ついさっきまでははっきりと浮かび上がって見えた手元の活字が、いつの間にか薄い闇の中に溶け込み始めていた。少年は、すっかり日が傾いた外の景色と、鏡のように自分の顔を映し出す窓ガラスに視線を流し、機械的にページを繰っていた分厚い本を、ぱたりと閉じた。
(・・・そろそろ、カーテン閉めなきゃな。)
栞を挟まなかったため、細い指先に押さえられていたページは一瞬で無数の紙の束の中に紛れ込んでしまったが、別に構わなかった。どうせ、読んでいたわけではないのだ。ずしりと手に重いそれを抱え上げ、ベッドの脇に据え付けられている大きな本棚にそれを戻した少年は、清潔なシーツの上で片胡坐をかき、色とりどりの背表紙の群れを眺め渡した。
ごく普通の造りであるこのアパートには、不似合いなほどに大きな本棚。そこにぎっしりと詰め込まれた分厚い書物は、少年にはタイトルすら読めないものも多い。辛うじて解るのは、それらの蔵書群が、言語も色々ならば分野的にも多方面に及んでいるものらしいという事だけだった。
(・・・一体どういう基準で集めたんだろ、この本。)
ちなみに、少年がさっきまで手にしていた本は、脳医学関係の専門書だったようだ。一応英語の読み書きはマスターしている彼だったが、あまりにも専門用語が多すぎたため、最初の五分で早々に理解する努力を放棄していた。ページは捲っていたものの、本当に捲っていただけで、内容など見てはいない。ただ、「本」という、生きていくためには別に必要不可欠ではないもの――平たく言えば「無駄なもの」に触れるのは、本当に久しぶりだったため、何となく手元に置いて眺めていただけだった。
ずらりと並ぶ本の群れを、どこか懐かしげな目で眺めていた少年は、やがてそこからゆっくりと視線を外した。既に、室内はすっかり暗くなっている。夕方には帰ると言っていたこの部屋の持ち主は、多分もうすぐ帰ってくるだろう。それまでにカーテンくらいは閉めておかなければ。
そう考えてベッドから片足を下ろした彼は、次の瞬間脇腹を襲った鈍い痛みに、思わず息を詰めた。動きを止めてそろそろと息を吐き、どうにか痛みをやり過ごす。
(やっぱ、動けば痛むな・・・。当たり前か、アバラにヒビ入ってんだから。)
連鎖反応を起こしたように、体のあちこちがずきずきと疼き出した。それでもどうにか立ち上がり、軽く左足を引きずりながら窓に歩み寄った少年は、左手だけで左右のカーテンを順に引いた。その際、ちらりと一瞥した路上には、無数の足跡が残された雪のカーペットが延々と敷き詰められている。自分も数日前はあそこに横たわっていた事を思い出した少年は、その冷たさを思い出したかのように小さく身震いし、シャッと勢い良くカーテンを閉めた。
(そうだ、リビングの方も閉めなきゃ。)
この家にあるもうひとつの窓の存在を思い出し、彼はひょこりひょこりとぎこちなく方向転換をした。そして、彼がリビングへと続くドアを開けた時。
――かちゃり。
偶然にも全く同じタイミングで、玄関の鍵が外れる音がした。
+++
(やれやれ・・・クヅキのやつ、相変わらずもてるなぁ・・・・。)
苦笑とため息を同時に零すという器用な芸当を披露しつつ、マークはアパートの階段をすたすたと上っていった。友人の部屋は二階の一番端にある。何度も訪れた部屋であるから迷う事も無く、彼は規則的に並んだドアの前をどんどんと通過していった。
青年の方は、現在階段の入り口で足止めを食っている。アパートに辿り着いた途端、そこで待っていた若い女性に声を掛けられた彼は、無造作に自宅の鍵をマークに渡して、先に行っているよう指示をしたのだ。綺麗に着飾った女性の様子や、彼女の青年に向ける艶めいた視線を見れば、その用件など一目瞭然であったから、マークはそそくさとその場を離れてきた。友人とはいえ、他の男が告白を受ける場面を見物していたって面白くもなんともない。
(あの人、どう見ても同じ大学の学生じゃないよな・・・街中でクヅキを見初めでもしたのか?っていうか、自宅まで押しかけてくるって大した根性だよなぁ。)
まあ、前例がないわけではないから、彼女が特別大胆だとは言えないけれど。マークは、預かった鍵をくるくると指先で回しながら、綺麗な人だったなと呟いた。
(・・・あれが、クヅキの新しい恋人か。)
