少々型は古いが燃費は良さそうなカレンの愛車は、ぬかるむ路上にもめげずに道路を疾走する。見慣れぬ景色が後方に飛ぶように流れていくのを見るともなしに眺めながら、助手席の少年は、軽やかにステアリングを操るカレンに、ぽつりと尋ねた。
「・・・ねぇ。カレンはどうしてあいつと別れたの?」
「え?どうしてって?」
ちょうど赤信号に引っかかったところで、カレンはちらりと、穏やかな一瞥を少年に向けた。そんな彼女に、少々尋ねにくそうに口ごもりながら、それでも少年は続けた。
「だって、カレン美人だし、大人だし、あいつの事すごく理解してるみたいじゃないか。それなのに、どうして別れたのかなって。」
別れた後ですら、こうして彼のことを心配してあれこれと世話を焼いているのだ。決して嫌い合って破局を迎えたわけではあるまい。
外見も、頭脳も、これ以上ないほどに似つかわしく思えるのに、どうして駄目だったのだろう。首を傾げた少年に微笑んで、カレンはアクセルを踏み込んだ。
「・・・多分、似すぎてるからじゃないかしらね。」
「え?」
横に並んだスポーツカーが、悪戯にこちらに車体を寄せてくる。何やら色目を使ってくる運転席の男に一瞥もくれず、鮮やかなハンドル捌きで一気にその車を置き去りにしたカレンは、小さく拍手をする少年に何事もなかったかのように話しかけた。
「私はね、研究者なの。理詰めで物事を考え、不可解な事態に遭遇したらその原因を明らかにし、それに基づいて対処法を探す。そういう仕事をしているのよ。」
「・・・うん、知ってる。」
「そういう思考法は、私の基盤となっている。・・・良くも悪くも、ね。
私には、彼の過去を知り、それを分析する事は出来るでしょう。でも、そんなもの、彼は物心ついてから、ずっとずっと繰り返しやって来ているの。
ましてや、私は彼の過去を全て知っているわけじゃない。そんな私が出す解(こたえ)など、彼にとっては全て予想の範囲内なのよ。」
「・・・それは、いけない事?」
「いいえ、いけなくはないわ。・・・ただ、そこからは何も生まれない。論理で組み上げられた壁は、それより不完全な論理では、絶対に崩せない。それだけの事よ。」
「・・・・・・・・・・・。」
考え込んでしまった少年を横目で見ながら、カレンは道路脇の看板を確認する。目的地まではあと僅かだ。
「いっそ・・・・・。」
「え?」
「いっそ、感情のままに行動出来れば良かったのかも知れないわね。小難しい理屈なんて抜きにして、ただの女として、彼に接すれば良かったのかも知れない。」
「・・・・・・・・・・。」
――分析も解析も理論構築も止めて。ただ目の前の、一人の青年を抱きしめてやれたなら。
「・・・でも、それは無理。私が『私』である限り、研究者としてのプライドがある限り、そんな素直な行動は出来なかった。」
「・・・要するに、恋愛するには頭でっかちだったって事?」
「っ!!」
『頭でっかち』!カレンは思わず吹き出した。
まったく、その通りだ。つまるところ、彼と同じパターンの思考回路を持っている自分は、彼の理解者にはなり得ても救い主にはなれない定めだったのだろう。
彼が築いた壁を崩せるのは、多分彼とはまったく違う目で世界を見ている人間だ。――例えばそう、この少年のように。
笑われてふて腐れたように外に視線を投げてしまった少年を眺め、カレンは微かな羨望を感じる。決して彼になりたいわけではないけれど、そういう人間もいるのだという事実が、象牙の塔の住人であるカレンにとってはなんだか新鮮だった。
「・・・あ。」
「はい、着いたわよ。」
やがて、車は見覚えのあるアパートの前に停止した。そっと二階の端の窓を窺った少年は、そこにカーテンが引かれたままなのを見て眉を寄せる。いつもなら、彼はとっくに学校に行っている時間なのに、どうして。問いかけるように振り向いた彼に、カレンは小さく頷いて見せた。
「彼、今日は学校をサボって引きこもってるそうよ。マークは登校しているから・・・今、彼は一人きり。覚悟はいい?」
「うん。送ってくれてありがとな、カレン。」
少年は、躊躇いなく頷くと、ドアを開けてするりと外に出た。と、助手席側のウィンドウを開けたカレンが、軽く身を乗り出すようにして声をかける。振り向いた少年に、カレンは一言だけ告げた。
「・・・『ユエ』。」
「・・・は?」
「『クヅキ ユエ』。・・・それが彼のフルネームよ。」
