オートマタドール
――今年の新入生には、とんでもない逸材がいるらしい。
カレン・ウェンディッシュがそんな噂を耳にしたのは、遅いランチを取りに入った食堂での事だった。
「御機嫌よう、クレッグ。面白そうな話題じゃない?」
「やあ、カレン。今頃お昼かい?」
「研究室に散乱してたレポートの片付けしてたら、こんな時間よ。あのボンクラ教授、雑用はぜーんぶこっちに押し付けるんだから、嫌んなっちゃう。」
「ははは、君もあのセンセイには苦労するね。」
テーブルを囲んで談笑していた青年の一人が、ランチセットのプレートを手にした彼女のために椅子を引いてやりながら、多分に同調の意を込めてそう苦笑した。駆け出しの研究員など、年輪を経た古狸、もとい研究室の主たる教授どもからすれば、単なる体のいい小間使いである。いつも理不尽な教授の命令に東方西走しているのは、カレンと同じ立場である、この場にいる青年たちも同様であった。
「つーかひどいんだぜ!あんのクソ教授、この前ウチの研究室来た時、俺が必死の思いで培養したサンプル勝手に持ち出しやがったんだ!」
「勝手にじゃないだろ?一応断ってたじゃん・・・・・・・・・・・・一応。」
「『お、面白いものがあるじゃないか。ちょっと借りていくよ。』が許可取った事になるかよ!!あの後、俺が先生にどれだけ怒られたか!!」
「お、落ち着けケイン!どーどー。」
俺は馬か!とさらにエキサイトする同僚は自然にスルーし、カレンは優雅にフォークとナイフを操っている。彼は優秀な研究員であり、また大変気さくで付き合いやすい人間なのだが、少しばかり気が短いのが玉に瑕なのだ。
彼の嘆きをBGMに、小さく千切ったパンをコーヒーで喉に流し込んだカレンだったが、彼がひとしきり騒いで大人しくなった頃に、繊細な美貌を申し訳なさそうに曇らせて謝罪した。
「・・・けど真面目な話、余所様でまで傍若無人に振舞われちゃ困るわね。ごめんね皆。今度それとなく、あのヒヒジジイに言っておくから。」
「何言ってんだ、カレンのせいじゃないだろ?困ったちゃんなのは君んとこの上司だけじゃないんだし、お互い様さ。」
「ありがと、ケイン。」
怒りの色を一瞬で収め、慌てたようにフォローに入ってくれたケインに感謝のウィンクを投げ、カレンはにっこりと微笑んだ。だが、綺麗な笑顔とは裏腹に、彼女の内心はあまり晴れない。
(理屈ではそうでも、やっぱりあの教授に一番近い位置にいるのは私なんだものね。なんとかしなくっちゃ。)
カレンは、希望の研究を続けるために自分であの研究室を選んだのだから、多少教授がワガママだろうが俺様だろうが辛抱できる。だが、自分の縄張り内でならともかく、余所の教授のテリトリーに入ってまで同じように振舞われては、たまったものではない。とばっちりを食うのは、同じ時期に研究員となり同じような苦労をしてきた、カレンの同僚たちなのだから。
研究員の身分で上司には逆らえない事を、骨身に染みて解っている彼らは、カレンを労わる事こそあれ責める事は決してない。そんな彼らに感謝しつつも、何かいいアイディアはないかしらと、カレンが頭を捻っていた、その時。
「・・・・いっそ、あの天才少年が、あのジジイをぎゃふんと言わせてくれたらいいのになぁ。」
クレッグが、不意にぽつりと呟いた。意味が掴めず、きょとんと瞬きをするカレン。だが、一同はその意味を理解したらしく、一瞬の沈黙の後に盛大な同意の声が上がった。
「いいねぇそれ!クレッグ、ナイスアイディア!!」
「あの子、教授の講義取ってねぇのかな?もし取ってるなら、俺いっぺん見に行きてぇ〜!」
「お前らなぁ、何も彼と教授との間にバトルが勃発すると決まったわけじゃないんだから・・・。」
「いーや決まってるね!!あのジジイが自分より顔のいい学生にどう当たるか、お前だって知ってるだろ!?」
「そりゃ、まあな。」
勝手に盛り上がる男たち。一人話題の外に置かれてしまったカレンは淡い苦笑を浮かべ、僅かな会話の途切れを捉えて、さりげなく根本的な質問を口にした。
「その『天才少年』って、さっきクレッグが言ってた子の事かしら?」