『恋人になるのだろうか』、ではない。そんな疑問形はすっ飛ばして、マークはあのふたりが付き合うのだという事を、既に確定事項としていた。
問題はその後、その関係がどのくらいの間続くのかだ。今までのところ最長記録は二ヶ月半だが、記録更新は成るだろうか?いっその事、同級生を集めて学内トトカルチョでも開催してやったら面白いかもしれないと、マークは含み笑いを零した。勿論、実際にやるとなったなら、自分は更新不成立に賭けるけれど。
そんな事をつらつらと考えているうちに、彼は目指すドアの前に辿り着いていた。襟元のマフラーを緩めながら、預かった鍵で手早く錠を開ける。
そして、冷たく冷え切ったドアに手を掛けた瞬間。マークは何を思ったか、突然にへらと相好を崩した。
「ま、あいつの恋人騒動なんてどうでもいっか。それより、いざ!噂の仔猫ちゃんを拝見しま〜す☆」
そう。そもそも、何故マークが青年の家に押しかけてきたかというと、彼が拾ったという『野良猫』が見たいが故であったのだ。狷介孤高を地で行き、動物どころか人間と関わる事すら厭うている青年がわざわざ連れ帰ってきた子だと聞いて、無類の動物好きであるマークが黙っていられるはずがない。きっとさぞかし可愛い子なのだろうと、マークは期待に胸を膨らませた。
(どんな子かなぁ・・・雑種かな、純血種かな?ペルシャ猫みたいなふわふわなのもいいけど、アビシニアン系のすらっとしたフォルムも捨てがたいよなぁ・・・あ〜、早く見た〜い!!)
先ほどの女性の容姿を観察した時よりも、余程熱心である。ドアノブを握ったままウフフフと笑う様は非常に怪しかったが、幸い目撃者は無かった。
「では、おっじゃましまーす!」
勢い良くドアを開くと、マークはずかずかと室内に入り込んだ。勝手知ったる何とやらで、迷わず玄関脇にあるスイッチを押し、薄暗い部屋に明かりを灯した彼は、相変わらず男の一人暮らしとは思えないほど綺麗に片付けられているリビングに感嘆しつつ、テーブルの下や本棚の陰を覗いていく。その都度、「猫ちゃ〜ん、何処にいるのかな〜?ここかな〜?」などと言っている辺り、誰かに見られたら変人のレッテルを貼られるのは間違いないだろうが、まあ動物好きなんて大概こんなもんである。
「・・・・・ん?」
だが、そんな感じで猫の姿を捜し求めてきょろきょろしていたマークだったが、ふと微かな違和感を感じて眉を寄せた。リビングの中央に立ち、改めてぐるりと室内を見回す。
彼の正面には、カーテンがきっちり引かれた窓がある。左手にはベッドルームへと続くドアがあり、振り返れば同じ素材で作られているキッチンのドアが目に入る。そのさらに奥には、マークが先ほど通ってきた玄関のドアが見えた。バスルームはベッドルーム経由でしか行けないため、リビングにある扉はこの三枚のみである。
「・・・・・?」
ドアは全てきっちり閉まっているし、室内も片付いている。別にいつもと違う所はないはずなのに、何故か拭いきれない違和感。
(ドア・・・本棚・・・テーブル・・・椅子・・・・テレビ・・・・カーテン・・・・・・・・・カーテン?)
丸眼鏡の奥の目が、軽く見開かれる。微かな違和感の正体に気付いて、マークは一瞬その場に立ち尽くした。
正面の窓に丁寧に引かれた、淡いブルーのカーテン。それがおかしいわけではない。おかしいのは、それが『閉じている』という事である。
彼は、今までにも何度もこの部屋に訪れた事がある。それは朝だったり昼だったり夜中だったりしたが、一番多いのは今日のように、講義帰りに彼にくっついて来て立ち寄るケースである。そしてそういう場合、このカーテンは必ず開いていたのだ。以前、どうせ帰りは夜になるのだから、家を出る時に閉めていったらどうかと言った事があるのだが、青年はガラス越しにでも太陽の光を部屋に入れておきたいからと言って、日中は必ずカーテンを開けているのが常だった。
つまり、その本人がまだ帰宅していないというのに、このカーテンが閉まっているのはおかしいのだ。猫はカーテンにじゃれる事は出来ても、こんな風にきっちり閉める事など出来ない。
――すなわち、この部屋には、さっきまで居住者以外の人間がいた・・・若しくは現在進行形で『いる』ということになる。
そこまで考えて、マークは再び周囲をきょろきょろと見回した。だが、その顔には最早笑いはなく、妙な緊張感に満ちている。
(ど・・・・泥棒か・・・・!?)