一瞬の自失の後、少年が驚愕の表情を浮かべる。あれだけ彼が言いたがらなかった名前を、他人からいともあっさりと教えられてしまった事に動揺しているのだ。慌てたように何かを――たぶん「なんであんたの口からそれを聞かされなきゃなんないんだ」、とかだろう――言いかけるのを、カレンは視線だけで制した。内緒話をするように、ほとんど吐息だけの囁きで、彼女は告げる。まるで、何かに祈るかのように、真摯な瞳で。
「私は、彼の過去の全てを知っているわけではないけれど・・・これだけは確かよ。」
「・・・・?」
「その名は、すべての象徴。彼にかけられた呪いそのものだわ。」
「のろ、い・・・・?」
カレンの口から聞くには、いささかならず不似合いな言葉。その禍々しい響きに、少年は小さく息を呑む。そんな彼を見つめて、彼女は囁いた。
「貴方が、その名で彼を呼べる日が来るのかどうか・・・これは私にとっても危ない賭けね。」
「・・・・・・!!」
小さな小さなその囁きと、ほんの微かな微笑を残して、彼女は車を発進させた。遠ざかる車の後姿を見つめて、少年は雪の中に茫然と立ち尽くしていたが、やがて身を切るような寒風に体温を奪われて、小さくくしゃみをした。とりあえず、此処に立っていても仕方ない。気を取り直し、ひょこひょこと階段に向かった少年だったが、不意にその足を止め、はっとしたように左の路地に視線を投げた。
「・・・・・・・?」
そこには人影はなく、ただ溶けかけで泥まみれの雪だけがある。しんと静まり返った空気に、少年は気のせいかと肩から力を抜いた。
(誰かに、見られてたような気がしたんだけど・・・・。)
いささか神経が昂ぶっているのか。首を振った彼は、今度こそ階段へとその足を踏み出した。そのまま、二階の彼の部屋を目指して、一歩ずつ階段を上っていく。
――やがて、その姿が見えなくなった頃。物陰からこっそりと去っていく人影があった事を、この時の少年が知る由もなかった。
+++
何度か鳴らしたチャイムにも、ノックにも、返答がない。進退窮まった少年が駄目もとでドアノブに手を伸ばすと、驚いた事に、それはあっさりと彼の手の中で回転した。
(無用心な・・・・強盗にでも入られたらどうすんだよ。)
呆れながら、躊躇いがちにドアを開けた少年。次の瞬間、彼は視界に飛び込んできた光景に眼を丸くした。
薄暗いリビングのテーブルや床に転がるのは、無数の酒瓶。かなり度の高いものも少なからず混じっていて、まさかこれをストレートで飲んだりしてないだろうなと、少年はひやりとした。室内に篭る酒の匂いの濃密さが、酒宴がかなり長丁場であったであろう事を教えてくれる。昨夜はマークがいたのだとしても、いくらなんでも空き瓶の数が多すぎやしないだろうか。まさか、急遽友人を呼んでパーティーでもしたわけでもあるまいに。意図せず足音を忍ばせながら室内に入り込んだ少年は、静かにドアを閉めながら内心でそう呟いた。
暖房のタイマーが切れているのか、室内はかなり寒かった。リビングにも、キッチンにも、人影はない。自らの肩を擦りながら首を回した少年は、ベッドルームに繋がる扉へと視線を向けた。半分ほど開いているそれに微かに眉を寄せ、彼はそっと歩み寄ると、静かに暗い室内を覗き込む。・・・と、その薄い闇の中で、きらりと光る金色が視界を掠めた。
(いた・・・・。)
探していた青年は、広いベッドの上にいた。昨夜着ていたカーディガンのまま、靴も脱がずにベッドの上に倒れ伏している様子からして、おそらく限界まで飲んだ後そのままここに転がったのであろう。上掛けすら掛けていない彼は、ひどく寒そうに、自分の肩を抱くようにして丸くなっていた。・・・それはまるで、何かから必死に自分を守ろうとしているようにも見えて。
(せめて、上掛けくらい掛けろよ・・・・。風邪、引くじゃんか。)
広いベッドの隅で、長い手足を縮めながら眠る青年。引き結ばれた唇や、微かに寄せられた眉が、彼の眠りが安らかとは言い難いものである事を物語っている。そんな厳しい寝顔を見つめながら、少年は大きな目を悲しげに曇らせた。彼を囲む現実が、彼にとって優しくないのなら、せめて夢の中だけでも安げれば良いのに。眠りの女神の恩恵さえ、彼には満足に与えられないのだろうか。
寒さで若干血の気が引いた青白い頬は、まるで本当の陶器のようだった。触れたらぱきんと罅(ひび)が入ってしまいそうなそれに温もりを与えたくて、静かに歩み寄った少年はそっと指を伸ばす。無機物の硬さで少年の肌を拒むかに思えた頬は、しかし外見よりもずっと柔らかく、しっとりと少年の指先に馴染んだ。
