――次に少年が眼を覚ましたとき、そこはあの青年の部屋ではなかった。

 「・・・・・・ぅ・・・・・?」

 カーテンを通して、太陽の光が淡く室内を照らしている。全く見覚えのないその室内の様子を、寝起きのぼんやりとした目で暫し眺めていた少年は、昨夜の出来事を思い出すや否や、バネ仕掛けのように横たわっていたベッドから跳ね起きた。だが、途端に全身を襲った痛みに、小さな悲鳴と共に再びベッドに沈む。ついでに、悲鳴が喉を震わせた途端、喉までもがずきずきと痛み出したため、彼は呻き声すら上げられずにベッドにうずくまる羽目になった。

 (・・・ここ、何処だ?なんで俺、こんなトコにいんの?)

 丁寧に包帯が巻かれた首を、そっとなぞる。多分、くっきり手の痕がついて凄い事になってるんだろうなぁと、少年は微かに顔を顰めつつ、自分がいる場所を改めて観察した。
 青年の自宅よりは二回りほど広い寝室だが、そこに収納されている文献類の数も半端ではなかった。たぶん、青年の部屋の二倍くらいはある。綿密な分類に則った几帳面な配列は、何処となく彼の本棚に似通っているような気がした。そういえば、ぱりっと糊の利いたシーツの感触なんかも良く似ている。
 だが、そこら辺だけ見れば極めて機能的なのだが、部屋全体で見てみると、冷たい雰囲気やオフィスめいた感じは全くしないのが不思議だった。それは、さりげなく窓際に飾られた一輪挿しの花瓶だとか、微かに香る甘いコロンの香りだとか、一見無地のようだが良く見れば凝った刺繍の入っているカーテンだとか、そういった細々したアイテムが醸し出す、優しくて甘くて温かい雰囲気のせいなのだろう。

 (・・・もしかして、女の人の部屋?)

 少年が、落ちつかなげに視線を彷徨わせていると、不意にベッドルームのドアが柔らかくノックされた。少年の肩が、はっきりと強張る。猫ならば、きっと全身の毛がさっと逆立っていた事だろう。
 この部屋の雰囲気はとても好ましかったが、何故こんな所にいるのか解らない以上、不安は募る。警戒心も露にドアを睨みつけると、少年は喉の痛みを堪えて、「誰?」と鋭く言い放った。だが、その声音から彼の緊張ははっきりと伝わった筈だったが、ドアの向こうの人物は怯むでもなく、安心したような声を板越しに返した。

 「・・・あぁ良かった、気がついたのね。入ってもいいかしら?」
 「・・・どうぞ。」

 低い声に応じてドアが開くと、そこにはとても綺麗な女性が立っていた。まだ若いが、あの青年よりは年上だろうか。色濃い金髪と深いグリーンの瞳が印象的な、ふんわりと優しげな雰囲気の美女である。この部屋の雰囲気をそのまま纏った女性の姿を見て、少年は彼女がこの部屋の主だろうかと朧気に考えた。

 「気分はどう?」
 「どうもこうもない。ここは何処?あんた、一体誰?」
 「ここは私の自宅よ。そんなに警戒しないで頂戴な、別に取って食おうってわけじゃないんだから。」

 嗄れた声で誰何してくる彼に苦笑しながら、静かに歩み寄ってきた女性は、ベッド脇の椅子に優雅に腰掛けた。

 「自己紹介しておくわね。私は、カレン・ヴェンディッシュ。貴方の大家さんが通う大学で、研究員をしているわ。」
 「カレン・・・あぁ、マークから聞いた。たしか、あいつとの交際最長記録の保持者だって。」
 「ふふっ、その通りよ。随分昔に別れたのだけれど、未だに記録更新されないのよね、呆れた事に。」

