泥に汚れ、泥濘と化した古い雪の上に、真っ白な新しい雪が降り積もっていく。ここ二、三日は止んでいた雪が再び降り始め、ほんの少し覗いた地面も、再び白いカーペットの下に沈みこんでしまった。明日の朝には、また一面の白銀の世界が広がっている事だろう。
音ひとつなく舞い落ちる雪を、青年は窓際の椅子で静かに眺めていた。温かそうなカーディガンを着込んだ彼の手にはマグカップがあったが、そこからは香ばしい香りも温かな湯気も感じられない。口をつけないままに冷え切ってしまったコーヒーを、青年は無機的な手つきで机へと戻す。と、その横顔に、不意に咎めるような声が投げつけられた。
「あ、もったいねー。飲まないんなら最初から淹れるなよ、コーヒーが可哀想だろ。」
入浴を終えて戻ってきた少年がむうっと睨んでくるのを、青年は無表情のまま見返した。少年は、家主から借りたガウンを着ていたが、小柄な彼には少々大きすぎて、裾がずるずると地面に付いていた。腕を怪我しているにもかかわらず、一人で器用にシャワーを浴びてきたのは大したものだったが、流石に片手で髪を拭くのは難しかったらしく、その髪からはぽたぽたと水滴が滴っている。そして、おかしな事に、タオルを動かしている彼の左手には、風呂上りだというのに古ぼけた黒い手袋が嵌められていた。
「・・・・・・・・・・・。」
寛いだ格好にひどくそぐわないそれについて、青年は敢えて何も言わなかった。ただ、首にかけたタオルを動かしながら四苦八苦している少年を見かねて、手伝ってやろうと無言で手を伸ばす。が、次の瞬間。
――バシッ!!
「・・・・・・・。」
「・・・・あ、ごめ・・・・。」
伸ばされた手を思い切り払い除けてしまった少年は、驚愕と後悔をない混ぜにしたような顔をして、掠れた声で謝罪の言葉を呟いた。自分自身の行動に傷ついたような顔をする少年に、青年は何でもないと軽く手を振って見せる。
人懐っこいように見えるこの少年は、実は人に不意に触れられる事を極端に嫌っているようだった。手当てをし、面倒を見てくれている青年には、少しずつ気を許してきているようだが、それでも突然触れようとすると、今のように思い切り拒まれてしまう。これはもう、好悪の感情以前に条件反射になってしまっているらしく、彼自身も自分の行動に戸惑いがちな顔を見せる事もしばしばだった。
(本当に、野良猫みたいだ。)
迂闊に手を出せば、手酷く引っかかれる。内心そう呟きながら、青年は気まずそうに眉尻を下げる少年に、言葉少なに言った。
「・・・髪。拭かないと、風邪を引きますから。」
「あ・・・うん。」
他意はないと言外に告げる青年に促され、靴を脱いだ少年はベッドの上にちょこんと座り込んだ。緊張している少年を脅かさぬよう、青年はゆっくりと手を伸ばし、その髪を慎重に拭い始める。今度は振り払う事無く、大人しくされるがままになっていた少年だったが、暫くするとその唇が微かに綻んだ。
「ふふっ・・・。」
「?何か?」
「・・・あんた、こーゆー事すんの慣れてないだろ。なんか、スゲェおっかなびっくりって感じ。」
笑いを堪えながら言ってくる少年に、青年は手を止めぬままに肩を竦めて見せた。
「まぁ確かに、人の髪を拭くなんて滅多にないですね。力の加減とか解らないので、もし痛かったりしたら言って下さい。」
「ううん。むしろ、もっと乱暴でも大丈夫。そんなバカ丁寧に扱わなくたって平気だよ?」
「一応キズモノですから、労わらないと。」
「・・・それ、なんか意味違う。」
場所が場所だけに、あらぬ誤解を受けそうだ。ぽりぽりと少年が頬を掻くと、丁度あらかた水気を拭き終わった青年が、頭からタオルを外した所だった。
「はい、終わり。・・・・じゃあ、包帯替えましょうか。」
「・・・・・・・・・。」
