繋がる糸
――ヒュッ・・・ヒュ、ヒュン!!
耳が痛くなるほどの夜の静寂に、微かだが力感に富んだ音が響く。それは、鋭く空気を切る音と、軽快にアスファルトを蹴りつける足音のふたつ。深夜の静寂にはそぐわない「動」の気配に、闇の中を蠢く鼠たちがそそくさと逃げ去っていく。だが足音の主は、そんな小さな生き物たちの動きなど意に介さず、再び右腕を鋭く一閃させた。
――ヒュン!!
月にかかっていた雲がふわりと流れ、淡い月光が地上を照らし出す。その光の中にぼんやりと浮かび上がったのは、まだ年端もいかない少年の姿だった。
年の頃は、精々13,4歳という所か。適当に切り揃えてブリーチをかけた髪と、勝気そうな焦げ茶の瞳が印象的なその外見は、一見ただの子どものように見えた。だが、健康的に日焼けした細い右腕には、大型の肉食獣を思わせる鉄製の爪が装着された、重そうな革のグローブが嵌められている。未発達な身体にはいかにも不似合いなその凶器を軽々と振り回し、無駄のない身のこなしで幻の敵に斬撃を繰り出していくその様は、彼が相当な修羅場をくぐり抜けてきた戦士である事を物語っていた。
月の光を浴びながら、彼はシャドーボクシングに限りなく近いトレーニングを、黙々と続けている。と、彼がこめかみを流れる汗をぞんざいに拭い、再び武器を構えてステップを踏み出した刹那、「それ」は起こった。
――ぁ・・・ぁああ、あ、あ―――!!
「・・・・っ!!?」
突然響いた、声にならない絶叫。心臓を撃ち抜かれたようなショックに、少年は思わず大きく息を呑んだ。一瞬乱れた呼吸に、狙いを逸れた獣の爪がコンクリートの壁を削り、三筋の爪痕をくっきりと刻み込む。金属が硬い壁に食い込む嫌な音が、夜の静寂にやけに響き渡った。
不思議な事に、今の空気を切り裂くような悲痛な絶叫にも、夜の静寂はこそりとも揺らいではいない。鼓膜も、空気すら震わせる事無く、自分の心に直接突き刺さってきた慟哭に、少年は焦げ茶の瞳を大きく見開いた。
「・・・アズマ・・・・?」
汗に濡れた幼げな顔に、不安の色が微かに浮かんだ。虚空を見上げる双眸が、見えない糸を探しているかのように、すうっと細められる。
今の不可思議な現象に対し、少年が動揺したり戸惑ったりしたりしている気配は全くなかった。僅かに眉を顰めた彼の顔にあるのは、驚愕でも恐怖でもなく、誰かに対する心配の色だけである。やけに冷静なその反応は、彼が先ほどの悲鳴の正体を既に察しているという事と、こうした現象を既に何度も経験しているのだという事を、想像させるに十分なものだった。
(・・・何が、あったんだろう。)
風の流れを読むように、しばらくそこに立ち尽くしていた少年は、やがてゆっくりと踵を返すと、野生の獣を思わせる敏捷さで走り出した。
大人では通り抜けるのすら難しい細い裏通りも、細身で小柄な少年にとっては何の苦にもならない。積み上げられた木箱をひょいと飛び越し、破れたフェンスの隙間をするりとすり抜けて、少年は風のように夜の街を駆け抜けた。行き先に迷う必要など、最初からない。自らの魂が導くままに、彼は自分の片割れの元へと、ひたすら足を急がせた。
(どうしたんだよ・・・なんで泣いてるんだよ?)
