うしろ向け後ろの作品集




人すべからく裏返すべし。
肌感覚の人生画 米倉守
“衆人はのどで息をし,哲人は背骨で息をし”というそうだ。
栗原さんの新作を見ると若い衆は踵で息をし,女は爪先で呼吸し,ボクサーは腰でリズムをとり,男は背で酒を呑み,肩で乾杯している。
いずれの作品も呑み屋のカウンターで肩を並べて語った同世代の画家の息ずかいが伝わってきて,私の肩にずっしりとのしかかってくる.理由はあるのだ。
前回の個展で背中向けの男の像があって強く惹かれた。
「最近,友人の栗原一郎の人物像の個展で,背中向けの“自画像”が二点あったが、これがよかった。背骨から聞こえてくる慟哭は,
なでっすりたくなるほどの寂寥があった。
背中は語り,顔と眼、口は騙るのだ。おもてはデジタル,裏はアナログ・・・」
そんな文章を雑誌(カフェ5号〕などに書きもした。
いまだ新聞記者のの嫌味を尻尾にくっつけているのか、栗原さんの背画像を見て個展会場であらぬ理屈をこねた。
作今の百貨店の責任者,官僚,政治家、保険会社代表等のテレビ記者会見での主役の面構えを見て,もう消え去ったはずの慙愧の記憶まだぞろやってきて私を撃ったのである。そういう資質だからそういう顔になった、というよりは、そういう顔ゆえにそういう資質を持ち得た、と思う方が分かり易い。
詳細を除くが,顔より中身などというものに私は与みしない。己の来し方,マスコミ,ジャーナリスト,評論家、そのスタイル,身振り,話し方,そして顏相…わが身をふくめて寒気が立つ。
駆け出し時代、がんくび(顔写真)集めを随分させられたが,今の世,新聞はすべて背面写真にするべきだと思う。
それとそれらしきものとの区別もつかず、のっぺりとしてほんとうの面が見えないからである。
記者出身の作家 辺見庸さんも,テレビは全員後ろ向きであたまをさげろ、あのキャスターのしたり顏も見ないですむ、というようなことを書いている。
「表裏は哀しいほど一致しない。昔はダブルハットといったね。後ろ見て、すてきだから、はっとして、前見たら、ちっともすてきじゃないので、再びはっとして、だからダブルハット。でも、なべて人はダブルハットであるとわかるのに二十年、表面より背面が本当とわかるのにさらに十数年もかかった。その間ずっと表に目が眩みっぱなしだったのだから情けない」
「前は去勢か媚びか、背面こそ真実あり.後ろお向け、後ろを!」(眼の探索)そんな罵詈と雑言を吐いて帰ってきたら、栗原さんは本当に背面像を描き出したのだ。
厚化粧と整形の世、顔の皮を後ろに引っ張れるだけ引っ張った結び目が、見てとれるかもしれないが、画家も私も、今はそれをもいとおしい真実と思える歳になった。
辺見庸さんなら、顔に問わず、背に優し、口で語らず、背でつぶやかせたろうと思うが、栗原一郎はそれを筆一本で唄って見せてくれた。
私も雑言ではなく、なんとかふり向くかすべく言葉でこの美を語らねばならない。
生きて死んでゆく人間は限りなく時間的存在だが、絵画は空間芸術である.人間は固体ではなく液体なのである。栗原一郎の描く人間は皮膚の新風を刺激するだけの美術ではない。女は皮膚で描かれているのではなく「肌」で息をし、男は「ひと肌」脱ぐ男たちである。
「肌は中まで入っている.それとは逆に『皮』は他社と自分を区別する表面を意味します。『皮』は表面にとどまっている』(立川昭二・からだことば)。
皮膚の皮は面の皮、化けの皮、皮肉、皮相とイメージは負だが、肌は肌合い、肌ざわり、やわ肌、学者肌・・・と快適だ.画家は肌でおんなを描き、肌の合う男をとらえて、肌を許した女心をなぞっている。肌は心といい変えてもよい。
ことばが足りないが栗原の背面像は、「皮膚感覚」の青臭い絵ではなく「肌」感覚の成熟した絵なのである。英語では皮も肌もスキン(skin)だが、栗原絵画ではまったく違うのである。そして水のように、時間のようにただ流れゆく液体、時間人間なのである。
血というものが流れているのだ.思いといってもよい.血といえば血圧、血管、血糖値ぐらいしかまつわることばが出てこないのは固体、空間人間である。人は血縁、血脈で繋がり、体を熱く流れる血潮で成り、血色が肌を語るのである。
人は固体ではなく液体だから臓器のとりかえなど出来ないのだ.いや、栗原さんの描く人間の事である。
広重の描く旅人はすべて背を見せて日が暮れてゆく。なぜか顔はない。
他人に背を見せられない世にあって、嫌味も利いた風もあり様のない背面像を愚直に描く栗原一郎という画家を私は偉大だと思う。
「もの皆すべからく、ひっくり返すべし.マチエールはそれではっきりする」(辺見庸)
栗原一郎の背を向けていく人生画にその方向をはっきり見た思いである。
形と意味の間を浮遊する姿、「像」の美術なのである。 (美術評論家)
・・・ 作品紹介 ・・・
新作二点(2001年)