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A.ギデンズ『暴走する世界』ダイヤモンド社*

*原題:Runaway World: How Globalization is Reshaping Our Lives, Routledge. この本の元になっている一連の講義のスクリプトもあります。

修士論文でギデンズに頼らせもらった私が、それ以降はギデンズのほぼ毎年出版される著書群を読まなくなってしまった。それらには「切れ味」がなかったように思われたからである。しかしこの本は、簡潔に書かれているだけあって、読む者の認知枠組みに直に訴えてくる文章にあふれている。

この本の中で、いろんな意味で議論を呼び起こすであろうポイントは、「伝統」を巡る著者の見解であろう。

「伝統の存在は社会を存立させるための必要条件である」との命題は掛け値なしに真である。世界はこぞって伝統からの脱却をはかるべきだとする啓蒙主義者の言い伝えを、私たちは認めるべきではない。

なぜ伝統は必要なのか、なぜ伝統はなくならないのか。その答えは、人間生活に連続性を与え、その様式を定めるのが伝統だからである。

ギデンズによれば、伝統的な行動・認知パターン抜きに人間の活動などそもそも不可能であるし、伝統を廃した「自己決定(自主性)」の社会──今まさに日本はいろんな場面でこのタイプの社会になってきていることに気づくべきだ──は、しばしば個人に過大な負担を強いる。

この本では、嗜癖(中毒)と原理主義的な強制が自己決定の世界の「意図せざる結果」であると主張されている。一方で日常世界の多様な選択に耐えられずに脅迫的な反復行動に陥ってしまう病理もあれば、民族・宗教ファンダメンタリズムのように強制を制度化してしまう動きも活発化する、というわけである。どちらも、過剰な選択性が帰結する心理的不安へのディフェンス・メカニズムとなる。

訳者も漏らしているとおり、一歩間違えるとギデンズは保守主義者と呼ばれかねないような主張をする。しかしギデンズが言いたいのは、自己決定至上主義の人々は自己決定社会が個々人に押しつけてくる「副作用」をもっと真剣に受け止めるべきだ、ということにつきる。喧伝される価値観の意図せざる結果を指摘するギデンズのこの本は、ギデンズがやはり社会学者であったことを思い起こさせる。

参考までに、この本と響き合うかもしれない見解から書かれた本を挙げておく。

R.Sennett, 1998, The Corrosion of Character: The Personal Consequences of Work in the New Capitalism, Norton.

邦題はたしか『それでも新資本主義についていくか』。柔軟性や選択性を称揚し、ルーティンワークを否定するアメリカ的なビジネス文化が、いかに個人の人格に否定的な影響を与えているか、について述べてある。セネットがルーティンの価値を認める知識人としてディドロと並んでギデンズを挙げているのは、LSEの最高責任者であるギデンズに対するおべっか…ではないだろう。(セネットもLSEで教えている。NYUの終身在職権を持ってるはずなんだけど…。)

セネットの論法は、つねにリスクのある選択にさらされ、キャリア変更を繰り返す人生では、個人は意味のある自己物語を構成することができなくなっている、というもの。

A.Melucci, 1996, The Playing Self: Person and Meaning in the Planetary Society, Cambridge UP.

やはり選択の負荷についての記述がある。「たくさんの選択肢の中から選択するというのは難しい作業であり、捨て去る選択肢の数は実際に選択したものの数をいつも上回る。これは常に、不可避的に喪失感を伴うものであり、数々の抑鬱的な病理の背景に存在する事態である。」(p.45)

Reeves, Byron and Clifford Nass, 1996, The Media Equation, CSLI Publications.(邦題は『メディア等式の心理学』)

趣旨は簡単である。「人はメディアに社会的かつ自然に反応する。」つまり、ことさら複雑な仕掛け(バーチャルリアリティなど)を用意しなくとも、人は勝手に(不可避的に)コンピュータなどに感情移入し、それがあたかも人格を持った人間であるかのようにふるまってしまう。だから、人間に対してあてはまる社会心理学上の法則はメディアにも同じように適用できてしまう(筆者達は多少なりともインタラクティヴィティを持っている道具を「メディア」と呼んでいるようだ)。

これは社会学にありがちな「技術は社会的に構成される」といった、それ自体あまり意味のない主張と違って、きちんとしたアンチテーゼを持った、実のある主張である。

では、この本自体は何に対するアンチテーゼなのか?この本を読んで、「技術に踊らされる」ことの意味を改めて強く確認した。この本は、技術に踊らされている一般人、ビジネスマン、エンジニアの思い込みに対するアンチテーゼである。

かなり前、ソニーのショールームかどこかに展示されていたAIBOを客のひとりが故意に床にたたきつけて壊してしまったという事件が報道された(たしかそういう記述だった)。AIBO担当の職員が非常に強いショックを受け、悲しんでいたらしい。長い間そのAIBOの「世話」をしてきたからである。ニュース記事は、「機械にここまで感情移入できるようになった時代なのか」のようにまとめていた。

こういう記述を見ると、「技術に踊らされている」人がここにいるとすれば、それは機械をかわいがっていた担当の人ではなく、この記事を書いた人じゃないかといいたくなってしまう。それがAIBOでも本物のペットでも、筆箱でもトースターでも車でも、誰だって長い間使ってきた道具を悪意をもって壊されたら同じタイプのショックを受けると思うからだ。おどろくべきは人間の感情移入能力であって、感情移入の対象となる技術ではない。

たしかに技術は感情移入を促進するようなデザインを助けてくれるが、かんじんなのはその技術を使用してつくられたモノと人間との相互行為の積み重ねである。一日しかつきあっていないAIBOを壊されるショックと、一ヶ月親身になって育ててきた「たまごっち」(覚えているだろうか)を壊されるのとどちらがショックが大きいかは明らかであろう。人間は、相互行為するようなデザインがまったくなされていない道具(電気スタンドとかハサミ)であっても、とにかく長い間つきあっていくことによって感情移入してしまうところがある。

技術はその期間を短くしてくれるという点では、一定の意味がある。しかし、人はしばしば技術のせいではないものを技術のおかげであるように語ってしまう。マスコミにありがちな短絡思考であるが、ちっとも普及しない(どころか新たな渋滞を作り出している)ETCなどをみてみても、技術にのせられる者は技術に泣くのだなあとつくづく考えてしまう。それだけならいい。自分で勝手に泣くのはいいが、他人を泣かせるのは許せない。

鳴り物入りで登場させたテクノロジーがちっとも普及せずに首を傾げているビジネスマンや技術者の人たちには、ぜひこの本をお勧めします。

Stinchcombe, A.L., 2001, When Formality Works: Athority and Abstraction in Law and Organizations, U of Chicago Press.

