―――プルルルルル。
発車の合図のベルが鳴り響き、大学生らしき若い男が必死に階段を駆け上っていく。プラットフォームに電車が滑り込むと、それから溢れ出てきた人の波が、一斉に改札口へと雪崩れ込んでいった。
通勤ラッシュはとっくに収まったものの、昼下がりの駅はそれなりに混雑している。到着電車のアナウンスや券売機の音声案内、乗客のおしゃべりなどで賑わう中をすたすたと歩いていく、小さな背中。その半歩後ろを歩いていたユエは、その背中がひょいと左に曲がったのを見て、慌ててその手を引っ掴んだ。長めの髪をふわりと揺らし、突然に引き止められた少年がくるっと振り返る。
「え、何?」
怪訝そうに見上げてくる彼を見下ろし、ユエは淡い苦笑を浮かべて、頭上の案内板を指し示した。
「そっちじゃないですよ、乗り場。こっちこっち。」
「え?だって地下鉄乗るんだろ?」
「地下鉄にも色んな種類があるんですよ、行き先別に。僕らが乗るのはこっちの路線。」
「あのピンクっぽいマークのやつ?」
「そうそう。」
くるりと方向転換して背中を押してやると、レイはゆっくりと歩き出しながら、再び案内板を見上げた。未だ慣れない漢字の表記を理解しようとしているのか、その表情は真剣だ。その横顔を一瞥し、ユエは手首の時計に視線を落とした。
現在時刻、PM2:32。目的地である映画館までは、電車に乗ってしまいさえすれば15分くらいで着く筈だから、まあ3時からの上映にはギリギリ間に合うだろう。ただ、何事も無く乗り継ぎを終えていたならば、2時ごろには映画館に到着していた筈なのだから、決して順調な道中だったとは言えないのだけれど。
どうにか目指す路線には辿り着いたものの、今度は目的地とは逆方向のホームに向かっていく彼を再び引き戻しながら、ユエは自らの金髪をくしゃりとかき回した。
みちしるべ
レイは、ユエと会う前は、国から国への流れ旅をしていたのだという。やたらと数多くの言語が喋れる(レベルは片言の会話程度だが)事や、未知の思想や文化に対する柔軟な態度、それに新しい環境に適応する能力の高さからすれば、その経歴は納得いくものではある。だがユエには、どうしても納得いかない事が、ひとつだけあった。
――彼は、どうにもこうにも方向音痴なのである。
いや、方向音痴というのは正しくないかもしれない。この東京にやって来て一ヶ月半経ち、自宅周辺のリサーチもあらかた終わった頃だったが、彼はどこにどんな店があったか、そこへ行くにはどういう道を辿れば良いのかといった事は、ちゃんと覚えていた。ある時など、一度行ったきりの店で買ったママレードが美味しかったと言って、ひょいと出かけて買って帰ってきたくらいだから、むしろ道順を記憶する力は優れていると言ってもいいくらいである。・・・では、一体何が問題なのかと言うと。
「・・・レイってホント、下見しておかないとよく迷子になりますよね・・・・。」
そう。彼の欠点とは、「初めて行く場所に自力で辿り着けない」という事なのである。特に、現在地や目的地、そこに至るまでの道順を地図で確認するだとか、今回のように電車を乗り継いで目的地に向かうとか、そういった事が極めて不得意なのだ。
一度実際にそこまで行って、乗り継ぎ方法だとか、道順だとかを確認しておけば、かなり遠方でも難なく辿り着く事が出来る。しかし、初見の場所だともう駄目だ。半月前など、自宅から1キロほどの距離にオープンした酒屋までお遣いを頼んだら、いつまで経っても帰って来ないという事があった。カラスが鳴き始める頃にようやく連絡が来たので迎えに行ってみれば、彼は何故か、自宅から5キロ地点にある小さな公園でブランコを漕いでいたのだ。なんともあやふやな説明だけを頼りにどうにか彼を探し出した挙句、迷子になっていた張本人に「お前が言ってた店って随分遠いじゃないか」などと詰られたユエが、夕陽に向かってちょっとバカヤローと叫びたくなったとしても、まあ無理からぬ所であった。
それだけ我侭勝手を言われて、それでも離れようという気には全くならない辺り、自分でも終わっていると思う。自分はこんなに世話焼きな性格だったかなぁと遠い目をしたユエを振り返り、レイは不満そうな顔で反論した。
「しょーがねーじゃん、東京の電車って入り組みすぎてんだよ!何だよあの作り損ねの蜘蛛の巣みたいな絡まり具合!」
「電車に乗らなくたって迷うじゃないですか貴方。今日だってこんなに遅くなったのは、大道芸人に惹かれてふらふら道を外れたからでしょう?」
「う゛・・・それは、確かに悪かったけど。」
「しかも移動する彼らにくっついていって、さらに道を外れるし。」
「っていうか、お前も一緒にくっついて来てないで、テキトーな所で止めろよ。」
「現在地を確認して軌道修正する訓練になるかと思いまして。」
その目的もあって、オフの日だというのに、わざわざこんな遠くまで出かけてきたのである。実際このままでは、いずれ仕事に差し支える時が来るだろう。そんな事になる前に、どうにかひとりで目的地に辿り着けるようになってもらわねばならなかった。
「それにしても・・・貴方、今までそれで、よく一人旅が出来てましたね?」
「あ?どーゆー意味よソレ。」
「流れ歩きをするなら、地図の見方は必須の技能ではないかと思っただけです。」
「あぁ・・・・逆だろ。流れ歩くなら必要ないんだよ、そんなの。」
「は?」