感情の篭っていない事務的な声に、少年はゆっくりと頷いた。医療品の入った箱を開ける青年から視線を外し、ガウンの帯にそろそろと指を伸ばす。白い指が、乱雑に結ばれた紐に掛かり、解かれた帯がベッドの上にはらりと落ちた。
「・・・・・・・・。」
躊躇いがちに、少年はガウンを脱ぎ落とした。細い肩から分厚い布地がするりと滑り落ちると、その下に隠されていた身体が露になる。ベッドルームの薄暗い灯りに照らし出されたそれに、青年はサングラス越しの静かな視線を向けた。
成長期前の少年らしく、未発達で華奢な肢体。だが、その白い肌のあちこちには、それよりさらに白い包帯が絡み付いている。右腕は二の腕から肩までが覆われており、左足も膝から下が完全に隠されてしまっていて、大変に痛々しい。また、外からは解らないが、シャワーのために一時的に包帯を外した脇腹は、肋骨にヒビが入っていてかなり痛むであろう事を、青年は知っていた。
まさに満身創痍といった風情の少年に今さら動じる事はなく、青年は眉ひとつ動かさずに湿った包帯を解き始めた。露になった傷口を消毒し、治癒の程度や化膿の有無を丁寧に確認していく。暫くは、器材や瓶がぶつかる微かな物音だけが響いていたが、やがて微かな少年の呟きが沈黙を破った。
「なぁ・・・訊かない、のか?」
「?何を?」
「・・・・・・・。」
平然と訊き返した青年に眉を寄せた彼は、解ってんだろ、と目を伏せて呟いた。
「この傷見れば・・・俺が、大体どんな状況で怪我したんだか、解るだろ?」
「・・・ええ。」
淡々と答えると、青年は新しいガーゼを摘み出しながら、論文でも読み上げるような淀みない口調で言った。
「左下腿部に鋭利な刃物による切創。肋骨約二本が亀裂骨折。・・・・そして。」
細い二の腕を、そっと持ち上げる。今は徐々に塞がりつつある傷口に、青年の視線が注がれた。
「右肩のこれは・・・銃創ですね。」
「・・・・・・・・・。」
沈黙は、何よりも雄弁な肯定だ。彼の視線から逃れるように俯いた少年は、形の良い唇を軽く噛み締めた。
「それだけ解っていれば、手当てをするのに支障はありませんがね。今さら何を訊けと言うんです?」
「・・・俺の素性とか、気にならないのか?」
「貴方が話したいのなら聞いて差し上げますが、特に興味はありませんね。」
「・・・もし俺がとんでもなく性質の悪い連中に追われてたりしたらどうすんの?あんた巻き込まれるかもしれないんだぞ、解ってんのか?」
「自分の身くらいは自分で守れますから。」
どこまでも乾いた口調で言う青年を見上げ、黒髪の少年は呆れたようにため息をついた。
「・・・変なヤツ。」
「よく言われます。」
「口調もヘンだよな。普通、こんなガキに敬語使わないよ。」
「そうかも知れませんが、僕にとっては、これが気楽な話し方なんです。」
「嘘、マークにはタメ語使ってたじゃ・・・・っ痛!」
「・・・はい、無駄口利かないで。」
露になっている傷口に、無造作にガーゼを押し付けられて悲鳴を上げた少年に、彼は低く言った。息を詰めて鋭い痛みをやり過ごした少年は、反射的に強張った肩から力を抜こうと四苦八苦しつつ、無言になった青年へと視線を向ける。ベッドルームの淡い光に輝く黒曜石が、鮮やかな金色を映し出した。
「自分の事を訊かれるのは・・・嫌?」
「詮索されるのは嫌いです。」
「うん、俺もだ。」
ふわりと笑った彼は、目元を緩めたまま「でも」と続けた。
「俺、あんたの事、もっと知りたい。」
「・・・・なんてワガママな。」
「うん、それは解ってる。けど、あんたの事、なるべくたくさん覚えておきたいんだ。」
「・・・そんな必要はありませんよ。ここを出たら、僕の事などいずれ忘れるのだから。」
「忘れたりしないよ、絶対。」
「忘れますよ。」
「忘れないよ。・・・俺は、忘れない。」
ふと、その双眸から笑みが消えた。真剣な眼差しに気圧され、思わず口を噤んだ青年に、彼は真摯な声で言った。