(・・・あったかいや・・・・。)
青年の肌はかなり冷えていたが、触れているとじんわりと熱が伝わってくるのを感じる。ひんやりとした表面とは裏腹に、その内側に秘められた温度は意外なほどに高い。確かめるように、何度も繰り返し触れていた少年は、不意に上がった低い呻き声に、びくりと大きく肩を戦慄かせた。反射的に手を引きかけたが、その瞬間右肩に走った激痛が、彼の動きを鈍らせる。少年は忘れていた右肩の痛みに顔を顰め、それでもそろそろと手を引こうとしたが、ふと温かいものにその手を包み込まれて、驚いたように目を見開いた。
「・・・・・?」
長い指、白い肌。離れようとする指先を引き留めたのは、紛れもなく青年の左手だった。
少年は思わず彼の顔を凝視したが、薄い瞼は相変わらず閉じられている。だが、硬直した少年が見守る先で、青年の端整な唇が微かに震えた。
「・・・・・・・・・。」
「・・・え?」
聞き取れないほどに微かな呟き。けれど、静かなベッドルームでは、その吐息のような囁きも十分な音量だった。
はっきりと聞き取った少年は、困惑した表情を浮かべたが、躊躇いながらも彼の手を握り返す。それが刺激となったか、青年の意外と長い睫毛が、ぴくんと震えた。
「ん・・・・・。」
吐息交じりの呻き。同時に、今までぴくりとも動かなかった身体がゆっくりと身じろぐ。青年の目覚めが近い事を悟り、少年は慌てて繋がれた手を振り払おうとしたが(何せこんな所を見られたらどんな誤解を受けるか解らない)、彼の小さな掌は、青年の大きな手に完全に包み込まれてしまっている。簡単には外せない。
軽く狼狽した少年が見つめるその先で、眠れる青年の双眸が、今ゆっくりと開かれた。
――誰だろう・・・・誰かが、僕に触れている。
冷たいばかりだった眠りと現の狭間で、不意に柔らかな熱が触れるのを感じていた。ひどく躊躇いがちに、おずおずと触れてくるそれ。それがあまりにも優しくて、温かくて、青年は夢を見ているのだなとぼんやり考えた。こんなに優しい温もりが、自分に与えられるはずがないのだから。
――だって、『あの人』は・・・・こんな風に僕に触れたことは、一度もなかった。
胸郭の奥に空いた空洞が、痛みにも似た冷たさを訴えてくる。嘆いても足掻いても無駄だと悟り、独りで生きていくと覚悟を決めた後も、決して埋められる事はなかった心の虚。だが今、緩慢に与えられる頼りない温もりは、冷え切った青年の内側へと確かに浸透していく。鎧で覆った内側へと入り込まれているというのに、何故かそれは拒絶ではなく、泣きたくなるほどの安らぎと安堵を彼に与えてくれた。
――まるで、あの子のようだ。
偶然に導かれて青年の元へと迷い込み、暫しの時を共に過ごした少年。今まで出会った女たちのような、打算や見栄や聖母ぶった同情心を一切持たない、まるで野良猫のような彼と一緒にいた時間。人並み以上の容姿も、世間の評価も一切通用しない代わりに、等身大の自分の姿を真っ直ぐに見つめてくれる彼との生活は、楽しかった。失ってしまった今、はっきりとそう思う。
でも違う。彼ではない。だって、彼は行ってしまったのだから。他ならぬ自分が、一瞬の激情で彼を傷つけ、あの透明な瞳を永遠に手の届かない存在にしてしまったのだから。
――ごめんなさい。
怖かった。あの澄んだ眼に、自分の闇を見透かされる事が。
・・・・そして何より、一度誰かに心を許してしまえば、もう一人きりでは生きていけなくなってしまうであろう、自分自身の弱さが。
自由に野を駆ける存在である彼を、自分に縛りつける事は出来ない。そう思ってはいたけれど、こんな最低なやり方で、彼と決別する事になるなんて思わなかった。
――ごめんね・・・。
温もりは、相変わらず傍にあった。嗚呼、なんて優しい夢なんだろう。叶うならば、このまま永遠に微睡んでいたいほどに。
でも、それは出来ない。きっと、目覚めて孤独を再認識する事こそ、彼を傷つけたことに対する罰なのだ。そう自らを嘲った青年は、冷たい目覚めに向かって、ゆっくりと意識を浮上させた。
怯えたように、遠ざかっていく温もり。覚悟していたにも関わらず、それがあまりにも切なくて、思わず青年は引き止めるように手を伸ばした。壊れそうな心が、声にならない悲鳴を上げる。
――行かないで。
言っても無駄だと、醒めた自分が囁く。泣こうが、縋ろうが、何も変わらない。――ずっとそうだったじゃないかと、絶望が足を竦ませる。
・・・けれど、今は違った。
――!!!