普通ならば、他の友人が来ているのかもしれないとか、ひょっとしたら恋人が泊まっていたのかもとか考える所だが、マークはそうは考えなかった。極めてとっつき難いこの部屋の主にとって、自宅にやって来るくらいに親しい友人は自分くらいだということを知っていたからである。ついでに言うならば、彼は「今はフリーだ」と言っていたから、恋人という線もない。招かれざる客が潜んでいるとマークが判断したのも、無理からぬ所であった。
青年を呼びに行くべきだろうか。緊張の中、マークがそう考えた時。
――カタン。
「!!!」
マークの心臓が跳ね上がった。見開かれた目が、正面にある木製のドアを捉える。
小さなキッチンに繋がっている、その扉。さっき確認した時には間違いなく閉まっていたはずのそれが、今・・・・ほんの少しだけ、開いている。
「・・・・・・・。」
ごくり。息を呑んだマークは、ドアから視線を外さないまま、そっとコートを脱いだ。それを右手に構えると、じりじりとドアとの間隔を詰めていく。
この時点で、彼は完全に相手を不法侵入者だと決め付けている。そこに潜んでいるのがどんな相手なのか知らないが、部屋でニアミスしながら取り逃がしたとあっては友人に面目が立たないという思いが、彼の背中を押した。
まあ、すぐに青年もやって来るし、乱闘になったとしてもほんの僅かな間持たせればいいやという、いささかせこい計算もそこには入っていたのだが。それには知らぬ振りをして、マークは静かにキッチンのドアに手をかけた。そろそろと息を吐き、心の中でカウントダウンを開始する。
(5・・・4・・・)
ノブを握る手に、力が篭る。
(3・・・・2・・・・1・・・・・)
掌に汗が滲むのが、自分でも解った。
(・・・ゼ)
――バンッ!!
「!!?」
ゼロと数え終わる、まさにその瞬間。勢い良く、何の前触れもなくドアが引かれ、思いっきり虚を突かれたマークはキッチンの中に転がり込みそうになった。危うい所でたたらを踏んだ瞬間、何か小さなものが、脇を素早くすり抜ける。それが何であるのか確認する余裕もなく、マークは咄嗟に、手にしていたコートを振り向きざまに投げつけた。
「―――うわっ!?」
小さな悲鳴と、どさっという音。特に狙ったわけではなかったのだが、宙を舞ったコートはキッチンから逃げ出した人影の足に絡み、見事にその人物を転倒させていた。
「いっ・・・・!!」
「このっ、逃がすか!!」
苦痛の悲鳴が上がったが、マークも頭に血が上っている。どうにか体勢を整えた彼は、床にうつ伏せている人影に飛び掛り、体重をかけて押さえ込んだ。
「痛ぅっ!!や、放せ、よっ!!」
「大人しくしろ、こら!!」
暴れる体を無理やり押さえつけたマークは、ふと掴んだ肩の薄さに気付いて、ぎょっとしたように動きを止めた。小柄で貧相な体躯の自分から見ても、あまりにも華奢すぎる。
思わずマークが力を緩めた瞬間、腕の中の体が半回転した。ほの白い顔の中、爛々と輝く双眸が、マークを睨みつける。そんな場合ではないと解っていたのに、マークはその深い漆黒の瞳に、思わず見惚れてしまった。ほんの一瞬の自失。だが、一瞬で十分だった。
「・・・こんの、変態ヤロ―――ッ!!!」
・・・・・・・・・・・。
マークの凄惨な悲鳴は、その怒声にかき消されて外には届く事はなく。
「・・・何事ですかこれは?」
やがて女性と別れて自宅に帰ってきた青年は、リビングの床に座り込んで息を切らしている黒髪の少年と、股間を押さえて悶絶している友人の姿を発見して、玄関先で茫然とする羽目になったのだった。