ある掲示板において、群馬県にお住まいの方が群馬県のことについて、謙遜を含めて、群馬
県はあまり知られていないとおっしゃっていました。私自身は、群馬県には何度も行ったことがあり、良い県だと思っているので、県外の者の観点で少し述べて
みたいと思います。もちろん、群馬県の方が書くよりは、多少正確さには欠けるのではないかと思います。しかし、案外、他県の者が書くほうが客観的に記述で
きる
のでは
ないかとも思っています。
群馬県は、関東地方の北西にあります。関東地方は、大まかに言って、南関東(東京、神奈川、埼玉、千葉)と、北関東(群馬、栃木、茨城)に分けられます。
南関東の3県が地理的に東京に近いために、東京に文化的に強く影響されてしまい、その結果、各々の県の独自性を保つのが難しい状況にあるのに対して、北関
東の中でも特に群馬県は独自
性を保つことができているのではと私は考えています。最近は、東京に新幹線通勤する方も増えて、多少は東京の影響も受けはじめているようではありますが、
群馬県民という県民性がしっかりと存在していることはうらやましい限りです。
群馬県には上越新幹線と長野新幹線の分岐点が高崎にあり、交通の要所であります。したがって、群馬のお陰で、長野と新潟は関東地方との結びつきを得ること
ができるよう
になっているとも言えます。群馬県は鶴が舞うをしていると例えられており、群馬県の名所、名跡などは、
上毛カ
ルタ にまとめられていますので、興味ある方は最寄りの群馬県人に問い合わせていただけたらとおもいます。 さて、群馬自体の紹介はこのホーム
ページの趣旨ではありませんので、詳しくは、「
群馬県観光協会ホーム
ページ」を御参照ください。
今までの説明で既に群馬県は分かったので、もう説明はいらないという方もいるかもしれません。しかし、そのような方は恐らく少数派でしょうので、さらに説
明をしていき
たいと思います。ただ、本論の「群馬県はわかりやすいか?」に入る前に、少し遠回りになりますが、分かりやすい県の例として、神奈川県と、兵庫県をあげ
て、若干の説明を加えたいと思います。この説明をすることにより、本論が分かりやすくなるのではと思っています。
わかりや
すい県の例(神奈川、兵庫)
私にとって、分かりやすい県としてすぐに思い浮かぶのは神奈川
県と、兵庫県で
す。それぞれ、横浜と神戸という大きな街があり、両方とも観光地ですから、その街のイメージを思い浮かべることができると、そのイメージをそれぞれ、神奈
川と兵庫のイメージに代替することにより、それぞれの県が分かった気がするのだと思います。しかしながら、確かに分かった気はするのですが、本当は、ほと
んど分かっていないというのが事実であると思います。ただ、多くの人にとって、分かったという印をつけて記憶の箪笥の中にしまうことができることが重要な
のかもしれません。
まず、神奈川県のことを述べますと、人口は870万人でその内の356万人が横浜市に住んでいます。実に神奈川県の40%の人がこの自治体に住んでいるの
ですね。ちなみに面積の割合では、18%くらいです。横浜市というと、港のイメージを思い浮かべられる方が
多いと思いますが。そのイメージに当たる観光スポットは、昔でしたらば山下公園、今では、桜木町駅の海側に再開発された「みなとみらい21」という地域、
そして中華街でしょうか(
参考資料)。
しかしながら、それらの観光スポットは横浜のごく一部の地域に集中しているのものなのです。横浜は、18の区に分割されているのですが、前述の3つの観光
スポットは西区、中
区にあります。西区は横浜駅周辺の地域であり横浜の歴史から言えば新しく開発された地域です。中区は昔からの横浜の中心である地域で、例えば、神奈川県庁
があるところです。
県庁などいうお堅いイメージより
は、アニメの映画版の「エースをねらえ」のイメージの場所といったほうがわかりやすいかと思います(ただし、原作は、作者の出身地の浦和がモデルであるの
でややこしいです)西区と中区の人口は意外に少なくてそれぞれ、8万人と14万人です。したがって、あわせて22万
人の地域のイメージで、横浜のイメージが作られていることになります。
余談ですが、私は、以前、横浜の郊外の緑区(今は、青葉区に分離されている)に住んで
いた時に、旅先で「どこからいらしましたか?」と聞かれて横浜ですと答えると、話が弾んだのを憶えています。もしかしたらば、横浜にはある種の憧れを持た
れている方が多いのかもしれません。ところが、2km離れた、川崎市の鷺沼という
場所に移った時代に、同様な質問に「川崎です」と答えると、全然話がはずみませんでした。川崎には、公害の街という一時期のイメージ
が染み付いていて、それが解消されないままで残っているのが原因なのだと思います。現在の川崎には、煙突から煙をもくもく出すような工場はほとんどな
く、ソフトウエアを生産するようなハイテクの街に生まれ変わっているのですが、一旦、染み付いたイメージを解消するのは容易ではないようです。実態も重要
なのですが、多くの場合においてイメージが重要な例として挙げさせていただきました。
さて、合わせてたった22万人の人口しかないこの地域なのですが、そのイメージがあるから、神奈川県と言うとなんとなく分かったようなするわけです。神奈
川県
には、箱根や、鎌
倉、湘南など沢山の観光地
があります。しかし、他県の人からみると、そんな細かいことはどうでもよくて、横浜というイメージだけで十分なのだと思います。
同じようなことが
兵庫県にも言えるのだと思います。兵庫県には、神戸というイメージが湧きやすい大都市があり、観光地でもあります。私の神戸のイメージは、北野あたりの異
人館
とか、ポートアイランドとか、六甲山を少し登った所にある神戸大学からの夜景なのですが、恐らくそれは神戸のごく限られた地域なのだと思います。しかし、
それら地域のイメージが多くの人にとっての神戸のイメージなのではないでしょうか?兵庫県は、実は日本海側にも広がっていて、
近畿地方では一番広い県であり、神戸は6.5%の面積を占めるに過ぎません。しかし、多くの人は、広い兵庫県を神戸のイメージで代表させて、それで分かっ
たことにして
いるのだと思います。
参考資料
「都道府県市区町村」
群馬県は分かりやすいか?