まだ全部読んではいないが、概要はつかむことができた。一言で言えば、法律や規則などの抽象化された形式が機能する条件を分析した本。

やれ疎外だ物象化だと、とかく社会学では形式性、形式合理性は悪者になりがちであった。私自身はこのような風潮には少なからず違和感があった。官僚制が不満な人は、官僚制の発達していない国に行って苦労したことがないのだろうか?お昼休みに窓口で1時間待たされるのと、日本人だと足下を見られ、チップをはずまないかぎり永遠に手続きをしてくれないのと、どちらが経済的に有効に働くのだろうか?

著者は形式性を少し落ち着いた視点から分析しようとしている。スティンチコムによれば、首尾良く抽象化された形式(法律、規則、手続き、計画書等々)は、実質(実際の事例)にさかのぼることなく機能しうる、という。たしかに形式は実質にそぐわないこともありうる。形式は実質からの抽象に過ぎず、多様な実質をすべて包含しているわけではないからである。

しかし著者は、ほとんどの機能している形式は、何らかの形で現実の多様性を吸収・処理する装置を備えている、と主張しており、またこの点を見落としているのがウェーバーの形式合理性の議論の間違いである、とも指摘している。著者自身はここで法廷の手続きや建物の設計書が、実際の個々の事例の特殊性を、形式性を保持しながら汲み上げているという事実を分析している。

この本は、タイトル通り、形式性が機能するならばそのときはどのような要件が満たされているか、ということを述べている。「形式性がなかったら社会はどの程度機能しないか」ということはあまり述べられていない。後者はより難しいテーマであろうが、もしできたとすればより興味深い内容になるかもしれない。

Zelizer, V. A., The Social Meaning of Money, Princeton University Press.

1905年、シュルツ氏はシュルツ夫人に裁判所につれていかれた。というのは、シュルツ氏が夜中にズボンのポケットにネズミ取りを仕掛けたからだ。ネズミ取りは夜中の二時に発動した。

なぜズボンのポケットを探るのか?お金のためである。当時のアメリカでは、基本的に女性は家事のために使えるお金以外の自由になるお金を与えられなかったのだ。裁判所は夫人の訴えを棄却し、シュルツ氏がこれからもネズミ取りをズボンのポケットに仕掛けることを認めたのであった。

ゼリザーの問題提起はこういったことから始まる。

貨幣はその最高度の代替可能性により、トランザクションコストをほぼゼロにまで減らすという機能を持っている…これが一般的な見解である。たしかにこの機能は否定しようがない。貨幣がなければ、「余分な大根を持っていてきゅうりが欲しい人」は、逆の剰余とニーズを持ち合わせている人(「余分なきゅうりを持っていて大根が欲しい人」)がみつかるまで市場をほっつき歩かなくてはならない。給料が現物支給なら、人事課の仕事は大変だ。(社員ごとに何がほしいかは異なるだろうから。)

しかしゼリザーは逆向きの動きに注意を促す。人々はたびたび貨幣を「社会的に分化」し、用途を特定earmarkingすることで、自らの社会生活や社会関係をオーガナイズしてきた、という事実である。

Clearly, a link is missing in the traditional approach to money. Impressed by the fungible, impersonal characteristics of money, classic theorists emphasized its instrumental rationality and apparently unlimited capacity to transform products, relationships, and sometimes even emotions into an abstract and objective numerical equivalent. But money is neither culturally neutral nor socially anonymous. It may well "corrupt" values and convert social ties into numbers, but values and social relations reciprocally transmute money by investing it with meaning and social patters. (p.18)

ゼリザーによれば、一見impersonalな貨幣も、実際には時間、空間、そして社会関係に埋め込まれている。もちろん貨幣は一般化する力も持っているが、ゼリザーは社会学者として貨幣がコンテクストに拘束され、特殊化されるという事実を強調しているのだ。

一見、この主張は構成主義者好きしそうなものにみえる。構成主義者なら、「貨幣の社会的構成」というコピーをつけたくもなるかもしれない。しかしゼリザーの論述は構成主義を必要としない。「貨幣は社会的に構成されている」と言っているのではなく、貨幣の構造化と社会関係(相互行為)との関連性を分析し、記述しているのである。

とくにこれは家庭内の貨幣の配分について言えることである。家庭内の貨幣配分は、家庭の外の市場のルールとは異なった独自のルールで配分されてきた。それは、家族の成員の微妙で複雑な社会関係に影響されるのだ。たとえ女性が自らお金を稼いだとしても、そのお金は男性が稼ぐお金とは別様にearmarkingされ、別様に消費されることが多かった。この意味で、貨幣は家庭内においてはその代替可能性を大幅に損じているのである。

また、ゼリザーはギフトを例にとりあげている。誰かにギフトを送るとき、マナーとしていかにも生活必需品のようなものを選択することは、対等であると認知されている社会関係を損ねることにつながる。もし近代社会が真に「代替可能性」を徹底させているのなら、これはあり得ない。送られた必需品を消費し、余ったお金でギフトに当たる贅沢品を買っても効用は同じはずだからだ。

ところで、イギリスの社会学者ギデンズは、こういったパラドクシカルな過程をdisembedding(脱埋め込み)とreembedding(再埋め込み)との併存として捉えている。近代化においては、平準化(人、空間、時間の特殊性がはぎ取られていくこと)と特殊化が同時に入り組んだ形で進んでいく。人々は近代化の平準化する力にただ流されているわけではない。人々は、一旦平準化されたものを、様々なやり方でpersonalizeし、その特殊な環境に埋め込んでいく。脱埋め込みする推進要因のひとつとしてギデンズがあげているのが貨幣である。

しかしゼリザーの議論は、ギデンズが脱埋め込み-再埋め込みの関係を主に時空間のメタファーで考えがちであったことを考えると(ギデンズの『近代とはいかなる時代か』を参照)、再埋め込みのより適切な見方を与えてくれている。時空間において特殊である、ということをギデンズは対面的相互行為(銀行の窓口など)にみてとったが、実際には特殊で複雑な社会関係こそがより本質的な再埋め込みの動因なのだ。

人工知能コンテスト

今度もウェブで見つけた話題.

イギリスで行われた人工知能コンテスト(bot)の結果が公開されていました.簡単に言うと,人と「何か」(コンピュータあるいは人,どちらかは知らされず)を文字で会話させ(つまりチャット),その相手が人間なのかコンピュータなのかを0から6間でのスケールで判断させる,という手続き.最高は6点で「絶対,人間」という基準.

優勝したコンピュータ(Jabberwock)は平均1.928をマーク.このスコアは低そうだが(スコア2で「たぶん機械」という基準),コンピュータに混ざった本物の人間のスコアも3.7前後だったことを考えるとそこそこなのかもしれない.

