「・・・どうも有難う御座いました。それでは、失礼します。」
優雅に一礼して、教授の個人研究室のドアを静かに閉める。その途端、外気と変わらないほどに冷え切っている廊下の空気が全身を包み、青年は思わず小さく身震いをした。暖房の効いた室内との温度差に小さく舌打ちしつつ、小脇に抱えていたコートを羽織って階段へと向かう。
教授との対談もつつがなく終了し、今日はもう帰るだけである。肩に掛けたバッグから畳んだマフラーを引っ張り出し、無造作に首に巻きつけながら、青年は今日の夕飯は何にしようかと、主婦じみた思考を脳裏で展開した。
(確か、鶏肉が少し残ってたっけ・・・あ、でもメインにするには少なすぎるな。リゾットにでもするか、最近パンばっかり食べてたし。)
この時間なら、まだ帰り道にある市場も開いていることだろう。足りない食材をそこで買出しする事にして、他に買うものはなかったかとぼんやり考えていた青年は、脳裏に作成した買い物リストの内容が普通に二人分である事にふと気付き、ほんの微かに苦笑した。
(やれやれ・・・同居しているわけでもないのに、随分と馴染んでしまったものだな。)
居候状態にある、黒髪の少年。今も、家で自分の帰りを待っているのであろう彼のことを思い出して、青年はサングラスの下でそっと目を細めた。
一見無作法なようだが、その実とても賢いあの少年は、同じ家の中にいても、青年のテリトリーを侵す事は決してなかった。勝手に室内を弄られるのを嫌う彼に慮ってか、留守番中に彼が許可を出した場所――本棚や食器棚など――以外に手を触れることはなかったし、彼が帰った後も、本を読んでいたり論文を書いていたりする時には、邪魔にならぬよう静かに気配を消している。単に無口なのではなく、雑談を楽しむ時と沈黙を守るべき時を明確に区別しているそのスタンスは、非常に好ましいものだった。
そんな一定の距離を守る付き合い方のせいか、青年にとって彼との暮らしは、不思議なほどにストレスを感じさせないものだった。無論、遠慮している少年の方が多大なストレスを感じているという可能性はあるのだが、彼にとってはありがたいことだ。実は、少年を連れて帰った青年が最初に感じた不安は、彼の怪我が治るまで、他人が自分の塒(ねぐら)の中にいるという事に自分が耐えられるだろうかという事だったので。
昼間は大抵眠って過ごしているらしい彼は、夕方になるとカーテンを引き、明かりをつけて青年の帰りを待っている。暗く冷え切った部屋に帰るのが当たり前になっていた青年にとって、「おかえり」と笑って迎えてくれる存在があるというのは、恐ろしくこそばゆいものだった。
(でも、まぁ・・・彼にとっては、僕は誰かの代理なんだろうなぁ・・・。)
帰った自分に向けられる、嬉しそうな視線。それが本当に自分に向けられたものではない事に、聡い彼はとうに気付いていた。
時折、彼が自分を見る視線に混じる、何かを懐かしむような色。一瞬で掻き消えてしまうその切なげな眼差しは、あの雪の夜、彼の唇から零れ落ちた名前を、嫌でも思い起こさせた。
(・・・『ソウマ』、か。変わった名だけれど、日本人だろうか。)
・・・彼が、本当に「おかえり」と言って迎えたい人。その人が彼とどんな関係にあるのか、今どこでどうしているのか、青年は何も知らない。少年に尋ねようとも思わない。自分と彼の関係は、彼の怪我が癒えた時点で終わりになるのだからと、青年は必要以上に彼の内面に踏み込むのを避けていた。
(聞いた所で、何が出来るわけでもないし。)
気まぐれで拾った傷ついた仔猫は、傷が癒えれば外の世界へと帰っていく。そうすればまた、暗く冷たい部屋での、一人きりでの生活が始まるだろう。
それを、今さら寂しいなどとは思わない。そもそも、寂しさなどを感じる『心』など、自分は最初から持ち合わせていない。彼のように、誰かを想って微笑む事など、自分にはきっと永遠に出来ないだろう。
視線を落とし、マフラーの陰で自嘲するような笑みを浮かべた青年は、ふと柔らかな女の声に名前を呼ばれたのに気付いて足を止めた。色濃いサングラスが、笑顔で歩み寄ってくる女性の姿を映し出す。一瞬だけ、驚いたように形の良い眉を持ち上げた青年は、すぐに真顔に戻ってその人の名を呼んだ。
「・・・カレン。どうしたんです、こんな所で。」
「あら、私はここの研究員よ?大学のキャンパス内を歩いているのが、そんなに変かしら。」
カツカツと小気味のいいヒールの音を響かせて歩いてきた彼女は、悪戯っぽく笑いながらそう答えてみせた。長い髪が、ロングコートに包まれた華奢な肩の上でふわりと揺れる。