 そう言ってころころと笑う彼女に、暫しそちらを睨んでいた少年も、ゆっくりと肩の力を抜いた。温かい彼女の笑顔から、彼女が自分を傷つけるものではないと判断したのだ。ほとんど根拠などないのだが、少年は自分の人物鑑定眼に、それなりの信頼を置いている。また、相手のテリトリー内でこれだけ長時間意識を失っていたのだから、今さら警戒しても始まらないだろうという、一種開き直り的な計算もあった。
 とりあえず、彼女が何処まで事情を知っているのか確かめようと、少年は手渡されたカーディガンを素直に羽織りながら口を開いた。

 「えと、カレ・・・」
 「その首、クヅキに絞められたんですってね。」
 「・・・・・・・・・。」

 のっけからのピッチャー返し。いきなり最終結論に飛ばれ、言葉を途中でぶった切られた少年が流石に困って沈黙した。

 「えー、と・・・何処まで知ってる?」
 「そうね。貴方が彼の家に居候する事になるまでの経過と、その生活状況がほんの少し。そして全身の怪我の程度。・・・あとは、その首の痣が、彼に絞められて出来たって事。そんなものかしらね、私が持っている情報は。」
 「ふぅん・・・。」
 「あぁそうだ。悪いけれど、貴方が気を失っている間に、勝手に色々手当てをさせてもらったわ。彼との取っ組み合いで、傷が少し開いてしまっていたから。」
 「あぁ・・・そりゃ、どう・・・・!!」

 礼を言いかけた少年の表情が、一瞬強張る。素早く左手に視線を走らせた彼は、そこにきちんと黒い手袋が嵌められている事を確認し、安堵と困惑が入り混じった表情を浮かべた。それを読んだカレンが、短く付け足す。

 「左手の手袋は外してないわ。・・・『そこには怪我はないから、出来れば外さないでおいてあげて下さい』って言われたからね。」
 「・・・・・・・・・・・。」

 直接話法で伝えられた台詞が、誰のものであるかなど問い返すまでもない。無言で目を細めた少年から視線を外し、カレンはサイドテーブルのポットから温かい紅茶を注ぎながら、独り言のように呟いた。

 「・・・おかしいわよね。首を絞めるなんて暴挙をやらかしたかと思えば、変な所で気遣うんだから。彼は貴方の事を好いているのか、それとも嫌っているのか・・・さっぱり解らないわ。」
 「・・・嫌われてるさ、きっと。」
 「そう思う?」
 「ああ。あれだけ傷つけたんだもの、嫌われて当然だよ。気遣ってくれたのは、あいつが優しい奴だからだ。間違っても、俺に好意を持ってくれてるわけじゃない。」

 淡々とそう呟いた彼は、手渡された紅茶を機械的な動きで口に運ぶ。味などほとんど解らなかったが、少なくとも渇いた喉を潤す事は出来た。
 白いティーカップを両手で包むように持ったまま、彼は確かめるようにカレンに問うた。

 「・・・俺がここにいるって事は、警察には通報してないんだよな?」
 「ええ。この事を知っているのは、今のところはマークと私だけよ。」
 「マークが・・・・?」
 「そうよ。貴方は気を失っていたから覚えていないでしょうけど、彼は貴方の命の恩人なんだから。」

 昨晩、少年の息の根が絶えそうになったまさにその時、たまたまマークが青年の部屋を訪れ、そのチャイムの音で青年は我に返ったのだという。もしもマークの到着があと数分でも遅れていたら、今ごろ少年はあのベッドの上で冷たくなっていたかもしれない。
 友人が殺人犯になっていた可能性を改めて意識して、カレンは美しい眉を軽くひそめたが、ともすれば被害者になっていたかもしれない少年の方は、「へぇ〜・・・」と感嘆の情が篭っていない感嘆符を発したのみだった。想像力が欠如しているのか、それとも可愛い外見にそぐわず神経が太いのか。いずれにしても、もう少し取り乱していてもいいんじゃないかしら等と内心考えながら、カレンは言葉を続けた。

