――レイとマークが、いささか強烈過ぎる初対面を果たした、その一週間後。

 「・・・あぁ、やっぱりここか。探したぞ、クヅキ。」
 「やぁ、マーク。」

 ひとり書き物に専念していた青年は、軋むドアの隙間から顔を覗かせた友人を目に止め、ひらりと左手を振って見せた。大して張り詰めてもいないその空気から、彼が今のところはそれほど集中しているわけではないと踏んで、マークは恐ろしく散らかっている室内へと足を踏み入れる。うっかり触れれば雪崩が起きるのは確実なダンボールの山にびくびくしつつ、慎重に足場を探して、窓際のテーブルを占領している彼の元まで近寄っていく。彼のコートの裾が、傍らの本の表紙に軽く触れると、ふわりと舞い上がった埃が、窓から射し込む夕陽にきらきらと輝いた。
 一応は研究室という名前を与えられてはいるものの、その実態は単なる物置であるこの小部屋は、誰も利用しなくなった文献やら過去の学生たちが提出したレポートやらで、床面積の九割が埋没している。辛うじて人の存在を許しているのは、窓際に置かれている傾きかけた木製のテーブルと、入り口からそこまでを繋ぐ幅三十センチ弱の獣道だけで、その周囲にうず高く積まれたダンボールには、目で厚さが確認できるほど分厚い埃が積もっていた。
 たとえ古本の匂いが好きという人間でも流石に回れ右したくなるような、「居住性とかいう前に、人の居住区として認定していいのコレ」と言いたくなるような、劣悪極まりない環境。当然、こんな部屋に好き好んでやって来る人間などいるはずもない。その唯一の例外が、今現在机で万年筆をくるくる回している、この青年であった。

 「お前さぁ、毎度の事だけど・・・何もこんなゴミ溜めみたいな部屋で論文書かなくたっていいんじゃないか?図書館や食堂は人目が多くて煩わしいって言うのは解るけど、もうちょっと他に場所あるだろ。」

 ようやっとテーブルまで辿り着き、ため息混じりにそう嘆いたマークに、青年は手元の資料を簡単にまとめつつ肩を竦めて見せた。

 「んー、なんか落ち着くんだよ、ここ。誰も来ないし、隠れ家には丁度いいんだ。」
 「綺麗好きのお前が、なんでここの散らかり具合には全く無頓着でいられるのか、僕には不思議でならないよ・・・。」
 「別に、ここに住むわけじゃないしな。それに下手に片付けると、他の誰かが入り込んできちゃうかもしれないだろう?この惨状は、一種の結界さ。」
 「ま、確かにこんな場所に入り浸る物好きはお前くらいなもんだけどな。・・・んで、論文の進み具合は?もう暫くしたら、それ持って教授に会いに行かなきゃいけないんだろ?」
 「ん。とりあえず、大筋は完成したよ。あと、この成分がラットの生殖細胞に及ぼす影響についての記述が、現段階ではちょっと曖昧なんだが・・・ま、いいか。口頭試問で適当に丸め込んどけば、どうにかなるだろう。」
 「・・・お前ね。」

 とんでもない台詞を呟きつつ撤収準備を進める青年に、マークは苦笑した。まあ、曖昧といったって彼の言う「曖昧」であるから、教授からしてみれば大したマイナスポイントではないだろう。ついでに言うならば、こと研究に関しては流麗な弁舌を惜しみなく披露してみせる彼の事、口頭試問でのカバーも全く問題ない筈。この回る口をどうして人付き合いにも応用できないのだろうかとぼんやり考えつつ、マークは白くなってしまったコートの裾をはたいた。ぱたぱたという微かな音が、静かな室内に響く。なかなか落ちない汚れに眉を顰めつつ、大判のファイルを仕舞いこんでいる青年をちらりと一瞥したマークは、さりげなさを装ってぽつりと呟いた。

 「・・・なぁ。あの子、元気か?」
 「ん?」
 「お前んちにいる、あの子。・・・レイ、だったっけ。」
 「あぁ・・・気になるか?」
 「そりゃ、まあな。」

 突然青年の部屋に現れた、正体不明の少年。第一印象は少々アレだったものの、彼は決してとっつきにくいタイプではなかった。むしろ、どちらかと言えば好奇心旺盛で人懐っこく、この青年と比べれば遥かに親しみやすい性格である。また、その言動からは一見粗雑な印象を受けるが、その実彼は大変に頭の回転が速く、優秀な医学生であるマークですら、その切り返しの鋭さには舌を巻かされた。打てば響くという表現がしっくりくる、テンポの良い会話は非常に楽しく、あの夜は随分と話が弾んだのだった。

