*この話は、No.40の「紫水晶」の続きとなっております。出来れば、そちらを読了の上でお読み下さい。

  未読の方は、コチラからどうぞ☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――空には、鮮やかな夕焼けが広がっていた。

 蜜柑色の陽光が、家路を辿る人々の姿を照らし出す。連れ立ってお喋りに興じる学生達や、大きな買い物袋を手にした主婦たちが行き交う中、ユエは人の波に逆らうようにして、相棒との待ち合わせ場所へと向かってオレンジ色に染まる道を急いでいた。金の髪に光の欠片を散らし、白磁の肌を夕陽の色に染め上げられながらも、彼は見事な夕焼けに眼をやるでもなくただ進んでいく。
 もともと、外ではサングラスを手放さない彼の視界は、常に無機質なモノトーンの世界だ。どんなに美しい夕焼けも、色濃いガラスを通せば曇り空と大差ない。それに今は、一刻も早く己の片割れの元へと辿り着きたいという思いだけが、彼の心をせっついていた。

 (まだ、時間はあるんだけど・・・。)

 今朝、相棒から告げられた待ち合わせの時間までは、まだ間がある。別に足を急がせずとも、ユエの足ならば余裕で着けるだろう。
 ・・・けれど。

 (・・・早く、逢いたい。)

 今日はずっと、無性に人恋しかった。――否、あの少年が恋しかった。
 今日彼が仕事でさえなかったら、きっと片時も離さず、一日中寄り添って過ごしていた事だろう。そのくらい、彼に触れたくて、その存在を確かめたくてたまらなかった。黒曜の双眸で真っ直ぐにこちらの眼を覗き込みながら、いつものように屈託なく笑ってみせて欲しかった。

 (我ながら、なんとも酷い甘えだな・・・。)

 自嘲をため息に乗せて、茜色の空へと吐き出す。冬の乾いた空気が、吐息を白く染めて空へとさらっていった。
 真冬の日はとても短く、こうしている間にも、眩い夕陽は徐々に力を弱めている。刻一刻と近づく夜の気配は、今のユエが抱える漠然とした不安を、さらに煽るものでしかなかった。
 何しろ、全身を漆黒に包んだ彼の少年は、夜の闇に容易く溶け込んでしまうから。闇が完全に空を覆う前に、彼が自らの同胞のような闇に包み込まれてしまう前に、自分の腕で彼を繋ぎ止めておきたかったのだ。

 

 ――そうでもしないと、あの稀有な存在が、自分の元から今にも失われてしまいそうで。

 

 「っ・・・・・・・。」

 ささくれのように心を疼かせる不安が、ユエの背を押す。人の波が途切れ、市街の中心地からやや外れた通りに辿り着いた頃には、彼の足取りは早足というよりは、小走りと言った方が良いような速度になっていた。

 「・・・・・・・・・。」

 はぁ、とひとつ深呼吸をして、ユエは素早く辺りを見回す。周辺に立ち並ぶ、古びた雑居ビルの群れをざっと見渡すと、その中でも一際高い建物にふと目を止めた。
 入り口付近に取り付けられた薄汚れたプレートを覗き込み、それが相棒に指定された待ち合わせの場所である事を確認したユエは、迷う事無く中へと入り、屋上へと向かって一気に階段を駆け上がり始めた。

 (早く、早く・・・もっと速く!)

 強靭な筋肉を躍動させ、狭苦しい階段をしなやかに駆け抜ける。
 その様は、主人を慕ってやまない大型犬が、ずっと引き離されていた主の姿をようやく見つけて、一心に駆け寄る姿に近いものがあった。

 ・・・そして。

 

 「――レイ!!」

 

 ――勢い良く開け放った、錆びたドアの向こうには。

 ――暮れなずむ冬の空と、一足早く現れた「夜」が佇んでいた。 

 

 凍りつくような風に黒髪を流した、すらりとしたシルエット。ぼろぼろのフェンスに凭れて下界を眺めていた彼は、突然のユエの呼びかけに驚くでもなく、ふわりと優雅な仕草で振り返る。逆光で表情は見えないが、求めていた気配が微笑に揺れるのを感じ取って、ユエは気付けば、ずっと詰めていた息を安堵の吐息に変えて吐き出していた。同時に、些細な情緒不安定に振り回されて、子供のようにここまで駆けつけてしまった自分の行動を今さらながらに意識してしまい、少々の気まずさと照れくささに駆られる。レイが立っていた位置からして、ユエがビルの入り口まで駆けてきた様子は、ほぼ確実に見られていたのだろう。まあ、この落日の中であるから、少しばかり頬を赤らめても判りはしないだろうが、気恥ずかしい事には変わりない。

