・・・ゆっくりと開かれた、真珠のような白い瞼。
それを真っ直ぐに覗き込んでいた黒曜石の双眸が見出したのは、限りなく深い紫と蒼を湛えた、至高の宝石だった。
「う、わぁ・・・・・。」
思わず零れ落ちたのは、感嘆の声。極度の緊張を孕んで揺れるその瞳を、少年はまじまじと覗き込んだ。
昨晩の彼の瞳は、間違いなく、サファイアの如きアイスブルーだった。薄い闇の中、鮮烈な蒼の閃光が煌いたのを、少年ははっきりと覚えている。だが、今、彼の虹彩の色は、どちらかと言えば紫に近い、不思議な色合いを湛えていた。彼が不安げに身じろぐ度に、アメジストのような深い紫に、きらりと一筋の蒼が紛れ込む。万華鏡のように複雑に色を変えるその瞳を、魅入られたように見つめていた少年は、自嘲するような青年の声に、ふと我に返った。
「・・・・気持ち、悪いでしょう?」
「何処が?めっちゃ綺麗じゃねーか。」
それは、掛け値なしの本音だった。生命を宿した宝石など、そうそうあるものではない。あちこちの国を転々とし、様々な人種を見慣れていた少年にとっても、これほどに美しい瞳を見るのは初めてのことだった。
少年が素直にそう告げると、青年は驚いたように、ゆっくりと目を見開いた。その虹彩が、すうっと蒼さを増す。昨晩の彼を連想させる色に、少年は僅かに緊張したが、青年はそっと顔を伏せただけだった。どうやら、彼の目は光の加減だけではなく、彼の感情の変化によっても色合いを変えるらしい。必ずしも怒りのみに反応するわけではないのだなと、少年は一人納得した。
「この眼を、そんな風に言われたのは・・・初めてですよ。」
「え、嘘だろ?今まで、誰にも言われた事ないのか?こんなに綺麗なのに?」
「・・・眼を、見せたのは・・・・貴方が二人目です。」
「え?」
意外な答えに、少年の目が点になる。そんな彼の前で、青年はゆっくりと身を起こした。
さらさらと零れ落ちる金の髪を疎ましげにかき上げ、青年は深い吐息を漏らす。それが頭痛のためか、他の何らかの感情のためだったのかは、少年には良く解らなかった。ただ、壁に背を預けた青年がゆっくりと口を開くのを、彼はただ静かに見守っていた。
「これまで誰にも・・・マークにも、カレンにも、見せた事はなかったんです。
マークは、とても僕に近い人間で、なんでも打ち明ける事が出来た。カレンは、不実な僕を詰るでもなく、別れた後も姉のように接してくれた。二人とも、僕にとっては大切な、信頼できる友人だけれど。・・・それでも、どうしても怖かった。」
「彼らが、大切だから?」
「・・・そう。そうかもしれない。」
そう言うと、彼は力なく笑った。
「・・・僕も、頭では解ってた。視線を合わせるだけで人を殺す眼なんて、この世には存在しない。僕にかけられた『呪い』は・・・『彼女』にのみ有効なものだったんだって。」
「・・・・・・・・・。」
「だけど、もしも・・・もしも、それが全ての人間に有効だったら?僕の眼が、他ならぬ彼らを殺してしまったら?・・・そう思ったら、どうしても踏み切れなかった。」
「・・・・うん。」
幼い頃から、ずっとサングラスで視界を閉ざしてきた。擬似的な抱擁を求めて誰かと肌を重ねる時すら、完全な闇に支配された部屋で、相手の視線を遮りながら行為に及んだ。
理性では馬鹿馬鹿しいと思いながらも、彼の身体は眼を覗き込まれる事を頑なに拒んだ。その原因に向き合うことすら耐えがたくて、ずっと自分の中の傷から目を反らしながら生きてきたのだ。自分を守るための有刺鉄線のバリケードが、最早自分でも壊せないほどに硬く強固な存在となっていることに気付いたのは、一体いつの事だったか。他ならぬ自分自身を閉じ込める、茨の檻となったそれを引き千切る気力もなく、もがくほどに自身を傷つけるそれに足掻く事すら止めてしまったのは、既に遠い昔の事だ。
「・・・二人を、失いたくなかった。」
「うん。」
「誰も死なせたくなかった・・・もう、二度と。」
――零れ落ちたのは、青年の心の欠片。
氷の鎧の下に隠された、優しい想いの破片だった。
「『彼女』の時と、同じ過ちを繰り返すのは・・・絶対に嫌だった。」
「・・・『彼女』?」
先ほども、彼はそう言った。その正体を、少年は朧気に推察する。
