「・・・・まったく、この粗忽者が。」

 リビングの隅に置かれたテーブルに伸びているマークを冷たい目で一瞥し、青年は一片の同情も容赦もない一言を投げつけた。質素な器を棚から取り出し、ありあわせの野菜やハムを入れたコンソメスープを丁寧によそっていく彼の声からは、ほんの僅かな苛立ちと呆れは垣間見えるものの、未だに苦悶の声を上げている友人への心配は全く感じられない。鍋の蓋を閉めると、青年は棚から真新しいパンを取り出して、手際よくナイフを入れて切り分け始めた。その手つきは実に慣れたもので、彼が普段からこまめに自炊をしている事がよく解る。

 「君との付き合いも結構長いが・・・。僕は、君があんな子どもを襲うような趣味があったとは知らなかったよ。」
 「襲ったわけじゃないよっ!!」

 がばっと身体を起こしたものの、その途端に下半身が抗議の悲鳴を上げたため、マークは再びテーブルに沈んだ。椅子の上で身体を丸め、時折とんとんと腰を叩くその様は、かなり情けない。苦痛に顔を歪めながら、マークはそれでも呻くように呟いた。

 「ってゆーか、元はと言えば、お前が誤解を招くような言い方をするからだろ・・・!?『猫を拾った』とか、真顔で大嘘吐きやがって!」
 「別に嘘を吐いたつもりはなかったが?」
 「〜〜〜〜〜っっ、どこが猫だよっ、思いっきり人間じゃないかあの子!!!」

 バンッとテーブルを平手で叩き、マークはお盆で皿を運んできた青年を睨みつけた。流れるような手つきで食卓を整えていく青年の方は、嫌そうにその視線から顔を逸らす。

 「さっきのお前の台詞をそのまんま返してやるぜ、このロリコン!!」
 「【ロリコン】・・・ロリータ・コンプレックスの略称。性的対象として少女・幼女を愛する事。ナボコフの小説の女主人公の名に由来。・・・彼は女の子じゃないけどな。」
 「そーゆー事言ってんじゃない!!ったく、お前があんな小さな子を囲うような男だったなんて知らなかったぞコラ!!」
 「そうだな、僕も初耳だ。」
 「誤魔化すな――!!」

 飄々とした受け答えを繰り返していた青年だったが、変態だの犯罪者だのといった不愉快極まりない罵声を延々浴びせられて、流石に頭にきたらしい。端整な口元に薄っすらと微笑を浮かべて、初めてサングラス越しの視線を彼に向けた。

 「・・・・マーク?いい加減にしないと、そこの窓から落とすよ?」

 綺麗なくせに恐ろしく冷たい微笑と、冗談とも思えぬ乾いた口調は、何ともいえない迫力を醸し出している。チンピラ程度なら顔色を変えて退散しそうな気迫だったが、マークは既に慣れたものでけろりとしていた。
 だが、結果から言えば、ここでおとなしく口を噤んでおいた方が良かったかもしれない。懲りずに口を開いたマークは、自分の背後に視線を流した青年が、僅かに眉を動かしたのに気付いていなかった。

 「あーあ、最近は今までに輪をかけてコンパ出席率が低いと思ってたら、あーんなイイコちゃんがいたなんて・・・・黙ってるなんてクヅキも水臭いよなー。」
 「おい、マーク・・・・・。」
 「まぁあの子って男の子らしいけど。別に、僕は男同士だからって差別はしないしー。」
 「いや、だから・・・・。」

 ―――すっ。
 ・・・マークの背中に、ふと影がかかった。

 「・・・ここだけの話、何処まで行ってんの?もしかしてもう手ェ出しちゃっ・・・・」

 いささか好色な笑みを青年に向けたマークが、何故かテーブル上のスープ皿を素早く持ち上げた彼に、表情を怪訝なものへと切り替えかけた瞬間。

 

 ―――ゴッ!!!