「景色も、風の色も、その中ですれ違った人も。俺がそこで手に入れた記憶の全てが、俺がそこにいた証明になる。だから、ひとつも忘れたりしない。」
「自分がそこへ行ったという事実を、記憶の有無によって確認する、という事ですか?」
「違う。・・・・その時、俺が『存在した』という事実をだ。」
「・・・・・・・・。」
自分の肌に絡み付いていく包帯を見つめながら、彼は淡々と呟く。その声は、年端もいかない少年とも思えぬ強靭な意志を感じさせるものだったが、何故か青年には、どこか寂しげな色を含んでいるように感じられた。
「・・・俺には、家族はいない。帰る家も、属する国も、行くべき場所も・・・俺がここにいるって事を、客観的に証明してくれるものは何ひとつないんだ。」
「・・・・・・・・・・。」
社会の中で暮らす人間は、自分でも意識しないうちに、実に多くの鎖に繋がれている。それは、公的な所では国籍だの戸籍だのであり、私的な所では、家族や友人や仕事の同僚など、自分を囲む人々の記憶だったりする。
顔を合わせた人間と挨拶を交わし、相手に自分の名を呼ばれる事で、人は相手の世界に自分が確かに存在する事を認識する。そして、たとえ誰とも顔を合わせずに生きている人間がいたとしても、彼が――もしくは彼女が――この社会の中に存在するという事実は、その国の戸籍という記録に残っている。自分がここにいるという無意識の自覚を、人間はそうした有形無形の証拠の裏づけによって手に入れているのだ。
――では、そうした「証拠」を、一切持たない人間がいたとしたら。
定住の地を持たず、帰るべき場所もなく、ただ彷徨うだけの人間は、一体何処に自身の拠り所を求めればよいのか。自分の名を知る者が何処にもいないというのは、ある意味、透明人間になるのと同じ事である。
誰も自分を見ない、誰も自分の名を呼ばない。人の海の只中にありながらも、それは完全なる孤独と言えるのではないだろうか。
「・・・記録にも記憶にも残らないなら、本当に俺がここにいるって、一体誰が言い切れるの?」
少年は目を閉じて、独り言のようにそう呟く。包帯を切るための小さなハサミを取り出しながら、青年は静かなその横顔を、じっと見つめた。
(・・・賢い子だ。)
小難しい哲学の影響を受けているわけではない。寄る辺のない圧倒的な孤独の中で、彼は自分の危うさと小ささを知り、そこで自らの存在を繋ぎ止めようと足掻いている。
「本当は、会った人みんなに、俺の事覚えてて欲しいけど・・・それは無理だから。せめて自分だけは、忘れずにいたい。」
「・・・そうですか。」
「うん。」
そこまで言うと、少年は真剣な表情を緩め、にっこりと年相応の笑顔を浮かべてみせた。さっきまでの大人びた雰囲気は何処へやら、一瞬で気配を切り替えた少年は、少々呆気に取られたようにその様を凝視する青年の服の裾を引っ張り、せがむように言った。
「・・・だから、あんたの思い出。」
「はい?」
「このくらいなら言ってもいいかな〜って範囲でいいから、あんたの事、教えてくれよ。」
「なんで急に・・・今までは何も言ってこなかったじゃないですか。」
「だって、大分怪我も治ってきたし・・・俺がここ出てく日も、そう遠くないだろ?そしたら、きっともう逢えないじゃん。」
「・・・・・・・。」
青年は、微妙に眉を顰めたまま黙り込む。怒らせてしまったかとその様子を窺いつつ、少年は微妙な上目遣いで青年の表情を覗き込んだ。
青年は、他人について一切詮索しない代わりに、呆れるくらい自分の事も話さない人間だった。少年自身、世話になっている立場であれこれ尋ねるのは気が引けて、これまでは敢えて質問するのを避けていたため、彼は未だにこの暫時の家主について、ほとんど何も知らなかったのだ。今まで青年自身の口から教えられたデータといえば、ファミリーネームは「クヅキ」であるという事と、学生であるという事、この二つだけだった。