 だが、あれだけ色々話したにも関わらず、マークは彼の素性について、未だに何一つ知らなかった。大学での研究内容についてとか、自宅にいるペットたちの事とか、この金髪の友人との日常生活の様子とか、マークは結構いろいろな話をしたし、彼もそれと同じくらい喋ってはいたはずなのだ。しかし、終始滑らかに会話を繋ぎながらも、彼は自分自身の事については、全くといっていいほど何も口にしてはいなかった。何故こんな大怪我を負っているのか、どうしてきちんとした医者にかかろうとしないのか。・・・そして、心配している家族はいないのか、等等。
 普通ならば、真っ先に浮かぶだろう疑問。しかしそれを彼に尋ねるどころか、そんな疑問を抱く事すら忘れていた事に、マークは自宅に帰ってから気付いて愕然とした。
 あの夜、会話をリードしていたのは自分のつもりだった。だが実際のところ、裏で会話の流れを把握していたのは、あの小さな少年の方だったのだ。彼は、マークの性格や思考回路をごく短時間のうちに把握し、無邪気な仕草や他愛ない雑談によって、巧みに彼の注意を基本的な疑問から逸らしてみせた。しかも、思考をミスリードされた本人ですらそれに気付かぬほど鮮やかに、だ。聡明なマークでなかったら、多分そのまま誤魔化されてうやむやになってしまっていたことだろう。

 (・・・なんつー子だよ、まったく。) 

 その事実に気付いたマークがまず感じたのは、感嘆と畏怖であった。
 不都合な質問を口に出されないよう、口数の多さで圧倒するわけではない。あくまでも、表層では相手に主導権を委ねたまま、相手が気付かぬうちに水面下から絡め取る。そんな、一種の意識操作と言っても過言ではないような芸当を、あんな年端も行かない少年があっさりとやってのけたのだ。どんなに賢い子どもであっても、人の心を読む経験を相当に積まなくては、ああはいかない。あの漆黒の少年は一体どんな育ち方をしてきたのかと、マークは嘆息したものだった。
 手玉に取られたのが悔しくないわけではないが、それよりも彼に対する興味の方が勝った。だから、彼について色々聞かせてもらおうと、現在の家主である青年に会いに来たのだった。そもそも、彼はどういう経緯であの少年を家に連れ帰ることになったのだろうか。そのくらい、教えてもらっても良いだろう。
 と、マークがそれを尋ねてみると、目の前の美青年は万年筆を筆箱に放り込みながら、面倒くさそうにこう答えた。

 「雪の晩に、道端に落ちてたから拾った。」
 「・・・・・・・・・・・。」

 簡潔を極める返答に対し、流石にマークは表情の選択に困った。何かが色々間違っている。そもそも、「拾う」はともかく「落ちてた」とは何だ。

 「・・・・あのぉもしもし、玖月サン?言っとくけど、あの子人間ですヨ?犬猫拾うのとはワケが違うんですヨ?」
 「君は僕を霊長類と食肉類の区別すらつかないバカだと思っているのか?解ってるよそんな事。解ってはいるけど、しょうがないじゃないか。あの時、彼はかなりの怪我をしてたし、放置しておけば朝には凍死体が出来上がってた。とりあえず温かい所に連れて行って手当てをするのは、人道に適っているだろうが。
  ・・・それとも何か?君はそのまま彼を放置して、氷漬けにしておいた方が良かったとでも言うのか?人でなしだなぁ全く。」
 「んな事言ってないだろ!ただ、それならそこら辺の病院に担ぎ込めば済んだ話じゃないか。なんでわざわざ自宅に連れ帰ったのかなーって、ちょっと疑問だったの僕は!」

 ――そう、一番引っかかっていたのはそこだった。

 「・・・今まで、付き合ってる女すら部屋には上げなかったのにさ。素性も解らない、しかも大雪の日に路上で行き倒れてるようなアブなそうな人間を、どうして連れ帰ったりしたんだよ?」
 「・・・・・・・・。」