ようやく乗り場に辿り着き、うんと伸びをしたレイは、時刻表を確認しているユエを横目で見て事も無げに答えた。
「『道に迷う』っていうのは、目的地がなきゃ出来ないだろ?どっか行かなきゃいけない場所があって、そこに辿り着くためのルートがあって、そのルートから外れて、そこで初めて『道に迷った』って事になるんだもの。
・・・乗るべき電車が無ければ、どれに乗ったって乗り間違いにはなんないし、帰る家がないなら、自分が今何処にいるのか確認する必要もない。それが流れ旅ってモンさ。だから、列車に乗る時とかいっつもテキトーだったもん、俺。何処に向かう列車なのかなんて、いちいち確認してなかったし。」
「・・・・・・・・・。」
さらりと言い切られ、ユエは虚を突かれたように沈黙した。確かに、彼の言う事は正しい。
外れるべき道が最初からないなら、どこに辿り着こうが迷った事にはならない。風の向くまま気の向くまま、流れ流れて色々なものを見て。それはとても自由な事ではあるけれども。
(それは、きっと・・・・とても寂しい事でもあるはずだ。)
珍らかな食物、美しい風景、その中で暮らす異国の人々。けれど、そこから何を感じようと何を学ぼうと、それを分かち合う道連れも、その思い出を持って帰る家もなければ、それはきっと、自らの孤独を際立たせる事にしかならない。それは本当に、”自由”と言えるのだろうか。
・・・そして、気丈な反面、誰よりも繊細な所のあるこの少年は、独りで彷徨った年月の中で、一体何を思っただろう。
(本当の自由って・・・何なのかなぁ・・・。)
ぼんやりと駅名を浮かび上がらせているパネルを眺めながら、ユエは考えた。そんな事、今までは考えもしなかった。
自由と孤独は、同等な存在であると。他者に煩わされない事がすなわち自由であると、ずっと疑ってもいなかったから。
(・・・そういう事を改めて考えるようになったのは、些細な進歩かな。)
サングラスの下で、そっと目を細める。その時、ふと左手に触れたぬくもりに、ユエが自分の傍らを見やると、何やら嬉しそうに微笑む少年と視線が合った。
「何笑ってるんですか?」
「んー・・・怒らないでな?」
「内容によりますが。」
クールに答えたユエに肩を竦めてみせ、レイは、小さな小さな声で呟いた。
「俺さぁ・・・迷子になるのって、ちょっと嬉しいんだよね。」
「・・・・・・・。」
そう言って、ちらりと傍らの青年を見上げたレイは、彼が何とも言えない顔で沈黙しているのに気付き、慌てて言葉を繋げた。
「や、だからって別に迷いたくて迷ってるわけじゃないぜ!?道に迷うのは、単純に経験不足だからで!」
「はいはい、解ってますよ。迎えに来て欲しいからって迷子になった振りをしてるんじゃないかとか、そんな事思ってませんから。」
「・・・ホントに、違うからな?」
「はい。」
両手を無意味に動かしながら否定する様がなんだかおかしくて、ユエはくすりと笑った。そんな彼を見上げて、レイも表情を緩める。
彼が、丈高い相棒に、不自然にならぬ距離でそっと寄り添うと、地下鉄の生温い風がふたりの髪を揺らした。
「たださ・・・行くべき場所や、帰る場所や・・・迷った時に探しに来てくれる奴がいるのって、すごく嬉しいなって。そう思うんだ、最近。」
「・・・・そう。」
「うん。」
そう言って、照れたように笑う少年の頭を、ユエはくしゃくしゃと撫でた。通りすがりの老婆が、そんなふたりの姿を微笑ましげに見ながら、ホームの端へと歩いていく。
”間もなく、一番線に――行きの電車が――”
事務的なアナウンスが流れ、ホームにいる人間たちがゆっくりと動き出した。だんだんと近づいてくる、レールの音。暗いトンネルが、電車のライトに明るく照らし出される。
じっとそれを眺めるレイの髪を、軽く直して。ユエは小さな相棒に、そっと囁いた。
「・・・頑張ってくださいね、レイ。」
「?何を?」
きょとんと見上げてくる、黒曜石の瞳。その髪に、すっと小さな紙片を挟み込んで、金髪の青年はにっこりと笑った。
「早く、自分の力で僕の所まで帰って来れるようになって下さい。日々鍛錬ですよ。」
「う゛・・・頑張る。」
駅から映画館までの道のりが記された地図を髪から外し、レイはしかめっ面でそう呟いた。やや強い風と共に、ホームに滑り込んできた電車に目を細め、彼は凭れていた壁から身体を起こす。足早にドアへと駆け寄る背中を眺め、ユエは独り言のように呟いた。
「・・・それまでは何度でも、僕が貴方を迎えに行ってあげますから。」
彼は、探しに来てもらえるのが嬉しいと言うけれど。
自分にとっても、誰かを探しに行く――探さなければならない人がいるというのは、嬉しいものだから。
「?何か言ったか?」
「いいえ、別に。」
――まあ、そんな事を言うと彼のやる気を削いでしまいそうだから、暫くは黙っておくつもりだが。
「そう?なら早く来いよ、電車出ちゃうぞ!」
「はいはい。」
小さな紙片に視線を落とし、真剣な顔で道順を辿る彼。ちらりと腕時計を一瞥し、ユエはその隣に並んだ。
「さて、3時の上映には間に合うでしょうかね?」
「・・・ゼッテー間に合わせる!」
――意気込む少年の前で、地下鉄のドアが静かに開いた。
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<2005.4.15 アップ>