羅列する数字

 

 ――ユエは、あまり甘いものが好きではない。

 これは、彼の事を少しでも知っている人間なら、たぶん誰でも知っている事だ。コーヒーは常にブラック、ケーキの類を出されてもほんの一口二口しか口にはしない。最近は、甘党な相棒の影響を受けてか、甘さ控えめな和菓子やキャンディくらいなら時々食べるようになっているが、基本的に自分からそれらに手を出す事はあまりないと言えるだろう。
 ・・・そんなわけで。

 (めずらしい事もあるもんだなぁ・・・・。)

 その日、バスルームが空いた事を告げようと相棒の部屋を覗いたレイは、本を読んでいる彼の手元にある物体を見て、微かに眼を瞠る事になった。

 「どういう風の吹き回しだ?」
 「うわ、びっくりした!・・・ノックくらいして下さいよ。」
 「いいだろ別に、エロ本見てたわけじゃあるまいし。」

 読書に没頭していたところに突然声をかけられ、結構本気で驚いたような声を出した青年に、レイは濡れた髪を拭いながらしれっと応える。罪悪感の感じられない返答にひとつ苦笑を返すと、ユエは時計を確認して、分厚い本に丁寧に栞を挟んだ。
 と、分厚いそれを本の山の頂上に載せているユエの傍らに、レイがのんびりと近寄ってくる。ひょいと手を伸ばし、先ほど興味を引いた薄い箱を取り上げたレイは、小さなそれをしげしげと見つめて呟いた。

 「めずらしいな、お前がチョコなんて食ってるの。」
 「ああ、この前頂いたら結構美味しかったので。」
 「自分で買ったのか?」
 「ええ。」

 レイの手の中にある薄い紙箱には、「COCOA」の文字が見える。生クリームたっぷりのケーキと並んで苦手としているはずのチョコレートを、彼が自分で購入して食べていたという事実に、レイはますます不思議そうな顔になった。

 (食い物のシュミ、変わったのかな?)

 レイと入れ替わりにバスルームへと向かうべく、棚を開けて着替えを取り出しているユエを胡乱な眼で眺め、レイは薄い箱を開けて興味津々な顔で中を覗き込む。彼が美味しいというくらいだから、有名ショコラティエの店で買ってきた高級チョコレートとかその辺りではないかと思ったのだが、薄い箱は大人びたシックなデザインではあるものの、どう見ても量産品だ。

 

 ――変わっている点といえば、パッケージに大きく記されている「99%」という文字くらいなもので。

 

 (・・・なんだ、99%って?)

 レイは首を傾げたが、疑問はやがて好奇心に変わったらしく、箱の中から小さな一片をつまみ出した。なんだかよく解らないが、ユエが食べていたくらいだから、少なくとも不味くはあるまい。どの辺が彼のお気に召したのか、実際に口にしてみれば解るに違いない。

 と、レイが罪のない興味につられて、黒い菓子の欠片を口に放り込んだ時。ちょうど振り向いたユエが、それを見て慌てたような声を上げた。

 「あ!ちょっとレイ、それは・・・・」
 「え?」

 食べてはまずかったのかと、レイは咄嗟に咀嚼を止めてユエを見上げた・・・
 ・・・・・が。

 

 「〜〜〜〜〜っ!!!?」

 

 ・・・次の瞬間、咥内に広がった強烈な苦味に、レイは盛大に顔をしかめて悶絶する羽目になった。

 「あーあー、言わんこっちゃない・・・。」
 「んーっ、んーっ!!」

 危ういところで吐き出すのは避けたものの、到底チョコレートとは呼べない凄まじい苦さに、レイは涙目になる。最初から心構えをして口にしたならともかく、甘いと思って食べたらものすごく苦かったというのでは、ある意味不意打ちで余計にダメージが大きい。
 やがて、小さな欠片をやっとの事で飲み込むと、レイは思わずげほげほと咳き込んだ。その背中をさすってやりながら、ユエはぽんとその頭を叩く。

 「人の部屋にあるものを勝手に食べるからそういう目に遭うんですよ。大丈夫ですか?」
 「・・・っじょうぶじゃねーよ、なんだよコレ!?」

 ようやく咳を押さえ込んだレイが、眉を吊り上げて怒鳴る。その眼前にパッケージを示し、ユエは軽く肩を竦めた。

 「ここに、『カカオ99%』って書いてあるでしょう?貴方の口にはまず合いませんよ。」
 「だって、カカオってチョコの事じゃ・・・」
 「いやいや、似て非なるものです。」

