午後7時。空に猫の爪のような三日月が浮かぶ頃、小さな公園に少女の声が響いた。
「翡翠・・・!!良かった、怪我してない?心配したんだから・・・。」
4日ぶりに愛猫と対面したゆかりは、大きな眼に涙を浮かべて喜んでいた。その細い腕に抱かれた翡翠も、安心しきったように身を委ねている。
マンションでユエが丁寧に洗ってやったおかげで、翡翠の毛並みは艶やかな白さを取り戻している。だが何故か、首に嵌められていた赤い首輪がなかった。
資料として借りていた写真を返しながら、ユエがゆかりに話しかける。
「これで、依頼は終了です。報酬についての相談はまた後日ということで。」
「うん。本当にありがとう、お兄ちゃんたち。」
そこで、黙って話を聞いていたレイが口を開いた。屈みこみ、ゆかりと視線を合わせて問いかける。
「その前に、聞きたい事があるんだ。ゆかりちゃんのお父さんは、翡翠がいなくなったこと知ってるのか?」
その質問に、ゆかりの表情が曇った。翡翠の首筋を撫でながら、寂しげに答える。
「ううん・・・お父さん、一週間ぐらい帰ってきてないの。『ちょっと長くなるかもしれないから、翡翠と留守番していてくれ』って。翡翠がいなくなったとき電話したんだけど、携帯電話も電源切られてて・・・だから、翡翠が迷子になってたことも知らないよ。」
その言葉に、ふたりは素早く視線を交わした。・・・予想的中。レイに代わって、ユエが柔らかい声で尋ねた。
「お父さんは、いつもそんなに長く家を空けるんですか?」
「ううん。お仕事で出かけることはよくあるけど、いつもはちゃんと電話くれる。」
「そうですか・・・。それじゃ、最後にひとつだけ。翡翠がいなくなってから僕たちに依頼するまで、家のそばで変な人たちを見かけませんでしたか?」
「なんで知ってるの!?そうなの、あっちこっちの家の庭とか覗いてて、近所のおばさんたちが警察呼ぼうかって言ってたんだよ。あ、もしかして、お兄ちゃんたちのお友達?」
ゆかりの言葉に、ユエは苦笑し、レイは爆笑した。
「あっはっはっは、友達か!まあ、もしかしたら知り合いではあるかもしれないけどな。間違っても友達ではないぞ。・・・ねぇ、そこのお兄さん方?」
「・・・え?」
面食らうゆかり。すると、その背後からしゃがれた男の声が飛んできた。
「・・・ふん、気づいていやがったのか。」
驚いて振り向いたゆかりの眼に、暗がりからぞろぞろと姿を現した男たちの姿が映った。その数はざっと15.6人というところか。どの男も、ナイフ、鉄パイプ、ブラックジャックといった凶悪な武器を手にしている。無骨なアーミーナイフが公園のライトを反射して輝くのを見て、ゆかりの顔から血の気が引いた。ユエが彼女を庇うように、その前に立つ。
一方、三度の飯よりトラブルが好きと評されるその相棒は、楽しそうな顔で集まった面子を見回していたが、ふとその中の一人に眼を止めた。秀麗な顔に不敵な微笑が浮かぶ。
「あらま、昨日のナンパ野郎じゃんか。今日はオトモダチと一緒じゃないんだ?」
それは、昨日の朝、繁華街でレイを襲った五人組の一人だった。顔の半分を大きなガーゼで覆った男は、銀色に光るチェーンを握り締めて叫んだ。
「やかましい!!てめぇ、昨日はよくもやってくれたな!」
「絡んできたのはそっちだろ。弱っちいくせに喧嘩売るなんて最悪だよなー。身の程知らずって言葉知ってる?オニイサン。」
「へっ・・・身の程知らずがどっちか思い知らせてやらぁ。この人数に勝てると思ってんのか?ちょっと腕が立つと思ってつけあがるんじゃねぇぞ!」
「たかが女の子一人相手にこんな頭数集める腰抜けども、何人いようが敵じゃねぇよ。このまま俺たちが別れたら、速攻でゆかりちゃんを襲うつもりだったんだろ。」
