扉の先

 

 じめじめと陰鬱な雨の季節が終わり、からりと晴れた初夏の朝。
 真夏の茹だるような暑さにはまだ届かない、まさに外出日和な天気に目を細めて、アラシは何度も押した事のあるスイッチに気軽に手を伸ばした。

 ――ピンポーン、ピンポーン。

 インターフォンを忙しなく鳴らすアラシ。満面の笑みを浮かべた彼の後ろには、同じような表情のアズマと、苦笑しながらその様を見やるアスカの姿がある。三人とも、ごくラフな普段着を着ており、どこにでもいる若者と区別がつかない。
 ここは、レイとユエの自宅であるマンションだ。今日は、三人はレイと一緒に街に繰り出す約束をしており、揃って彼を迎えに来たのだった。

 「フッフーンフーン♪今日はレイとおっ出かけーだーい!!」
 「し・か・も!あんの小姑、もといユエは今日は仕事でいない!!こんなチャンス滅多にないぜ!!」

 浮かれるアラシと、おおっぴらにガッツポーズを決めるアズマを余所に、ジーンズルックを凛々しく着こなしたアスカは軽く肩を竦めた。

 「ちょっと、そこの二人。浮かれるのは結構だけど、あたしもいる事忘れないでよね?」
 「やだなぁ、解ってるって!」

 アズマが笑ってそう言った時、ドアの向こうから「はーい」というレイの声が聞こえてきた。だが、その声は、どうも普段と比べるとキレが悪い。朝っぱらから、何やらひどく疲れたようなレイの声に、三人は思わず顔を見合わせた。
 間もなく、がちゃりとドアを開けて、麗しの黒猫が顔を出した。・・・・が。

 「あ〜、悪い・・・・もうちょっとだけ待っててもらえ」
 
「「わ゛〜、ちょっとレイ〜っ!!」」

 レイの台詞は、最後まで言わせてもらえなかった。顔を覗かせたレイを一目見るや否や、双子たちが突然奇声を上げて彼を室内へと押し戻したのだ。レイが突然の奇行に目を白黒させていると、その二人の背をさらにアスカが押し、するりと玄関へと入り込んでドアを閉める。そのまましっかりと施錠までしてしまったアスカを見て、レイがさらに目を丸くした。

 「別に、鍵までかけなくてもいいぜ?つーか悪い、まだ支度出来てないんだ。すぐ終わるから、リビングで待っててくれるか?」

 ゴメン、と両手を合わせるレイ。だが、その言葉に返ってきたのは、思いも寄らない返答だった。

 「・・・・いや。今日は街に出るのは止そう。」
 「へ?」
 「そうだね。今日は一日だらだらデーに変更。お菓子摘みながらビデオ鑑賞でもしよう。」
 「は?」

 双子たちが、やけに真面目な顔でそう提案するのに、レイは呆気に取られた顔をする。迎えに来させた挙句支度まで出来ていないとあって、怒らせてしまったのかと少々慌てたレイを安心させるように、アスカがにっこりと華やかな笑顔を浮かべてその顔を覗き込んだ。

 「レイ、この前新しいゲーム買ったって言ってたわよね?あたし、あれやりたいんだ〜。みんなでやろうよ、ね?」
 「え?うん、それはいいけど・・・今日、服見に行くんじゃなかった?ボーリングは?カラオケは?」
 「また今度でいいじゃない。今日はなんとなくインドアな気分なのよ。双子どももそう言ってるしさ。」
 「マジ?」
 「そうそう!のんびりしたい気分なんだよ今日は!」
 「最近忙しかったしさー、今日はだらだらしよーよ、よし決定決定!」

 そうと決まればお茶でも入れなきゃね、ああそれはあたしがやるわ、僕手伝うよ、よしじゃあ僕はゲーム機のセッティングやっとくね。
 あれよあれよという間に話をまとめ、未だに呆気に取られているレイをアラシが部屋へと引きずっていく。それを笑顔で見送ったアズマとアスカは、二人の後姿が視界から消えた瞬間、コマを飛ばしたように表情を変えた。
 アズマは、苦虫を百匹くらい噛み潰したような、物凄い渋面に。アスカは、微妙に脱力しつつもどこか楽しげに。
 異なる表情を見合わせた二人は、何ともなしに深い深い深いため息を吐いた。

 「・・・あんのクソ犬・・・・どういうつもりだよ・・・・。」
 「どういうって、そういうつもりでしょ・・・。それにしても、アレはちょっとまずいってマジで・・・。」

 別に、レイの外見に大きな変化があったわけではない。首筋に盛大なキスマークがついていたとか、服が目も当てられないほど乱れていたとか、そういうわけではないのだけれど。・・・ないのだけれど。