 今度は、すぐには返答がなかった。口を閉じ、真剣な表情のマークからゆるりと視線を外した彼の顔を、冬の夕陽が柔らかく照らし出した。街をオレンジに染めるそれすら跳ね返す、鮮やかな金の髪。額に落ちかかるそれを軽くかき上げながら、う〜ん、と何やら言葉を探している彼の横顔を眺め、マークは小さくため息を吐いた。

 (まったく・・・過去にコイツと付き合った女たちがこんな事知ったら、きっと嫉妬で怒り狂うだろうなぁ・・・・。)

 自分がどんなに尽くしても与えられなかった権利を、何処の馬の骨とも知れない少年があっさりと手にしているのだから、さぞかし悔しがる事だろう。そう考えて、マークは小さく苦笑を零した。

 

 +++

 

 ・・・次から次へと恋人が替わり、数知れぬ浮名を流しているこの青年。しかしこれまでは、どんな女性と付き合おうと、彼が恋人に完全に心を開く事は決してなかったのだ。
 見目麗しく、しかも学内一と評判の優れた頭脳を持つ青年は、当然女性たちの注目の的である。従って、彼が女性から告白を受ける事は既に日常茶飯事であったし、彼もその時付き合っている相手がいない限りはそれを受け入れていたため、彼の周囲には常に女の影が絶えなかった。だが、それにもかかわらず、これまで彼が一人の女性と長く付き合うことは、極めて稀だったのである。その理由について、かつて彼と付き合ったある女性は、哀しげに笑いながらこう言ったという。

 

 ――「あの人の中にはね・・・私に対する興味なんて、これっぽっちもなかったのよ」、と。

 

 たとえ、世間において「恋人」と呼ばれる関係になったとしても、彼が自分から女性に手を伸ばす事は一度もなかった。誘われればデートに出かけたりもしたし、そこではそつなくエスコートをこなしてみせる。また、年頃の青年らしく、女性と肌を重ねる事も何度もあった。
 暴力を振るうでもなく、金品を貢がせるでもなく。情熱には少し欠けるかもしれないが、彼は恋人としては理想的な存在だっただろう。だがそれでも、彼に触れた女たちは、その独特の嗅覚でもって彼の内に潜む虚(うろ)を敏感に嗅ぎ取り、そして理解した。

 

 ――彼が、女との・・・・否、「人間」との関わりを、心の根底で疎んじている事。

 ――そして言い寄る女を拒まないのは、その姿を通じて、何か違うものを見ているからだという事を。

 

 自らの領域に踏み込まれる事を極度に嫌い、家に立ち入る事すら許してくれない彼に対して、それを頭ごなしに詰る女もいた。心を許してもらえないのが哀しいと、ただ涙を流す女もいた。自分がその穴を埋めてやりたいと、彼に手を伸ばした女もいた。・・・けれど、彼はその誰にも、心を開くことはなかったのだ。
 そしてやがては、絶対に自分のものにならない男に見切りをつけ、女の方から去っていくのが常だった。まあごく稀に、彼が自分を好いているわけではないと気付きながらも、その状態をあるがままに受け入れて付き合ってくれる捌けた女もいたが、そういう相手との付き合いは少しだけ長続きしていたものだ。もっとも、そのくらいいい女であると、そのうち甲斐性無しな彼を見捨てて別の男といい感じになってしまうため、どちらにせよ破局は免れないのだが。そんな彼の女性遍歴を、親友としてすぐ傍で見守っていたマークは、全くこいつはとことん恋愛に向いていない男だなと、数え切れないほどため息をついてきたものだった。

 

 (――それが、ねぇ・・・?)

 マークは、自分の額をこつんこつんと小突きながら、小さな少年の姿を脳裏に思い描いた。冷たいほどに整った青年の容貌に怯むでもなく、ごく普通の友人に対する態度で青年に接していた彼。雪の晩に路上に倒れていたという彼の一体何が、この青年の心を動かしたのだろうか。
 暫く、二人の間に沈黙が流れた。答えを急かすでもなく、沈みゆく夕陽を眺めながら口を噤んでいたマークが、ふっと青年に視線を戻せば、彼は微かに眉を顰めたまま沈黙している。一見不機嫌そうに見えるそれが、実は彼の困惑の表情である事を知っていたマークは、真剣な眼差しを僅かに緩めて微笑んだ。

 「・・・クヅキ。」
 「・・・ん?」
 「別にさぁ、言いたくなければ言わなくてもいいよ?無理に聞き出そうとは思ってないしさ。」
 「いや・・・別に、言いたくないわけじゃないんだが・・・・。」
 「ん〜?」

