白い息

 

 穏やかな夜風に、紫煙がたなびく。自らの髪をも揺らすそれに目を細め、ユエはもう一度、ゆっくりと苦い煙を肺へと吸い込んだ。

 (あぁ・・・今日の月は綺麗だ。)

 夏の終わりの太陽が、夜空にほんの僅かな明度を残していった。未だ消え去らぬその残滓が、空を深い深い群青色へと染めている。そこにふわりと浮かぶ満月は、今は彼の真正面にあり、一人ベランダで煙草を燻らす青年に、包み込むような光を投げかけていた。

 ――トン、トンッ。

 指に挟んだ煙草を軽く叩き、長くなった灰を傍らの灰皿へと落とすその仕草は、緩慢でありながらも淀みがない。煙草に馴染んでいない不慣れさも、若者にありがちな本数だけをこなそうとする性急さもなく、今火をつけている一本だけを存分に味わっている事だけが伝わってくるような、そんな吸い方である。

 「ふぅ・・・・。」

 風の悪戯とも思えないが、彼の艶やかな金髪はいささか乱れていた。着ているシャツにも少々皺が寄り、まるでたった今床から拾い上げたばかりですと言わんばかりだ。
 だが、普通ならばだらしないと言われてしまいかねないそんな格好さえ、この青年がしていると妙に色っぽいのだから困ったものである。満たされきったその表情といい、時折紫煙と共に吐き出す吐息の艶やかさといい・・・まぁ何というか、「恋人と存分に愛し合いました」的な、甘い雰囲気がありありと感じられる風体だ。
 満足感と幸福感と、心地よい疲労感に身を委ねながら、彼はゆっくりと煙草を燻らせる。所謂「事後の一服」である事が一目で解るその姿を、夜空の月も微笑みながら見つめているように思えた。・・・・が。

 

 ――彼のそんな喫煙姿を窓ガラス越しに見つめる、なんとも不機嫌な視線が・・・月のほかにももう一対。

 

 (いつまで吸ってんだよ、バーカ・・・・。)

 あちこちが鈍く痛む身体をベッドに横たえたまま、レイは内心で呟いた。つい先ほど目覚めてみれば、さっきまで情を交わしていたはずの青年はベランダで喫煙中ときた。暫くその背中を眺めていたのだが、たった一本の煙草がなかなか終わらない。ふてくされたように上掛けに鼻を埋めながら、広い背中に無音の雑言をいくつか投げつけたが、当然ながらその背中が振り向いてくれる事はないわけで。・・・夜気に流れる紫煙を見つめ、レイは上掛けの陰でべっと舌を出した。

 (ったく・・・セックスの後早々(そうそう)に煙草吸いに行っちまうなんて、今までの女に対する扱いが知れるっつーの。)

 むくれるレイ。目覚める前までの幸せな気分が台無しになってしまったと、彼は整った眉をきゅっと寄せた。

 もっとも、「早々(そうそう)」というのは、あくまでもたった今浅い眠り(というよりむしろ気絶)から醒めたばかりのレイから見た表現であり、実際はコトが終わってから既に一時間あまりが経過している。しかもその間に、ユエはシーツを替えたりレイの身体を清めたりと細々と世話を焼いてくれていたのだから、不義理どころか大変に甲斐甲斐しかったりするのだが、残念ながらレイはついさっき目覚めたばかりなので、彼がどれほど丁寧な手つきでそれらの作業を行っていたか、それを知らない。否、綺麗になった自分の身体からそれを察しはするのだが、目覚めて最初に目にしたのが喫煙中の背中とあっては、彼が少々へそを曲げてしまっても致し方ないかもしれなかった。

 (早く戻って来いよ、全くもう・・・・。)

 素直に呼んでしまえばいいのだが、悠然と煙草をふかす彼の姿を見ていると、なんだかそれも悔しい。
 完全に機嫌を損ねたレイは、もう知らんとばかりに彼に背中を向けて、蓑虫のように丸くなってしまった。傍にいないお前が悪い、と、内心で呟いて。

 

 ――もっとも、その台詞をユエが聞いていたならば、彼はきっと苦笑して、こう反論したに違いない。

 『煙草はキッチンか外で吸えと言ったのは、貴方でしょ?』・・・と。

 

 

 +++

 