縋るように捕まえた、小さな温もり。それが恐る恐る手を握り返してくれるのを、青年は信じられない思いで受け止めた。
ぎこちなく、それでもしっかりと握り返された手。まるで、闇に落ちゆく青年を繋ぎ止めようとするかのような、温かいその手に導かれて、青年はゆっくりと覚醒の水面へと引き上げられていく。目覚めるその瞬間、青年は手の中の感触を見失わぬように、無意識のうちに強く手を握り締めていた。
――貴方は・・・誰?
声にならぬ問いかけに、答えは返らなかったけれど。
応えるようにぎゅっと握られた掌だけが、ひどく温かかった。
・・・・・・・・・・・
浅い眠りから覚醒した青年は、途端に襲って来た寒さと頭痛と節々の痛みに思わず呻いた。二日酔いなんて、一体何年ぶりの事か。金鎚で頭を連打されているような痛みに眉を顰め、霞む眼を緩慢な仕草で擦ろうとした青年は、そこで自分の左手が何かを掴んでいる事に気付いて、はたと動きを止めた。そんな彼の頭上から、微妙に困ったような幼い声が、躊躇いがちに落ちてきた。
「えー、と・・・・おはよう。」
「!!!」
「・・・ごめんな。昨日の今日なのに、勝手に家入っちゃって。」
上げた視線の先に煌く黒曜石を見出した青年は、これは夢の続きかと、糸のように細めた目でぼんやりとそれを見つめた。そんな彼から面映そうに視線を反らし、少年はおずおずと手を引く。そこで初めて、自分が掴んでいるのが少年の右手であるという事に気付いた青年は、慌てて彼を捕まえていた掌を開いた。
何故、彼がここにいるのだろう。まさか、昨晩の修羅場は夢だったのだろうか。夢と現の境界を見失いかけ、青年は軽く混乱したが、少年の細い首に巻かれた包帯が、昨晩の自分の暴挙が紛れもない現実だと物語っている。テープを巻き戻すように昨晩の光景を脳裏でリプレイしていた青年は、最後に彼にサングラスを弾き飛ばされた事を思い出して、はっと息を呑んだ。今、自分の双眸を隠しているものは、何もないのだ。
「っ!!」
咄嗟にシーツに顔を埋め、彼は少年の視線から眼を隠した。急激に動いたため、再び頭が割れそうに痛んだが、構っていられない。彼は、まるで嗚咽を堪えるように、頑なに白い布の波に顔を埋めていたが、ふと後頭部に柔らかく触れられるのを感じて、ぴくりと小さく肩を揺らした。
「・・・・そんなに、眼を見られるのが嫌なのか?」
顔を上げさせようとするでもなく、ただ手遊びのように髪を梳いていく指先。唄うように紡がれる言葉は、不思議と精神に張った防御壁にはひっかからず、すとんと心の内側へと落ちてきた。
そのせいかもしれない。普段ならば一蹴するはずの質問に、青年はつい素直に答えてしまっていた。
「見ないで下さい・・・貴方を、殺したくないんです。」
「穏やかじゃねぇなー・・・。昨日のアレを、リプレイする気か?」
「違います・・・そんなんじゃない。」
「じゃあ、何?」
「・・・僕の眼は、呪われているから。」
「・・・あ?」
冗談かと思ったが、青年の口調は恐ろしいほどに真剣だった。訝しげに見つめる少年の視線の先で、彼はうわ言のように続ける。
「・・・僕の眼は、人を殺す。これ以上、この眼のせいで不幸になる人を見るのは嫌なんです。」
「おい、らしくないぞ。仮にも研究者を志す人間が、呪いとか真面目に言っててどーすんだよ。」
「科学的に証明できるものじゃない・・・呪いは、人の心に棲むモノだから。」
その言葉に、少年の背筋に寒気が走った。『呪い』――カレンも、真面目な顔で同じ言葉を口にした。
一体、彼にはどんな鎖が絡みついていると言うのか。
「お願いです、カレンの所に戻って。貴方の怪我が治るまで、彼女ならきちんと面倒を見てくれる。だから・・・もう僕には関わらないで。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・酷い事をして・・・すみませんでした。」
俯く青年の肩は、ひどく頼りなく見えた。出て行けと、口ではそう言いながら、彼の背中は何よりも雄弁に孤独と虚無を訴えている。