「へ?あ、ああ悪い!カレンはさっきの話ん時はいなかったんだっけ。そうだよ、今年入った新入生らしいんだけど、これがスゴイんだわ。」
「へぇ、優秀なんだ?」
カレンの目が、きらりとエメラルドの輝きを見せる。大学に属する研究者として、優秀な学生の情報には興味がある。場合によったら、同僚として同じ研究室で働く事になる可能性だってあるのだから。
が、期待を込めたカレンの言葉に、仲間達はなんとなく顔を見合わせて、微妙な半笑いを浮かべた。別にカレンを馬鹿にしているというわけではないようだが、なんとも複雑な笑いである。
「『優秀』・・・ねぇ?」
「うん、確かに優秀ではあるよ・・・・それこそ、近来稀なくらいにはね。」
「けど・・・優秀っつーか、『スゴイ』よな。」
「そう、『スゴイ』。色んな意味で。」
「?」
それは一体どういう意味だ。
カレンが不得要領な表現に首を傾げていると、景気良くコーヒーを飲み干したケインが、にやりと意味ありげな笑いを寄越した。
「カレンも、きっと近いうちに見れると思うぜ。とにかく目立つ学生だから、一発で解る。」
「そうだね。百聞は一見に如かずっていうし。ここで色々聞くより、直接自分の目で確かめてみればいいよ。」
「ふぅん・・・?」
それは、研究者たちの言葉にしては随分とあやふやなもので、到底カレンを納得させられるものではなかったのだが、彼女は敢えて追求はせず、華奢な肩を軽くすくめるに留めた。もうすぐ見れるというなら、その時に自分で確かめればいい事だ。
自分の中でそう結論を出すと、カレンはその件にはすっぱりと見切りをつけ、さりげなく話題を変えた。一同はすぐに週末の予定について盛り上がり始め、件の新入生に関する話題は、そこで一旦打ち切りになったのだった。
***
――食堂でのそんな会話から、半月ほど経ったある日の事。
(まったく・・・!肝心の資料を忘れてどうやって講義するつもりなのよ、あのスカタン!!)
無機質な廊下を競歩並みの早足で通り抜けながら、カレンは内心でそう呟いていた。既に二限が始まっているとあって、講義室まで続く廊下には人気がない。重い資料を抱えなおし、彼女は頭上に伸びる階段にうんざりしながら先を急いだ。
(毎度毎度、何かしら忘れ物をするんだものね。今度から、小学生よろしく持ち物チェック表でも作らせようかしら?)
忘れ物の配達のために実験を中断させられたという苛立ちもあり、カレンは結構本気でそう考えた。広大な敷地を持つ大学のため、研究棟から講義棟まではかなりの距離がある。だが、毎日のようにこの距離を往復させられているカレンは、息一つ乱す事無く三階まで辿り着き、きびきびとした足取りで講義室のドアをノックした。既に入室許可はもらってあったため、彼女が返事を待たずにドアを押し開けた、その時。
「――貴様、この私に向かってその態度は何だ!!!」
突然凄まじい怒号に打たれ、流石のカレンも一瞬その場に立ち尽くした。彼女の目に映ったのは、教壇で仁王立ちしている初老の男――彼女を呼びつけた張本人である、教授の姿である。肉付きのいい頬は真っ赤に紅潮し、その顔は憤怒と苛立ちを露にしていた。
常にない彼の姿に呆気に取られたカレンは、教授が親の仇のように睨み付けている人物に視線を移し、その深緑の瞳をさらに大きく見開いた。艶やかな紅唇から、音にならない感嘆符が零れ落ちる。
(なんと、まあ・・・・。)
彼女が驚くのも無理はない。教室中の視線を一身に浴びながら、そのほぼ中央に立っていたのは――恐ろしいほどに美しい、陶器人形のような青年だったのだ。
鮮やかな金の髪に、すらりと均整の取れた長身。血の気の薄い白い顔は、いっそ人間性に乏しいほどに整っていたが、滑らかな頬の辺りにはまだ少年の面影が残っている。ひどく大人びているように見えたが、実年齢は意外に若いのかもしれない。
しかし、彼が身に纏う硬質のオーラは、明らかに他の学生たちとは一線を画すものだ。彼の気配は、並外れた美貌のせいだけではなく、並み居る学生の群れの中でもひときわ際立っていた。何処かガラスのナイフにも似た、硬く、鋭く、そして危ういまでの脆さを感じさせる気配。
(そうか・・・この子が件の『天才少年』ね?)