 ――ユエは、見た目からするとちょっと意外なようだが、一応煙草呑みである。

 もっとも、あくまでも「嗜む」程度であって、普段は吸っても一日一本がいい所。気が乗らなければ、一週間くらいは平気で手を出さなかったりするくらいだったが、それでも時には適当に買ってきた煙草を唇に挟み、ゆっくりと紫煙を肺に吸い込んでいることがあった。
 だが、世のチェーンスモーカー達からしてみれば、喫煙の範囲内にも入らないくらいに上品かつ控えめな吸い方だったにも関わらず、最近それに文句をつける人間が現れた。それが、ふとした事から同居生活を営むようになった、冴羽零その人である。

 この黒髪の少年は煙草の煙が嫌いなのか、ユエが煙草を吸っている所を見かけたり、喫煙の直後に傍に寄ったりすると、微妙に嫌そうな顔をするのが常だった。そのくせ、煙草の煙が充満している馴染みの喫茶店ではけろりとしているのが不思議といえば不思議なのだが、まぁ自宅外だから一応遠慮しているのだろうと、ユエは一人納得している。
 だが、彼と二人で住んでいるこの家の中では話は別だ。限られたスペースを共有して暮らしているのだから、極力不快な思いをしないで済むように、お互い努めるのは当然の事。そんなわけで、二人がユエの喫煙をテーマにちょっとした議論を繰り広げたのは、つい一週間前の事であった。

 「お前、どうせそう頻繁には吸ってないんだからさ、いい加減きっぱりと禁煙しろって。煙草なんて百害あって一利なし、金払って肺を黒くするなんざ愚の骨頂だぜ?」
 「お説はもっともですが、一日一本程度なら大して害はないですよ?たまーに吸うと、気分が落ち着くんですよね。」
 「よく言うよ、部屋に灰皿すら常備してないなんちゃってスモーカーのくせに。」
 「吸う時には戸棚から出せばそれで済む事でしょう。それに、禁じられるとかえって吸いたくなってしまうような気もしますし。」
 「ええーい、ああ言えばこう言う!」
 「でもまぁ、禁煙とまでは行かずとも、喫煙場所の限定くらいなら同意しますよ?確かに、少しは壁紙も汚れますし・・・何より、成長期の貴方に副流煙は毒ですから。」
 「ガッ、ガキ扱いすんなよ!」
 「気遣ってるんですよ。煙草は成長の大敵でしょう。背を伸ばしたいなら、危険因子はなるべく少なくしておいた方がいいと思いますよ。」
 「14から煙草吸ってて身長180オーバーしてるお前が言っても、説得力皆無だっつーの。」
 「吸わなきゃ190まで伸びてたでしょうよ。」
 「〜〜〜〜っ!!(歯軋り)」
 「じゃあ、そうですね。今度から、煙草を吸う時にはベランダなりキッチンなりに行って吸うというのはどうです?それなら文句ないでしょ?」
 「・・・ええーいっ、もう勝手にしろっ!!」

 ・・・・・・・・・・・

 まぁ、議論というか単なる雑談のようなものだったのだが、ユエはそれ以来、律儀にその取り決めを守っている。もっとも、料理好きの彼としては、食材や調理道具が置いてあるキッチンを紫煙で燻すのは忍びないらしく、今のところ、もっぱら彼の喫煙場所はベランダだ。折り良くというか悪くというか、季節は爽やかな晩夏であったから、外にいても暑さに茹だったり寒風に凍える事はない。そんなわけで、気持ち良さそうに風に髪をなびかせながら煙草を燻らすユエの姿を、レイはあれ以来何度か目撃し、その都度不機嫌そうに眉を寄せていた。

 ・・・何故、近くで吸われる訳でもないのに、レイは不機嫌になるのか。その理由は、実は単なる煙草嫌いではなく、もう少し複雑なのであった。

 「・・・あれ、起きたんですか。」
 「・・・・・・・。」

 やがて、カラカラと軽い音と共にガラス戸が開き、ユエが月光と煙草の香りをお供に室内へと戻ってきた。その手には、吸殻が一つだけ乗った、小さなガラスの灰皿がある。レイを気遣ってか、彼はそれをベッドから一番遠い棚へと仕舞い込んだ。朝になってから片づけをするつもりらしく、そのままのんびりとベッドに歩み寄ってくる。機嫌を損ねた顔のまま、無言でその動きを追っているレイにちょっとだけ笑うと、ベッドサイドに腰掛けたユエは、長い指でそっとその髪を梳いた。

 「・・・身体、辛くないですか?」
 「辛いに決まってるだろ。腰、ギシギシ言ってる。」
 「すみません。でも、とりあえず傷にはなってないですから、明日一日ゆっくり休んで下さいね。
  ・・・あぁそうそう、後始末ももう全部終わってますか」
 「ギャーッ、それ以上言わんでいいッ!!」