 「その後、私はマークから連絡を受けて、貴方をここに連れてきたの。事情がどうであれ、今の彼を貴方と一緒にいさせるのは危険だと思ったから。」
 「・・・・・・・・・。」
 「本来なら、すぐにでも警察に連絡すべきなんでしょうけど・・・。もともと貴方は警察に関わるのを嫌っていたようだし、私たちも大切な友人を殺人未遂犯にするのは忍びない。だから、通報は双方から事情を聞いた後にした方がいいと判断したのよ。」

 カレンはさらりと言ってのけたが、それは裏返せば、脛に傷持つ身同士、穏便に済ませないかという妥協案でもある。少年の怪しげな素性を盾にした、陰湿な作戦・・・否、消極的な脅迫だ。
 だが、自分が口にしている内容の卑怯さを十分知りつつも、彼女の穏やかな表情には一片の曇りも表れなかった。お嬢様めいた彼女の、そんな意外なしたたかさを見せつけられた少年は、薄っすらと苦笑を浮かべる。足元を見られている事に腹が立たないでもないが、二人の行動が青年を思ってのものだと気付いてしまうと、なんだか怒る気にもなれなかった。

 「・・・通報の必要はないよ。お察しの通り、俺はあんまり素性のよろしくない人間だ。ぶっちゃけると、この国にも正規のルートで入ってきたわけじゃない。警察沙汰になると、いろいろ面倒なんだよね。」
 「・・・そう。」
 「それに・・・・」
 「?」

 自分で言い出した事ながら、微かに表情を曇らせたカレンに目を細め、少年はもう一度紅茶を口に含んだ。 

 「昨日のあれに関しちゃ、あいつに非はないんだ。警告を無視して踏み込んで、あいつの傷を抉ったのは・・・俺の方だから。」
 「・・・どういう事?」

 カレンの問いに応じて、少年は昨晩の事を訥々と語った。
 名前を尋ねて、手酷く拒絶された事。周りの人間を頼れという言葉に、彼が異常に反応した事。・・・そして、サングラスを弾き飛ばされた瞬間、彼が完全に逆上した事。
 つい何時間か前に殺されかけたとは思えない、ひどく静かなその説明を、カレンは合いの手も入れずに静かに聞いていた。だが、やがて少年の話が終わると、彼女はふうーっと深い深いため息を吐いて俯いた。頭痛を堪えるかのように、こめかみに添えられた華奢な指先が、とんとんと落ち着きなく動いている。
 そして、暫しの沈黙を破って彼女が発した言葉は、心底呆れ果てたと言いたげな脱力感を含んでいた。

 「底なしの鈍感か、比類なきお節介か、はたまた天下一級の大馬鹿者か。貴方は一体どれに当てはまるのかしらねぇ、全く・・・・。」
 「・・・『鈍感』以外は否定できないかな。」

 直球でこき下ろされ、流石に少々渋い顔でそう呟いた少年を、顔を上げたカレンはじろっと睨んだ。美人なだけに妙な迫力があり、少年は渇いた喉を潤すべく口に含んでいた紅茶が、軽く喉に引っかかるのを自覚した。
 ・・・正直言って、ちょっと怖い。

 「ふぅん、お節介だって言う自覚はあったわけね?それが解っていてなお、貴方は彼の拒絶を無視して、彼のデリケートな心の内側にずかずか踏み入ったと。」
 「・・・・うん。」
 「踏み入って、それでどうするつもりだったの。自分が、彼の傷を癒してやれるとでも思っていたの?」
 「違っ・・・・そんな傲慢な事、考えてない!」

 痛む喉に構わず、少年は鋭く反論した。だが、煌く黒曜石を、カレンは真正面から見つめ返す。今、宝石のような彼女の瞳は、苛立ちや、自責や、哀しみや、その他諸々の感情が混じり合った、ひどく複雑な光を湛えていた。
 なおも何かを言いかけた少年を、カレンはすっと片手を上げて制した。たおやかな白い手の向こうから覗く美貌は、その眼差しとは裏腹に、風のない湖面のように静まり返っている。そのあまりにも静かな表情に、自然と唇を閉じた少年を見つめ、彼女は独り言のように、ぽつりぽつりと話し出した。