確かに目立つ。そして一発で解る。――『少年』と表現するには、ちょっとばかり無邪気さに欠けているような気もしたが、まあおおよそは間違っていない。
半月前の会話を思い出し、心中で力強く頷いたカレンは、授業中であるにもかかわらずかけっぱなしになっている、彼の色濃いサングラスを見つめた。これが教授を怒らせた原因の一つであろうと、冷静に推測する。
クラスメートたちの視線に晒され、さらには教授の怒号を叩きつけられたばかりだというのに、その白皙の面には動揺の欠片も見られない。ただ静かに、焦点の隠された視線を教授に向けるだけだ。恐れ入る色もない彼のそんな態度は、教授の怒りにさらに油を注いでしまったらしく、今や教授の顔は茹で過ぎたタコのように真っ赤っ赤になっていた。
(あらら・・・これはちょっとヤバいわね。)
ぶち切れたこの教授は、何をしでかすか解らない。この青年が何をしたのか知らないが、前途有望な学生の将来を、こんな所で歪めたくはない。
だが、彼女が言葉を発するより一瞬早く。教授の分厚い手が、真っ白なチョークを一本掴みとった。
「?」
凄まじい速さで黒板に書き綴られていく文章。それを目で追っていったカレンは、次の瞬間に教授が発した言葉に目を瞠った。
「私の授業など受ける必要はないほど優秀な君なら、当然答えられるな?・・・これらの機能異常を引き起こす原因として考えられる物質とその対処法を、今すぐ答えてみたまえ。」
「!!」
カレンの目が厳しく光った。事態を見守る学生たちも、驚愕と不安の入り混じった表情で、互いの顔を見合わせている。
この講義は、臓器の働きに関する、最も基本的な事項を学ぶ事を目的としたものの筈。だが、今黒板に綴られている内容は、情報伝達系ホルモンに関連した代謝系疾患について問うものだ。新入生たちには当然ながら未学習の分野である。青年を睨む教授の目は、「どうだ答えられまい」と、それはそれは雄弁に物語っていた。
(仮にも大学教授ともあろう者が、なんて低レベルな嫌がらせを・・・・。)
呆れ(無論教授にだ)と憐憫(こちらは学生にだ)を込め、カレンは少々深すぎるため息を吐いた。なんだか頭痛がしてきて、いっそ何も見なかったことにして引き返してしまいたかったが、先輩としてはいびられている後輩を見捨てるのも忍びない。こうなれば、資料を渡すついでに大声で答えを開陳してしまおうと、彼女が教壇へと向かおうとした、その時。
・・・それまで一言も発せずに立ち尽くしているかのように見えた青年が、不意に動いた。
「!!」
教室の緊張が高まる。一体何を仕出かすつもりなのかと、今や全ての人間が固唾を呑んで彼の行動に注目していた。
青年は、しなやかな動きで、一抹の躊躇いもなく教壇へと上がる。長身の青年に見下ろされる形となり、教授が何ともいえない顔で後ずさった。それに目もくれず、青年は先ほど教授が放り出したものとは別のチョークを手にすると、無言でそれを黒板へと走らせた。
「・・・・・・・・・・。」
カツカツと、黒板とチョークがぶつかり合う乾いた音だけが教室に響く。まるでタイプで打ち出したかのような几帳面な文字は、黒い板の上にくっきりと浮かび上がった。
二行、三行。青年の手は淀みなく動き、淡々と白い字を綴っていく。それを険しい顔で睨んでいた教授も、さりげなく彼の前の机に持って来た資料を置いていたカレンも、その内容に思わず唸る。それは、文句のつけようもない、テキストそのままに完璧な回答であったからだ。
やがて、白い字が黒板をびっしりと埋め尽くした所で、青年はおもむろにチョークを置いた。白墨が付着した手を軽く払いながら、サングラス越しの視線を教授へと向ける。怒りと悔しさで赤くなったり青くなったりしている教授を見つめ、青年の形良い唇が、ゆっくりと開かれた。
「―――何か、訂正は?」
それは質問というよりは、単なる確認でしかなかった。自身の回答に、訂正点や追加点はないという事を確信した声音。一歩間違えば自信過剰や傲慢とも取れる筈のその声音は、ことこの青年に限っては、自分の力量を正確に把握しているという印象にしかならなかった。
「ぐ、っ・・・・・・!」
「ないようでしたら、席に戻らせて頂きます。」
乾いた声は、嫌味ですらない。嫌味を言うほどの価値を、彼はこの教授に認めていない。