 「よぉ、ユエ。・・・・なんだ、そんなに慌てなくても十分時間にゃ間に合ってるぞ?」
 「いえ・・・ただ、貴方が『見せたいもの』とやらを、早く拝見したいと思いまして。」

 せめてもの虚勢を張るも、レイはくすくすとチェシャ猫のように喉を鳴らしただけだった。憮然としつつもユエがそちらに近づくと、レイはひらりと身を翻してフェンスから離れてしまう。からかうようなその仕草に、ユエは思わず眉を寄せたが、レイにはそんな意図はさらさらないらしく、彼は屋上の隅に放置してある古びた木箱にひょいと腰掛けると、人差し指でユエを手招いた。

 「・・・・・?」

 訝しげに思いつつ近寄ると、革手袋に包まれた左手に不意に手を引かれ、ユエは崩れるように地面に膝をつく。同時に、細い指に顎を掬い上げられ、俯いていた顔を巧みに持ち上げられた。沈みつつある夕陽に照らされた美貌を至近距離で目にしたユエは、口付けを思わせる彼我の体勢に、心臓が微かに跳ねるのを自覚した。
 レイの冷え切った指先が、頬からこめかみへと続くラインをなぞっていく。色々な意味で背筋を震わせたユエを見つめ、その頬を両手で包むように固定したレイは、サングラスに覆われた双眸を真っ直ぐに覗き込んで、ぽつりと呟いた。

 「・・・眼を見せろよ、ユエ。」
 「!!」

 ユエの肩が、はっきりと強張る。触れた肌から、それはレイにも容易に読み取れた。
 彼が僅かに身を引こうとするのを、レイは視線の強さで押さえつける。逃げる事も出来ず、要求に従う事も出来ず、困りきったように自分を見上げるユエに、レイは苦笑交じりのため息をついた。

 「今朝一番に俺と顔を合わせた時、お前一瞬視線を外しただろ。・・・また、何か煮詰まってんじゃないかと思ってさ。」
 「気付いて、いたんですか・・・?」
 「当たり前だ。お前の事だぞ?」

 頬を離れた指が、髪に差し入れられる。気の立った獣を宥めるように、細い指に何度も髪を梳かれ、ユエは切なげに瞳を揺らめかせた。堪らずに、跪いたままそっと薄い胸に額を寄せると、レイは一瞬きょとんとしたものの、すぐに唇を綻ばせて、その両腕で包み込むように彼を抱き寄せた。
 黒のジャケットは冷気に冷え切っていて、はっきり言って温もりを感じるどころではなかったけれど。それでも、彼の腕の中にいるというこの状況は、ユエに泣きたくなるくらいの安堵を与えてくれた。

 「・・・ほら。」
 「・・・ぁ・・・・。」

 油断しきった所で、ひょいとサングラスを取り上げられる。突然瞳に飛び込んできたオレンジの光に驚き、反射的に瞼を閉ざしてしまったユエは、くすくすという微かな笑いと共に触れてきた柔らかな感触に、二度驚く。促すようにそうっと瞼に触れる、僅かにかさついたその感触に、ユエは彼に口付けられている事を認識した。

 (あぁ・・・・なんだか、懐かしいな・・・・・。)

 触れるだけのキスが、昔の記憶をリプレイさせる。ずっと昔、まだ二人が出会って間もない頃、他人に眼を見せる事を頑なに拒んでいたユエに、彼がやっぱりこんな風に口づけてくれた事があった。
 レイが、過去に縛られたまま枯れかけていたユエの心を見つけ出し、彼が抱えてきた苦悩を受け止め、彼を拘束していた呪詛に違う意味を与えてくれた、あの日。ユエが、瞼を上げる事さえ出来ずに震えていたあの時も、レイは励ますように幼い唇を寄せてくれたのだった。

 (大丈夫だ・・・・。)

 あの時、自分はちゃんと眼を開くことが出来た。彼の眼を、見つめ返す事が出来たのだから。

 (・・・大丈夫。)

 乱れていた精神を鎮めるように、ユエはひとつ深い吐息を落とした。気配を察し、薄い皮膚に触れていた唇がそっと離れていくのに合わせて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 「・・・・・・・・・。」

 徐々に開いていく視界。そして、やがて露になった紫水晶は、いつの間にか夜の色に染まり始めた天蓋と、微笑みながら己を見つめるパートナーの姿を見出した。
 随分と日は傾いているとはいえ、サングラスの保護を失った眼には、外界の景色は少し眩しい。少しだけ眼を眇めていると、黒手袋に包まれた手がふわりと翳され、右から横顔を照らしていた夕陽を遮ってくれた。