 「私は・・・ううん、私たちはね。クヅキが貴方を連れて帰って来た時、とても嬉しかったのよ。」
 「・・・・・・・・?」

 思いがけない言葉に、少年は戸惑ったように瞬きした。そんな彼の反応に構わず、カレンは静かに続けた。

 「だって、彼が自分から誰かに関わるなんて、これまで一度もなかったんだもの。事情を聞いた時、『ひょっとしたら、この子を匿う事は法に触れる事なのかもしれない』って、私もマークも考えたわ。状況からすれば、警察に届けるのが当然だものね。正直言えば、彼に黙って通報した方がいいのかって、悩んだ時もあった。」
 「・・・・・・・・・・。」
 「それでも、嬉しかったの。彼が学問以外の事で、初めて人間らしい興味や執着心を示してくれた事が。
 私たちが、心配しながらも結局様子を見ることに決めたのは・・・・貴方との暮らしが、彼の心を少しでも解してくれるんじゃないかと思ったからよ。今まで、彼に近づいたどんな人間も、彼の心に踏み込む事は出来なかった。けれど、自分から手を伸ばした貴方になら、彼はいずれ心を開くかもしれない。そこまで行かなくても、少しでも彼の苦痛を和らげてくれるかもしれない。・・・そう期待したからこそ、敢えて手を出さないでおこうと思ったの。」

 ――けれど、その目論見は完全に裏目に出た。
 カレンはそっと目を伏せ、自らの見通しの甘さを責めた。
 やはり、どんなに賢かろうが、この少年は未だ年端も行かない子供である。その純粋さは、愛おしく大切なものではあるけれど、時には何よりも鋭い刃となって他人を傷つける事もあるのだという事を、忘れてはいけなかったのだ。

 ――あんな危うい心の持ち主に寄り添わせるには、この子はあまりにも未熟だった。幼かった。

 青年が初めて他者に興味を示したという些細な事実に浮かれ、判断を狂わせた自分自身の愚かさに、カレンは静かに唇を噛んだ。その脳裏に、昨夜の青年の姿が過ぎる。古傷を抉られ、さらにろくに抵抗も出来ない相手に暴力を振るってしまったという事実に打ちのめされて、蒼白になっていた青年。彼のあんな姿は、それなりに長い付き合いであるカレンですら、初めて見るものだった。錯乱状態から醒めた彼が、どれほど衝撃を受け、また傷ついたか。それを想像して、カレンの胸がひどく痛んだ。

 「・・・ごめんなさい。」
 「・・・え?」

 自責の念にかられていたカレンは、ふいに聞こえてきた謝罪の言葉に、はっと我に返った。眼を上げると、澄んだ漆黒の瞳がこちらを見ていた。

 「俺が軽率だったせいで・・・・色んな人を傷つけてる。」
 「違うわ、貴方のせいじゃない。むしろ謝るのは私の方・・・。ごめんなさいね、さっきのあれは八つ当たりよ。貴方はちっとも悪くないんだもの。」

 そう言ったカレンに、しかし少年はゆるゆると首を振った。綺麗な黒髪が、レモンイエローのカーディガンにぱらぱらと散らばる。

 「・・・俺、解ってたんだ。ああ言ったらあいつが傷つく・・・いや、もともとある傷がさらに広がっちまうだろうって事、解ってた。あいつの嫌がりよう、尋常じゃなかったもの。」
 「じゃあ、どうして・・・・?」