「無関心」という、見られる方にとってはある意味最もキツい視線で教授を一瞥し、青年は優雅に踵を返した。ホッとしたような空気が流れる教室を悠然と横切り、自分が座っていた席へと戻っていく。と、その広い背中に、押し殺した低い声が投げつけられた。
「待ちたまえ。」
「・・・まだ何か?」
その場でゆっくりと振り返った青年を、教授は憎々しげに睨みつける。必要以上に胸を張り、木っ端微塵に叩き潰された威厳をどうにか保とうと努力しつつ、彼は重苦しい声で言った。
「問題を解けたのは大変結構。だが、席に着いたら、君はまた居眠りをしそうだからな。眠らずに済むよう立って講義を受けるか、さもなければ今すぐこの教室を出て行くか、好きな方を選びたまえ。」
「・・・・・・・・・・。」
この子、寝るんだ。
カレンは思わず内心で呟いてしまったが、考えてみれば驚く所はそこではない(入学早々に居眠りとはいい度胸だとか、まず驚かなければならないのはそこであろう)。
だが何となく、食欲とか性欲とか睡眠欲とか、そういう人間らしい欲求に乏しそうなのだ、この青年は。
――そう、人間というよりは、まるで機械仕掛けのオートマタ・ドールのような。
その美しい機械人形は、教授の意地の悪い言葉に、ほんの微かに首を傾げる。金の髪がさらりと零れ、白磁の肌に零れ落ちるのを、カレンは素直に綺麗だと思った。
と、彼女と同じように青年を見つめていた学生の一人が、突然そそくさと自分の荷物をまとめ始める。視界の隅でその姿を捉えた彼女がちょっと怪訝な顔をした時、青年の静かな声が教室に響いた。
「・・・では、ここにいてもお互い無益なようですし、お言葉に甘えて退室させて頂きます。」
「!!!」
教授の顎が、がくんと落ちる。普通、こう言われて本当に出て行く学生がいるだろうか?・・・否、まずいない。
だが、教授の驚愕などお構いなしに、青年は自分の荷物を手早くまとめると、優雅に一礼して本当に教室を出て行ってしまった。ぱたん、とドアが閉じる音が、放心したような静寂が支配する教室内に響き渡る。嵐が去った後のような奇妙な静けさに、一部始終を傍観していたカレンは、呆れと感嘆が入り混じった吐息を漏らした。
(・・・・・なんと、まあ・・・・・・。)
本日二度目の感嘆符。カレンは、いいように翻弄されて真っ白になっている教授を、流石に多少の哀れみを込めた目で見た。まあ、今までこの教授にさせられた苦労を考えると、あまり身の入った同情ではなかった事は否めないが。
とりあえず、今夜はこの出来事を、ケインを始めとする教授に迷惑掛けられた組にメールしてやるとしよう(さぞかし喜ぶに違いない)。そんな事を考えながら教室を出ようとしたカレンは、青年が出て行った席の他に、もうひとつ空席が増えているのにふと気付き、目を瞬かせた。
先ほどまでは確かに埋まっていたはずの、青年の斜め後ろの席。それが、先ほど荷物をまとめていたもう一人の学生が座っていた席だという事に気付いたカレンは、少女のような仕草で細い首を傾げたのであった。
***
「・・・お前さぁ、あー言われて普通ホントに出て行くかぁ?次から教授にいびられても知らないからな、僕。」
「僕より先に教室を脱出してた君が言う台詞か。ちゃっかり人の影に隠れて授業をサボろうなんて、いい根性しているよ。」
青い空に、二人の声が吸い込まれていく。
バトルの挙句に教室を追い出された青年と、こっそりそれに便乗して講義をサボったマークは、校舎の壁に接した裏庭のベンチに陣取って、缶コーヒーを啜りながら他愛もない雑談に興じていた。
「授業中に堂々と居眠りしてた君に言われたくないよ・・・。つか、これで僕が教室に残ってたら、教授の八つ当たりの対象にされんの僕だっつーの!」
「だから、あんまり僕とは親しそうな姿を見せない方がいいって忠告したろ。絶対とばっちりが行くんだから。」
「・・・クヅキ。君、自覚してんなら少しは従順を装ったら?」
「装ってたつもりなんだけど・・・睡魔は如何ともしがたくて。」
「君の、その途方もなくナチュラルに寝る居眠り技術はスゴイと思うけどサ。あの教授は特に君を厳しい目で見てるんだから、流石に気付くって。」
「だって、とっくの昔に暗記し終えているテキストを滔々(とうとう)と音読されたら、眠くならない方がどうかしていると思わないか?」
「おーおー、何いかにも『自分被害者です』的な弁明をしてんだろうね、この男は。」
