一面緑の原生林、朱鞠内湖(雨竜ダム)の湖面の静けさ、雨竜、苫前、天塩の三郡にまたがるビッシリ山に水源を求めるブトカマベツ川、朱鞠内川、宇津内川が雨竜川となって合流するこの地が朱鞠内です。

  川をせき止めて作られた人造湖、朱鞠内湖は、ボートやカヌーが遊び、“幻の魚”イトウやマス、ワカサギが泳ぐ、観光の名所です。

  まずはこの朱鞠内の歴史を紹介することにしましょう。

朱鞠内の歴史

  朱鞠内は1913(大正2)年から翌年にかけて、御料地(皇室所有の土地)の解放にともない、岐阜県から団体入植したのが始まりです。ようやく開いた土地にイナキビ・トウモロコシを植えることから始まり、砂金掘りを副業にした人も多かったといいます。

  1928(昭和3)年、ブトカマベツ川沿いに雨竜電力株式会社の事務所が建てられ、水量調査が始められました。住民には、何も知らされないまま、ダム建設の準備が進められていきます。

  1932(昭和7)年に幌加内から朱鞠内までの鉄道(幌加内線)が開通し、続いて朱鞠内〜名寄間(名雨線)の鉄道工事が始まります。ダム建設予定地での木材の切り出しが始まるとともに、朱鞠内は人口の急増地となります。1934(昭和9)年には、幌加内にもなかった電灯もついたのです。

光顕寺の創立

  光顕寺は初期の入植者の山口さんなど岐阜県出身者の多くが熱心な真宗信者だったため、1932(昭和7)年に「真宗大谷派三股説教所」として創立されました。最初は信者宅を仮本堂として始められましたが、1934(昭和9)年、深名線鉄道沿いの現在地に本堂(光顕寺)が建立されました。

  1935(昭和10)年、朱鞠内〜宇津内間の鉄道工事が始まりました。労働の担い手は主に「タコ部屋」労働者でした。厳しい労働の中で次々と出た鉄道工事の死者は、光顕寺に運び込まれました。

  1937(昭和12)年には日本人41人、朝鮮人2人の43人もの犠牲者が出たのですから、月平均4人もの死者があったことになります。

  1938(昭和13)年に雨竜ダム工事が始まってからも、光顕寺は死者をとむらうお寺でした。檀家(寺の信徒)の人の証言によると、濡れたままの遺体が次々と運び込まれ、本堂の畳は腐ってしまい、床が抜けたといいます。

戦後の朱鞠内

  ダム工事(1938〜1943年)の最盛期には戸数が400戸を越え、朱鞠内の街には飲食店、カフェ等が軒をつらね、ダム工事関係者を入れると数千人の人口を抱える街だったのですが、1943(昭和18)年のダム工事の終了とともに人口が減る時代に入ります。

  1964(昭和39)年、朱鞠内は大火にみまわれ、一挙に116戸を失いました。高度経済成長の時代とともに過疎化の波は朱鞠内をおそいます。

  昭和30年代、光顕寺は旭川の聞光寺の兼務寺院となり、わずかになった朱鞠内在住の檀家の手で守られました。

  1976(昭和51)年9月、光顕寺に保存されていた白木の位牌70余が鉄道工事・ダム工事の犠牲者のものであったことがわかりました。光顕寺の新しい歩みが始まります。

  現在、「光顕寺本堂」は光顕寺から切り離され、朱鞠内歴史保存委員会の手で、犠牲者の追悼(死者の生前をしのび、その死をいたみ悲しむこと)と学習の場として保存活動が進められています。

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