 彼には珍しい歯切れの悪い返答に、マークは緩やかな相槌を打つ。のんびりとしたその返答に肩の力を抜くと、青年はふうっと大きく息を吐いた。再び窓の外にサングラス越しの視線を向け、彼はぽつり、ぽつりと話し出した。

 「僕にも・・・正直言って、よく解らないんだよ。どうして、彼を連れ帰ってしまったのか。」
 「へぇ・・・珍しいじゃん。」
 「・・・そうだね。」

 柄でもない、非論理的な自らの行動に戸惑っているのか。自嘲とも苦笑ともつかない微笑に、青年の唇がほんの微かに歪んだ。

 「・・・最初は、そんな気なんてなかった。放っとくわけにはいかなかったけれど、本当は君がさっき言ったように、ただ病院に急患として運び込むつもりだったんだ。」
 「そっか。」
 「・・・・・・・・・・。」
 「・・・・・・・・・・。」
 「・・・・でも、さ。」
 「ん?」

 ゆるりと落とされた視線が、自らの両手に向けられる。指の長い、色の白い手をじっと見つめ、彼は小さく小さく呟いた。

 「病院に運ぼうと、抱き上げた時にな。彼が意識のないままに、僕のコートを掴んで言ったんだよ。・・・『ソウマ』って。」
 「『ソウマ』・・・?人の名前か?」
 「たぶん、ね・・・。朧気な意識の中で、僕をその人と勘違いしたんだと思う。だけど・・・。」
 「だけど?」
 「・・・それがあんまり、幸せそうだったからさ。」
 「・・・え?」 

 ぎゅっと、大きな両手が軽く握られる。
 あの晩、その手に感じたぬくもりを、思い出すかのように。

 「僕のコートを縋るように掴んで、名前を呼びながら・・・彼は、微笑ったんだ。本当に・・・幸せそうにね。」
 「・・・クヅキ・・・・。」

 丸眼鏡の向こうの瞳が、驚いたように見開かれる。何か言おうとしたマークをそっと制し、青年は拳を解くと、そっと両手を組み合わせた。祈りを捧げるようなその体勢のまま、彼は静かに目を閉じた。

 「僕は貴方が想っている人じゃないと、言ってやろうとしたんだけど・・・・出来なかったんだ。どうしても。」

 ――ほんの微かな、今にも滑り落ちそうな弱々しい力で縋る手が、どうしても振り払えなかった。

 「・・・で、気付いたらそのまま自宅に連れて帰っちゃってたわけだ。まったく、馬鹿馬鹿しい話さ。」
 「なんで?別に馬鹿馬鹿しくはないだろ。それってあの子に、多少なりとも興味を持ったって事じゃん?」
 「興味なんて、上等なものじゃないさ。ただ、彼があんまり無垢な笑い方をするもんだから、毒気を抜かれただけだよ。」
 「”無垢”、か。」
 「ああ。」

 くすりと笑った青年は、不意に組んだ手はそのままに、ぐうっと大きく伸びをした。薄汚れた天井を見上げ、後頭部に両の掌を回すと、独り言のように呟く。

 「大事に大事に育てられた子どもが、親に抱き上げられて浮かべるような・・・そんな、笑顔だったよ。」
 「・・・・・・・。」

 仰け反ったままの青年の表情は、マークには見えない。ただ、その声が、ほんの微かに掠れていた事だけは、はっきりと解った。

 (クヅキ・・・・。)

 ――かけるべき、言葉がなかった。

 マークは、今青年の周囲にいる者たちの中で唯一、彼の生い立ちを知っている人間だった。だから、青年がその時何を感じたのか、朧気にでも推測する事は出来る。
 しかし同時に、青年自身がそれに触れられるのを無言のうちに拒んでいるのも、彼は知っていた。だから、何か言おうとしたものの、結局は何も言わないまま、マークは開きかけた口をそのまま閉じた。

 

 ――ガラス窓の向こうから流れてくる学生たちの笑い声が、遠い。

 『・・・誰かを想って浮かべる微笑みって、綺麗なものなんだね・・・・。』

 雑踏に紛れて呟かれた言葉は、聞こえない振りをする。長い付き合いの中で身につけた、それが自分たちの距離だった。
 ちょっとだけ切なげに歪んでしまった表情は、眩しい夕陽のせいにして。マークはオレンジ色の閃光を遮る振りをして、その表情を彼の目から隠した。

 

 

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