逆に言えば,人間は人間と会話したときでさえも会話自体からはその相手が人間かどうか確信できない,ということをこの実験は示している.(スコア3が「機械か人間か判断できない」,4が「たぶん人間」.)つまりbotが目指すべきは3.6から4(偏屈の9人目のジャッジをのぞけば)ほどのスコアで十分,ということだろう.

まあまあおもしろい実験なのに,こんなにサンプルが少ないのは非常に残念.同種の実験はほかにたくさん行われていそうだけど,私は情報を持っていません.

関連情報.もし興味があれば,社会学的にみたAI論については講義資料をみてください.

映画:「マイノリティ・リポート」

今回は映画評(を兼ねた「自由意志」論).「マイノリティ・リポート」(スピルバーグ監督作品)はかなりややこしい映画で,一回見ただけでは筋がよくつかめないと思いますが,なかなかに奥深い映画です.(以下ネタばれあり.できれば映画を見てからこの文章を読んでほしいところです.)

「マイノリティ・リポート」は,簡単に言うと,殺人現場を予見することができる超能力者(pre-cog)を使った犯罪予防システム(precrime)を巡る映画です.

ラマーは悪いやつ.

pre-cogには人権がありません.precrimeのために,システムに組み込まれてしまい,通常の自由が与えられていません.なので,pre-cogたちを使ってこのシステムを作ったラマーというじいさんは,ひとりのpre-cogの母親がpre-cogとなっている娘を引き取りにきたので,困って(というのはそのpre-cog抜きではprecirmeシステムが完全には機能しないので)その母親を殺してしまうのです.警察の偉い人なのに….そのことをトム・クルーズ演じるジョン(precrimeメンバーの一人)が偶然発見し,かぎ回っているので,なんとこのじいさんは今度はジョンを始末しようとするのです.悪いやつです.

ジョンはいいやつ.

さて,ラマーがふつうにジョンを殺してしまうとprecrimeにばれてしまうので,ラマーは少し回り道をします.precrimeシステムに細工をしてジョンを殺人者に仕立て上げ,そのことでジョンの口を封じようとするわけです.(この時点ですでにややこしすぎて筋が追えなくなる.)

しかし!このラマーじいさんはひとつ致命的なミスを犯します.

今までprecrimeが予防してきたのはほとんどが衝動的な殺人なわけです.計画的な殺人は,precrime導入以降,起こらなくなってしまった.というのは,殺人がすべてprecrimeシステムによって予見されてしまうことをみんな知っているからです.なのでprecrimeが取り締まる殺人未遂はたいてい衝動的なもので,「誰かを殺そうとしてもどうせprecrimeに止められてしまう」ことも考えられないくらい頭がカーっとなった際の殺人なわけです.

ジョンが犯す殺人の予見はどうでしょうか.ジョンはprecrimeのメンバーですので.当然自分の殺人行動が予見されていることを知っています(実際,ジョンが自分の予見された殺人現場を見るシーンは映画のひとつの見所です).ということは,ジョンはその知識をもとに,別様に振る舞うことができる,つまり殺さないという選択ができる,ということです.ラマーも馬鹿ではないので,ジョンに衝動的な殺人をさせようと工夫するのですが,「自分の選択」を強く意識したジョンは予見された通りには行動しませんでした.そしてそのことが出来事の流れをラマーの思惑どおりにさせず,結局ラマーの過去の殺人が発覚してしまうのです.これが大筋.

ラマーは,システムを完全にするひとりのpre-cogを手に入れるために,殺人を犯し,そのことを隠蔽するためにprecrimeシステムを利用しようとした.しかしそれがまずかったのです.こういった予見システムが機能するためには,予見システム側にいる人間と予見される行動をとる人間とが隔離されている必要があります.そうしないと,ジョンのように「予言の自己破壊」を意図的に引き起こすことができるようになるからです.

映画の最初の方で,コリン・ファレル扮する司法省の役人ウィットワーが,「システムの不完全性は人間にある」という台詞を口にします.結果はその通りで,システムを破ったのはシステム内部の人間による「知らされた選択」だったわけです.

コリン・ファレルはおいしい役.

ある人が,ほうっておけば晩ご飯にラーメンを食べるところだったのが,事前に「アンタ,晩ご飯にラーメン食べるでしょ.アタシャ知ってるんだから」と茶々を入れたら,その人は晩ご飯に別のものを食べてしまった.その人は自分に自由意志があることを確認したくなったのです.(なんか変な例ですね.何が変なのか気づいた人は鋭い.その理由は後で述べます.)

この映画の直接の面白みは,人間の自由意志の存在がシステムによる予知を不完全にし,そのために結局precrimeシステムが廃棄される,という矛盾です.それは最後のシーン,過去の殺人を暴かれ,追いつめられたラマーが,「ラマーがジョンを殺す」というprecrimeシステムによる予見を実行してシステムの完全性を証明するか(その場合ラマーは殺人者になる),ジョンを殺さないがシステムの不完全さを証明してしまうか,というジレンマに陥る場面に凝縮して表現されている.

しかし本当に興味深いのは,実は「自由意思と予見された未来」の争い(映画では最後に自由意志が「勝つ」)ではないように思えます.

ラマーが自ら証明したように,自由意志が決める人間行動の「予見」は,一見不可能であるようにも見えます.しかし,そういった原理的な不可能性は,それが原理的であるがゆえに,「論じても仕方がないこと」なのです.「人間行動のすべては自由に選択できる」という命題は,実は「そうではない」ことが存在することによってしか意味をなしません.「君は自由に選択できる!」というメッセージが意味を持つのは,その人が選択しない可能性があるからです.

pre-cog(Agatha)役のサマンサ・モートンさん

難しいですか?

では考えて見てください.自分の息子を殺した犯人(実はラマーによる仕掛けにすぎない)に対する衝動的な殺意を押さえ込んだジョンは,一体何を得たのでしょう? あの行動を「ジョンの自由意志の勝利」と呼ぶことは,実はナンセンスです.あれは「ジョンの警察官としての良識の勝利」なのです.pre-cogは銃を予告された被害者に突きつけたジョンに「You can choose」(「あなたは選ぶことができる」)と諭しますが,実際にはそういった助言に効果などないのです.映画の作りからしてなかなか気づきにくいのですが,あの場面に感動などありません.そもそも,上の晩ご飯の例の不適切さにも現れていたのですが,通常,人は「自由意思を証明するため」だけに選択的に行動したりはしないのです.なぜか?