暫く走り続け、そうして彼が辿り着いたのは、細い袋小路にあるゴミ捨て場だった。家財道具も生ゴミも関係なく置き去りにされているその中から、押し殺した泣き声が聞こえてくる。僅かに乱れた息を整えながら、朽ちかけている椅子と箪笥が構成するバリケードの隙間を覗き込んだ少年は、そこにちょこんとうずくまっている茶色の頭を発見して、ほっと安堵の息をついた。そして、ささくれだらけの木材を爪でかつかつと叩くと、声を潜めて頭の持ち主を呼んだ。
「おい・・・アズマ。」
ぴくん、と、華奢な肩が揺れる。自分を呼んだのが誰なのかは解っているはずなのに、何故か振り向こうとしない相手に、少年は眉間に思いっきり皺を寄せた。『心配して来てやったのにシカトたぁいい度胸だコラ』と、その表情(カオ)には大書きされている。動かない後頭部を仏頂面で睨みつけたまま、無言で五歩後退した少年は、そこでぴたりと足を止めた。
ふたりの間にあるのは、高さ2メートルほどの粗大ゴミの山。少年はそれに向かって突然走り出すと、正面衝突する一歩手前で、思いっきり地面を蹴りつけた。小さな身体が、重力を無視したかのような軽快さでふわりと宙に舞う。難なく障害物をクリアした彼は、自分の身体が山を跳び越したところで器用に体を半回転させ、うずくまる人影の目の前、しかも鼻がくっつきそうな至近距離に、ずだんと音を立てて着地した。
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
微妙な沈黙が、その場に落ちた。突然目の前に降ってきた少年にも、バリケードの内側に閉じこもっていたその人物は何の反応も返さない。ハーフパンツから覗く膝小僧に顔を埋め、ぴくりとも動かない相手に今度こそ業を煮やし、少年はいささか乱暴にその肩を掴み、強引に顔を上げさせて視線を合わせた。
「・・・シカトしてんじゃねぇよ、コラ。」
「・・・・・アラシ・・・・・。」
泣き腫らした焦げ茶の瞳が、きつい光を帯びた同色の瞳と合わさる。ぐす、と鼻を啜り、その子どもは掠れた声で少年の名を呼んだ。
まるで、大きな鏡がそこに現れたかのようだった。ガラクタに囲まれて一人泣いていた子どもは、アラシと呼ばれた獣の爪を持つ少年と、全く同じ姿をしていたのだ。ずっと泣いていたのか、今は瞼は腫れ鼻は赤くなりと散々な顔をしていたが、普通の状態であったならば少年と区別がつかないに違いない。それほど、二人の容姿は、何から何まで瓜二つであった。
アズマと呼ばれた少年は、自らと同じ姿をした少年――双子の兄であるアラシの姿を目にするや否や、再び大きな目を潤ませた。右手の爪をグローブに収納していたアラシは、内心ぎょっとしてそれを見返す。
「うわ、ちょっ・・・どーしたんだよ、お前。」
「っ・・・・だって・・・・・。」
言葉が続かず、再びぽろぽろと涙を零した弟に、アラシは困りきった顔で頬を掻いた。アズマの名誉のために言っておくならば、彼は決して泣き虫なわけではない。この幼さで兄と二人きりの生活を送っているのだから、ハングリー精神も根性も負けん気も、人一倍どころか人の百倍くらいは持ち合わせている。その彼がこんな風に泣きじゃくる姿など、兄のアラシですら本当に久しぶりだった。
とりあえず、ぐしょぐしょになってしまった頬を拭ってやろうと手を伸ばしかけた所で、アラシは不意に、はっと息を呑んだ。弟の細い腕が、大切そうに何かを抱いているのに気付いたのだ。ぴくりとも動かない「それ」が何なのか理解した刹那、一瞬だけ大きく瞠られた焦げ茶の瞳は、やがて悲痛な色を含んでゆっくりと細められる。無言で俯き、華奢な肩を震わせるアズマに、アラシはそっと囁いた。
「・・・死んじゃったの、か・・・・ソイツ。」
「・・・・うん・・・・・・。」
ころりと転がり落ちた涙の雫が、「それ」の上で砕け散る。小さな拳でぎゅっと涙を拭ったアズマは、腕の中の小さな塊に、もう一度視線を落とした。
アズマの腕に抱かれている、真っ黒な身体。薄汚れてはいたが、いつも温かく、柔らかく、しなやかだった身体は、今は硬く強張っている。その肩口から脇腹にかけて、べっとりとこびり付いている赤黒い汚れを見た時、アラシは心臓が締め付けられるようなやりきれなさに、思わずぎりりと拳を握り締めていた。
――アズマがその腕に抱いている、小さな亡骸。
――それは、この一ヶ月間、ふたりが可愛がってきた野良猫の、変わり果てた姿だった。
+++
・・・別に、アラシもアズマも、特に動物好きというわけではなかった。