 少年の手の中で、琥珀色の液体が揺れる。既に冷え切ったそれに視線を落とし、少年は噛み締めるように呟いた。

 「傷って、さ・・・。放っとけば治るものと、治らないものがあると思うんだ。」
 「・・・・・・・・。」

 カレンは目を細めた。医科大学に学んだカレンにとっては、それは当たり前の事だったからだ。
 時間と自己治癒力に任せておけば良いものもある。だが、然るべき処置を速やかに行わなければ、悪化の一路を辿るものもまた数多い。例えば、骨折部位がずれている足をそのままに無理やり歩き続けたら?縫合すべき創傷を消毒もせずに放置したら?・・・結果など火を見るよりも明らかだ。ずれたままに癒着した骨は、いずれ下半身全体の骨格を歪め、腐敗した傷は周囲の正常な皮膚や筋組織までもを腐らせるだろう。当たり前の事だ。

 「彼の傷もそうだと、貴方は言うの?」
 「・・・解んない。けど少なくとも、あいつの傷は全然癒えてない。ただその痛みから無理やり目を反らして、平気な振りをしてるだけだ。・・・カレンだって解ってるんだろ?本当に乗り越えられているなら、あんな風にパニックを起こしたりしない。傷に触れられまいとして、必死に周りを突き放したりはしないよ。」

 懸命に訴えるような目に見上げられ、カレンは自分の中で何かが揺れるのを感じた。たおやかな手をきつく組み合わせ、彼女は辛そうに目を細める。そんな彼女から視線を外し、少年は俯いた。カップを握った両手が、微かに震えている。掠れた声で、彼は小さく小さく呟いた。

 「・・・痛いなら、痛いって・・・哀しいって、辛いって。どうして言わないんだろう。」
 「・・・・・・・・・・。」
 「泣いたっていいじゃんか。かっこ悪くたって、情けなくたって・・・心が腐って死んじまうより、よっぽどいいじゃんかよ。それなのに無駄にとんがって強い振りして、一人で生きていけます、みたいな澄ました顔して・・・・。そんなの強いんじゃない。ただ臆病なだけじゃないか。」
 「・・・・・・・・・・。」

 震える声。痛々しく掠れた声は、辛辣な言葉とは裏腹にひどく哀しげだ。
 小さな少年を黙然と見つめていたカレンは、やがて自らの両腕をそっと差し伸べた。目の前で震える華奢な肩にそっと触れると、大げさなほどにびくりとその肩が跳ねる。野良猫のような彼を怯えさせぬように、ゆっくりゆっくりと痩せ細った身体を抱き寄せて、彼女は柔らかな黒髪を優しく撫でた。

 「・・・泣かないで。」
 「・・・っ、ゴメン・・・・・。」

 いささか慌てたように、少年は潤んだ眼を拳でぐいぐいと拭った。初対面の、しかも女性の前で泣くなんてと、気恥ずかしさにも似た想いが内心を過ぎったが、しくしくと痛む胸の痛みは少年の息を詰めさせ、その双眸を新しい涙で濡らした。自分でも、何故こんなにも涙が出るのか解らない。涙腺が壊れてしまったのだろうかと、彼はいささか途方に暮れたように、濡れた顔を両の掌で覆い隠した。
 そんな少年の様を穏やかな眼で見ていたカレンは、先ほどまで心の奥底に沈殿していたもやがゆっくりと引いていくのを感じていた。泣きじゃくる幼子を宥めるように、優しくその髪を撫でながら、彼女はそっと囁く。

 「・・・貴方は、彼が好きなのね。」
 「っ・・・・・・。」

 こくん、と。躊躇いがちにではあったが、少年は確かに頷いた。ずず、と鼻を啜って、潤んだ声で呟く。

 「・・・初めて見た時は、人形が歩いてるのかと思ってビビったんだ。無表情だし、サングラスかけっ放しだし、会話は用件オンリーだし・・・感情の起伏なんて全然ないんじゃないかって。メチャクチャ綺麗だとは思ったけど、なんか近寄り難くてさ。」
 「・・・そう。」

 無理もない。目覚めたら何処とも知れぬ部屋で、あんな男と二人きりだったのだから、この少年がかなり驚いたであろう事は想像に難くない。だが、そう言った後、少年はくすりと小さく微笑んだ。