それは、青年の眼を見た『一人目』である女性。青年がその双眸を隠すようになるより早く、青年の傍にいた女。それは・・・・。
「・・・僕の、母親ですよ。」
――乾いた声が、淡々と告げた。
「知っていますか?紫の瞳は、人ならざるものの証なんですって。
僕を殴り、罵りながら、彼女はいつも言っていましたよ―――『化物』、とね。」
「っ!!」
少年の視線が、鋭さを増した。
「ま、彼女の気持ちも解らなくもないですけどね・・・。最初から愛せるはずもない子を孕んで、産んでみればそれは異形の瞳の持ち主。
・・・そこに自らの罪を投影し、怯えたのも当然だ。」
――くすくすくす。
枯葉が吹きすさぶような、微かな音。それが、青年が表情も変えずに笑っている声だと気付き、少年は背筋が寒くなるのを感じた。
「・・・そんな、言い方すんな。愛せないと解ってるなら、子どもなんて産むはずない。」
「産むしかなかったんですよ・・・・堕胎は、彼女が信じる神様とやらが禁じていらっしゃった。どんなに望まずとも、孕んだ以上は産むしかなかったんだ。
・・・本当に、馬鹿な女。教えに従った所で、神は何もしてくれやしない。彼女の罪悪感も絶望も、一片たりとも救ってくれやしないのにね。」
「っ、止めろってば!」
母を蔑み、嫌悪する青年の言葉を、少年は思わず遮った。青年の襟首を乱暴に掴み、懇願するように言う。
「あんたを産んでくれた母親だろっ・・・そんな言い方するな!」
「っ、本当の事だ!僕は、生まれてきてはいけない子どもだった。それが解っているなら、彼女は最初から僕なんて産むべきじゃなかったんだ!」
「違う、違う違う!!生まれてきちゃいけない子どもなんているもんか!愛せないと決まってる子どもなんて、そんなのいるわけ・・・!」
「っ、無理なんだよ絶対に!!」
言葉を繕う事を忘れた、青年の叫び。
血を吐くようなその悲鳴は、続く言葉に絶望の色を添えた。
「――実の兄に犯された挙句孕んだ子どもをっ・・・愛せる女などいるものか!!!」
・・・・・・・・・
(・・・何、だって?)
少年は、たった今自分が聞いた言葉が、右から左へと流れていくのを感じた。言葉は聞こえたのに、意味が理解できない。
――青年の、母。犯す。実の兄。その間に出来た子。
いくつかの単語が、くるくると脳裏を駆け巡る。整理すれば、それは、つまり。
(・・・嘘、だろう?)
どこか醒めた理性が、そう訴える。だが、震える青年の声が、それを呆気なく切り裂いた。
「っ、そうですよ・・・戸籍上は私生児扱いになっていますけど・・・僕は、正真正銘血の繋がった、実の兄妹の間に産まれた子供なんだ。しかも、互いの合意の上でじゃない。一方的な陵辱の果てに生を受け、祝福の代わりに呪詛を受けながらこの世に産まれ落ちた子供。・・・それが僕だ。」
「・・・・・・・!!」
近親相姦。インセスト・タブー。
およそモラルというものからかけ離れた環境で生活していた少年も、それが倫理面からも生物学面からも禁じられた行為であるという事は知っている。この美しく聡明な青年が、そんな背徳的な行為の果てに生まれた子供だというのだろうか。
信じられない、という思いより、信じたくないという思いの方が強かった。少年にとって、同性や子供を相手にした性欲より、肉親を相手にしたそれの方が拒絶感は強かったのだ。それは、彼にとって、『家族』は守るべき神聖なものであったから。愛し、慈しみ、何よりも大切にするものだと思っている少年にとって、青年が口にした行為は、ひどくおぞましいものに感じられた。
だが、少年が受けたショックに頓着する事無く、青年の独白は続く。耳を塞ぎそうになるのを堪える少年の拳は、いつしか力の限りに握り締められていた。
「・・・たった、一度だけだった。その一度の過ちが、彼女の人生を狂わせた。
妊娠に気づいた時、兄は既に精神を病んで入院していたから・・・彼女はその街を離れて、一人で僕を産んだんだ。」
日に日に膨れていく腹を見ながら、彼女は一体何を考えたのだろう。普通ならば、幸福感と、もうすぐ会える我が子への愛情が篭っているのであろうその視線には、一体どんな感情が込められていたのだろうか。
・・・少年には、解らない。