 彼が言う所の『後始末』を想像したレイが、がばっと起き上がるや否や、奇声を上げてユエの台詞を遮った。意識を失っている間に何をされたのか、想像するだけで頬が火照る。自分だけが行為にばてて気を失い、あまつさえあんな所にそんなコトを――意味は察していただきたい――されたなど、行為自体とはまた違った意味で屈辱的だ。
 ううう〜、と赤い顔で唸るレイを優しい目で見つめ、ユエはゆっくりと小さな身体を抱き寄せる。少しだけ肩を強張らせた彼に微笑んで、ユエはそっとその頬に口付けた。

 ―――――

 「・・・・・・あ。」
 「え?」

 だが、羽のようなキスに柔らかく目を細めたのも束の間、近づいた肌からふわりと漂った香りに、レイは再び渋面に戻った。
 顔を離し、きょとんと見下ろしてくるユエに、「・・・煙草」と低い声で呟く。

 「あぁ、匂いますか。・・・やっぱり、嫌ですか?」
 「嫌っつーか・・・なんかなぁ・・・・。」
 「?」

 何やらぶつぶつと呟きながら、レイは何を思ったか、ぐっとユエの首に手を掛けてベッドに押し倒した。大人しく押し倒されたユエは、続いてもぞもぞと胸元に鼻先を埋めてきたレイに、訝しげな声をかける。

 「・・・レーイー?何してるんです?」
 「・・・煙草の匂いしかしない。」
 「そりゃそうですよ、吸ったばかりなんですから。」

 自分の上で不満げにそう呟く少年の頭を撫でながら、ユエは笑う。そんな彼をしかめっ面で睨みながら、レイはもう一度、引き締まった胸板に頬をすり寄せた。懐っこい猫のようにぐりぐりとくっつきながら、レイは内心でチクショウと吐き捨てる。綺麗な顔を、忌々しげに顰めながら。

 (・・・今夜の俺の苦労を、たかだか二、三分で台無しにしやがって。)

 

 ・・・聡いユエも、こればかりは流石に解らないだろう。

 レイが、彼の喫煙を嫌がるのは――彼の体臭が紫煙でかき消されてしまうのを、密かに惜しく思っているからなのだという事は。

 

 

 

 ・・・もともと、ユエは極めて体臭が薄い性質である。綺麗好きでよくシャワーを浴びているせいもあるのだろうが、かなり密着してもほとんど匂いらしい匂いがしないのだ。整髪料やコロンの類も滅多に付けないので、普段彼から香るのは、精々が石鹸の香りくらいである。普通、このくらいの年頃の男だったら、もう少しむさ苦しくて当然だと思うのだが、彼の場合特に神経を使っているわけでもないのに、不思議なほどに体臭がない。それがまた、彼の人形らしさに拍車をかけていることは間違いないだろう。

 だがそれでも、肌に直接鼻先を埋めれば、ほんの微かに柔らかい匂いが香る。何に似ているかと問われても例えようがないのだが、ふわりと鼻腔を擽る優しい匂いは、ひどく心を落ち着かせてくれた。「ユエの匂い」としか言いようがないその香りは、実は密かにレイのお気に入りなのだ。
 ベッドで睦み合い、彼の肌が汗に濡れる頃になると、その匂いは少しだけ強くなる。それを、荒い呼吸の合間に胸に吸い込む瞬間が、レイはとても好きだった。褥(しとね)の中でのみ感じられるその香りは、彼に一番近い場所を許してもらえる者の特権だ。彼と自分の匂いが溶け合っていく過程は、自分たちが徐々に近い存在へと変わっていく、まさにその過程でもあった。

 ・・・それなのに。

 (せっかく俺の匂いだって少しは移ったのに・・・これじゃ完全にかき消されちまって、判りゃしない。)

 こんなこっ恥ずかしい事、本人には言えない。だから、「煙草嫌い」というユエの誤解も、あえて解かないままにしてある。
 そもそもレイは、煙草どころかアルコールもドラッグもごく身近な存在である、治安最悪なダウンタウンを流しながら育ってきているのだから、今さら副流煙ごときで騒ぐほどデリケートではない。それをあたかも嫌そうな顔をして禁煙を勧めてみたのは、まあ、そういう理由があっての事なのだ。

 

 ・・・今のところ、その真意は全く伝わっていないようだが。

 

 (くそぅ・・・煙草ごときに負けるなんて、なんか悔しい・・・!)

