖いという。女が憎いとも、情けないとも。書家を装いながら、栗原一郎が未知の骨法で掻きだす女にとってそのどれひとつ嘘はない。

 

 女態に魅せられて悪態をついたが、わいせつの罪に問われるのは私のほうだろう。

 画家は女を再現するのではなく、おんなを生産したのだ。有り難う。 

                           (多摩美術大学教授)