 カカオとココアとチョコレートが全て同じものだと思っているレイは、カカオがチョコの苦味の元だという事を知らなかった。ユエはさらに、パッケージの裏面に書かれている、『少量を舌の上で溶かすようにしてお食べ下さい』という注意書きを示し、レイはなんだよそれ!と思わず天を仰いだ。それもうチョコレートじゃねぇじゃん、という、もっともな呟きがその唇から漏れる。確かに、苦味や辛味を好むユエならばともかく、甘党のレイには少しばかり強烈過ぎる味ではあった。

 「なんでこんなの平然と食えるんだ・・・お前、実は味覚がイカレてるんじゃねぇのか?」
 「人の作る食事を一日三食平らげておいて、何たる暴言。」
 「きっと苦味限定でセンサーが鈍ってるんだ、絶対そうだ・・・・ちっくしょう、苦ぇ〜・・・・。」

 口元を押さえて顔をしかめるレイに、ユエは苦笑した。文句を言われても、そもそも勝手に食べたのは自分なのだから、いわば自業自得である。だが、そう思ってはいても、舌が痺れると訴えるレイを本当に放り出す事はできないのだから、結局はこの年下の相棒に甘いユエであった。
 キッチンから何か甘いものでも取ってこようかとも思ったが、苦い苦いと子供のように騒ぐ彼を眺めていると、少しだけ悪戯心が湧く。俯く頭をぽんぽんと叩いて、ユエは促すように穏やかな声をかけた。

 「ほら、こっち向いて。」
 「ん・・・・?」

 おもむろにレイの前に座り込み、ユエは静かに顔を寄せる。ちらりと覗いた舌先が――本人にその気はないのだろうが――まるで誘っているようだ。
 意図を察したレイが素直に目を閉じるのに微笑み、ユエはそっとその唇に口付けた。自然な仕草で身体を寄せてきたレイの腰を抱き、穏やかに彼の唇を開かせる。

 「・・・・ん・・・・・。」

 軽く舌を触れ合わせると、レイが小さく呻く。寄せた頬から香る石鹸の香りと、普段より少しだけ温まった肌が心地良く、ユエは控えめに身体をすり寄せた。
 ぱらぱらと散る湿った髪の感触を楽しみながら、ユエは舌の表面にこびりついた苦味を丁寧に舐め取り、柔らかく咥内に舌先を這わせる。レイは、時折応えるように舌先を揺らす以外はほとんど反応せず、ユエが舌を痺れさせる苦味を取り去ってくれるのをおとなしく待っていた。

 「・・・・・っ・・・・・・。」

 柔らかく舌を吸い上げられたレイが声もなく呻くと、項に回った掌に宥めるように肌を撫でられる。やがて、苦味をかき消すに十分な、甘やかなキスをたっぷりと堪能したふたりは、名残惜しげに唇を離した。ほう、と満足げな吐息を落としたレイは、濡れた唇をぺろりと舐めて、照れくさそうな微笑をユエに向ける。その額に、こつりと自分のそれをくっつけて、ユエはくすりと笑った。

 「もう、苦くないでしょう?」
 「・・・・ん。」

 眼差しだけで、頷くレイ。ユエがゆっくりと腕を緩めると、彼は緩慢な仕草で身を捩って、ごろりとユエの膝の上に倒れ込んだ。烏の濡羽色というにふさわしい艶やかな黒髪が、オフホワイトの布地に綺麗なコントラストを描く。そのまま、自分の足にぴたりと身体を寄せてきたレイに目を細めて、ユエは湿り気を帯びた髪をゆっくりとかき上げてやった。黒曜の瞳が気持ち良さそうに細められ、レイが喉を鳴らすような声で緩慢に呟く。

 「こんな・・・・」
 「?」
 「こんな風に、食べるなら・・・苦いのも、たまには悪くないかな。」
 「・・・ふふっ。」

 とろりと甘いキスがお気に召したのか、レイは随分と素直だ。とんでもないものを食べさせられたという不機嫌さは何処へやら、ユエの太腿にことりと頭を預けたレイは、甘えるように頬をすり寄せてくる。ご機嫌な彼が見せる、なんとも可愛らしい言動に唇を綻ばせ、ユエは無防備に晒された頬や首筋を柔らかく撫でてやった。