「・・・近親間に生まれた子には、遺伝子異常や奇形が多いというのは、通説だ。この眼が、本当に濃すぎる血のせいで発現したものかどうかは判らないけれど・・・少なくとも、彼女はそう思ったのでしょう。実の兄との交わりという、異常な交配の結果生まれた子だから、こんな気味の悪い眼になったのだと。
・・・彼女にとって、僕の眼は、自分が犯した罪の象徴だったんですよ。」
「・・・・・・・・・。」
「僕が彼女を見る度に、彼女は錯乱して僕を殴った。幼い頃から生傷が絶えませんでしたよ。サングラスで眼を隠しても、どんなに従順な子供を装っても、それは決して変わらなかった。・・・そして、僕の存在自体が、徐々に彼女の精神を追い詰めていった。」
「・・・・・・・・・。」
何かに憑かれたように、うわ言のように喋り続けていた青年は、そこでふうっと息を吐いた。まるで、何か大切なものを諦めてしまったかのようなため息。
暗く揺らめく瞳で少年を見て、青年はぽつりと呟いた。
「昨日の貴方の質問に、結局答えていませんでしたね・・・。」
「・・・え?」
「僕の、ファーストネームは・・・『ユエ』。漢字では、事故の故と書きます。」
「!」
少年は、そこでカレンから彼の名を聞かされてしまったことを思い出したが、続けて「意味は解りますか?」と訊かれて、謝るタイミングを逃した。
「いや・・・俺、育て親が日本人だったからこんな名前だけど・・・まだあんまり漢字得意じゃなくて。」
「『故』には、いくつか意味がありますけど・・・僕に与えられたのは、そのうちの一つだけ。『死亡する』、という意味だけです。」
「・・・・・・・!!」
「彼女は、僕の死を願って、この名を与えた。殺す事も出来ず、愛する事も出来ず・・・せめて早く消えてくれと、こんな名前をつける事しか出来なかったんですよ。あの人は。」
呪われた名と、穢れた体。後は苦痛と罵声しか与えてくれなかった母。それでも、最初のうちは努力した。愛そうと、愛されようと、必死に手を伸ばした。眼の色を罵られれば色濃いサングラスを纏い、五月蝿いと殴られれば寂しさを堪えて家を出た。自分を産んでくれた女(ひと)だもの、いつかきっと解ってくれる日が来る。・・・そう、信じて。
(・・・それでも、結局は何も変わらなかった。)
実の父の事を聞いても、名の由来を聞いても、何処かで彼女を信じていた。彼女が、腹の中の自分を殺さずに、きちんと最後まで育んで産んでくれたという事に、一抹の希望を抱かずにはいられなかった。
・・・でも、それすら、自分を想っての事ではなかったのだ。
――どんなに産みたくなくたって・・・一度宿った命を殺すなんて、主はお許しにならないのよ!!
そんなに僕が憎いなら、どうして僕を産んでくれたの。そう尋ねた幼い日の彼に、悲鳴混じりに叩きつけられたその言葉。母親からそう告げられた時、彼は自分の中で、何かが壊れる音をはっきりと聞いた。それは、昨晩、サングラスが砕けたあの時の音に、少しだけ似ていたと思う。
(要するに、僕は顔も見たことのない神とやらへの忠義立て、ただそれだけのために産み落とされたってワケだ。)
――誰も、自分を必要としてはいなかった。
歪んだ愛情とその場限りの性欲のためだけに、実の妹を犯した父も。神という名の幻影に縛られて、ただ責務を果たすためだけに自分を産んだ母も。
誰も、自分の誕生を望んではいなかった。生まれた時から死を望まれる存在として、あるいは全くの計算外の存在として、自分はこの世に生を受けた。
(・・・最初から、誰にも愛されない運命だったんだね。)
ならば、もう求めまい。手に入らぬものを求めて足掻くより、一人で生きていく「力」を身に着けよう。
絶望を埋めるかのように、彼は勉学にのめり込んだ。詰め込んだ知識が、空っぽの虚を少しだけ埋めてくれるような気がして、手当たり次第に本を読み漁り、思索に耽った。
やがて、その学力を買われて全寮制の難関校への転入が決まり、母に別れを告げたのは八歳の時。その時には、既に彼は硬質なサングラスを手放さず、完璧な礼儀正しさで大人を圧倒するようになっていた。
――彼の母が頚動脈を掻き切って自殺したのは、その半年後の事である。
***
「・・・精神病院にずっと入院していた父も、そのすぐ後に肺炎を患い、まるで彼女の後を追うように息を引き取ったそうです。どちらの時も、涙なんて出ませんでしたがね。」