真面目な顔で手前勝手な理屈をほざく青年に鋭い突っ込みを入れておいて、マークは自販機の横に据えつけられたゴミ箱に慎重に狙いを定め、飲み終えたコーヒーの缶をバスケットよろしく放り投げた。綺麗な放物線を描いて飛んだ缶は、小気味よい音と共にゴミ箱の中心へと吸い込まれる。
「ナイス・シュート。」
「サンクス。・・・・ってかクヅキ、お前ホントに大丈夫?なんかすっごいダルそうだな。」
「別に。・・・・ただ、つまらないなと思ってさ。」
「つまらないか。」
「ああ。・・・・つまらない。」
その声には、かなり深刻な倦怠感が滲んでいた。気だるげに首を振り、青年はベンチの背もたれにゆっくりと身体を預けて、ぽつりと呟く。
「あの教授のようにやたらと噛み付いてきたり、逆にあからさまな贔屓をしてきたり。どうしてそんな余計な事に労力を使うんだろうな?地位を盾にして自分を上に見せようとするより先に、居眠りする暇も与えないほど濃密な講義を展開しようとは思わないのか?」
「思わないのさ。お前も知ってるだろ?この大学は、確かに国内トップレベルの教育水準を誇ってるけど、それを維持できているのは、ひとえに助教授前後の若い教授陣の力に因るところが大きい。だからさっきのオッサンみたいなのは、新しい世代に自分の地位を脅かされる危険性に余計に敏感になってるし、そうでない連中は自分の派閥に少しでも優秀な駒を引き込もうと躍起になってるのさ。・・・お前は良くも悪くも、そうした手合いに目をつけられちゃうんだよ。なんせ目立つからな。」
「くだらないな。象牙の塔を気取るなら、研究の結果のみで相手を判断すればいいものを、なんだってあんなのを教授陣のトップに据えておくんだ?地位とか学閥とか、どうしてわざわざそんな煩わしいものを作り出す?体力的にも時間的にも、実に無駄な事じゃないか。」
「・・・・・・・。」
青年の言う事はいちいちもっともであったので、マークは敢えて曖昧な笑みを返すに留めた。彼とて、ただテキストを音読するだけの授業など時間の無駄だと思っているのだが、生憎とあの授業は必修だ。来年は飛び級制度を利用するつもりでいる二人だったが、学年の途中でその試験を受ける事は認められていないため、今年一年間は一年生として過ごすしかない。つまり、いかに無益であろうと、あの授業はどうしても受けなくてはならないのだった。
「ただ勉強がしたいだけなんだがな・・・・どうしてそれ以外の事に、こうも煩わされなければならないんだろう。」
「・・・お前ー。今、『いっその事別の大学に移ろうかなぁ』とか考えただろー?」
「おお、素晴らしい洞察力だ。君、実はエスパーかい?」
「エスパーでなくたってそのくらい解るって。ダメダメ、ここを辞めたって、結局は同じことの繰り返しだよ。大学の体質なんて、どこも大して変わんないんだからさ。」
「・・・・・・・・・。」
びしっと指を突きつけてきたマークに痛い所を突かれ、青年が渋い顔になる。
海溝よりも深いため息を吐いた青年が、頬を突付きそうなほどの至近距離に迫ったその指を無造作に払い除けた――その時。
「・・・あら、やっぱりここにいたのね。」
突然頭上から降ってきた柔らかな声に、二人はぎょっと息を呑んだ。ほとんど人など来ないこの裏庭――そうでなければ、授業をサボってこんな所になど来ない――に、授業中であるこんな時間帯にやって来る人間がいるとは思っていなかったのだ。
慌てて振り返ったマークは、ベンチの背後にある壁を見上げて、少しだけ驚いたように眼鏡の奥の目を瞬かせた。座っている彼らの頭上1メートルほどにある窓から、人の顔が覗いていたのだ。太陽の光を浴びてきらきらと輝く金髪に、彼はそれが、先ほど講義室へとやって来た女性である事に気付いた。
「あ・・・・貴女、さっきの。」
「そうよ、さっきはどうも。久しぶりに面白いものを見せてもらったわー。あの教授に盾突く人間なんて、近頃じゃ滅多にいなかったから。」
「はぁ・・・・。」
そう言ってころころと笑った彼女に、マークは胡乱な眼差しを返した。
教授の忘れ物を届けに来たという事は、彼女は彼の研究室で働いている研究員か、或いは彼の指導を受けている院生という所だろう。いわば彼の子飼いであり、本人に代わって嫌味の一つでも言いに来たのかもしれない。そんな至極当然な想像を働かせたマークは、傍らでこれまた彼女を見上げている、金髪の友人の姿を横目で窺った。