 「・・・レイ。」
 「はい、よく出来ました。」

 そう言って笑ってくれるのは嬉しいが、初めて「お手」をしてみせた飼い犬を褒めるように頭を撫でるのは如何なものか。
 甚だ複雑な感情に視線を彷徨わせたユエだったが、冷たい手に触れられるのは意外と気持ちよかったので、結局は大人しく撫でられる事にした。彼がそっと身を寄せると、レイは艶やかな金の毛並みを構いながら、しみじみとした声音で呟く。

 「・・・畜生、でかい図体して可愛いなぁお前。」
 「あ、貴方がそれを言いますか・・・。百人中九十九人は、貴方の方が可愛いって言うに決まってます。」
 「俺は残る一人の少数派なんだよ。ま、主観の相違ってやつだな。」

 ちゅっ、と小鳥が啄ばむようなキスを額に落として、レイは笑う。微苦笑を返したユエが、ゆっくりと両腕を伸ばして縋りついてくるのを抱きとめてやると、金色の青年は胸元に顔を埋めて、ひどく切なげな吐息を零した。
 幼子のように甘えてくるその様子に、レイは気遣わしげに目を細める。と、その気配を察したか、ユエは彼の胸に顔を埋めたまま、ぽつりと短い呟きを落とした。

 「今朝、ね・・・・」
 「?」
 「・・・・夢を、見たんです。」
 「!・・・・そうか。」

 余計な説明は必要ない。その一言だけでレイは事情を察し、何も言わなくていいと、彼の後頭部をぽんぽんと叩いた。

 今朝方、レイと視線を合わせるのを、一瞬とはいえ躊躇った彼。まるで眼を覗き込まれるのを恐れるかのようなその仕草は、昔の彼が頻繁に見せていたものだった。
 それは、実の母にその稀有な瞳の色を疎まれ、虐待を繰り返された事によるトラウマ。己の双眸が母親を死に追いやってしまったという罪悪感は、瞳を覗きこまれることに対する恐怖心へと姿を変えて、長い間彼を苦しめ続けてきたのだ。
 その恐怖が幻影に過ぎない事をレイに教えられ、少しずつ心のリハビリを繰り返して、レイだけではなく親しい友人たちの前でも平気で素顔を晒せるようになった現在でも、その記憶は風化したわけではない。怜悧な頭脳に刻み付けられた残酷な記憶は、時折悪夢の姿を借りて、彼の傷をしたたかに抉っていく。

 (そんな理不尽な記憶・・・忘れてしまえればいいのにな。)

 叶わぬ願いとは知りつつも、レイはそう思わずにはいられない。この眼を持って生まれた事も、母親の死も、何一つ彼のせいではないのに、彼は一生この悪夢を抱えて生きていかなければならないのだ。
 腕の中で蹲る青年が哀れで――そして、愛おしくて堪らくて。レイは、精一杯の優しさをもって、寄り添う片割れを抱きしめた。

 「あぁ・・・・なんか、すみません・・・・。」
 「・・・何が?」
 「貴方まで一緒にテンション下がっちゃって。・・・・ホント、年上だってのにかっこ悪いよなぁ・・・・。」

 ほんの少し恥ずかしそうに、ユエが自嘲気味にそう呟く。その髪を一房指に絡めて弄びながら、レイは事も無げに言った。

 「俺たちの間に、今さら年上も年下もないだろ。それに、今さらお前に格好つけられても、はっきり言ってギャグにしかならない。」
 「・・・・僕ってそんなに三枚目?」
 「いや、二枚目ではあるけど。中身は結構でこぼこだし。」

 頭上に広がる空を眺めて、レイは指を折りながら口ずさむ。

 「やきもち焼きだしー、さびしがり屋だしー、独占欲強いしー。そんでけっこー甘えたがりで精神的未熟児なトコもあるしー。
  オトナに見えて意外とコドモっつーか、一部依存度高いトコがあるっつーか、まぁ平たく言えば危なっかしくて放っておけないっつーか。」
 「・・・・涙出てきた・・・・・。」

 言いたい放題言われて、しかもどれもが微妙に当たっていて否定できない。ちょっと立ち直れなくなりそうだ。
 打ちのめされたようにがっくりと項垂れたユエだったが、次の瞬間、彼はぐいっと髪を引かれて上を向かされた。文句を言うより早く、掠めるような素早さで、今度は唇にキスをされる。形良い唇を、舌先でちろりと舐め上げて離れていった黒猫は、茫然と見上げるユエを見下ろして、秀麗な顔を花のように綻ばせた。