 「・・・色っぽ過ぎだろ。」
 「同感。」

 長い髪を、物憂げに解き流して。しっとりと艶を帯びた唇を、薄っすらと開いて。挙句の果てに、ちょっと焦点の揺らいだ瞳を潤ませちゃったりなんかして。
 ・・・何というかこう、「愛されました!」みたいな。全身から香る、ココロもカラダももうメロメロ、みたいな甘いオーラが、ちょっとどころではなく目の毒だ。ユエが出かける前に一体何をされたんだか、と、アスカは微妙な半笑いを浮かべたが、あえて深く考えるのは止めておいた。深く考えるまでもなかったとも言うが。

 (アホかアイツは!?あんな状態のレイを外に出したら、どんなタチの悪い虫が寄ってくるか解んねぇじゃんかよ!!)

 一方のアズマは、う〜っ、と剣呑な呻きを上げ、がしがしと頭を掻き毟っている。考えている事は真面目だが、その顔はレイの色香にあてられて見事に真っ赤なので、傍から見ると怖くも何ともない。そんな、怒りと照れでトマト状態になっているアズマの肩を、アスカは苦笑しながらぽんと叩いた。彼の心中など、彼女にはお見通しらしい。

 「そうおっかない顔しないのよ。」
 「んな事言ったって!所有権を主張するなら、もうちょっとやり方あるだろ!?」
 「あんた達がちょっとのスキンシップすら出来ないように、マーキングってわけね。・・・解りやすい事。」
 「マーキングったって・・・あれじゃ虫除けどころか、余計にレイを無遠慮な視線に晒す事になるじゃんかー!!」
 「まぁ、あの子って変な所で鈍いからねぇ・・・。」

 おそらく、レイ自身は、今の自分がどれほど劣情をそそる表情をしているのか、全く意識していない。口付けの痕が覗かぬように服を調え、腰の痛みさえ隠し通せれば大丈夫だと・・・多分本気で思っている。
 自分の容姿が他人に与える印象についてはわりと正確に把握し、場合によってはそれを利用する事もあるレイだが、他人から与えられた刺激が自分に及ぼす影響については、いささか認識不足な所があるのだ。自分のポーカーフェイスを過信しすぎよねー、という彼女の呟きに、アズマは激しく同感だった。あの艶がそう簡単に隠せるわけないだろうと、脱力して肩を落とす。ましてや、これから行こうとしているのが、仕事の場ではなく友人と行く遊び場となれば、彼のスイッチがなかなか切り替わらないのも当然だった。

 (目の保養・・・・では、あるけどさぁ・・・・。)

 ――先ほどのレイは、凄まじく綺麗だった。それが他の男の手によってもたらされたものだと知っていてもなお、目が離せなくなってしまうほどに。

 負けん気を双眸に湛え、その美貌に闘志をみなぎらせた時の、野生の獣を思わせる猛々しい美しさとはまた違う。何処か気だるげに身体を引きずりながらも、あの時の彼の瞳には、心身ともに満たされきったという幸福感と満足感があり、それがえもいわれぬ極上の色香となって彼を色取っていた。
 恋敵に対する牽制という目的があったにせよ、彼の片割れが彼に与えた行為は、とても温かなものだったに違いない。外出前に体力を削られたにも関わらず、苛立ちや怒りにささくれもせずに優しく潤んでいた黒曜を見れば、それは簡単に想像がついた。

 「反則だ・・・あんなに綺麗なのは、絶対反則だー・・・。」
 「まぁねー・・・・。」

 彼の、気の強さや喧嘩の強さ、研がれたナイフを思わせる鋭さといったものに惹かれたのなら、あんな風に「飼い慣らされた」彼を見て、幻滅したっていいはずだった。彼の心情がどうであれ、一人の男に心も身体も明け渡したその様は、野生の獰猛さとは対極にあるものなのだから。

 

 ・・・それなのに。それなのに、そんな彼をそれでも綺麗だと思ってしまうのだから、自分も大概終わっている。

 

 (ちょっとくらい、幻滅させてくれたっていいじゃんかよぅ・・・・。)