(俺、もう十日くらい居候してんのに・・・・。)
そりゃあ、共同生活をしていたのだから、「思い出」となる記憶はどんどん増えた。
洗い終わった包帯を手際よく巻き取っていく、指の動き。読書に没頭している時に、ふとサングラスを押し上げる仕草。そして、身動きのたびにさらりと流れる、癖のない金髪の鮮やかさ。その他にも、料理が上手いとか綺麗好きだとか、数えれば切りがないくらい色んな事を知った。一人の人間とここまで長く顔を合わせるのは、本当に久しぶりな気がする。けれど、彼自身から教えてもらった事がほとんどないというのは、やっぱり少し寂しかった。
何か話そうとする気配もなく、巻き終わった包帯の端を黙々とテープで留めていく青年にため息をつき、少年は拗ねたような口調でぼそりと呟いた。
「ちぇ〜・・・せめて名前くらい、教えてくれたっていいじゃねーかよ・・・・。」
「何を言ってるんです、とっくの昔に教えたでしょう。マークだって呼んでたじゃないですか。」
「だって『クヅキ』って、ファミリーネームだろ?俺が知りたいのはファーストネームだよ。俺、未だにあんたのフルネーム教えてもらってないんだぜ?」
「ファミリーネームがあれば、呼ぶのに不自由はしないでしょう。」
「単なる呼び名じゃねーよ、名前って大事じゃん!『名前を呼ぶ』イコール『そいつの存在を認める』ってくらい、一人一人の中身と直結してるんだぜ?名前って。」
「ハッ・・・くだらない。」
「くだっ・・・くだらないだぁ!?」
嘲るように鼻で笑った青年に、少年は勢い良く両の眉を吊り上げた。大きな目を剣呑に光らせ、むきになったように青年に食ってかかる。
「くだらなくなんかねぇよ!自分の名前を粗末にするヤツは、自分自身を粗末にしてるんだぞ!」
「親の勝手でつけられた名称をどうしてそこまで有り難がれるのか、僕には理解不能ですね。」
「勝手だろうが悪趣味だろうが、あんた今までその名前背負って生きてきたんだろうが!」
「好きで背負ったわけじゃない。・・・大事なもんですか、こんなもの。」
「っ・・・・・・。」
吐き捨てるような口調に込められた、明らかな侮蔑と嫌悪の色に、少年は僅かに怯んだ。今まで、感情らしい感情を一切覗かせなかった青年が、突然見せた負の感情。それは、自分が何らかの地雷を踏んでしまったという事を、少年に教えるには十分なものだった。
サングラスを冷たく光らせた青年は、気圧されたように口を噤んだ少年を一瞥すると、何を思ったか、不意にその華奢な肩を乱暴に掴み、力任せにベッドに捻じ伏せた。突然の暴挙。途端に全身を駆け抜けた激痛に小さな身体が仰け反り、絞り出すような、苦しげな悲鳴が上がる。
「ぐっ!!ぁっ・・・・!?」
傷だらけの身体を捻じ伏せられた少年は、全身を襲った激痛に顔を歪め、必死に自分を拘束する手を跳ね除けようともがいた。綺麗に巻かれたばかりの包帯が緩み、象牙のように肌理細やかな肌が僅かに覗く。だが、青年の力は驚くほど強く、片手で易々と彼の抵抗を抑え込んだ。苦痛のあまり、少年の目尻に生理的な涙が浮かぶ。
「つ、ぅぅっ・・・・・!」
「・・・これだけは、言っておきます。」
「・・・・・?」
濡れた瞳を薄っすらと開くと、一切の感情を拭い去った、冷たいドール・フェイスが少年を見下ろしていた。
「連れ帰った以上、怪我が治るまで面倒は見ます。食事もさせるし、服も貸しましょう。その代わり、僕に一切干渉しないで下さい。」
「・・・っ・・・・・。」
「・・・迷い猫の気まぐれ如きで、ずかずか踏み込まれては迷惑です。」