そんなことはいつでもできるからです.(試しに,自分の意志で右手を動かしてご覧なさい.)ジョンの経験した苦悩は,「自由意思」と「予見」の対立なのではなく,衝動と良識の争いでした.pre-cogによる殺人予見は,そういった逡巡のきっかけにしかすぎません.

さらに考えてみましょう.precrimeのスタッフが直接に現場に行って取り締まるのは,計画的殺人ではなく衝動的な殺人です.計画的殺人は,precrimeの存在自体によって抑止されています.でも衝動的な殺人自体はなくなりません.(止められることを)「知っていてもやりたくなる」のが衝動です.

衝動あるいは強い感情による行動は,自由意志と対立しません.衝動を抑えるのは自由意志ではなく,理性や良識,あるいは「強い意志」と呼ばれる機能です.意志の強さそれ自体は,行動が意思によって自由であるかどうかとはあまり関係ないですね.タバコがやめられないのは,自由意志の存在を知らないからやめられないのではなく,自由意志にも拘わらずやめられない,ということです.

precrimeの存在が知れ渡っているにもかかわらず殺人が起こる以上,実際にはprecrimeの存在価値はラマーの「自由意志の勝利」にも拘わらず無傷なはずなのです.しかもジョンもラマーも,殺人という選択をするかしないかという場面で,衝動や欲望と格闘し,躊躇するのです.この映画が出す結論は自由意志の勝利ですが,図らずも証明しているのは,決められた未来に対する自由意志の勝利ではなく,自由意志に対する感情や衝動の勝利の可能性であるように思えます.

また,思索をこの深みまで連れて行ってくれるのが「マイノリティ・リポート」の貴重さだ,と思えます.

North, Douglas. 1991. Institution, Institutional Change and Economic Performance. Cambridge University Press.

ノーベル賞経済学者であり,新制度学派の旗手でもあるダグラス・ノースの作品.でも難しい数式などはないので普通の社会学者でも安心して読める.

ノースの主張の興味深いところは,「制度を取引費用から説明する」という取引費用アプローチのオーソドックスなやり方を一歩進めているところにある.まさにその部分が,社会学者にとっては非常に興味深いところなのである.すなわち,「制度は必ずしも効率的な取引を保証しない」という主張である.

取引にかかる費用自体が取引に影響を与え,制度や組織の発生・存在理由を説明するという取引費用アプローチは,それだけでも十分に制度や組織をコアに取り扱うことを生業とする社会学者にとっては魅力的な理論である.ところが,社会学者の実感というのは「個人は制度に埋没している」というものに近いのではないだろうか.ここに一つのギャップが生まれる.

このギャップは,なかなかに奥深いものである.ちょうど,ハイデガーが「被投」と「投企」と呼んでいたものとよく似ている.人間は物心がついた時には,自分が様々な既存の制度に「投げ込まれて」いることに気づくであろう.最初から自覚的に取引の収益とコストを考えて制度や組織を構成する,と考えることは不自然であり,かつ理論的な有効性に乏しい.人間にできることはせいぜい,所与の制度に沿いながら,最大限の権力を発揮して制度を微修正することぐらいである.

日本人女性のキャリア選択を「人的資本論」で説明しようとしたM.ブリントンという社会学者は,日本人女性が選択する筋道は日本の教育・就業制度を所与とすれば「合理的」であるということを主張した.このような例はおそらく枚挙にいとまがない.そうして合理的に振る舞うことで,個人が当の制度を再生産しているというのが現状なのであり,全体の効率性を考慮して制度を変えていくという試みがなされるのは稀である.というのは,それには多大なコストがかかるからである.ノースも本書の中で何度か言及しているように,社会運動はフリーライダー問題を乗り越えなくてはならない.「理念」やイデオロギーはこの均衡状態を破るために,つまり個人の合理的計算に「歪み」を与えるために利用される.

「イデオロギー」は利害に拘束されるので常に「相対的」だ,といった社会学的なイデオロギー論(少し古いが)に比べ,このようなアプローチがいかに精緻で洞察に富むかは指摘するまでもない.

しかし新制度学派が制度についての周到な考察を展開している間,社会学者が何もしていなかったというわけではない.制度と行動の関連についてはA.ギデンズが理論化しているし,階層制度の再生産において象徴(記号)が独特の影響力を持つことについても,P.ブルデュー等の研究がある.私は,制度学派や構造化理論の立場というのは,社会学にとってはひとつの到達点になりえていると感じる.実際,これらが提起された1980年代以降,社会学の世界では目覚ましいグランドセオリーの展開はなかったように思える.

残念に感じられるのは.社会学者が経済学の新制度学派から学ぶことはたくさん残されているように思えるのに,逆に経済学者の制度論的アプローチを取る立場の人が社会学から学べることはそれほどないのではないのか,ということである.ひとつの例外は,社会資本論くらいであろうか.

「1.29ショック」

合計特殊出生率,1.29・初めて1.3を下回る(日経)

なかなか下げ止まりませんね,出生率.

最近とあるきっかけから,少子化に関する文献をざっと読んだり,データをいじくったりしてます.

で,ちょっと気になる.

「1.29ショック」とか言われている例の数値,合計出生率は,確かに「率」なんだけど,決して%(パーセント)じゃないぞ!そう書いている人がたまにいる.でも生涯で女性が生む子供の平均の数が「1.29%」じゃ変でしょ.あえていえば,129%です.

これ,どうやって計算しているかというと…ややこしいようで意外に簡単ですよ.でも考え方は少しややこしい.

たとえば2003年に20歳の女性が日本に100人いるとして,彼女たち全員で2003年に子供を1人つくったとすると,この2003年の20歳女性の「年齢別出生率」は1/100=0.01ってことになります.

同じく30歳人口がやはり100人で,彼女たちが作った子供が10人だとすると,10/100=0.1.

こうやって計算して出す年齢別の2003年の出生率を全部足すと,合計出生率です.もし仮に全部の女性が21〜30歳までに全ての子供を産み,かつ21〜30歳までの年齢別出生率が全部0.1だとすれば,合計出生率は0.1×10=1ってことになります.

なんでこれが「一人の女性が生涯で生む子供の平均数」なの?だって年齢別出生「率」の合計でしょ?ーと疑問を持つ人がいるかもしれない.

ごもっともな疑問です.

合計出生率は出産可能年齢,現在だと15歳から49歳までの年齢別出生率を足したものです.どうして他の年齢を外すかと言うと,これ以外で出産している例が数としては無視できるほど少ないからです.で,15歳の年齢別出生率というのは,まず女性が15歳を経験したとき,そこで子供を「一人」持つ確率ってことでいいかと思います.たとえば15歳の女性が100人いて彼女たちが全員一人ずつ子供を持ったとすると,年齢別出生率は100/100で「1」です.つまり,15歳の女性が100%の確率で子供を一人持った,ということです.もしこの状態が16歳以降もずっと続くと合計出生率はすごい数になっていきますね.