(小太りのオッサンならともかく、こんな綺麗な女性がやり込められるトコはあんまり見たくないなぁ〜・・・・。)
件の教授が聞いたら差別だと憤慨しそうだが、美人に弱いのは男の性である。まぁ、この青年とて男の一員ではあるのだが、彼はこと論戦ともなれば、相手の容姿になど一欠けらの興味も示さないのだ。この女性が優等生めいたお説教をかまして来たりした日には、氷の無表情で跳ね除けるであろう事は想像に難くない。
だが、そんなマークの心配は、彼女にはお見通しであったらしい。窓の脇にあるドアから裏庭へと降りてきた彼女は、綺麗な顔に悪戯っぽい微笑みを乗せて、異なる表情を湛えている年下の青年たちを見やった。
「そんなに警戒しなくても、別に貴方たちをとっちめるために来たわけじゃないわ。私は、確かにあの教授の研究室で働いている者だけど、あの教授の人間性に傾倒しているわけじゃないもの。あのオジサンがやり込められるのを見たところで、いい気味だと思いこそすれ、仇を討とうなんて気にはならないわねー。」
「へぇ?」
彼女の捌けた物言いに、呆気に取られるマーク。彼女は、人の警戒心を解す柔らかい笑顔でそれを見ていたが、やがてその笑顔が少しだけ曇った。
「・・・でも、それはそれとして、あんな風に正面切って教授に逆らっちゃったのはあんまり賢いやり方じゃなかったわね。あんなボンクラオヤジでも、一応は学内を仕切っている一人だし、彼の派閥に属している教員もたくさんいるんだから。貴方たち、今日一日で、教授陣の四分の一くらいは敵に回したと思ったほうがいいわ。」
「え゛っ!?あ、あの、もしかしてコイツ退学(クビ)とか・・・・?」
「いえ、流石にそれはないと思うけど。でも、これから先、あちこちの授業で風当たりが強くなるのは覚悟した方がいいでしょうね。」
「あっちゃ〜・・・・。」
漠然と抱えていた危惧ではあったが、研究員だというこの女性から告げられた事で、それは途端に現実味を増す。マークは、明日からの殺伐とした授業風景を思い浮かべて思わず頭を抱えたが、何故か当事者であるはずの青年は、動揺の欠片もなく冷めたコーヒーを啜っていた。まるで人事のようなその態度を見て、彼女が訝しげに問いかける。
「貴方、随分泰然としてるのね。教授ごときがどんな嫌がらせをしてきても、痛くも痒くもないって事かしら?」
「いいえ?・・・流石に、そこまで傲慢ではありませんが。」
空の缶を、ことりと膝の上に乗せて、青年は初めて彼女を見た。何の感情も窺えない、何処までも透明な無機物の視線を、彼女はサングラス越しに感じ取る。
(・・・これが、『イキモノ』だなんて。)
透き通るような白皙の美貌。金属めいた硬質な煌きを見せる、黄金の髪。
あまりにも優美なその姿は、名匠が創り上げた陶器人形だと言われた方が、余程しっくり来る。
美と智の女神が創り上げた、命を宿した機械人形。
――果たしてそこに、『心』は宿っているのか、否か。
(・・・バカね、しっかりしなさい。この子は人間よ、どんなに綺麗でも人形じゃあないのよ。)
軽く頭を振り、幻覚にも似た連想を払い除ける。真っ直ぐに視線を向けると、彼はゆっくりと唇を開き、論文を読み上げるような淡々とした口調で言った。
「・・・此処で学ぶ事など何もないと思うのなら、高い学費を払ってまで通学などしません。ただ、僕の存在をどうしようもなく不愉快に思う人間がいるのなら、小細工を弄してまで此処に留まりたいとは思わない。それだけの事です。」
「そう?医師を目指すのなら、此処で学ぶのはとても有益な事なのよ?」
「・・・別に、医者になりたいわけではありませんから。」
ぽつり。独り言のようにそう呟いて、青年はゆらりと立ち上がった。
太陽の光の中にありながら、どこまでも冷えた空気を纏う広い背中。手にあった空の缶を、静かにゴミ箱に落とし、青年は言葉を続けた。
「人を救いたいとか、医療の発達に貢献したいとか・・・そんな崇高な動機は、僕にはありません。だから、いつ辞めさせられても、別に残念ではありませんね。」
「あっさりしてるわねぇ。っていうか、医者になる気がないなら、なんでウチに入学したの?」
「退屈しなさそうだと思ったので。」
「・・・・・・・。」
なんて理由だ。
カレンは思わず額を押さえたが、ベンチに座っているマークの方はただ苦笑いしている。カレンと目が合うと、彼は愛嬌たっぷりな仕草で肩を竦め、仕方ないよねと言いたげな口調で言った。