 

 「ぶふぅっ!!?」

 マークは頭頂部に凄まじい衝撃を食らい、顔面からテーブルに叩きつけられた。固い木材と鼻先が思いっきりぶつかり、目の前から星が散る。何が起こったのか解らないながらも、反射的にテーブルから顔を引っ剥がそうとしたマークは、何かに頭を押さえつけられているのを感じてもがいた。何やら固く角のあるものが、ごりごりとつむじの辺りに押し付けられている。正直言って、かなり痛い。
 混乱してがむしゃらに両手を振り回すマークを押さえつけ、加害者は低い笑い声を上げた。

 「ハッ・・・・さっきから黙って聞いてりゃ、言いたい放題言ってくれるじゃねぇか、アァン・・・・?」

 後頭部を押さえつける力が強くなる。鼻が圧迫されているせいで呼吸が苦しく、マークはじたばたともがいた。突然の暴挙と、凄まじい不機嫌の色を滲ませた見知らぬ声の迫力に混乱し、プロレスよろしくテーブルをばんばんと叩くマークを見るに見かねたか、それまでスープ皿を両手にキープしたまま静観していた青年が、呆れたような声を発した。

 「・・・腹が立つのは解りますが、その辺で放してあげてくれませんか?多分あと十秒くらいでその人死にますよ。」
 「このまま落としちゃダメなのか?」
 「気分的にはそうしたい所ですけど、結局面倒見るのは僕なんです。」
 「チッ・・・・しょーがねーな・・・・。」

 不満の色がありありと浮かんだ台詞と、舌打ちと共に。頭を押さえつけていた何かが、すっと消えた。

 「・・・ぶはぁっ!!」

 勢いよく顔を上げ、鼻血が出ていないか咄嗟に確認したマークの背後から、澄んだ声が投げつけられた。

 「・・・そいつに感謝しろよ、オニーサン。大家の命令じゃなかったら、そのツラ完膚なきまでに真っ平らにしてる所だったぜ。」
 「ふぁんらほ〜(何だと〜)!?」

 がばっ!!
 勢いよく起き上がり、背後の加害者を涙が滲んだ目で睨みつけたマーク。だが次の瞬間、その目が大きく見開かれた。

 

 ―――最初に目に入ったのは、漆黒。

 

 「・・・・さっきはお互い、顔見るどころじゃなかったからな。『初めまして』と言うべきか?ん?」

 肩のラインを少しだけ越える、艶やかな黒髪。
 無造作に流されたそれは、毛先が僅かに傷んでいるものの、思わず触れたくなるような艶やかさを持っている。

 「貴方・・・踵落としを決めた挙句、人の頭を靴の踵でゴリゴリやっといてそんな今さら・・・・。」

 薄手のトレーナーとスラックスの中で泳ぐ、華奢な肢体。
 おそらくは青年の物なのであろう、サイズの全く合わない服の襟元から覗くのは・・・象牙を彫りこんだような白い肌と、それより更に白い包帯。

 「初対面の人間に、男に飼われてるペット呼ばわりされて気分がいいわけないだろ。」

 不愉快そうに眉を顰めていても、それでも少女かと見紛うほどに秀麗な顔立ち。
 そして、その中心に輝くのは、強い光を宿した黒曜石の瞳。

 

 ―――それは、まるで・・・闇のような美しさを持つ少年だった。

 

 「キミは・・・・誰?」

 目の前に立つ少年を、思わず頭から爪先まで眺め渡してしまったマークは、ぽかんとしたままそう呟いた。さっき取っ組み合った時には、綺麗な眼だと一瞬思っただけで、その容姿全体について観賞する余裕など無かったのだ。
 だが、目の前の少年は、そんなマークの問いに不敵な微笑で返した。秀麗な顔立ちにそぐわぬ皮肉っぽい笑い方に、マークはまた目を奪われる。

 「人に名前訊く時は、まず自分から名乗るモンだろ。
  ・・・・と言いたいトコだけど。ま、あんたの名前はもう知ってるからいいや。マーク・アディソン、だったっけ?」
 「へ!?な、なんで僕の名前・・・・!」
 「そこの男から、何度かアンタの話は聞いてたから。ほとんど唯一に近い友人だ、ってね。」

 言いながら、彼はマークの斜め前の席へと歩いていく。ほんの少しだけ不規則な足音に、彼が左足に怪我をしている事が知れる。さっきといい今といい、蹴りなんぞ繰り出して大丈夫だったのだろうか。

 「あ、あの・・・」
 「・・・けど、一連の言動見てると、随っ分と失礼極まりない人間みたいだなー?」
 「ヒィ!ご、ごめんなさい!!」

 考えてみれば、初対面ではいきなり押し倒され、怪我をしているというのに取っ組み合いをする羽目になり、あまつさえ同性との関係を疑われたのだ。どんなに温厚な人間であっても、大幅に機嫌を損ねるに決まっている。