 「今度、70%を買ってきてあげますよ。」
 「え?」
 「99%よりは、甘くて食べやすいから。・・・たぶん、それなら貴方の口にも合うでしょう。」
 「それでも、俺には苦すぎるかもしれないぜ?」
 「うん?」
 「もし苦くて食えなかったら、どうする?お前、食うの手伝ってくれるか?」
 「そうですねぇ・・・・。」

 

 ――長い指が、濡れた唇をそろりと撫でる。

 

 「・・・とりあえず、今みたいな中和方法で良ければ。」
 「・・・・・・・・・。」

 悪戯っぽく首をかしげて言ってやれば、膝の上の猫はくつくつと喉を鳴らす。唇をなぞる指先をちろりと舐め上げて、彼は面白そうに微笑んだ。

 「悪くないね、それ。」
 「そうですか。」
 「うん。」

 ユエの膝の上に上半身を伸ばして、花が綻ぶような笑顔で彼は言う。警戒の欠片もない、なんとも素直な笑顔だ。
 それを見下ろし、ごろごろと懐く猫をじゃらしながら、ユエは内心でため息をついた。

 (・・・まったく、こんな無防備な顔をして。)

 ただでさえ人目を惹くのだから、あんまりそういう顔をしないで欲しい。

 

 ――内なる強靭な棘の存在も知らずに、うっかり近寄る莫迦な虫が増えるから。

 

 幸せな頭痛の種を、ユエは淡い微笑を湛えて見つめる。まぁ、自分以外の人間の前では滅多にこんな顔はしないのだから、いいけれど。

 (・・・これ以上敵が増えても、困るしね。)

 ひとり納得して頭を振るユエを、レイが不思議そうな顔で見上げる。考え事をしていたのを咎めるように、スラックスの上からかりりと爪を立てられて、ユエは腿に走ったくすぐったいような痛みに肩を竦めた。何処か甘いその感覚に、身体の芯に淡い熱がともり、ユエのアメジストの瞳がゆらりと揺れた。
 そんな彼の状態を知ってか知らずか、髪を撫でる手を求めて、再びすり寄ってくるレイ。そんな、愛撫をねだる猫そのままの仕草に、ユエはあっさりと陥落された。

 (うーん・・・今夜は、もう寝るつもりだったんだけどなー・・・。)

 自分も若いな、と、軽く苦笑する。一向に触れてもらえない事に焦れたのか、腹に半分頭突きのような強さで頭をぶつけられて、その苦笑はさらに深くなった。
 宥めるように柔らかな髪をかき上げ、ねぇ、と囁くように声をかける。真下から自分を見つめてくるその目の前に、小さなチョコの箱をかざし、ユエはカタリとそれを振ってみせた。

 「・・・もう一口、いってみます?」
 「・・・・・・・・・。」

 一瞬、虚を突かれたように、レイの動きが止まる。やがて、唐突な問いかけを訝しむような沈黙の後、レイの唇におかしげな笑みが浮かんだ。
 即答せず、思案するように瞼を伏せたその仕草に、ユエは問いかけの裏に潜ませた真意が正確に受け止められた事を知る。

 (・・・食べるのなら、手伝ってあげますよ?)

 

 きつい苦味を、甘い口づけで和らげてあげる。

 ――そう、小さな欠片が、ふたりの間で柔らかく溶けるまで。

 

 微笑んだユエが、誘うように唇をなぞってみせる。
 カカオの香りを纏ったその仕草に、レイはくすくすと、楽しそうに笑った。

 

 苦いチョコレートと引き換えに、ユエのキスを手に入れるか。
 はたまた、自分の味覚に正直に、苦すぎる菓子を拒絶するか。

 ・・・さて、彼はどちらを選ぶ?

 

 (・・・もっとも、次に口づけたら、たぶんそれだけでは済まないだろうけど。)

 

 チョコの欠片は、濃密な一夜へのチケット代わり。
 遠回しな誘いに、彼は乗ってくるだろうか。

 (このまま何事もなく一人で眠る事になるか。・・・・それとも・・・・?)

 

 

 ――今夜のユエのスケジュールは、小さなお菓子の行き先次第。

 

 

 

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<2006.6.30アップ>