 「けど、お前のそーゆー子供じみたトコ、俺は大いに気に入ってるよ。何もかも完璧なんじゃ、俺がカバーしてやれるトコないだろ?」
 「・・・僕は、貴方をカバーできるくらい完璧な男になりたいんですけど。」
 「つまらないだろ、そんなんじゃさ。」

 つまるつまらないの問題じゃないような気もするが、レイに至極当然の顔をしてそう言い切られると、なんとなく「そんなものなのかなぁ」と思えてくる。
 微笑を湛えたまま、それでも真剣な目をしたレイは、まるで自分に言い聞かせるような口調で言った。

 「へこんでるトコとか、出っ張ってるトコとか、歪んでるトコとか。そーゆーの、人間ならあって当たり前だろう?俺にだって、欠点や弱点なんて腐るほどあるし。
  お前は、いつも俺が足りない所を助けてくれるし、夢に魘された時には抱きしめてくれるだろ。お前が弱ってる時に俺がそうしたいと思うのも・・・きっと、同じ事だよ。」
 「・・・・・・・・・。」
 「パズルのピースだって、それぞれが色んな形してるから、上手い事嵌める事が出来るんだろう?何も無理に真四角になろうとする必要はないじゃないか。
  ・・・っつーか、そんなかみ合わせの悪い男がパートナーなんじゃ、正直取っ付きにくくて敵わない。俺が。」
 「・・・・・・・はぁ。」

 ――慰め、というのとは、少し違う。

 ユエの傷も、歪みも欠点も、己のそれと対になったものだからと、彼は言う。どちらかが一方的に弱みを見せるのでは不公平。相手に頼り、凭れる部分が同程度あってこそ対等なのだと。
 自分の助けを全く必要としない人間がパートナーとなり、一方的に与えられ守られるだけの立場に置かれる事は、レイにとっては非常に据わりの悪い事なのだろう。要するに、「たまにはお前も俺を頼ってくれないと、こっちもお前に甘えられないじゃないか」という、ある意味非常に自己中の入った台詞である。

 だが、それでも、無理に変わらなくて良いのだと言ってもらえる事は、ユエには有り難かった。彼を心配させないで済むくらい、心身ともに強靭な男になりたいという願いは変わらないが、今の自分をあるがままに受け入れてくれる人がいるという事実は、どんな励ましの言葉よりもユエを力づけてくれた。

 (・・・この人は、僕の心を扱うのが、本当に上手い・・・。)

 この眼の色は、一生変わらない。母親に拒絶された記憶も、壊れかけていた彼女に何もしてやれなかった事実も、消す事は出来ない。
 それでも瑕(きず)だらけの自分を求めてくれる人が、ここには確かにいる。それだけで、ここに存在する事が許されるような・・・そんな、気がした。

 「・・・あぁほら。見てみろユエ。」
 「?」

 ふと、何かに気付いたような声に促され、ついでにくいっと髪を引かれて、薄い胸から顔を上げる。
 瞳に入る光量を調節するように眼を細めていたユエ。だが、しなやかな指が指し示す方角に視線を向けると、眩しげに細められていたその双眸が、ゆっくりと見開かれた。

 「・・・・・うわぁ・・・・・。」
 「な、綺麗だろ?」
 「・・・・・・・・・・。」

 こくん、と子供のように頷くユエ。目の前の光景に声もなく見入る彼を、満足そうな目で見つめ、レイも穏やかな表情でそちらに目を向ける。

 

 ――その時、ふたりの視界一面に広がっていたのは・・・・息を呑むほどに美しい、菫色に染め上げられた空。

 

 地平線付近を、沈んだばかりの夕陽が淡いオレンジに染め、天頂付近は透明な紺碧のカーテンに覆われている。ふたりが見守る中、淡い色彩の波は徐々にその色合いを変え、少しずつ、しかし確実に、夜の漆黒へと向かって光を弱めていく。
 どんな画聖にも描き出せないであろう、自然のみが織り成せるグラデーション。一日のうち、このひと時にしか見られない光景に、ユエは完全に見惚れる。レイの身体に頬を寄せたまま、暫くぼうっと色彩のヴェールを眺めていた彼は、やがてほうと感嘆の吐息を零して、ゆっくりと黒衣の少年に視線を向けた。

 「『見せたいもの』って・・・この事だったんですか。」
 「ああ。この前、仕事に来た時に見つけたんだ。西側が開けてて電線もないし、この辺では一番高いビルだし。ここから空を眺めたらきっと綺麗だろうなって、ずっと思ってた。」
 「・・・・・・・・・。」