実際にはそういうことはない.15歳で出産する人は稀,つまり15歳で出産する確率はすごく小さいのです.で,20歳,25歳…と上の年齢になるほど,出産する確率は増えていくわけです.で,女性が一生の間に15歳から49歳を通過すると,その年ごとの出生確率を経験することになります.それを合計したら,2003年では1.29だったと.

なんでこういったひねくれた計算をしているのか?単に女性が一生の間に産んだ子供を集計すればいいのでは?ーそうはいかないですね.だって現在30歳の人の「生涯出産数」なんて分かりませんから.だから,現在の時点で生涯出産数を推計するための代用として,合計出生率が使われているわけです.

ここからは応用編.

伝統的に(というか戦後からですが)日本の女性は平均して2人づつ子供を作ってきました.

もしいまどきの女性が,仕事を続けたいなどの理由で出産のタイミングを「遅らせる」とどうなるでしょうか?(これを「晩産化」と呼んでおきます.)

もしこれが純粋な晩産化で,後で結局2人生むのであれば,合計出生率は確かに一時的には下がりますが,結局はもとの水準(=2)に戻っていきます.(難しく言うと,長期的には生涯出生数は合計出生率と一致する.)

この場合は何も心配することはない.

でも実際には心配すべきだ,という声が大きい.現在進行中なのは単なる晩産化ではなく,女性の生涯出産数の減少なのではないか,と言われているのです.非常に大ざっぱな計算なので穴があるかもしれませんが,現在の女性はほとんどの子供を25歳から35歳の間で,つまり10年の間で生んでいます.(半分の子供は母が24歳から28歳のあいだに生まれている.)

合計出生率が1.57まで下がったのが1989年でした.今から15年前.もし1989年の合計出生率が純粋な「晩産化」なのであれば,現在の出生率がここまで下がることはあまり考えられません.1989年で25歳の女性が「仕事もっとしたいから出産遅らせよーっと」と考えつつ,結局35歳で子供を産み終えているとすれば,1999年には子供を2人持っているはず.詳しい説明は省きますが,現在の数字をみていると,少子化は出産タイミングのズレというわけではなくて,まぎれもない「少産化」であるということが分かるのです.

現在,人口学者や社会学者,そして経済学者の間で課題となっているのは,じゃあこの少産化の原因は何なのか,ということの説明です.

有力な仮説は,非婚化.そして晩婚化.次に結婚している夫婦の出産数の低下.

現実問題,これらが全て要因になってると考えられます.

非婚化はもしこのまま進行するとすれば少子化に関しては深刻な問題で,というのは日本の場合とにもかくにも結婚しないと子供が生まれないからです.スウェーデンのような国では婚外子の方が多いらしい.アメリカでもフランスでも結構両親が結婚していないパターンは多くて,むしろ子供を結婚した夫婦に閉じ込めている日本は,先進国としては特殊といえそう.

もし婚姻率が下がらなくとも,晩婚化が生じるとやはり出生率は下がります.遅く結婚するということはそれだけ出産が遅れるので,2人目以降が生まれにくいってことですね.でもそれ自体は非婚化ほど深刻ではない.

夫婦の出産数の低下は,これまた本当ならば深刻な問題です.一人っ子家庭ばかりだと,人口減りますからね.

少子化対策を考えるためには,これらの三つの要因がどれくらいの割合で少産化に貢献しているのかをまず明らかにすることが肝心です.それによって政策が変わりますからね.もし非婚化の影響が大きいなら,結婚を推奨する必要がある.もし夫婦の出生数の減少の影響が大きいのなら,結婚奨励策はあまり必要なくて,夫婦に子供を産ませる政策をとる必要がある.

私がデータを見る限り,夫婦の出生数低下の影響は,結構強そう.さらに,フルタイムで働いている妻がいる家庭は,極端に出生数が少ないですよ.まあ,実際にはこの課題はまだ結論が出ていない,というのが現状です.今後に注目.

ウェブの公共性:SEOの考察 2005.2.11

少し前から,SEO(Search Engine Optimization)コンテストなるものが日本でも流行しています.何らかの恣意的なキーワードを設定し,一定期間の後,Googleの検索で最も上位に位置したウェブページが優勝,というコンテストです.それに対して,違和感を感じている人は多いと思います.違和感を感じない人は,「無意味なワードでやってるんだから迷惑じゃないでしょ」と,おそらくお祭り騒ぎ気分なのでしょうが....結論.私はそうは思わないです.迷惑は迷惑.なので私は反対派です.理由は後で.

とりあえず,一般的な反対派の言い分はたぶんこうです.「SEOコンテストというのは,「スパム行為禁止」って自己規定の割には,スパムそのものだ.」たしかに,ウェブサイトを見ても,目的や理念は不在のようだし....ただ,これだけだと,「Googleで一件もヒットしないワードを使ってやってるんだから問題ないでしょ」という反論が通りそうです.実は問題はこれだけではないんですけど,その前に,どうしてそもそもSEOコンテストは「スパムだ」という批判が起こるのか考えてみましょう.

私の経験では,古くからインターネットになじんでいた人ほど,「無駄な情報は省く」という簡便性の規範に敏感です.これは少し前のネチケット本では,「帯域bandの制約」に由来する規範だと書かれていることが多いです.つまり,ネットは狭い回線をみんなで共有しているのだから,無駄な情報でそれを占有するな,というものです.もちろん一般的な「公共財」と違って,ネット上の空間は柔軟にユーザを閉め出すことができる(パスワードなどで簡単にできる)ので,本来的に排除性を欠いているわけではないのですが,理念のレベルで排除性を設けなかった,という,いわば善意の理想があったわけです.

この帯域の制約自体はブロードバンドの普及で解消されつつありますが,しかし実は簡便性の規範はもう一つ重要な含意をもっています.「個々のネットユーザに与えられた時間は希少なのだから,有用な情報を無駄な情報に埋もれさせてはならない」といったような考え方です.これは特に初心者がトラブル回避情報を探すときに重要になる規範ですが,上級者が初心者を助けるときにも大事になるものです.トラブル掲示板でスレッドのタイトルを「助けてください!」なんかにしていると,忙しい合間を縫ってアドバイスしようという善意のある熟練者は,「じゃあ俺はいちいち『助けて!』スレッドを開いて内容を確認しないといけないのか」と,一抹の納得のいかなさを感じるでしょう.