「あの、とんでもない志望動機だと思ったでしょうけど、聞き流してやって下さいネ。こいつ、能力的には申し分ないけど、適性的に見たら絶望的なまでに医者には向いてない男なんですよ。なんせ根暗だし人間嫌いだし社会性皆無だし、博愛とか奉仕とか何ですかソレ的な冷めっぷりなもんで。」
「はぁ〜・・・。」
「おいマーク、根暗は関係ないだろ。」
「黙れこの天然女殺し!」
「いやそれもっと関係ないだろ。」
実に温度の低いノリツッコミを淡々と交わすと、青年は興味深そうな眼でそれを見物しているカレンに、ほんの微かな一瞥を投げた。
「・・・話は逸れましたが、そんなわけで、僕は出て行けと言われればいつでも出て行く所存ですので。教授にそうお伝え下さい。」
「お、おいクヅキ。そんな事言ってるとホントに退学させられちゃうぞ?」
「だから、別にいいって。学歴が欲しかったわけでもなし、学校なんて他にいくらでもあるんだから。」
「だからってお前、せっかく入ったのに・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
青年が思い切り本気である事を知っているマークは困り顔で説得するが、青年はどこまでもクールであった。まとわりつくマークを適当にあしらいつつ、ベンチ上にあった自分の鞄をおもむろに取り上げる。重そうなそれをひょいと肩にかける彼に、無駄だと悟ったマークが諦め顔で尋ねた。
「帰んの?」
「ああ、今日はもう用ないから。君は・・・・・もう一コマあったっけ。」
「うん・・・一足先に、氷河期を体験してキマス。」
「ご苦労様。巻き込んだ詫びに、今度何かおごるよ。」
「楽しみにしてるよ・・・・。」
力なく手を振るマークに軽く肩をすくめ、青年はちらりとカレンに視線を向ける。敵意はないが、温かくもない視線。
「それでは、僕はこれで。貴女も、そろそろ研究室に戻られた方がいいと思いますよ。」
「ええ、そうね。そうするわ。」
「・・・では、失礼します。」
ほんの微かに一礼し、青年は彼女に背を向ける。降り注ぐ陽光が、きらりとその金髪を煌かせた。
(・・・とても、綺麗。・・・・だけど・・・・。)
優雅な足取りで遠ざかる背中を見つめ、カレンはそっと目を細める。古びた建物の角を曲がり、青年の姿が見えなくなるまで、彼女は静かにその後姿を見つめていた。と、同じように無言で見送っていたマークが、彼が視界から消えた刹那、困ったような微笑を湛えてカレンに声をかける。幻想から引き戻されたように、はっとしてそちらを見たカレンに、マークは親しみの持てる笑顔を向けた。
「すみませんね、面食らったでしょう。どうもあいつ、人に好かれようとかいいトコ見せようとか、そういう思考が全然ないらしくて。」
「・・・ふふ、そうね。結構クセのある子みたい。」
「結構どころじゃなくありまくりですよ〜。一緒にいる僕までとばっちり受けるんですから。」
情けない声を上げるマークにくすくすと笑い、カレンは先ほどまで青年が座っていた場所へ腰を下ろす。古びた木のベンチは、既に彼の体温を留めてはいなかった。
降り注ぐ柔らかな陽光に目を細め、カレンは傍らに座る小柄な青年に目を向ける。子供のように、両足をぶらぶらとさせている彼に、彼女は素朴な口調で問いかけた。
「とばっちりを受けると解っているのに、どうして貴方は彼と一緒にいるの?お世辞にも、付き合いやすい人じゃなさそうだけど。」
「ん〜、まぁそうなんですけど〜・・・・。」
くしゃくしゃの癖毛をかき回し、マークは照れたように笑った。ゆっくりと笑顔を収め、真面目な声で呟く。
「確かに、付き合いにくい事この上ないのは事実なんですけどね・・・。あいつ、別に悪いヤツじゃないんです。ただ、もともと人付き合いに積極的な方じゃなかったのに加えて、見てくれとか成績とかに惹かれて遠慮も節度もなしに群がってくる輩が後を絶たなかったせいで、どうも人付き合いに煩わしさしか感じなくなっちゃったみたいで。」
「へぇ・・・。あんなに綺麗なのに、恋人とかいないの?」
「あぁ、それはいますよ〜。もっとも、どの女の子とも半月と続いた事ないですけど。」
「えー?」
「なんでも下手に断って付きまとわれるより、適当に付き合ってから相手が愛想を尽かして別れ話持ち出してくるのを待った方が、後腐れがなくていいんだとか。実際に付き合って、あいつが恋人には向かない男だって事を自分の目で確かめてもらえば、その後は綺麗に縁が切れるんだそうですよ。」