「・・・・・・・・・・。」
乾燥した口調でそう言うと、青年は絶句している少年に厳しい視線を向けた。びくりと肩を揺らす彼に、冷たい声で言う。
「さあ、どうです?これを聞いても、まだ僕の眼が綺麗だと言えますか?・・・おぞましい行為の果てに生まれた、この穢れた瞳が。」
「・・・・・・・・・・。」
少年は、答えない。沈黙を守る彼から視線を外さないまま、青年は激情に焼かれていた心が、苦い後悔にゆっくりと冷やされていくのを感じていた。
手酷い暴力を振るった自分の所に、彼は戻ってきてくれた。お前の眼は呪われてなどいないと、口付けてくれた。一度もろに地雷を踏んだにもかかわらず、再び怯まずに地雷原に踏み込んできた強さと柔軟さは、尊敬すべきものだと思う。
それでも、こんな重い過去話は、幼い彼には荷が勝ちすぎる。半ば勢いでとはいえ、今までマークにしか打ち明けた事のない過去を、こんな子供に対して吐露してしまった事に、青年は今さらながらに唇を噛んだ。
(・・・どうして、この子に対しては、こんなにムキになってしまうんだろう・・・・。)
この子は、自分の中の何かを狂わせる。彼と逢ってから、それまでは完璧に制御できていた感情が、ふとしたきっかけで大きく揺らぐようになってしまった事に、青年は戸惑っていた。それは、どちらかと言えば温かく優しいものであったり、或いは苛立ちにも似たざらざらとした想いだったりしたが、そのどちらも青年にとっては酷く珍しいものだった。・・・だが、それももう終わりだ。
重いため息を吐いた青年は、俯いている少年から顔を背けて眼を閉じた。こんな話を聞かせてしまった以上、彼はもう、さっきまでのような笑顔を向けてくれる事はないだろう。あの黒曜石の瞳が、蔑みと嫌悪の色を浮かべてこちらに向けられるのを覚悟し、青年は微かに震える手で胸元を握り締めた。
――だが。
「・・・・え?」
こつん、と肩口に丸いものが当たり、そちらに視線を動かした青年は、自分の肩に額を預けている少年の姿を見出して目を瞠った。
自分の傍らにぎこちなく寄せられた、小さな身体。少年の思いがけない行動に固まった青年は、消え入りそうな微かな声を聞きつけて、反射的に耳を澄ました。
「あのな・・・・俺、あんたに謝る事がある。」
「・・・・・・?」
「ここに来る時な。俺、カレンから、あんたの名前聞いちゃった。ゴメン。」
「・・・・・・。」
それが何なのだろう。既に青年自身の口から告げた事なのだから、今さら謝ってもらう事ではない。しかし、青年がそう言うより早く、少年が続けた。
「そん時は、名前の由来は教えてもらえなかった。でも、その名前を聞いた時、な。・・・俺、綺麗な名前だと思ったんだよ。」
「!」
「・・・あんたの眼を見て、余計にそう思った。つか、てっきりあんたの容姿から取った名前なのかと思ってた。」
「・・・・は?」
意味が解らない。戸惑いの声を上げた青年の視線の先で、少年は彼の肩に伏していた顔を、ゆっくりと上げた。
忌むべき子に対する嫌悪の色に満ちているかと思われた、その双眸。だが、その眼には、青年が予想していたような拒絶の色はなく、ただ傷ついたような、痛みを堪えるような辛そうな色だけがあった。
その眼で、真っ直ぐに青年の双眸を覗き込み、少年は白い額に落ちかかる金髪を、そっとかき上げる。されるがままになっている彼に微かに笑い、少年は囁いた。
「あんたの母親が、そこにどんな意味を込めたのであっても・・・別の解釈をしちゃいけないって事は、ないと思うよ。」
「・・・何が、言いたいんですか。」
掠れた声で、尋ねる青年。その頬を優しくなぞりながら、少年は言った。
「俺はね、あんたの名が『ユエ』だと聞いた時・・・・中国語の『月』を連想したんだ。」
「!!」
青年は、今度こそ驚愕に眼を瞠った。紛れもない日本名であるこの名前を中国語で解釈するとは、青年には思いも寄らない事だったのだ。漢字と、そこにまつわる意味だけに囚われていた彼にとって、少年の言葉は不意打ちもいいところだった。
茫然とする青年を余所に、少年はゆっくりとした仕草で、彼の髪や輪郭を辿っている。昨晩も、少年に同じように触れられた事を思い出して、青年の眼がふと揺らいだ。