「助けて!」タイトルは,要するに「上級者のスキルと時間」という希少な財を非効率的に消費してしまうため,本質的に公共ルールに違反しているものなのです.「助けて!」スレッドを増やすほど,全体の効用が下がっていくことになります.「上級者のスキルと時間」は,もちろん財の特性から言えば公共財ではないのですが,古くからのネットの倫理で公共的なものになっている,といえる財です.つまり,あまりにフリーライダー(ヘルプただ乗り君たち)が横行すれば,市場原理が適用され,無料のトラブル情報がネット上から消えてしまうかもしれないのです.

以上は経済学的な考察.社会学的に言えば,エチケットというのは本質的に「公共空間」のルールです.「公共空間」というのは,要するに「よく知らない人と関わりをもつ場所」のことですね.相手は自分のことや自分の事情を知らないわけです.なので,「助けてください!」と言われても困るわけですね.

実は,ウェブの世界というのは,少なくともオフィシャルには公共性の倫理を気にする世界です.たとえばこのページを書くのに使っているHTMLという言語に関しても,かなり厳しいガイドラインがあります.難しく言うと,ウェブページは「構造化された文章structured text」である必要があるのです.「構造化されている」というのは,要するに文章のあらゆる部分が有意味に,しかも限定的に定義されている,ということです.もういちど難しく言うと,すべての部分に意味のある有限なメタ情報が付与されている,ということです.

HTMLはたとえば「見出し」「段落」「引用」といった,限られたパーツ(要素)から組み立てられています.これに従うと,意味を持たない(定義されていない)要素は使いなさんな,ということになります.<color>(色)<br>(改行)なんかはそうですね.実際,これらの属性あるいは要素は,最新のHTMLの勧告では使用を禁止されています.「ウェブページの見た目に関する部分は別途スタイルシートで定義しましょう」というのは,この理念の現れです.一部で激しい論争を巻き起こしたようですが,ウェブページを構造化された形で書こう,という理念は私も賛成です.

というのは,最近のRSSといった技術もそれをあてにしているのですが,構造化された形でテクストを書いている限りは,テクストをまとめる際にもやりやすいし,ひいては,ユーザの「時間の節約」につながるからです.学生に論文を書かせるときも,論文に「要約」をつけるようにできるだけ指導しますが(でもあまりつけてくれない...)だいたい同じ理由ですね.少なくとも一流のアカデミックな世界では,要約を付けない論文は認められていないはずです.星の数ほど論文があるのに,要約を付けないというのは,他人の時間を無駄に消費するという意味で公共ルール違反だ,というわけです*.

*スタイルシートの理念には,ほかにもたとえばユニバーサルアクセス,バリアフリーの思想などが反映しています.Win版IEでしか見ることのできないようなページは,こういった価値観からはほど遠い,ということになります.

ただ,「井戸端会議」「雑談」「だべり」といったコミュニケーションからわかるように,人間は他方で「無駄話」を欲しているところもあります.これはしかし正確には無駄話ではなくて,「同じ興味をもっている人や同じ立ち場にいる人」と話をすることで,自分の立ち場を確認したり安心したりしたい,ということだろうと思います.ネットというのは,無数の人が極めて低コストで集まっているため,それがやりやすいんですね.

こういうコミュニケーションに関しては,公共性の枠組みは適用しにくいのですけど,ルールがないわけではありません.あるいみで,かなり厳しいルールがあります.こういう話の目的(効用)は「みんなで楽しく」なので,それを損なう人,たとえば「独りよがりの自慢をする人」とか「ノリの分からない人」,いまふうにいえば「空気を読めない人」は排除される傾向が強いですね.

一番重要なことは,ネット上で,その場所がどういうタイプの場所なのかを見極めることだと思います.たとえばBlogには「トラックバック」という,なかば一方的に相手のページに自分のBlogへのリンクを貼らせる機能がありますが,「雑談」系の人が「情報」系(付加価値を持つ情報を提供するページ)のなかに自分のページへのトラックバックをつければ,情報系の人(たいていすべてのトラックバックを見る)はいい気分がしないでしょう.そういった行為は,最悪の場合身勝手な宣伝目的の「スパム行為」だととられてしまいます.逆に雑談系の掲示板に付加価値情報ばかり書いていると,下手をすると自慢ととられて,「荒らし」だと認定されてしまいかねないわけです.

話がそれましたが,じゃ結局どうして私はSEOコンテストに反対なのでしょうか?単純に言えば,「面白い情報や大事な情報がそのせいでまぎれたらどうするんだ!」という気持ちから,なのです.まあそれ自体はウェブのビジネス化以降はしかたのないことなのですが,せめて検索エンジンは「高い付加価値」情報を上から順に表示する機能であってほしい.学生だって,レポートの時期はGoogleにお世話になることが多いでしょうけど,検索しても検索しても商用サイトしかヒットしなかったら空しいでしょう.このままビジネス目的でのSEOが進むと,ユーザのサーチエンジン離れが進む可能性もあります.SEOは自分で自分の首を絞めないように気をつけなくてはなりません*.

*どうすればいいかというと,商用のSEOは,ユーザが商用目的で検索したときのみそれに応じることができるような最適化方法を考えればよいわけです.これもだから,その場のニーズの特性を見極める,という上述のポイントと同じことですね.SEOコンテストのような「一般的キーワードでとにかくランクを上げる」みたいな技術は,その場合無意味=有害になります.

政治分野での言説闘争でもそうなのですが,とかくシンボル(記号)の世界では「市場原理」はパレート改善を発揮しにくいものです.私が好きな経済学者D.ノースは,The lower the price of ideas, ideologies, and convictions, the more they matter and affect choices. (Institutions, Institutional Change and Economic Performance)と書いています.シンボルを使った生産物,つまり情報は「低コスト」で,しかもインターネットというコミュニケーションのシステムは,さらにそのコストを下げます.とはいえ,こういったシンボルの交換のルールが,効率の良いものになっているかどうかは,ノースによれば,その交換のコストとは関係のない(次元の違う)話なのです.ノースの場合,市場よりも先に制度が来ますからね.素人でもできる(少なくともやっている)SEOがこの矛盾を表しているように思えます.(ああ,私は社会学者なのに,いつの間にか制度学派の話になってしまいます.)

いまのところGoogleはアンチSEOの姿勢をとっています.これはGoogleにとっては死活問題ですし,ぜひアンチを続けていって,SEOが非合理的になるような仕組みを作っていってほしいところです.

変な社会調査

今年から社会調査の講義を受け持つことになったこともあり(まあ基本編ですが)、谷岡一郎先生(大阪商業大学)の『「社会調査」のウソ』(文芸春秋)のノリで、どこか変な調査とその報道をひとつ紹介します.

