暗い空から、音もなく舞い落ちてくる白い雪。落葉し、骨のような枝が露になった街路樹にも、薄っすらと白い化粧が施されており、細い枝が重みで僅かにしなっている。煉瓦造りの町並みも、伏せ目がちに通りを急ぐ人々も、その全てを覆い隠そうとするかのように、雪は静かにこの街に降り続いている。
 短い冬の日はとうに沈み、街は長い夜の入り口にある。白に染め上げられた路上を、人家の窓から漏れる明かりと、途切れ途切れに設置してある街灯の頼りない光が、ぼんやりと照らし出していた。 

 ――ざく、ざく、ざく。

 さほど遅い時間でもないのだが、しんと静まり返った路上。そこに、ふと規則的な足音が響いてきた。白いカーペットを革のブーツで踏みしめながら歩いているのは、ひとりの青年だ。
 寒風を遮るように立てられたコートの襟と、夜だというのにかけられたままのサングラスのせいで、顔のほとんどは隠れてしまっている。だが、均整の取れた長身と、この国では珍しい金の髪だけでも、十分すぎるほどに印象的だ。時折ちらりと覗く眉や鼻筋の形の良さは、見る者に、無粋な目隠しなどなしで彼の素顔を観賞してみたいと思わせるに十分だった。

 ――ざく、ざく、ざく。

 しかし、それほど人目を惹く容姿をしていながら、彼の存在感は、何故かひどく希薄だった。彼の後ろには、確かに一定の間隔で刻まれた足跡が残っており、足元には街灯の光による薄い影がわだかまっている。それなのに、まるでその姿が幻か何かであるような、今にも雪に溶けて消えてしまいそうな、そんな不思議な雰囲気が彼にはあった。他人と視線が合うのを厭うかのように、緩やかに伏せられている目元のせいだろうか。その姿は、人との関わりを――否、この世界そのものを拒絶するような、どこか冷たい隔絶感を感じさせるものだった。

 ――ざく、ざく・・・・ざく。

 と、一定のペースを保っていた青年の足取りが、ふと乱れた。戸惑ったように遅くなった歩みが、ぱたりと途絶える。途端に耳を襲う、痛いほどの静寂の中、青年は黙然と路上のある一点を見つめていた。

 

 ――真白いカーペットにわだかまっている、闇よりなお黒い・・・・黒。

 

 こくり。端整な顔には何の表情も浮かばなかったが、僅かに傾いた頭が、青年の困惑を示している。暫し、そのままの体勢で「それ」を見つめていた青年は、やがてゆっくりと首の角度を元に戻した。

 

 ――ざくり。

 

 革のブーツが、白いカーペットを踏みしめる。ゆっくりと歩き出した青年は、そっと長い腕を伸ばし・・・・「それ」に、触れた。

 

 

 Departure

 

 

 冬の日は短い。赤みを帯び始めた太陽の光が、キャンパス内を闊歩する学生たちと、本館に取り付けられている古色蒼然とした時計塔を照らし出している。この医科大学は、国内でもトップレベルの水準と、数世紀に渡る伝統を併せ持つ名門校である。校舎やキャンパス内の各設備は、歴史の重みを感じさせる外観を損なわぬようにとの配慮の下に、最新式の機材を導入してあり、高度な実験や実習を可能にしていた。
 大学内の何処からでも見える時計塔の針は、本日最後の授業が始まるまであと五分である事を示しており、講義が残っている者は、足早に次の講義が行われる教室へと急いでいる。既に今日のお勉めを果たした者たちは、両手に分厚い資料を抱えて研究室へと向かったり、或いはいそいそと身支度を整えて恋人との待ち合わせ場所に向かったりと、各々の放課後に備えて活動を開始していた。と、そんな硬軟さまざまな若者たちで賑わう広場に、ふと一際大きな声が響き渡った。

 「おーい、クヅキ――!!」

 声の大きさとは対照的に、声の主は小柄な男性だった。くるくるとパーマがかかっている髪は限りなく茶に近いブロンドで、童顔に度の強い丸眼鏡をかけている。彼の呼びかけに応える声は無かったが、彼は全く頓着する事無く足を速める。そして、彼が迷う事無く、前方を歩いていたひとりの青年の肩を叩くと、ひどくそっけない返答が彼の上方から降ってきた。 

 「・・・マーク、うるさい。そんな大声を出さなくても聞こえているよ。」
 「聞こえてんならちょっとくらい立ち止まってくれてもいいだろう!?」

 振り向きもせずにすたすたと歩いていく青年に追いすがりながら、マークと呼ばれた男は、息を切らしながらそう抗議した。彼が、くしゃくしゃになってしまったブラウン・ブロンドの髪を手櫛で撫で付ける間、青年は彼に一瞥をくれる事も無く、前を向いたまま機械的に歩き続けている。ただ、そのペースは、自分より頭ひとつ小さい小柄な彼を気遣ってか、先程よりほんの少しだけ緩められていた。
 断りも無く青年に並んで歩きながら、マークは大きく息を吐いて呼吸を整え、丈高い友人を見上げた。深いブラウンのその瞳に楽しそうな光を浮かべ、明るい声で話しかける。