軽蔑のこもった言葉に、ゆかりの心臓は今度こそ跳ね上がった。片腕に翡翠を抱いたまま、ユエのシャツにしがみついて必死に叫ぶ。
「どういうこと!?その人たち、私を狙ってるの!?」
「ゆかりちゃんをっていうか、正確には翡翠を。・・・いや、それも正確じゃないか。ぶっちゃけ、あんたらの狙いはこれだろ?」
そう言って、レイは左手を掲げた。革手袋に包まれたその手が握っているのは、赤く細長い物体―――そう、翡翠がつけていた首輪だった。呆気にとられるゆかり。
「な・・・んで、そんなの欲しがるの?別に高いものじゃないのに・・・。」
「首輪自体が欲しいんじゃない。ちょっと見には分からないけど、この首輪の裏には小さなポケットが付いててね。そこにこんなのが入ってたのさ。」
手品のように首輪が消え、代わりにその手に現れたのは小さな鍵だった。形状からして、どこかのコインロッカーの鍵だろうか。それを見た男たちの間に、緊張が走る。口を開きかけたガーゼの男を制し、比較的年長の、リーダーと思われる男が問う。
「・・・お前は、そこに何があるか知っているのか。」
「さあ?でも、わざわざこんなとこに隠した上、やばそーなお兄さんたちが血眼になって探してるんだ。さぞかし大事なモンが入ってるんだろうねー・・・たとえば、硬派ジャーナリストが命がけで手に入れた、麻薬取引現場のスッパ抜き写真、とか?」
男たちの緊張が、殺気に変わる。その様子が、レイの推測が的を射ていることを物語っていた。ゆかりの頭を優しく撫でながら、ユエが補足した。
「中村健二氏は、最近ダウンタウンにおける若者の麻薬問題に取り組んでいたそうです。あなたたちの中にも、《Junk Street》の常連がいるようですね?・・・中村氏を捕らえたものの、肝心の写真は持っていない。ようやく隠し場所を聞き出したかと思えば、鍵を持ったまま猫はいなくなっている。どうにか捕まえて写真を取り返さなくてはならない。中村家付近を探す一方で、同じく猫の居場所を探っている、目障りな探偵もどきを排除しようとしたわけですか。」
ただの乱暴なナンパかと思いきや、まさかそんな裏事情があったとは。ユエのその言葉に、男は薄笑いを浮かべた。
「分かってるじゃねーか。そう、俺たちより先に猫を見つけられちゃ困るんだよな。けど、ちょっと痛い目にあわせて手を引かせようとすれば返り討ちに遭うし、後をつければあっさり逃げられるしよ。こうなりゃ、いっそのこと猫探しはそっちに任せようと思ってね。」
「自分は成果を横取りってわけだ。ヤなやつぅ〜。」
レイの酷評にも動じず、男はこう言い放った。
「おしゃべりはここまでだ。井上が言ったように、この人数ではお前たちに勝ち目はないぜ。おとなしく、鍵を渡しな。そうすりゃ・・・」
「―――ダメ!!!」
鋭い叫びが、男の口舌を断ち切った。ゆかりである。見開かれた大きな眼には、怒りと嫌悪の光がきらめいている。真っ向から男を睨みつけて、ゆかりは叫んだ。
「その人たちが悪い事した証拠なんでしょ!?お父さんがやっと見つけたものを渡すなんて、絶対ダメ!」
「小娘は黙っていろ。殺されたいか?」
ナイフを手に脅す男。しかし、ゆかりは退かない。
「お父さんは、自分の仕事を『やらなきゃいけないこと』って言ってた!その鍵は、お父さんの『こころ』なの!あんた達なんかに渡さないんだから!」
年端もいかぬ少女の芯の強さに、思わず怯む男。と、ふいに楽しげな笑い声が響いた。
「よーく言った、ゆかり。」黒衣の少年が、乱暴に少女の髪をかき回す。
「新しい依頼があるなら、引き受けますよ?」金髪の青年が微笑う。
白いライトに照らし出されたふたりを交互に見やり、ゆかりは息を吸い込んだ。
「お願い!お父さんを助けて!」
「「了解。」」
《よろず屋》たちのユニゾンに、男たちの怒号が重なった。