 コンクリートに固められ電線で切り裂かれた、閉じ込められた空ではなく。視界一面に広がる美しい空を一緒に見たかったのだと、レイは笑う。
 夜の闇を纏う少年は、暮れなずむ空を見つめたまま、腕の中の片割れに優しい声で囁いた。

 「な?・・・こーして見ると、紫色も、結構綺麗なものだろう?」
 「・・・ええ。」

 鏡の中に見出した時には、嫌悪感と疎ましさしか感じる事が出来なかったこの色も、彼の指に指し示されるだけで途端に輝かしさを増していく。
 空の色に染め上げられたような、深みのあるアメジストの瞳を揺らめかせて、ユエは切なげに微笑んだ。

 「・・・おっと。」

 ・・・ばふっ、と。突然腕の中に倒れ込んできた彼を危うい所で抱き留めて、レイは少しだけ困ったように微笑んだ。自らの大きな身体でレイを押し潰さぬよう、ぎりぎりの所で手加減をしてくれてはいるが、それでも細身のレイにとっては、預けられた重みは少々辛い。だが、レイは文句を言うでもなく、不器用に甘えてくる金色の大型犬をきつく抱きしめ、その艶やかな毛並みに頬をすり寄せた。

 「・・・拒まないで、下さいね。」
 「ん?」

 腕の中で、微かに震える声が呟く。息が詰まるような抱擁の強さは、きっと彼を苛む不安のそれと比例している。

 「・・・受け入れられないものだと、思っていれば。愛されない運命なのだと諦めていれば、耐えられた。
  だけど、今は・・・満たされることを知ってしまった今は、もう独りになんて戻れないから・・・・。」

 かつて母親に向けられたような、嫌悪と拒絶の視線を・・・もしも、目の前の少年に向けられたら。
 そう考えるだけで、世界が足元から崩れ落ちていくような絶望に心が冷える。

 ――だから、どうか。

 「・・・捨てないで・・・ね。」

 歪んだ血が流れる、こんな身だけど。生んでくれた人にさえ疎まれた命だけど。
 生まれてきた以上は、生きていたい。誰かに必要とされたい。・・・愛する人と、寄り添って暮らしていきたいから。

 「・・・バーカ。こんな甘ったれな犬を、誰が捨てるか。」

 うりうりと頭を撫でられ、安堵と心地よさに瞼が落ちる。
 氷の結晶にも似た、凛と澄んだ声が、不思議と柔らかい響きを帯びて耳朶を擽るのが、本当に幸せで。

 「お前やお前の母親がお前をどう思ってようと、お前の生まれがどうだろうと、そんな事はどーでもいいんだよ。」
 「・・・・?」
 「どーでもいいの。大事なのは、俺がお前を、そのバカなトコや臆病なトコもひっくるめて気に入ってるっつー、そこんとこだけなの。解った?」
 「・・・・・・・・・。」

 解った、と答える以外に、選択肢はない。
 それでも、頷けば彼は満足そうに笑ってくれたから、まあいいかと思い直した。

 「お前は、俺の隣にいれば、それでいーんだよ。」

 風に乗せて呟かれた、ぶっきらぼうだけれど優しい言葉は、藍色の空に溶ける。

 「・・・うん。」

 宥めるように背中を撫でる手が、ずっと心の奥を疼かせていた記憶を、ゆっくりと過去の引き出しの中へと仕舞い込んでいく。
 もう、瞼の裏にちらつく紫は、ユエを苛む事はなかった。

 (・・・見ていますか?)

 心の中で、語りかける。自分を生んだ女性、とうとう自分を見てくれる事はないままに逝ってしまった、母と呼ばれるその人の面影に、ユエは静かに問うた。

 (貴女は、最後まで僕を認めてはくれなかったけれど。・・・・僕を受け入れてくれる人は、生きていてもいいんだと言ってくれる人は、ちゃんといましたよ。)

 彼女を蔑み、拒絶する事はもう止めた。けれど、まだ優しい気持ちで思い返せるほど、吹っ切れてもいない。
 いつか、彼女を哀れむことが出来るといい。自分を憎まなければ壊れてしまうほど弱いひとだったのだと、心から思えるようになれればいいと、ユエは心から願った。

 (その日まで、すいませんけど、時々甘えさせてくださいね?・・・・レイ。)

 内心で呟いた言葉が聞こえたように、柔らかく抱きしめられる。
 夜に沈む空と、それよりもなお黒い漆黒に包み込まれて、青年はゆっくりとその瞳を閉じ、しなやかな腕に再度その身を預けたのだった。

 

 

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