 「クヅキは、今日はもう終わりだろう?これから、整形外科と第一外科合同でディナーパーティーをやるつもりなんだが、良かったら来ないか?」
 「・・・いや。すまないが、今日は早く帰りたいから。」
 「お前、この前もそう言って来なかったじゃないか。僕はね、今日はなんとしてでもお前を連れて来いと、幹事役のジョンから厳命を受けているんだ。お前が来てくれないと、僕は女性陣から総スカンを食うんだぞ!それでもいいのか!?」
 「そうか。ではすまないが、僕のために犠牲になってくれ。」
 「ちょっと待てー!!」

 コンマ1秒の躊躇いもなく返された冷たい返答に、マークはがしっと青年の襟首を引っ掴んだ。「逃がすかぁ!!」と言わんばかりのその行動。そのまま歩を進めたら絞首刑に処されてしまうため、青年も流石に足を止め、渋々振り向いてマークを見下ろした。
 そうは言っても、青年は顔の半分を色濃いサングラスで隠してしまっているため、その目元は見えない。だが、鮮やかな金色の前髪から覗く形の良い眉が、ほんの少しだけ寄せられている所からして、上機嫌と言うわけではなさそうだ。それは解っていたが、マークもそれで引き下がる気はないらしく、見えない双眸を色硝子越しに睨みつけた。

 「今日という今日は逃がさないぞ!どうせ帰ったらひとりで引きこもるだけなんだから、たまには楽しく同級生と語らってみたらどうなんだ!!」
 「講義内のディスカッションで、同級生とは嫌でも語らわなきゃいけないだろ。なんで放課後にまで顔を合わせなきゃならないんだ、面倒くさい。」
 「こっの、根暗!社会不適格者!!お前はもうちょっと社会性とか協調性とかをだなぁ・・・・。」
 「必要ない。大体、パーティーに参加したところで、ろくに話した事もないような女性にべたべたくっつかれたり、なんだか勝手に火花を散らす女性二人の間に置かれて何故か肩身の狭い思いをしたり、これまた何故か同性に冷たい視線を浴びせられたりするのが関の山じゃないか。ストレスにこそなれ楽しくなんかないよ。それなら新しいプログラムでも開発してた方がよっぽど楽しい。」
 「だぁぁあぁあ!!だからなんでお前はそーなんだぁ―――!!!」

 頭を抱えて叫ぶマークに、青年はかくりと首を傾げた。どうして彼は憤っているのかと訝しんでいるのだろうが、その動作は、自動人形(オートマタ)がからくりによって身動きしたかのような、なんだか妙に非人間的な動きだった。

 「どうして怒ってるんだい、マーク。」
 「お前のせいだろうが!!・・・・もうヤダ、こんだけ美形で優秀な超優良物件なのに、どうして人間として肝心なトコがこうなんだよコイツ・・・・!」
 「あ、さりげなく貶してくれたね。結構傷ついたぞ。」
 「真顔で嘘つくな!ったくもう、僕は怒ったぞ!特に用事がないのなら、今日は何が何でもパーティーに出てもらう!面倒くさいとか言ってみろ、お前のアパートに大集団で押しかけて朝まで大騒ぎしてやるからな!!」
 「マーク・・・君、僕がアパート追い出されて路頭に迷って凍死してもいいのかい?」
 「安心しろ、追い出されたら責任もって僕の家に泊めてやる。さぁどうする!?」
 「・・・・どうする、って言われても・・・どっちもお断りだよそんなの。」
 「キィ!まだ言うか!」
 「落ち着けってば。ちゃんとした理由があればいいんだろう?」

 噛み付きそうな顔をしたマークに、青年はどこまでも真面目な声で言った。

 「早く帰って、食事を作ってやらないといけないんだ。それだけじゃ理由としては不十分かな?」
 「へ?食事?」
 「そう。」
 「・・・・女か!?」
 「まさか。今はフリーだよ、僕は。・・・・ああもうこんな時間か、そろそろ行かなきゃ。そういうわけだから、今日は僕は不参加ね。女性陣に総スカン食らわないように、上手い事言っておいてくれ。」
 「あ、ちょっ・・・クヅキ――!?おいっ、誰なんだよそれ――!?」

 ぽん、とマークの肩をひとつ叩き、話は終わったとばかりに歩き出してしまった背中に、マークの動揺した声がぶつかって弾ける。広い背中は振り向きもしなかったが、マークの最後の問いに対する答えだけは、風に乗って彼の耳に届けられた。曰く。

 

 「・・・この前拾った、やせっぽちの野良猫さ。」

 

 

 

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