ここまで書いてくれば、群馬県のイメージが分かりにくいということに対する理由がわかってくるように思います。一つには、中心となる街が前
橋市と高崎
市の2つに分かれていることです。もう一つは、この2つの街が観光地ではなく、観光地は、草津温泉や伊香保温泉のような温泉地であるということです。以
下、この2つのことについて見て行きたいと思います。
前橋市と高崎市
まず、前橋市と高崎市の現状を見るために
Mapionと
いう地図システムを見てみることにしましょう。Mapionの
群馬の地図においては、
群馬県の自治体の境界を見ることができます。この図をみると、前橋市と高崎市は隣接していますから、何故、浦和市と大宮市のように合併しないのかと思われ
る方もいらっしゃると思います。しかし、この2つの自治体には噂によると確執があるらしく、また、合併しても政令指定都市になるわけではありませんので合
併するのは
難しいのではないかと思います。
さて、この二つの自治体は以前は隣接してはいませんでした。ここでは、どのように隣接するまで至ったかを少し見ていきたいと思います。過去において、
どのような自治体があり、それらの自治体が合併の結果どのように変遷したかについての様子は、
つかんぼやとというというシステムで見ることができます。県によって
は最近の変遷しか記述されていないところもあるのですが、
群馬県については、
「明治の大合併」以後の自治体の変遷を全て見ることができます。なお、「明治の大合併」というのは、1989年に行われたものであり、それまでは
71,314個の自治体があったものを、一気にその約1/5の15,859個に減らしたものです。群馬県においては、この結果、自治体数は206個(35
町、171村)になっています。
この大合併の直
後では、
前橋町も高崎町もまだ面積が少なく、また距離も離れています。なお、この時に存在していた35町の中に、中之条と伊香保があることに気を留めておいていた
だき
たいと思います。
さて、これらの35町が何故大きい自治体でありえたかというと、その内の10個においては理由がすぐに分かります。
これらは、大政奉還以前において藩であったのです。大政奉還以前にどのような藩があったかについては
geografi(em)aj
paghojをご参照ください。この資料によると、群馬県の大きな藩としては、館林藩(6万石)、前橋藩(17万石)、高崎藩(8.2万石)など
があります。これらの藩は、9個の県(館林県、前橋県、高崎県を含む)を経て、1971.1.28に群馬県集約されていきます。(なお、この時点において
は、館林県は、栃木県に集約されました。)。この後、群馬県は、一時、入間県と合併して熊谷県になったこともあったのですが、最終的に1876.