寂しさを滲ませながら人を遠ざける、どうしようもなく不器用な青年にため息をついた少年は、何を思ったか、おもむろにシーツを緩く掴んでいる青年の手を引っ張った。ぎょっとしたように肩を強張らせた青年を無視して、彼の親指を、自分の右手首の内側へと触れさせる。その上からしっかりと左手を重ねて、少年はにっと悪戯っ子のように笑った。
「・・・ほら、医学生なんだから解るよな?体温も脈拍も、ちゃんと正常値だろ?」
「・・・・・・・?」
唐突に健康診断をやらされ、青年が訝しげにシーツから顔を上げる。決して目を合わせようとはせず、ベッドに乗り上げている少年の腿の辺りに視線を向けている彼に、少年は続けて囁いた。
「昨日の夜・・・俺はあんたの眼、見たぜ?」
「!!」
「ほんの一瞬だったけど・・・確かに見た。つか、ついさっきもちらっと見えたし。・・・・けど、今もこうしてぴんぴんしてる。」
「・・・・・・・・。」
青年が返す言葉に詰まっていると、捉えられていた掌がそっと解放された。手の中から消えてしまった温もりを、少しだけ惜しく思っていた青年は、ふわりともう一度髪に触れられて、静かに目を閉じた。
「誰に、何を言われたのか知らないけどな。・・・あんたの眼は、呪われてなんかいないよ。」
「・・・・・・・・・。」
「昔、誰かを亡くしていたのだとしても、それはあんたの眼が殺したわけじゃない。俺が死んでないのがその証拠だろ?・・・えーと、こういうの、何て言うんだっけ・・・?」
「・・・”反例”。」
「そう、それそれ。」
犬をじゃらすように、ふわふわと髪を梳いていく指先が言う。――『怖くないよ』、と。
「俺を殺すとしたら、それはあんたの眼じゃない。呪いなんて、曖昧なモンでもない。それに負けたあんた自身の弱さが、俺を殺すんだ。・・・昨日みたいにね。」
「・・・・・・・・・・。」
「闇に怯えちゃいけないよ。それは暗いけれど、怖いものじゃない。誰の中にも、必ず居るモノだ。
――怖いのは、それに自分が囚われる事。闇に喰われて、自分をその傀儡にしてしまう事が、一番怖い事なんだから。」
それは、青年にというよりは、むしろ自分に言い聞かせているようにも聞こえた。唄うような言葉に耳を傾けていた青年は、横向きになっていた身体をそっと仰向けにされ、糸目よりもさらに細く瞼を持ち上げた。数ミリの動きに困惑を滲ませる青年に少しだけ笑い、少年は端整なその顔に、そっと自らの顔を寄せる。次の瞬間、瞼の上に柔らかなものが触れ、青年は思わず息を呑んでいた。
「なっ・・・・!!」
身じろぎかけた青年の肩を、小さな掌がそっと押さえる。細心の注意を払いながら、薄い瞼に触れていくのは、僅かにかさついた唇。まるで神聖な儀式のように、厳かなまでの真摯さで左右の瞼に口付けた少年は、硬直した青年に、瞼に吐息がかかりそうな距離でそっと囁いた。
「・・・自分から野郎にキスするなんて、大サービスだかんな。」
「な、何を・・・・。」
「おまじないさ。あんたの眼にかけられてた『呪い』を、今、喰ってやった。」
「・・・・は・・・・・?」
青年は呆気に取られた。冗談のように聞こえたが、少年の声は至って真面目だ。
「嘘じゃない、ホントだよ。あんたの中に棲んでいる闇を、少しだけ喰ってやった。・・・世話になった、せめてものお礼に。」
「・・・いい加減な事を・・・・。」
「嘘だと思うなら、目、開けてみな?何も起きやしないって、確かめてみろよ。」
「・・・・・・・・・。」
挑発的な言葉に、青年は眉を寄せる。そんな彼を勇気づけるように、少年は彼の手を、再びぎゅっと握り締めた。
夢の中で、自分を繋ぎ止めてくれた手の感触。その温もりと澄んだ声が、青年の心に染み渡っていく。恐怖や躊躇いをゆっくりと溶かし、本当の目覚めへと誘う。
「ほら。その眼で、確かめてごらん。・・・・お前を縛りつける鎖なんて、何処にもないんだって事を。」
銀の鈴の音にも似た声に導かれ。
――青年の双眸が、今、開いた。