絶対零度の拒絶。完全なる無表情でそう言い切ると、青年は突き放すような乱暴さで少年の肩を解放した。本能的な動きで、激痛を訴える肩を庇うように丸くなる少年の唇から、苦しげな呻きが漏れる。荒い呼吸を繰り返し、ぐったりとベッドに伏した小さな身体を、青年は覆いかぶさるような姿勢のまま凝視していた。
「・・・なんで・・・・?」
「・・・?」
「なんで、あんたが・・・そんな、哀しそうな顔、すんだよ・・・・?」
潤んだ大きな瞳が、青年を見上げる。たった今、故なき暴力を振るわれたにも関わらず、信じられないほど澄んでいるその色に、青年の肩が微かに震えた。
「・・・何、を・・・・。」
「ヘンなの・・・こんなに、図体のでかい男なのに・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・あんたはまるで、小さな子供みたいに・・・見える。」
「っ・・・・・・!」
青年が、はっきりと息を呑む。その視線の先で、ゆっくりと仰向いた少年の夜色の瞳が、真っ直ぐにその姿を映し出した。
深い、深い瞳の色。まるで全てを見透かされてしまいそうな、耐え難い不安が青年を襲う。そんな彼に追い討ちをかけるかのように、少年は静かに薄い唇を開いた。
「痛くて、辛くて、哀しくて・・・膝を抱えて泣いてる、小さな子供と同じだ・・・・あんたは。」
「・・・・っ・・・・!?」
青年の肩が、今度こそ隠しようもないほどにはっきりと跳ねた。薄い闇の中、彼に向けてすうっと伸ばされた、白と黒の掌。咄嗟に身体を退きかけた青年を、双子の黒曜石がそっと引き止め、細い指先が、凍りついたように動きを止めた青年の頬に優しく触れた。左右で感触の違う指先が、緊張のあまりに若干血の気が引いている頬を、労わるようになぞっていく。まるで、恋人か子供を相手にしているかのような仕草に、暫し固まっていた青年だったが、やがて我に返ったように、ぎこちない動きでその手を払い除けた。
「さ・・・さっきから、一体何を?子供とか何とか、意味が解りません。」
「意味なんて、ないよ。俺には、あんたがそういう風に見えるって・・・そう、言っただけ。」
今や、体勢的にも体格的にも圧倒的な優位にあるにも関わらず、追い詰められた獣のような危うさを感じさせるのは青年の方だった。自分より遥か年下の少年を、彼は恐ろしいものでも見るかのように凝視する。
(・・・何を、見ている?)
自分を見つめる漆黒の瞳は、一体何を映し出しているのか。サングラスに隠された青年の目は、彼からは見えないはずなのに、その双眸は真っ直ぐに青年の目を覗き込んでいる。その事に気付いた瞬間、青年の背筋が、はっきりと粟立った。
「――――っ!!!」
突然、弾かれたように身を起こした青年は、ばっとサングラスの上から双眸を覆った。心拍数が上がっている。冷たい汗が、つうっと背筋を流れ落ちた。
(―――見られた?)
そんな筈はない、視線が合ったのはたまたまだと、必死に自分に言い聞かせる。色濃いガラスに隠された瞳が、見える筈がない・・・見える筈がないのだ。
頭では、そう解っていた。しかし、両目を覆った掌が、どうしても外せない。手を外した途端、またあの闇色の眼に覗き込まれるような気がして、酷く恐ろしかった。
(・・・見られては、いけない。)
こめかみが、ずきずきと疼く。遥か昔に忘れ去った筈の記憶が、ざわりと心の奥から這い出してこようとするのを、彼は必死に押し留めた。
半ばパニック状態に陥った青年の耳に、鈴を鳴らすような声が届く。澄んだその声は、しかし何処か哀しげな響きを帯びて、張り詰めた空気をそっと揺らした。
「・・・どうして、何も言わないんだ。」
「・・・・・・・・・。」
「あんたが一体どんな傷を抱えてるのか、俺は知らない。それを、何処の馬の骨とも解らないガキに、打ち明ける気になれないのも当然だと思う。・・・けどあんたは、近しい人にも、それを打ち明けた事がないんじゃないのか?