五月の若葉を思わせる深いグリーンの瞳に、青年のそれよりも色濃い金髪。「月光で紡いだような」と評される、どこか冷たいほどに冴え冴えとした印象を与える彼の髪とは対照的に、彼女の金髪は春に降り注ぐ太陽の光を思わせる、どこか温かい色合いだ。しかし、春の女神のようなその美貌とは裏腹に、その小さな頭の中には、膨大な知識とスーパーコンピュータ顔負けの頭脳が詰まっている事を、彼は知っている。彼女、カレン・ヴェンディッシュは、6年前に弱冠18歳でこの医科大学を主席卒業し、現在はここの研究室で研究員として活躍している、非常に優秀な女性なのである。
・・・そして彼女は、この青年との交際期間の最長記録を保持し、別れた後もなお良き友人として付き合いを続けている、数少ない「元カノ」の一人でもあった。
「もう帰るんでしょう?駅までご一緒してもいいかしら。」
「別に、僕は構いませんけど・・・彼氏に、あらぬ誤解を受けても知りませんよ?」
「あら、ご心配なく。そんな事でこじれるほど、私とダーリンの愛はヤワではないの。」
「あーはいはい、ごちそうさまです。」
澄ましてそう言う彼女にほんの微かな苦笑を返し、青年は僅かに歩調を緩めた。その隣に、自然な仕草でカレンが並ぶ。学内では有名な二人のツーショットに、すれ違う学生たちが興味津々の視線を向けてくるが、どちらも慣れたもので、一向に意に介さなかった。
「・・・そういえば、聞いたわよ。貴方また女の子と別れたんですって?今度は一週間だって、うちの研究室でも話題になってたわよ。」
「あぁ・・・なんか、デートしてあげなかったのが不満だったみたいで。散々詰られた挙句に平手で殴られました。」
「それでまた言い訳もせずに、そのまま別れたわけね・・・やれやれ。ま、一週間で音を上げるような短気な子じゃ、最初から無理だったんでしょうけど。」
くすりと微笑んだ彼女は、襟元のスカーフを軽く直す。凍りつくような寒風に、花のような淡いピンクが、ふわりと一筋の色を添えた。
「それにしても、貴方がデートを断るっていうのは珍しい事ね。・・・・そんなに、拾った仔猫ちゃんが気になってるのかしら?」
「ん?耳が早いですね。・・・もしかして、噂になってます?」
「いいえ。私は、マークからこっそり教えてもらったの。他に知っている人はいないと思うわ。」
「・・・・あのお調子者め、余計な事を。」
ぼそりと呟いて眉を寄せた青年に、カレンはころころと笑った。柔らかな声で、たしなめるように言う。
「マークは、貴方を心配しているのよ。私に話したのだって、他言無用と口止めした上で、『こんな風なんだけど大丈夫かなぁ』って、相談するような感じで教えてくれたんだもの。・・・誰彼構わず言いふらしているわけじゃないんだから、そう怒らないで。ね?」
「別に、怒ってはいないです。・・・と、いうか。」
「何?」
「マークといい貴女といい、なんでそう非常事態が勃発したみたいな態度を取るんでしょうかね。僕が怪我人を助けるっていうのが、そんなにおかしいんですか?」
「まぁ、人喰い虎を可愛い仔猫ちゃんと呼ぶくらいにはね。」
「・・・素直に『物凄くおかしい』と言ったらどうなんです。」
憮然とした青年とは対照的に、その横顔を見上げるカレンの目は優しい。かつての恋人を見る視線と言うよりは、姉が弟を見つめるような、親愛の情を含んだ眼差しだった。
「ねぇ・・・その子、ずっと貴方の家に置くつもり?」
「まさか。怪我が治るまでは面倒を見るつもりですが、完治したら速やかに出て行ってもらうつもりですよ。第一、あっちだってそのつもりでしょうし。」
「ふぅーん・・・・。どうせなら、そのまま飼っちゃえばいいのに。」
「はい?」
・・・何言ってんだろうこの人。
「飼う、って、あの・・・カレン、何か誤解してません?確かに猫っぽいですけど、ホントに猫なわけじゃないですよ?」
先ほどマークに言われたのと同じような事を、期せずして青年自身が口にすることになった。ひょっとして、マークから情報が伝わる際にとんでもない齟齬があったのではないかという青年の危惧を余所に、カレンはけろりとした顔でこう返した。
「解ってるわよ。けど、人間だろうが猫だろうが、オスだろうがメスだろうが何だっていいの。ただ、その子は、貴方が初めて自分から手を伸ばした存在なんですもの。暫く関わってみるのも悪くないんじゃないかなって、そう思っただけ。」
「冗談は止めてください。」
「あら、私は至って真面目だけれど?」
「余計悪いですよ。」
渋い顔でそう呟くと、彼はこの話題は終わりとばかりに、わざとらしく視線を外した。くすくすと笑った彼女も、それを察してさりげなく話題を変える。
何だかんだで顔を合わせるのは久しぶりだったため、近況報告だの他愛ない噂話だのをぽつぽつと交わしていたが、やがて現在の恋人についてひとしきり惚気終えたカレンが、ふと真面目な表情になって青年を見上げた。