 「でも・・・暫く一緒にいて、思ったんだ。あいつ、感情がないわけじゃなくてさ。ただそれの表し方が、どうしようもなく下手クソなだけなんじゃないかって。」

 突如自宅に紛れ込んだ異分子に落ち着かない様子を見せながらも、彼は少年を追い出そうとは決してしなかった。丁寧に手当てを施し、身の回りの世話をし、夜には比較的簡単な学術書を手にした少年の質問を疎ましがるでもなく、解りやすく答えてくれた。
 温かい夕食を食べながら、少年が彼の手料理の味を手放しで褒めた時、彼がほんの微かに微笑んでくれた事を、少年は覚えている。それは、彼の手料理そのままに、温かく胸に染みる微笑み。そこには、取り澄ました秀才の仮面も、孤高の麗人の面影もなかった。ただ穏やかな、そして何処か寂しげな雰囲気を纏った、一人の青年がそこにはいた。

 「そん時、思ったんだ・・・。こいつ、本当はこっちが地なんじゃないかって。笑えばあんなに綺麗なのに、なんでいつもあんなにピリピリしてんだろうって、一体何に牙を剥いてるんだろうって、ずっと気になってしょうがなかった。
  それでも、通りすがりの人間に根掘り葉掘り訊かれたら嫌だろうって、我慢してたんだ。けど、だんだん怪我も癒えて、あいつと二度と会えなくなる日も近いんだなって思ったら、なんか我慢しきれなくなちまって・・・・・。」
 「・・・うん。」

 ――ひと欠片の思い出が欲しかった。それだけだった。

 「・・・俺は、ずっとあいつの傍にいるわけにはいかない。だから、いなくなる前に、どうしても伝えたかった。周りの人間に凭れる事は、悪い事でも何でもないんだって。誰かに話す事で楽になる痛みもあるんだって、あんたの周りには支えてくれる人がいるんだって、あいつに言ってやりたかった。それだけだったんだ・・・・。」

 このままでは遠からず、彼の心は完全に死んでしまうだろうと、少年は直感で見抜いていた。あの微笑みも、きっと永遠に失われてしまうだろうと。
 だから、彼に伝えたかったのだ。たとえ新たな血が流れようとも、自分の傷をきちんと見つめなければならないのだと。膿んだ古傷を抉るのは、耐え難い痛みを伴うかもしれない。けれど、たとえ痕は残っても、それがいずれは彼の心を救うだろうと。

 「その判断が間違ってたとは思わない。・・・けど、ダメだね。あまりにも無造作に踏み込みすぎて、ただあいつを傷つけるだけで終わっちまった。ホント、俺って馬鹿だ・・・。」

 ・・・ゴメン。ゴメンな。
 震える声でそう呟く謝罪は、ここにいない人間に向けられたもの。彼が小さな拳を力の限りに握り締めているのを見かねて、カレンがそっとその両手を開かせると、白い掌にはくっきりと爪が食い込んだ痕が残っていた。

 (・・・この子も、自分を責めているのね。)

 小さく震える少年を、カレンは優しい眼で見下ろした。温かな色合いのその双眸が、何かを思案するようにゆっくりと閉じられる。

 (この子に関する評価を、訂正しなくてはならないかしら。)

 確かに、この少年の行動は軽率だったかもしれない。青年の心の闇に性急に近づきすぎ、その結果、ただ闇雲に彼を傷つけてしまったのは、確かにこの少年のミスだっただろう。同じ意図を持って彼にアプローチするにも、もう少しましなやり方があったはずだ。
 しかし、自分にそれを責める資格があるのかと、カレンは内心で自嘲した。青年が傷つき、苦しんでいる事を知りながら、自分は彼に何をしてやれたというのだろう。触れる勇気も、離れる思い切りの良さもなくて、見守るのだと言い訳をしつつ逃げて来たのではなかったか?曖昧な恋人関係にピリオドを打った時、心の中に安堵の想いがひと欠片もなかったと、本当に言い切れるだろうか。