 自分以外の男の手によってほどかれた、ひどく無防備な笑顔を垣間見せるくせに。明日になれば、彼はまた、強く美しい《よろず屋》として、不敵な微笑を湛えて店にやってくるのだ。
 矛盾するようなしないような、彼の二面性。そのどちらもに惹かれてしまった自分はとても不幸だと、アズマはつくづく思う。どうせ手に入らないのなら、せめてどちらかに幻滅して興味を失う事が出来ればいいのに、それすら出来ないのだから。付き合いが深まるにつれて、彼は少しずつ色んな表情を見せてくれるようになったけれど、そして自分もそれを望んでいたけれど、それは時折こんな風に、アズマ自身の首を絞める事になったりもする。

 「・・・まぁね・・・それだけレイが心を許してくれてるって事だから、それはそれで嬉しくはあるんだけどね・・・フフフ・・・・。」
 「アズマ、とりあえず涙は拭きなさい。」

 あさっての方角に向かって呟くアズマを冷たく一蹴し、アスカは立ち話を切り上げてキッチンへと向かった。整然と片付けられたそこに「お邪魔します」と一礼し、カップやティーポットを棚から取り出す。金髪の青年の聖域であるその場所を必要以上に荒らさぬよう、最低限の動きで茶の用意を整えながら、彼女はのろのろとついてきたアズマを一瞥して、華奢な肩を悪戯っぽくすくめた。

 「まぁ、見せつけられて気の毒だとは思うけど。少なくとも、信用はされてるって事なんだから良かったじゃない?」
 「そりゃー、まぁ・・・そうでなければ、レイだってもっときっちりかっちりした顔で出てきただろうけど・・・・。」
 「いや、それだけじゃなくてさ。」
 「?」
 「ユエにも多少は信用されてると思うわよ、あんた達。」
 「はぁ!?」

 犬猿の仲である青年の名に、アズマが目を剥く。
 信用?アレが、僕達を??と、ものすごく正直に疑問符を浮かべる彼に、アスカはころころと楽しそうに笑った。

 「だって、レイが今日誰と出かける予定なのか知った上で、あんな危なっかしい状態のあの子を置いていったのよ?もしあんた達が、ユエの留守を狙ってあの子に手を出すような姑息な真似する連中だと思ってたなら、そんな危険な事絶対しないわよ、あの男。
  ・・・あとはそうねー、あの子を外に連れ出したとしても、寄ってくるバカな男を蹴散らせるだけの喧嘩強さは認めてもらえてるんじゃないの、とりあえず。」
 「・・・・・・・・。」

 明快な彼女の解説を眼を瞠って聞いていたアズマは、暫しの沈黙の後、かぁっと頬に血の気を上らせた。先ほどのレイの艶姿を目にした時に匹敵するくらい、耳まで赤くなって俯いたアズマに、アスカの笑みはますます深まる。

 「なんだかんだ言っても仲いいわよね、あんた達って。」
 「ほっ、放っといてよー!!」

 意外すぎる事実を指摘されて動揺しまくるアズマ。照れ隠しにか、あああ〜と奇声を上げてのた打ち回る彼に、熱い紅茶を満たしたティーポットを無造作に押し付けると、彼女はその背中をばんと力強く叩いた。

 「ま、自分の目の届かない場所で会う事を許されてるってだけで、横恋慕してる立場としては十分だと思いなさいよ。」
 「・・・た、単に襲う根性もないって思われてるだけなんじゃないデスカ。」
 「照れるな照れるな。」
 「照れてません!!」

 がぁっと勢い良く咆哮し、もう僕先に行くからね!!と赤い顔で一声怒鳴ると、アズマはティーカップやスプーンを乗せたトレイをアスカからひったくって、目にも止まらぬ速さで廊下を走って行ってしまった。キッチンから顔を出し、あっという間に姿を消した後姿を見送ったアスカは、彼が走った軌跡に点々と飛び散った紅茶の雫を眺めて、ため息交じりの苦笑をもらす。

 「・・・まったく、からかい甲斐がある事。」

 仲良き事は、美しきかな。
 独り言のようにそう呟いて、彼女はトレイに乗せ損ねたシュガーポットを棚に置いた。桜色の唇が、くすりとおかしげな笑みを湛える。

 

 「しょーがない・・・からかったお詫びに、紅茶零しの証拠隠滅くらい手伝ってやるか。」

 

 廊下にぼたぼた垂らされたそれのせいで、気のいい友人が家主たちに怒られるのは少々不憫だから。
 シュガーポットの代わりに雑巾を手に取ったアスカは、今頃赤い顔について想い人と兄から質問責めにされているであろうアズマを思い浮かべ、今度こそ楽しげに笑い声を上げたのだった。

 

 

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