「あんたの髪って、キラキラだな・・・。月の光で染めたみたいな、綺麗な金髪。」
「・・・・・・・・。」
「この眼も、そうだ。・・・夕方と夜の、狭間の空に似てる。夕陽のオレンジと、夜空の紺色が溶け合って、ほんの一時だけ生まれる菫色。すぐに揺らいで別の色に変わっていっちまう所も、よく似てる。」
「・・・・・・・・。」
母親に貼り付けられた負のラベルに、彼はひとつずつ新しい意味を書き込んでいく。同じ名前に、同じ瞳に、まったく異なる意味が与えられていく。
――それは、『呪い』が『祝い』へと変わる、まさにその瞬間だった。
「宵の空に浮かぶ月、って感じかな。名前も、姿も、まるで月の精みたいだって・・・俺は、そう思ったよ。」
「あ・・・・・。」
突然、ぎゅっと抱きしめられる。もっとも、青年より一回りも小さな彼の身体では、抱きしめるというよりは抱きつくといった状態に近かったけれど。それでも、彼は長身の青年を抱きしめようと、精一杯両腕を伸ばした。
「どうして、なんだろうな・・・・。」
「・・・え?」
「あんたは、こんなに優しいのに。何も悪くないのに、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだろ・・・。」
理不尽だよ、と声を震わせる少年に、青年はぽつりと答えた。
「僕は、優しくなんてない。感情など、とうに失くしてしまったもの。」
「嘘。・・・あんたは、優しい人だよ。」
「違う。」
「違わない。・・・本当に感情がないなら、厄介者の俺を助けようなんて思わない。友人の事を考えて、眼を見せるのを躊躇ったりしないよ。」
「・・・・・・・・。」
そう言い切ると、少年はおずおずと肩に顔を埋めてくる。多少緊張はしているものの、嫌悪や拒絶は感じられないその仕草に、青年は思わず口を開いていた。
「気持ち悪く・・・ないんですか。」
「ショックは・・・それなりに、受けたよ。」
「・・・・・・・・。」
「けど、俺だって、そんなに綺麗な身体じゃないから・・・近親相姦をどうこう言えねーよ。たぶん、カミサマとやらの教えに従えば、俺だって立派に罪人だろうから。」
自嘲気味にそう言うと、少年は青年を抱く腕に力を込めた。祈るように、痛いほどの切望を込めて、彼は呟く。
「どんな人間から生まれようと、それはあんたの罪じゃない。・・・それを、忘れないで。生まれてこなければ良かったなんて、思わないで。」
「・・・・・・・。」
「あんたに拾われなければ、俺はあの日、あの裏路地で死んでた。あんたがいたからこそ助かった命が、少なくとも一つはあるって事・・・忘れないで。」
「・・・ぁ・・・・・。」
青年の眼が、微かに揺れた。
ずっとずっと、心の奥底に蟠っていた闇。少年の言葉のひとつひとつは光となり、永遠に続くと思われた闇を柔らかく照らし出した。
(あたたかい・・・・。)
とくん、とくん、とくん。
薄い胸板越しに、規則的な鼓動が伝わってくる。青年自身より、少しだけ速い鼓動。セックスを目的としない抱擁という、滅多にない経験に硬直していた青年は、その意外なほどに力強い生命の証に、いつしか全身の力を静かに抜いていた。
「どうして・・・・。」
「ん?」
「どうして、貴方はそんなに優しいんですか・・・・?」
あんなに、酷い事をしたのに。怖い思いをさせたのに。
そう問う青年をきょとんと見返した後、少年はふわりと、まるで花が綻ぶように笑った。
「辛い思いとか痛い思いとか、あんたがあんまりしないで済むといいなーと思うくらいには・・・俺、あんたの事、好きだよ。」
「!」
「・・・出来るだけ、しんどくないようにしてやりたかったんだ。俺に出来る範囲でなら。」
「・・・は、あ・・・・・。」
あまりにも率直な、素朴な告白。呆気に取られていた青年は、自分を抱きしめていた腕がゆっくりと外されるのに気付き、不意にひどい寂寥感を感じた。
「どうしても、もう一度話したくて押しかけて来ちまったんだけど・・・あんたが嫌なら、俺、すぐにでも此処を出て行く。その前に、何か俺に出来ることがあるなら、言ってくれ。」
「・・・・・!!」
宿代も払ってないし出来る事ならやっとかんと、などと少年は呟いていたが、青年は聞いていなかった。少年の、「出て行く」という単語が、ひどくショックだったのだ。