教授らから嫌がらせのアカハラ、28大学で「あった」

(asahi.com,2004.6.19)大学教授らが地位を利用して助手や大学院生らに嫌がらせをする「アカデミック・ハラスメント」の実態を女性研究者が全国の大学や教員に尋ねたところ、回答のあった114大学のうち28大学がここ数年に「アカハラが起きた」と認めた。教員の約1割は上司から「辞めろ」と言われたり、望まない人事への応募を迫られたりした経験があった。

調査したのは、NPO「アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク」の御輿(おごし)久美子代表ら。02年10~12月、無作為に選んだ国公私大学、教員(助教授・講師・助手)にアンケート用紙を送り、114大学と931人から回答を得た。

大学の回答では、回答数の約4分の1に相当する28大学が、この数年にアカハラがあったことを認めた。件数では計124件。「話し合いで和解」38件▽「被害を訴えた人が退職・退学」6件▽「加害者側が辞めた」2件、などの結果になっていた。

これとは別に、性的な嫌がらせ(セクハラ)についても調べたところ、ほぼ半数にあたる55大学が、00年以降の約2年半の間に「相談があった」と答えた。計352件あった。

教員の回答では、上司から「辞めろ」と言われたり、望まない人事への応募を迫られたりした経験のある人が96人(回答者の約10%)いた。

御輿さんは「アカハラとは何かを周知する『ガイドライン』を大学側が作り、専門の相談窓口を置くことから始める必要がある」と話している。

いちばん拙い点は,回収率が書いていないことでしょう.「問題なし」の大学の教員はあまり回答していないのかもしれないし,その逆かもしれない.質問項目も書いていないし….これでは,世間が考えているよりアカハラが多いのか少ないのかさえ,よく分かりません.

調査の結果とは全く関係なしに,最後の段落の意見にはおおむね賛成ですが.

それにしても,教員の「上司」って何なのでしょうね.講座の偉い人ってことだろうか.

ついでに.

株価:サザエさんと犬が上げ下げに影響?

(毎日Interactive,2005.2.18)TVアニメ「サザエさん」の視聴率が高いと株価が下がり、犬に人気が集まると株価が上がるーー。こんな不思議な統計を大和総研がこのほどまとめた。兜町には様々なジンクスがあるが、国民的アニメも果たして影響を与えているのだろうか。

日曜夜に放映される磯野一家の物語「サザエさん」は国民的アニメとしてすっかり定着。20%前後の高視聴率をキープしている。レポートによると、03年1月から半年間のサザエさんの視聴率表とTOPIX(東証株価指数)の連動を調べると、視聴率が高いと株価が下がり、逆に低いと株価が上がる傾向が出たのだ。株の常識として、米ニューヨーク株式市場との関係が言われるが、相関係数はそれよりも上回る強い連動性だという。

ほのぼのしたサザエさんを観た後、月曜日からの仕事を思い出し憂鬱になるという「サザエさん症候群」が話題になったが、仕事のやる気と株価は連動するのか。また、日曜の夜に外出せずに自宅でテレビを観ていることは、消費支出や景気動向と関係あるともいえる。大和総研では「単純過ぎる見方とはいえ、一つの傾向として認識しておくべき」と指摘している。

一方、03年の第1四半期から04年の第4四半期までの株価と、犬のニュースが新聞などに取り上げられた件数のをみると、相関係数は0.96(1ならば完全一致)ほとんど同じだった。

最近の犬ブームは癒し系として注目されており、ビジネスマンやOLに生き甲斐や活力を与えているともいえる。同総研は「来年は戌年でもあり、引き続き犬ブームは続き、株価にポジティブな傾向が期待される」と分析している。(サイバー編集部)

これは別に間抜けな記事ではないです(でもふつうではない,変わった記事です).当然「サザエさん」の視聴率が「株価」を動かしている,といっているはずはなく(タイトルは茶化してそう書いてあるが),何らかの第三の変数が「サザエさん視聴率」と「株価」の両方に影響を与えている,と言っているのです.(まあ「株価」が「サザエさん視聴率」に影響を与えていることは原理的にはあり得なくもないですが,可能性低いですね.)

それにしても,やはり国民的な番組である「サザエさん」じゃないとダメなんでしょうか.「こち亀」や「からくりTV」とか(あるいは「日曜夕方のテレビ全体の視聴率」とか)じゃあ指標にならないのでしょうかね.

あと,相関係数の数値が知りたい.それに...犬記事と株価の相関係数,0.96ってほんとにホントなんでしょうか.社会科学の世界ではまずみたことないような,ものすごい値ですよね….(統計の教科書に書いてあることとは違って,社会学が扱うようなデータなどでは0.3でも「高い!」と思ってしまうほどです.)

効率の良いプロ野球チーム

最近,調査法の授業で使おうと思ってプロ野球の1970年〜2004年のチームデータを分析しています.いろいろやってみるとなかなか楽しい結果が出てきます.たとえば以下のような分析.

勝率を目的変数,チーム打率,チーム本塁打数,チーム防御率を説明変数として回帰分析(OLS)を行うと,勝率の分散のうち実に約75%を説明できます*.ただし内訳はリーグによって少々違うのです.標準化回帰の結果によれば,本塁打によって説明できる部分はパ・リーグの方が圧倒的に大きいです.「セはパよりも緻密で,パはセよりも豪快」というよく聞く話はデータによって裏付けられている,と言えるかもしれません.

*打率と本塁打数の相関係数は.51と高めですが,回帰係数の推定において,マルチコの問題は無視できそうです(VIF平均=1.33).

リーグ 打率 本塁打 防御率
セ・リーグ .51 .27 -.83
パ・リーグ .42 .41 -.79

さて,勝率の分散のうち説明できなかった残り25%はそれ以外の要素によって決まるのでしょうが,それは例えば采配などの要因によって決まる部分,となるでしょう.采配が上手ければ,打率・本塁打・防御率がそれほどではなくとも効率よく勝率を上げることが出来ます.で,どのチームがいちばん効率がいいかということは,上の回帰式から導かれる回帰直線からの残差を平均すれば分かるでしょう.

勝率の平均残差が最も大きいのはブレーブス(〜ブルーウェーブ)で.15.最も小さいのはファイターズで-.009.年度別では,1974年のブレーブスが0.13で最も大きく(ちなみにこの年2位),セでは1995年のスワローズが0.10で最大(この年1位).マイナス残差では1972年の(近鉄)-.096で最低.セでは2003年のベイスターズが-.093で最低.こういうデータからは,単なる順位以外の側面が見えてきて楽しそうです.

参考までに,ここ十年の「効率性ランキング」*.名古屋はさすが省エネですな〜.逆に阪神は効率悪いみたい.

*残差の算定には1970年からのデータを使用.全体的にここ10年は効率性が高いことが分かります.