マークもいる。あんたを好いてくれる女の人だって、きっとたくさんいる。あんたの痛みを一緒に受け止めてくれる人は、きっとすぐ傍にいる筈なのに。・・・なのにどうして、一人で抱えて、苦しんでるんだ?」
「・・・ぃ・・・五月蝿い!!」
――ガラスが砕け散るような、その叫び。
心を切り裂くような拒絶の悲鳴は、大きくベッドが軋む音にかき消された。
「・・・・っ、ぅ・・・・・・!」
「・・・さぃ・・・・五月蝿い、うるさい・・・・!!」
ギリ、という嫌な音が響く。少年の薄い唇が、何かを叫ぼうとするかのように、何度か力なく開閉した。
「・・・何も・・・何も知らないくせにっ・・・・!!」
うわ言のような、理性の糸の切れた声。それが、自分自身の唇から出たものだと、青年が気付くまでに少々の時間を要した。
(僕は・・・・何をしている・・・・?)
自分の言動が意識から乖離しているような、奇妙な非現実感があった。勝手に唇から滑り出す言葉、意志とは無関係に動く両手。耳に届く自分の声は、みっともないくらいに掠れ、震えている。それは、細い首に絡み、力の限り締め上げている両の指先も同じ事だった。
(・・・・首?)
がくがくと、瘧(おこり)にでもかかったように震える指先が絡むのは――――――自らが組み敷いている少年の、首。
青年の両手は、少年の折れそうなほどに華奢な頸部に掛けられ、その頼りない喉笛を握り潰さんとばかりに締め上げていた。
「っ・・・・・・!!!」
青年が、ヒュッと鋭く息を呑んだ。自分が何をしているのか認識し、驚愕のあまり両手から僅かに力が抜ける。その瞬間、少年が彼を振り解こうと、渾身の力を込めて腕を振り上げた。反射的にそれをかわした青年の顔面すれすれに、微かな衝撃が走った、次の瞬間。
―――カシャーン。
(・・・・・え?)
・・・雷鳴のように、硬い音が響いた。
凍りついたように、ひどくゆっくりと上げられた青年の目が、床に落ちたサングラスを映し出した。運悪く本棚の角に叩きつけられたらしく、右のガラスが粉々に砕けている。震えながら目元を探った指先は、硬いガラスの感触ではなく、柔らかな人間の皮膚の感触を捉えた。・・・・青年の目元を完全に覆い隠していた色濃いサングラスは、少年の指に弾き飛ばされ、今は哀れな残骸となって床に散らばっていた。
「・・・・・・・ぁ・・・・・・・。」
「・・・か、はっ・・・ゴホッ・・・・はぁっ、は、ぁっ・・・・。」
茫然とそれを見つめる青年を余所に、少年の方は必死に呼吸を繰り返し、潰されかかった肺に酸素を取り込んでいた。幾度も空咳を繰り返し、ようやっと涙に濡れた瞳を開いた少年は、朦朧とした意識のまま、青年の下から逃れようと力の入らない腕を突っ張る。胸元を小さな拳で叩かれ、はっと下方に落とした青年の視線が――見上げてくる少年のそれと、真っ直ぐに絡み合った。ほとんど焦点が曖昧だった少年の眼が、やがてゆっくりと、驚いたように見開かれる。
「・・・あ、れ・・・・?あんた、サングラス・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
・・・青年の眼から、焦点が消えた。
「―――っ―――!!!」
声にならない絶叫が、ベッドルームの空気を切り裂く。
罅の入ったサングラスに、ぱき、と、新たな亀裂が走った。