目覚める前までは、もう彼はこの部屋には戻ってこないだろうと思っていたのだから、今さらではある。しかし、彼の言葉を聞いた瞬間、彼をこのまま行かせたくないという、焦りにも似た想いが青年の中で沸き起こった。
このまま行かせてしまったら、きっと後悔する。青年が、大音量で告げられたその直感に戸惑っていると、どうやらその沈黙がノーと取られてしまったらしい。少年は寂しそうに笑って、呟いた。
「やっぱ、ない、か・・・。ゴメン、無理言って。」
「あ・・・・・。」
「助けてもらったのに、何も礼ができなくて、ごめんな。・・・今まで、ホントにありがと。」
「!!」
すぐ傍にあった温もりが、離れる。その寂しげな横顔が目に入った次の瞬間には、青年の唇は絡まり気味の思考を放棄して、勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「―――此処にいて!!」
「・・・・あ?」
「!ぁ、えっ、と・・・・・・。」
ベッドを降りようとしていた少年が、呆気に取られたように振り向く。その瞬間、自分が叫んだ内容の気恥ずかしさに今さらながらに気付き、青年は微かに頬を赤らめた。
だが、一度口にした言葉は取り消せない。覚悟を決めた青年は、喉に絡まる声を押し出すようにしながら、途切れ途切れに少年に告げた。
「・・・昨日みたいな事は、絶対にしないから。・・・だから、此処に、いてくれませんか・・・・?」
「・・・此処にって、この家に?」
「はい。・・・貴方の、怪我が治るまで。」
「・・・・・・・・。」
なんだか期限限定のプロポーズのようだ、と、言ってから口元を押さえてしまった青年だったが、それに返された返答は思いがけず明るいトーンだった。
「・・・いいの?俺、此処にいてもいいのか?」
「はい。」
「俺、昨日ので、あんたには完全に嫌われたと思ってた。」
「そんな事、ないです。」
自らの過去を打ち明け、それを受け入れてもらった。
それが青年にとってどれほど重要な事だったか、こればかりはこの少年には解るまい。
「貴方の事を・・・もっと知りたいんです。」
気恥ずかしさを堪えて青年が告げた台詞に、少年は微笑んだ。
「俺もだよ。あんたの事、もっと知りたい。もっとたくさん話したい。」
「じゃあ・・・・。」
「うん。・・・また、お世話になっていいかな。」
「・・・・はい、喜んで。」
心からそう言った青年は、何故かそこで少年が頬を紅くしたのに気付き、首を傾げた。ぎこちなく視線を外した彼に、どうしたのかと問うと、何でもないとそっけない返答が返ってくる。
「傷が痛むんですか?それとも、熱でも・・・?」
「違っ、大丈夫だから!・・・それより、リビングの酒瓶片付けようぜ。俺も手伝うし。」
「あぁ、そうでしたっけ・・・・いいですよ。僕がやって来ますから、ベッドで休んでてください。」
そう言って、微妙にふらふらしつつベッドルームを出て行く背中を肩越しに見送って、少年は大きなため息を吐いた。と、血の色を透かしたその顔が、不意に嬉しそうに綻ぶ。
(・・・笑った・・・・!)
二回目の彼の笑顔は、一回目よりずっと優しく、ずっと綺麗な微笑。たぶん青年本人も笑っている事に気付いていなかったのだろうが、それを至近距離で見ていた少年は、照れくささと嬉しさで頬が緩んでしまうのを抑えられなかった。
重い告白をされて、自分なりの「答え」は返したけれど、それですぐさまどうこうできるほど、彼の闇は底の浅いものではあるまい。これからの同居生活の中で彼とどう接していくか、考えなければいけない事はたくさんある。
(・・・でも、アイツはまだ笑えるんだ。)
まだ、大丈夫。彼のために出来る事が、自分にはまだあるはずだ。
自分に言い聞かせながら、ゆっくりとベッドに身を横たえる。シーツに微かに残った温もりに頬を寄せ、少年はそっと眼を閉じた。
(でも、あんな笑顔をしょっちゅう見せられるようになったら、こっちの心臓が持たないかもしれない・・・。)
未だにスキップしている心臓を両手で押さえながら、少年は心中でそう独白してため息をついたのだった。
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