翌日。穏やかな日差しが降り注ぐ中、レイは町外れの廃ビルに向かっていた。築30年というその建物は、人間が放棄した後はどうやら野良猫たちの住居として再利用されているらしい。向かう途中にも、ちらほらと猫の姿が見える。
太陽の光に眩しげに眼を細めながら、レイは今までの調査を振り返った。
『翡翠はまだ子猫だっていうから、それほど遠くまで行く体力を持っているとは思えない。その範囲内で猫の集まる場所はだいたいチェックしたし・・・。迷い猫広告にも反響がないから、誰かに保護されてるとも思えないよな。次の廃ビルが空振りだったら、もしかしてまた一から出直し!?勘弁してくれよ、おい。』
まさか、もう死んでたりして。不吉な想像に思わずため息をついたレイに、道行く人の視線が注がれる。どうしたのかな、という不審気もしくは心配そうなものが1割。その容姿に対する賛美の視線が8割。・・・そして、それらの視線に混じって注がれる、明らかに異質な視線が1割。
実は、ここ一時間ほど、ずっと後をつけてくる二人の男たちがいた。本人たちは尾行しているつもりなのだろうが、生憎とレイにはばればれである。一通りの探偵技術を身につけているレイは、自分が尾けられることに対しても敏感だ。二人組は、彼のセンサーをかい潜れるほどのプロではないようであった。
可愛い女の子ならともかく、野郎に付きまとわれても嬉しくも何ともない。むしろうざったいことこの上ないが、二日連続でトラブルを起こして相棒を怒らせるのも面倒であった。普段温厚な分、ユエが本気で怒ったら手に負えないのだから。――となれば。
レイは、視線を前方に固定したまま気配を探り、自分と彼らの間の距離を測った。およそ7メートル、時間にして約5秒。十分だ。
のんびりとしたペースをそのままに、角を曲がる。男たちの視界から姿が消えた瞬間、アスファルトを蹴りつけ、全速力で走り出した。
レイは短距離・長距離ともにかなりの走力の持ち主だが、特にスタートダッシュの速さは群を抜いている。静止状態から一気にトップスピードまで持ち込む瞬発力は、国体出場経験を持つ友人をして、「百メートル走なら勝てるけど、十メートル走じゃ勝てる気がしない」と言わしめるほどであった。その力をフルに使い、1,2秒後には次の角に到達する。
男たちが角を曲がったときには、黒衣の少年の姿はどこにもなかった。
古びた墓標のようにそびえ立つ廃ビル。情報どおり、ビル付近には何十匹もの猫がたむろしていた。その一匹にゆっくりと近づいてみると、がばっと起き上がり全身で警戒態勢をとる。嫌われたなぁと苦笑しながら、レイは周囲を一瞥した。黒い瞳、青い瞳、緑の瞳、茶色の瞳。白い毛、黒い毛、灰色の毛、三色の毛。一匹として同じ姿をした猫はいない。・・・だが何故か、レイには全ての猫が同じ顔をしているように見えた。
微妙な違和感にレイが首を傾げていると、くつろぎの時間を邪魔された猫たちが次々と散っていく。あっという間にその場には、文字通り猫の子一匹いなくなってしまった。心の中で彼らに謝罪しつつも、レイはその中に翡翠の姿がなかったことに落胆していた。もしかして、彼女は一箇所に滞在せず放浪しているのだろうか。だとしたら厄介なことになる。
『とりあえず、建物ん中も見てみるか。』そう考えて視線を動かしたレイの耳に、ふと微かな音が聞こえてきた。ぴたりと足を止めた彼は、全神経を耳に集中させる。今度ははっきり聞こえた。
“―――ミャー―――”
音は、赤錆びたドラム缶の向こうから聞こえてくる。それこそ猫のようなしなやかさで、レイは足音ひとつ立てずにドラム缶に近づき、そっとその裏をのぞき込む。―――翠の双眸と、眼が合った。
そこにうずくまっていたのは、エメラルドのような瞳をもつ、グレーの子猫だった。いや、よく見れば毛並みの所々には、初雪のような真っ白な毛が覗いている。本来は白猫なのに、汚れたせいでグレーになってしまったのだろう。そして首には、細い赤の首輪。間違いない。『翡翠』だ。
ようやく探し猫を見つけたことに安堵のため息を漏らし、レイは子猫を驚かさないよう、ゆっくりと手を伸ばした。逃げられるかも、という心配は杞憂に終わり、翡翠はちょこちょこと駆け寄ってくる。生まれて初めて飼い主とはぐれ、よほど心細かったのか。抱き上げてやると、かすかな鳴声をしきりとあげながらすり寄ってきた。その様子に、思わず笑みが零れる。
「よしよし、もう大丈夫だぞー。すぐにご主人のトコに連れてってやっから。」
腕の中に子猫のぬくもりを感じながら、レイは踵を返した。家を出てから、ろくな物を食べていないのだろう。子猫の体はひどく軽い。ゆかりが翡翠を迎えに来るまで、2時間はかかる。その間に、軽く洗ってミルクでも飲ませてやろう。
再び腕の中に視線を落とすと、見上げてくる翡翠と眼が合った。そのあどけない双眸を見たとき、レイは唐突に、先ほど感じた違和感の正体に気づいた。
『そっか。あの猫たちがみんな同じ顔に見えたのは・・・あいつらが皆、誰も信じてない眼をしてたから、か。』
生まれてからずっと箱庭の中で守られ、愛されてきた翡翠とは違う。彼らの多くは、生まれてすぐに庇護者を失い、自分ひとりで生き抜いてきた者たちだ。互いに協力することはあっても、信頼はしない。力を失うことは、死を意味する。そんなぎりぎりの世界で生きる緊張感が、彼らの眼には表れているのだ。
『――俺も、あんな眼をしてたのかな・・・。』
そうかもしれない。かつての自分を思い出して、レイはほんの僅かに苦笑した。近づくもの全てを拒み、憎んでいた過去。手負いの獣のようだった自分を変えた出会い。手に入れたもの。与えられたもの。奪われたもの。―――失ったもの。
レイは頭を一振りして、強引に追憶を断ち切った。忘れはしない。だが、過去に浸る趣味もない。黒い革手袋に包まれた左手を、そっと握り締める。
不思議そうに見上げてくる翡翠に「帰ろっか。」と笑いかけ、レイはまっすぐに前を向いて歩き出した。