 ――しかも彼は・・・・何と言うか・・・・こう言っては何だが、可愛い外見とは裏腹に、かなり気性の激しいタイプであるようで。

 にこやかに微笑みつつ目が笑っていない少年に、マークは震え上がった。よくよく考えてみれば、こちらとて股間を蹴られたり頭に踵を落とされたりと相当な反撃を食らっているのだから、失礼はお互い様なような気もするが、そんな事を言ったら今度は鉄拳が飛んできそうだ。マークは、椅子の上で正座をする勢いで、自分より一回り小さな少年の前でかしこまった。相手の出方がさっぱり予測できない分、ある意味金色の青年を相手にするよりおっかない。

 

 ・・・だが。

 

 「くっ・・・・あっははは!!」
 「・・・・へ?」

 マークは呆気に取られた。さっきまでの仮面のような微笑みは何処へやら、黒髪の少年は、何故か小さな身体を丸めながら、けらけらと笑い転げている。

 「何、何もそんなに硬直しなくたって・・・!!はっ、ふふふ・・・・っ、けほっ・・・・!!」
 「あんまり笑うと、肋骨に響きますよ。」
 「っ、解ってんよ・・・!!くっそ、痛てて・・・・ふふ、っくくく・・・・!!」
 「はい・・・・?」

 時折苦しそうに咽せ、脇腹を押さえているのは、おそらくそこにも怪我を負っているからであろう。それでも、少年は笑い止む事無く、心底楽しそうに肩を震わせている。そんな彼を眺めながら、青年は呆れたように肩を竦めていた。

 (ど、どゆ事・・・・?)

 「あ、あの・・・・?」
 「ふふ、ごめんごめん・・・あんまりアンタの反応が素直なもんだから、面白くて。つい。」

 ようやく笑いの発作が収まったらしい少年は、目尻に滲んだ涙を拭ってそう言った。その目には、さっきまでの剣呑な光は微塵も存在しない。どちらかと言えば人懐っこそうな、明るい光がそこにはあった。

 「ペット呼ばわりはともかく、押し倒された事は別に怒ってないよ。」
 「へ?」
 「そりゃ結構痛かったけどさ、無人のはずの部屋に人の気配があったら、怪しいと思うのは当然だし。そもそも、俺が逃げ出すような真似をしたのも悪かったんだし。」
 「というか、なんで貴方逃げ出したりしたんです?普通に出てくれば良かったのに・・・・。」
 「いやだって・・・『仔猫ちゃ〜んvv』とかなんとか言いながら部屋の中うろついているから、てっきり電波系が不法侵入してきたのかと思って。そんなのと関わり合いたくないし。」

 そもそも、この身体で乱闘なんてしたくなかったし。
 あっけらかんとそう笑った少年の語尾に、ごとんという鈍い音が重なった。何故か、再びテーブルに突っ伏したマークに、二対の視線が注がれる。

 「あれ?どしたの?」
 「・・・・なんか、安心したら気が抜けちゃった・・・・・。」

 冗談抜きで、シメられるかと思った。ため息混じりにそう呟くと、マークはのろのろと顔を上げた。
 いくら彼が怒っていないとはいえ、この少年に、自分が苦痛を与えた事は間違いない。頬杖をついている少年の目を見ると、謝罪の言葉はするりと口から零れ出た。

 「えーと、痛い思いさせて、ゴメンネ?」
 「うん、もう平気。」
 「・・・あと、失礼な事言ってごめんなさい。まさか聞いてるとは思わなかった・・・・って、これは言い訳だけど。」
 「ん。」

 短く答えると、少年はにっこりと笑った。裏のない笑顔。

 「じゃ、俺も。さっきと今と、二回も蹴っ飛ばしてゴメンな?」
 「え?あ、うん。」

 思いがけない少年の謝罪に、間の抜けた返答を返したマーク。その目の前に、白い手がすっと差し出された。

 「?」
 「お互い謝ったから、これでおあいこ。・・・・改めて、『初めまして』、しよーぜ。」
 「ふふっ・・・・そうだね。」

 戸惑いに揺れていたマークの童顔に、ふっと柔らかい笑みが浮かぶ。小さなその手をそっと握り、マークはゆっくりと口を開いた。

 「初めまして。僕は、マーク・アディソン。・・・・キミの名前を、教えてくれる?」
 「初めまして、マーク。俺は・・・・。」

 

 ――漆黒のくせに、どこまでも澄んだ瞳。

 ――銀の鈴を鳴らすような声が、言葉を紡いだ。

 

 「・・・俺の名前は、レイ。冴羽、零だよ。」

 

 

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