「はぁ〜・・・・・。」
「まぁとりあえず、それを聞いたときにはグーで殴っておきましたがね。・・・・そんな贅沢言ってんならこっちに何人か寄越せってんだ、まったく。」
真顔でそうのたまうマークに、カレンは吹き出した。華奢な肩を震わせて笑い転げる。あの、有象無象と見事に一線を画している青年に対して、そんな無造作な扱いに出れる人間がいるというのが、たまらなく可笑しい。笑い事じゃないですよと渋い顔をするマークに軽く謝り、彼女は目尻に浮かんだ涙を拭って、ようやく笑いを収めた。
「・・・彼は、いい友達を持ってるわね。」
あの、何処か危うげなところのある青年にとって、この小柄な友人は特別な存在なのだろう。堅苦しい敬語を崩し、普通の若者のような言葉遣いでマークと話していた時、彼の背中は、ほんの少しだけ柔らかな線を見せていたように思う。
・・・・だが。そこまで考えて、カレンの目からふと笑みが消えた。
(・・・それでも・・・・この子といても、彼は何処か寂しそうだったわ・・・・。)
端然と去り行く、青年の広い背中。それは、硬質の拒絶と同時に、何故か凍えるような孤独を感じさせた。
(・・・どうして?)
闊達で、青年の美貌にも能力にも物怖じしないマーク。この友人がいても、彼の孤独は満たされないのだろうか。こんなにも彼を理解し、世間との関わりを断ち切らせまいと心を砕いてくれる友人がいて、それでも。
釈然としない思いを込めて傍らを見ると、同じくこちらを見ているマークと目が合った。先ほどまでの冗談じみた笑みを消したブラウンの瞳には、穏やかな光がある。まるで、カレンの思考を読んでいたような顔で、彼はにこりと笑った。
「いい友達と言ってもらえるのは、嬉しいんですけどね。・・・・僕じゃあ、本当の意味で、あいつを救う事は出来ないんですよ。」
「・・・え?」
「・・・あいつの欠落を埋めてやるには・・・・僕は、ちょっとばかりあいつに近すぎますから。」
「・・・・・・・・・。」
――謎かけのような、言葉。
「・・・どういう、意味?」
「さぁ、どういう意味でしょうね?」
悪戯っぽく笑う、小柄な青年。だが、その無邪気な微笑は、それ以上の詮索を無言のうちに拒んでいる。裏表もなく、ただ真っ直ぐなだけの人間かと思った彼が見せた、意外と食えない一面に、カレンは苦笑して肩をすくめた。
「前言撤回。彼だけじゃなく、貴方も意外とクセのある子みたいね。・・・・いいえ、上辺の繕い方が上手い分、貴方の方が性質が悪いかも。」
「んー、鋭い人は好きですよー。」
「ありがとう。私も頭のいい子は大好きよ。」
カレンの観察眼を暗に肯定する言葉に、彼女もまた完璧な微笑で答える。言葉遊びにも似たやり取り。だが、それだけでも、互いの頭の回転の速さを察するには十分だった。
打てば響くような応答ににやりと笑ったマークは、ぴょんと反動をつけてベンチから飛び降りる。その後姿に、カレンは微笑を湛えたまま言った。
「面白い子ね、貴方も彼も。・・・・出来れば、貴方たちにお近づきになりたいんだけど、ダメかしら?」
「へぇー?僕らの中身を垣間見た上で近寄ってくる人は、珍しいですねぇ。」
「あいにくと、毒にも薬にもならない男に興味はないの。」
「いい趣味ですね、センパイ。」
くすくすと、おかしげな笑いが降ってくる。太陽の光の中、面白そうな表情で振り向いたマークは、あまり様になっていないウィンクを投げた。
「まぁ、ご自由にどうぞ?・・・・・・・ひょっとしたら、薬どころか致死性の猛毒が潜んでるかもしれませんけどね。」
「気をつけるわ。」
悪戯っぽく答え、こちらはなんともチャーミングなウィンクを返したカレンは、白魚のような手をすっと差し出す。思いがけず強い力でそれを握り返すと、マークは破顔した。
「初めまして。・・・マーク・アディソンです。」
「カレン・ヴェンディッシュよ。よろしく。」
・・・穏やかな日差しの中、固く握手を交わす二人。
後には、金髪の青年も交えて親友と呼べる関係を築く二人だったが、その関係の始まりは、些細な好奇心に過ぎなかったのだった。
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<2006.3.24 アップ>