8には、現在の群馬県に落ち着きました。さて、群馬県の県庁を前橋と高崎のどちらに置くかについてですが、かなりもめたように聞いています。一時期、県庁
は
高崎に置かれた時期もあったよ
うなのですが、最終的には前橋に置かれるようになりました。このような経緯があるために、前橋と高崎は仲が悪いという噂を聞きますが、県外の私にはよくわ
かりません。詳しくは最寄りの群馬県人にお問い合わせください。
さて、前橋は、
1892.04.01に
群馬県で初めての市になり、高崎は1900.04.01に
県で2番目に市になります。前橋の市制が早かったのは面積が広かったことが影響したのかも知れませんが、実際のところは県外の私にはわかりません。その
後、両自治体は合併により周辺の自治体を組み込んで行き、1955.01.20においてついに隣接することになります。この後も、合併は繰り返
され、現在においては、前橋市の面積は、241km2、そして、高崎市の面積は111km2に広がっています。人口はそれぞれ、32万人と24万人ですか
ら、前橋市の方が多いです。しかし、前橋市の面積は高崎市の2倍以上ありますから、前橋市の方が発展しているとは言い切れないところがあります。前橋市
は、群馬の
行政の中心であるのに対して、高崎市は、商業と交通の中心であり、上手く役割分担ができているということであると思いいます。これは、行政、商業、交通の
中心が全て横浜に集中してしまっている神奈川出身の私にとってはうらやましいことでもあります。しかし、問題は、他県の人から見るとイメージが掴みにくく
なってい
るということです。
草津、伊香保、そして四万
(中之条)
さて、群馬県が分かりにくいとされているもう一つの理由は、大都市である前橋市と高崎市には有名な観光地がないことです。もちろん、高崎には高崎観音のよ
うな名所はありますが、全国レベルで知られているではないと思います。群馬の観光地として知られているのは街ではなく、温泉地です。私のような他県の者に
とって、群馬県の温泉として思い浮かぶのは草津温泉と伊香保温泉です。しかしながら、四万温泉については「ファイト」をみることによ
り始めて知りました。それでは、何故、四万温泉のことを知らなかったかというと、草津、伊香保とは異なり、四万という自治体がないということが大きな原因
であるとおもいます。しかし、温泉フリークであれば四万温泉のような著名な温泉は知っているので、滞在して多くの場合に好印象を持つことになると思いま
す。しかし、四万温泉に好印象を持っても、その自治体が中之条町であることを記憶にとどめる人は少ないと思います。そして、旅行の幹事でない場合には、
やがて、四万温泉が群馬県にあったことすら忘れてしまうことになるかもしれません。
さて、以下においては、草津、伊香保、そして、四万(中之条)という自治体の変遷について述べてみたいと思います。ただ、記述がやや詳細であることをご
容赦ください。
まず、
伊香保は、明治の大合併の際に、伊香保
村、湯中子
村、水沢村が合併し、伊香保町になっています。
その後は、合併をすることなく現在[2005.8.21]にまで至っています。残念なことに、平成の大合併[2006.2.20]
において、渋川市の一部に組み込まれ、伊香保という自治体はなくなってしまいます。このことは私にとって非常に残念なのですが、伊香保という地名は残す方
向で検討されているよう
なので少し安心をしています。
草津については少し複雑な経緯があるようです。明治の大合併の際に、草津、前口、小雨、太子、日影、赤石、生須、入山の8村が合併して草津村ができました
(http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/koza/h15renzoku.pdf を参照)。しかしながら、
10年間における分離独立運動により、
明治33年7月に草津町と六合村に
分離して現在に至っています(http://www.gck.gr.jp/gunmajiti/opinion/kunimura.htm)。温泉を中心
にする草津町と、山村である六合村に分かれたとするのが無難な解釈であると思われます。六合(くに)村となったのは、以前の小雨、太子、日影、赤岩、生
須、入山に対応する6つの地域でした。そして、草津町になったのは、以前の草津村と、前口村の地域です。なお、伊香保については、実際に観光協会に電話を
かけて確認をとって文章を書いたのですが、草津については微妙な感じがしたので、イ
ンターネットを関して集めた情報を元に記述をしています。
草津、伊香保という自治体が明治の大合併の後にも存在しているのに対して、四万という自治体はこの大合併の際に消滅してしまいました。私は、非常に残念な
ことで
あると思います。この時、山田、折田、上沢渡、下沢渡、四万という5つの村が合併して沢田村という自治体になったのです。
明治の大合併の
直後の地図をご覧になると、この沢田村が、大きな時代の草津村と同じくらいの大きさであり、また二つの自治体が隣接していることがわかります。
さて、沢田村の各地域の構成を詳しく見る前に、沢田村が中之条町になる過程を先に見ておきましょう。沢田村は、
伊参村、名久田村と共に、1955.4.15に中之条町と合併しています。中之条町は面積は少
ないのですが、吾妻郡の郡役場がこの町にあったことからもわかるように、この地域では有力な自治体であったようです。吾妻線が1945年に作られたときに
は、旧中之条町に中之条
駅と、市城駅という2つの駅が作られています。
明治の大合併の
直後の地図を見てもわかりますように、
伊参村と名久田村は、中之条の北側のそれぞれ、
西、東に隣接しており、その大きさも中之条とはそれほどは変わりません。しかし沢田村は旧中之条町の西北にある膨大な地域を占めており、それは新潟県にま
で至っていました。
さて、山間部である旧沢田村なのですが、四
万川、沢渡川、反下川に沿いに開けています。四万川は、新潟県の近くまで長く伸びている川であり、その上流の方に
四万温泉があります。四万川は下流の方で支流に分かれるのでが、このあ
たりが下沢渡という地域です。そして、四万川の下沢渡あたりより下流の方に山田村、折田村であった地域があります。さて、四万川の西側にあるこの支流をし
ばらく
さかのぼると、上沢渡川、反下川の2つの支流にさらに分かれます。西側の上沢渡川をしばらく行くと、温泉療養で知られている
沢渡温泉があります。
群
馬県の人にとっては中之条は吾妻地域の中心的な自治体なのだと思いますが、残念ながら、県外の人にはあまり知られていません。もしかしたらば、中
之条町はそれほど
大きな意図を持って沢田村を合併したのではないかもしれません。しかし、現在においては、奥地にあった四万温泉と沢渡温泉の存在により、間接的に中之条町
と
いう名前が知られることになっているのは面白いことであると思います。