そもそも、好き嫌い以前に、自分たちが生き延びるだけで精一杯のこの状況において、動物を可愛がる余裕などあるわけがない。崩れかけた廃屋の陰で、片割れと身を寄せ合って雨をしのぎ、方々を走り回って手に入れたひとつのパンを分け合って飢えを満たし、生き延びるための力を求めて刃を振るう。精神も体力もギリギリの日々を、それでもどうにか越えて来れたのは、常に傍らにあるお互いの存在があってこそだった。だが、そんな荒んだ生活は、ふたりの幼い心から、何かを削ぎ落としていくのに十分なものだった。
そんなある日、彼らが塒にしていた廃屋にふらりと入り込んできたのが、この猫だったのだ。骨と皮ばかりの貧相な体つきをして、か細い声で訴えるように鳴くその声に顔を見合わせたふたりは、仕方なく僅かばかりの食べ物を与えた(まぁ、その日は、たまたま食料が豊富に手に入って、ふたりとも精神的に余裕があったというのも良かったのだろう。これが飢えている時だったら、猫は食べ物を与えられるどころか、逆にとっ捕まって食べられてしまっていたかもしれない)。
それに味を占めたのか、猫は翌日から、毎日そこを訪れるようになった。最初は鬱陶しがっていたふたりも、自分たちが与えた食料をはぐはぐと一心に食べるその様に少しずつ絆され、次第にその来訪を心待ちにするようになっていったのだ。特にアズマの方は、生まれて初めて触れる小さな命に興味津々で、よく食事中の猫をいじくり回しては引っかかれていたものだった。
(こんなちっぽけな生き物に・・・おかしなもんだよね・・・・。)
初めて人を殺めたのがいつだったか、アラシはもう覚えていない。この右手の禍々しい凶器が何人の敵を屠ってきたのか、数えた事もない。
死にたくはなくて、弟も死なせたくなくて。生きる目的など初めからないままに、戦い方だけ上手くなった。
『――なぁーお・・・・。』
初めてこの頼りない命に触れた時、人を殺しても何も感じないこの心が、怯えるように震えたのを覚えている。あまりにも小さく、柔らかなその体温は、寄り添う弟のぬくもりしか知らなかった彼にとっては、とても新鮮なものだった。うっかり抱いたら潰れてしまうのではないかと危惧しながら、恐る恐る抱き上げた仔猫。こんなに小さいのに、ちゃんと生きて呼吸をしているのだと、彼は不思議に思いながら、その毛並みを撫でたのだった。
――あの時は、じゃれるように指先を舐めてくれた黒猫は・・・今は、何の反応も返さない。
「・・・泣くなよ、アズマ。」
「っ、く・・・お前だって、泣いてンじゃんか・・・・。」
「僕は、泣いてないよ・・・・。」
そう呟いて弟を抱きしめるアラシの頬は、確かに乾いたままだ。だが、兄の腕の中で、アズマは泣き笑いを浮かべて囁いた。
「うそ、ばっかり・・・・。」
「・・・うん。」
触れた肌が。掠れる声が。――繋がった魂が、兄の痛みを伝えてくる。
涙を見せなくても、自分には解る。彼が、失われた小さな命を悼み、涙を流さぬままに泣き叫んでいるのが。
「・・・胸が、痛いんだ。」
「・・・うん。」
「痛いよ、アラシ・・・涙が、止まんないよ、っ・・・。」
「・・・・いいよ、別に。」
心を移したモノを、喪う痛み。
生まれて初めて知ったそれは、未熟な心には受け止めきれないくらいに重かった。
”痛い”。
”寂しい”。
・・・”哀しい”。
生まれたばかりの感情が、胸の奥を鋭い刃で切りつける。泣きじゃくる弟を思い切り抱きしめ、アラシはきつく眼を閉じた。
(・・・泣いちゃいけない。)
ふたり揃って、びーびー泣いているわけにはいかなかった。その間に、誰かの襲撃を受けないとも限らない。いざとなったら、今の弟を守って戦えるのは、自分しかいないのだから。
溢れそうになる涙を、兄としての責任感で押し止め、アラシは片割れの肩に顔を埋めた。同じように、弟も自分の右肩に目頭を押し付けてくる。Tシャツにじわりと染み込む熱い涙が、幼い彼の心を強く締め付けた。
「・・・僕は、泣けないから。」
「っ、ごめ・・・・。」
「ううん・・・その代わり、さ・・・。」
抱きしめる腕に、力が篭る。
「・・・僕の分まで、泣いてよ。」
繋がった魂を通じて、自分の分の哀しみも受け取って。
この小さな命のために、二人分の涙を流してやって欲しい。
「・・・ん。」
微かに頷いたアズマの眼が、再び潤む。静かにしゃくり上げる彼の肩を宥めるように叩きながら、アラシは夜空の朧月をそっと見上げた。
降り注ぐ冷たい月光から、弟を守るように・・・・その身体を、優しく抱きしめながら。
――その数年後。
経験を積み腕を磨き、「ツイン・リーパー」と呼ばれる超一流の壊し屋となった二人が、この猫の生まれ変わりのような黒衣の少年に出会い。
「「レイ、あっそぼ〜♪」」
「だぁあっ、今は仕事中だーっ!!」
――今度は生まれて初めての恋を経験する事になるのを・・・この時の二人は、まだ知らなかった。
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<2005.7.29 アップ>