「ねぇ、そういえば知ってる?この前、薬品保管庫で盗難事件があったんですって。」
「へぇ、そうなんですか?」
薬品保管庫には、実習や実験に使うさまざまな薬品が収納されているため、当然ながら持ち出しに関するチェックは厳しい。そもそも入り口には、セキュリティシステムによるロックがかかっており、IDカードがないと入る事すら出来ないのだ。学生や研究員たちは各々のIDカードを所有しているので、部屋に入る事自体は容易いが、カードリーダーにカードを通せば、誰がいつ保管庫に立ち入ったのか、その記録は残ってしまう。その記録には、犯人らしき人間の痕跡は全く残っていなかったという事で、セキュリティ部門の人間たちは揃って頭を抱えているという。
それでも、事件が発覚した時から、記録に残っている人間には順に話を聞いていっているらしいが、無駄な事だとカレンは思う。仮にも医大から薬品を盗み出そうとする人間が、自分のカードでドアを開けるような間抜けな失敗をするわけがない。まぁ、無意味だという事を確認するという点で意味はあるかもしれないので、別に止めはしないが、ご苦労なことである。
第一、セキュリティ部門の連中は、自分たちが作ったシステムを過大評価しすぎなのだ。白い吐息を紅唇から零したカレンは、傍らの美しい青年に悪戯っぽい視線を向けた。
「クヅキ。あのセキュリティ、貴方なら何分で解除できる?」
「さぁ・・・1分かかるかかからないか、そのくらいじゃないでしょうか。」
人間相手の技術を専門に学んでいるくせに、この青年はコンピュータにも滅法強い。あらゆるソフトを使いこなすだけではなく、自分でも勝手にプログラムを開発して遊んでいるのだが、その成果をセキュリティ部門のスタッフが見たら目を回すかもしれない。一度覗かせてもらった彼のデータバンクには、彼お手製の性悪なコンピュータウイルスがごろごろ転がっていて、一体何に使うつもりだとカレンですら呆れかえったものだ。
彼くらいの技術と知識があれば、自分の入室記録をデータ上から抹消したり、またはロックシステム自体を一時的に無効にしたりして、保管庫に侵入する事は朝飯前である。彼がそんな事に興味を示す性質ではない事を知りながらも、カレンはからかうように華奢な肩を竦めて見せた。
「あらあら、速いわねぇ。実は、犯人って貴方なんじゃない?」
「止して下さいよ。あそこにある薬品類なんて、盗んだ所で調味料にも使えないじゃないですか。」
「そうねぇ・・・お料理に使ったら、腰痛に効くかもしれないわ。」
「僕は薬効よりも味を重視したいんですが。・・・そういえば、何が盗まれたんです?腰痛って事は、筋弛緩剤の類ですか。」
「ご明察よ。何種類かの筋弛緩剤が、瓶ごと何本か無くなってたんですって。全部合わせると、被害は10本くらいになるとか言ってたわね。」
「10本・・・随分半端ですね。売り捌くにしては少ないし、個人的にこっそり使うにしては多すぎる。一体何に使う気なんでしょうね?」
「私に訊かれたって知らないわ。」
青酸だの砒素だのといった劇薬類に比べれば危険度は低いかもしれないが、薬品の性質上、犯罪に利用される事も考えられる。万が一そうなったら、大学側の管理体制が厳しく問われる事になるだろう。大学側もそれは承知しているらしく、おかげで学内にはぴりぴりした緊張感が満ちている。青い制服を着たセキュリティスタッフがすれ違ったのを肩越しに見送り、カレンはため息混じりに青年に言った。
「ねぇクヅキ。お願いだから、暫くは大人しくしててね?おかしな疑惑を招くような行動は、くれぐれも慎んで頂戴よ。」
「例えば?」
「暇だからって大学のホストコンピュータにハッキングかけたり、チンピラに絡まれた挙句に相手を病院送りにしたりしないでよ、って事。」
「いや、ハッキングはともかくアレは正当防衛・・・。」
「いいから喧嘩沙汰は暫く慎む!貴方足速いんだから、絡まれたらさっさとお逃げなさい!いいわね!!」
「・・・はい。」
頭ひとつ半も小さな女性に叱りつけられ、彼はこくりと首を折った。多少の理不尽さを覚えなくもないが、自分が事情聴取のために警察に勾留されていた時、迎えに来てくれたのは彼女だったので、あまり強くは出られない。第一、彼女の言う事は極めてもっともだったので、最初から反論の余地などなかった。ここは大人しく従っておくのが吉とばかりに、素直に頷いた彼に、カレンはにっこりと花のような笑顔を向けた。
「ん、解ればよろしい。今夜も雪が降るそうだし、家で大人しく仔猫ちゃんと遊んでなさいね。」
「・・・・・・・・。」
だから、猫じゃないんですけど。
言っても無駄なのは解っていたので、微妙に納得できないその表現に対し、青年が敢えて再反論を試みる事はなかった。