 ・・・少なくとも、この少年は行動したのだ。彼の苦しみを見抜き、そしてその心のために自分が何をしてやれるのか、この子は考えて、それを実行に移した。生々しく血を滴らせる彼の傷から目を反らさず、それを癒そうと手を伸ばした。それは、今まで誰にも――そう、親友のマークにすら出来なかった事なのである。

 そこまで考えて、カレンはそっと拳を握り締めた。自分は今、とんでもない事を考えている。理性は大反対しているけれど、そしてその判断は正しいと自分でも思うけれど。でも、今を逃せば、きっともう・・・・・。
 迷いながら目を開けると、黒曜の双眸と視線が合った。人の痛みを難なく見抜いてみせる、不思議な眼。真っ黒なくせにどこまでも澄んだその眼を見ていたカレンは、頭の中で立てては崩していた方程式が、波にさらわれる砂絵のようにさらさらと消えていくのを感じた。そして、白紙に戻ったそこに新たに描き出された、唯一の解。それを見て、カレンは内心で苦笑する。

 ――これでは、彼の事を非論理的だの何だのと非難できないわね。

 いい結果を導くとは思えない。しかし、計算だのなんだのをすっ飛ばすと、何故かそれが一番良いような気がするのが不思議だった。

 (・・・賭けて、みるか。)

 たぶん、こんな勝算の低い賭けに乗るのは、一生に一度だけだ。それが他人のためであるという事に苦笑しつつ、カレンはそっと紅唇を開いた。

 「・・・レイ。」
 「っ、何・・・・?」

 初めてカレンに名を呼ばれ、少年は驚いたように瞼を瞬かせた。濡れて艶を増したその双眸を覗き込んで、カレンは尋ねる。

 「貴方の、素直な気持ちを教えて。・・・・貴方は、これからどうしたい?」
 「・・・・え?」

 少年の眼が、大きく見開かれた。カレンの真剣な表情から、カレンの意図を何となく悟ったらしい。

 「私とマークは、二度と貴方を彼と会わせないつもりだった。このまま私の家で面倒を見て、貴方の怪我が癒えたらそのまま出て行ってもらうつもりだったわ。」
 「・・・・うん。」
 「けど、貴方の話を聞いて、それが本当に彼のためなのか、解らなくなった。・・・いえ、頭ではそれが正しいと思うの。けど、このまま貴方たちを引き離したら、取り返しのつかない事になってしまいそうな気がする。ただの勘だけど、そんな気がするの。・・・だから。」

 ――こんな子どもに、責任を押し付けているだけかもしれないけれど。

 「貴方の意志に任せるわ。このまま、此処で傷が癒えるのを待って、この町を出るか。・・・それとも、もう一度彼に会うか。貴方が決めて頂戴。」
 「・・・・・・・・・・。」

 驚きに見開かれていた瞳が、ふうっと細められた。涙に霞んでいた双眸に、一筋の光が煌く。やがて、嗄れた喉から押し出された声は、それでもなお凛とした響きを帯びて彼女に届いた。

 「・・・俺、あいつのトコに戻りたい。戻って、謝って、もう一度ちゃんと話したい。」
 「また、キレられるかもしれないわよ?」
 「うん。今度は、蹴っ飛ばしてでも抵抗するからいい。・・・・このまま別れるのだけは、絶対に嫌だ。」
 「・・・・そう。」

 優しく微笑むと、カレンはその髪をもう一度撫でた。少年も、ほんの微かではあるが、明るい笑顔を向けてくれる。初めて彼が見せた笑顔に、まぁ可愛い等と少々和みつつ、カレンは気持ちを切り替えるようにして元気よく言った。

 「・・・じゃあ、着替えて顔を洗ったら、一緒に彼の家に行きましょう。ああ、その前に・・・・」
 「?」

 首を傾げた少年の手からカップを取り上げ、カレンは悪戯っぽくウィンクして見せた。

 「この紅茶、私のオリジナルブレンドなんだから。一杯くらい存分に味わって行って頂戴ね?」

 

 

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