中日 0.022
ロッテ 0.018
オリックス 0.018
ソフトバンク 0.015
西武 0.015
ヤクルト 0.012
読売 0.011
広島 0.009
近鉄 0.005
日ハム 0.001
横浜 -0.008
阪神 -0.014

→使用したデータ(タブ区切りテクスト)

2005.9.11 衆院選:自民が単独過半数

衆院総選挙の日.自民が単独過半数の見込み.

自民の勝因をかなり勝手に分析してみると...

大前提として国民は自民と民主の根本的な政治態度(イデオロギー)の違いを感じていない.で,自民は争点をひとつに絞りったが,民主はざーっと並べてみせた.国民のおそらく99%以上は政策的なことは理解していないし,できない.なので,あまりモノを考えないタイプの人は単純な争点を好む.そこで自民の戦略勝ち.他方で,少しモノを考える人についても,リアル思考をする都市住民ならば,「民主の『あれもこれも実現』なんて,実現性ないでしょ」と懐疑的になる(もちろん政策の内容は本格的にはチェックしようがないので直感的な実現性に関する判断).それに「郵政民営化阻止が年金問題解決」といった結びつきがないから,どうしてもメッセージがちぐはぐなかんじになる.だからこれも自民の戦略勝ち.

岡田党首は「政策で勝負」とひたすら強調しましたが,どの党がどれだけ有効な政策を出しているかなんて普通の人にも大半の知識人にも分からないのだから,国民にとって政策の優秀さは選択の決め手になりようがない.そこで主導者の人柄(のイメージ)とか政策メッセージの「出し方」が決め手になる.こういうのを「親密性の専制」と社会学者は批判的に言ったりしますが,そうでなくとも政策「で勝負」と言われても有権者はシラけるだけでしょう.政党が政策で勝負するのは当たり前だし,そもそも政策の優劣は不明なんだから,岡田のメッセージは国民にとっては意味を作らない.

なんといいますか,いまさら言うまでもなく政治は特に「知識」の世界ではなくて「象徴」の世界なんですね(マスコミはそのことには触れず,単にうまく利用されている).正しい情報ではなくて流通しやすい情報が支配する.民主党は象徴の流通法則について敏感ではないと政権はとれないでしょう.

あと補足するとすれば,若年層の保守化と女性票かなあ,と思いました.保守主義者は,リアル路線で,トレードオフを比較的強く意識しています.「こっちを優先させたらこっちはあきらめなきゃダメ」というのがトレードオフ.民主のような並列的な目標設定をすると,本当のことがどうであれ,有権者からはトレードオフを無視したいわゆる「野党」だと判断されかねないですね.女性候補の出し方・見せ方も勝負にならないくらいだった.佐藤ゆかりさんは小選挙区では取れなかったですが(相手も女性だったし),自民の比例票を全国で増やしているような気がする.

あと,民主党が「政権交代」を掲げるのも,野党的.「政権交代」というのはそれ自体は空のメッセージ(何も意味しない)だし,「反対のための反対」みたいで時代の保守化に逆行している.

「岡田さんはまじめすぎて負けた」というよく聞くナイーブな分析も,意外にコアなところであたっているかもしれません.次回はシンボルをうまく操ってがんばってほしいです(ってもう党首は交代か).

単純な世界

小泉首相が郵政民営化法案の否決を受け衆院を解散した時に,ガリレオの言葉をもじって「それでも...」と発言したことが一時期話題になっていた.はたして,選挙の結果,郵政民営化が「正しい」ことになった.野党はもはやその「間違い」を攻撃できなくなった.

世の中には,ほんとうは不思議なことなのに,不思議でないように語られるという不思議がある.

選挙の結果,郵政民営化政策は国民の大半の支持を得た.選挙当日まで,主なマスメディアでは郵政民営化の影響を客観的に分析しようとするような報道はほぼ皆無であった.

まだある.

しばしば内閣支持率調査はあたかも内閣の成績表のように報道される.

ある政策やパフォーマンスが多数の人から支持されているかどうかと,その政策が実行されたときにその同じ多数の人が結果をよしとするかということは全く別のことである,ということは自明であるので,ひとりの学者としては,なんとも不思議でもどかしい気持ちであった.

ここでマクロ経済学者ならば,たとえば郵政民営化の是非について,自前の客観的な予測を繰り広げてカタルシスを得ようとするのかもしれないが,社会学者としては「人々がなぜ自分たちが不幸になる可能性について考えることをしないのか」という問題がどうしてもスキップできない.こちらの問題の方が先であるように思えるのだ.というのは,人々の態度が変われば,おのずと政策の善し悪しを客観的な効果で考えようとする風潮が生まれると思うからである.逆にそういった態度が普及しない限り,「正しい」マクロ経済的知識は永遠に受け入れられない.そこで少し考えてみることにした.

どうも,答えは単純なところにありそうな気がする.

まず,これは(ここでの問題設定からすれば)違うだろうという仮説.それは「難しそうだから考えない」というもの.少なくとも私には,世間の人々は社会問題に関して「難しいからマスメディアに解説/意思決定代理を期待する」という態度さえもあまり見せないように思える.メディアが解説/意思決定ガイドの役割を積極的に行わないのは,そういったニーズがあまり大きくなかったからかもしれない.いずれにしろ国民のほとんどは,「分からない」とはっきり意識しているというよりは,「分かっている」という感覚をもってゲームに参加しているようだ.ためしに「小泉首相の支持/不支持」「郵政民営化」についていろんな人と話をしてみるとよい.「分からないから意見保留」と言う人は,あまりいないのではないか.

ここから,ひとつの仮説が導かれる.「世間一般の人々は,世の中は単純だという仮説を抱いている」というもの.この単純な世界では,意図と結果が乖離することがない.なぜならば単純だからだ.そしてこの単純な世界では,善人がたくさんいれば善い世界ができあがる.悪人がたくさんいれば悪い世界が出来上がる.すべては個々人,あるいは偉い人の意図/態度/性格次第である.そして,この単純な世界では,多数の人々が望むように社会を変えることは,無条件に社会を改良することになる.民主主義である.

世間一般の人々のクセとして,何か問題があったときに,原因を追及せずに誰かの(悪い)態度のせいにするのも,背後にあるのはこの「単純世界仮説」である.単純な世界では,JR西日本の経営者の人格さえまともなら,脱線事故なんてなかった,となる.

意図と結果が無条件に接続できると仮定するこのイデオロギーこそ,人々が自分が不幸になる可能性についてあまり考えないという謎の根本にある態度であるように思える.

さて,実はこの仮説は,また別の仮説を当てにしている.これについてはまた稿を改めて.