 何時間もかけて自分がすり込んだ匂いを、一瞬でかき消されてしまうのも。
 彼があれのために、事後の自分を放ってベランダへと行ってしまう事も。

 (・・・気に入らねー。)

 無二のパートナーになったとはいえ、二人の関係は、まだまだ柔らかく未完成な状態で。
 相手を自分の虜にしようと試行錯誤している今のレイにとっては、高々数センチのひょろ長い物体すら、彼を巡るライバルたり得るのだった。

 「・・・・えーい、こんにゃろ!」
 「わあっ!?」

 突然着ていたTシャツをべろんとめくり上げられて、ユエが悲鳴を上げる。それに構わずぐいぐいと彼の衣服を脱がせながら、レイはその腹に馬乗りになって宣言した。

 「ユエ、もいっぺんヤるぞ!」
 「ええっ!?ダメですよ、明日立てなくなっちゃいますよ?さっき、腰痛いって言ってたじゃないですか!」
 「いーんだよ!もう一回、すり込みのやり直し!」
 「はぁ?すり込み?」
 「だぁーっ、いいからさっさと臨戦態勢整えろ!」
 「だったらもうちょっとムード作って下さいよ!」

 色事のお誘いのはずなのに、なんでこんなに喧嘩腰なのか。
 少年の敵意が自分ではない所に向けられているのに気付かず、ユエは途方に暮れた。まぁ、分かれという方が無理な話だが。

 「っ・・・もう!何だってんですか!」
 「え!?ちょっ・・・・ん・・・・!」

 せめてもの反撃にと、自分の上に乗っている少年の唇を深く奪う。ぎょっとしたように身を退きかけたレイだったが、強く抱きすくめられ歯列を割り開かれると、ぴくんと肩を跳ねさせて、おずおずと全身から力を抜いた。
 温かく、柔らかなその咥内は、つい先ほどまで苦い煙を味わっていた舌にはひどく甘い。味わうように、何度も舌先で咥内をなぞられて、レイは濃厚なキスにうっとりと酔いしれた。絡み合う舌を僅かに痺れさせる苦味も、今ばかりは極上のスパイスだ。

 「ん、っ・・・・・。」

 吸いついては離れ、敏感な粘膜をくすぐられて、レイの背筋に微弱な快感が走り抜ける。やがて、存分に味わいつくしたユエが名残惜しげに唇を離した時には、レイはあまりにも甘美な接吻けに少々ぼうっとしながら、彼の胸に華奢な身体を預けてしまっていた。
 懐く彼の髪を濡れた唇で掻き分け、ユエは微かに紅潮した耳朶を軽く食んだ。ぁ、と小さく声を上げたレイに内心で笑って、ユエは音楽的な声をわざと低めて囁く。

 「ムードっていうのは、こうやって作るんですよ。・・・煙草味のキスは、どうでした?」
 「・・・悦かったけど、いつものお前のがイイ・・・。」

 軽く息を弾ませながらも、レイはそう言って艶やかに笑った。華奢な両腕をユエの首に絡め、吐息が触れ合う距離でそっと囁く。

 「味も、匂いも・・・生のお前のままのが一番イイよ。」
 「え?何ですって?」
 「んー、解んないままでいい。・・・それよりホラ、さっさとヤろう。」
 「・・・だから、もうちょっとムードをですね・・・・。」

 ぼやく青年の唇を強引に塞いで、レイは自らの下衣に手を掛ける。大胆にも、自ら衣服を脱ぎ捨てようとするその手に、そっと長い指先が絡みついた。
 覚悟を決めたか、ユエは鮮やかな手つきで、つい先ほど自らが着せた衣服を剥ぎ取っていく。素肌を撫でた夜の空気に軽く身震いしながら、レイはもう一度、彼に深いキスを仕掛けた。小さな舌を限界まで伸ばして彼の咥内を探りながら、内心で密かに気勢を上げる。

 (・・・煙草の味なんて、すぐに解らないようにしてやる。)

 自分の匂いが消されてしまったなら、もう一度全身でマーキングしてやろう。
 自分とのキスの味も苦味に取って代わられてしまったというなら、咥内にこびり付いた紫煙を全部舐め取ってやろう。
 ・・・煙草ごときに負けてたまるか、と、レイは密かな闘志を燃やす。

 

 (そのうちには、事後に煙草吸いに行きたくても、腰が立たないようにしてやるんだから!見てろよコラ!!)

 

 ・・・まぁ、現段階で相当に開きのある体力差が、そう簡単に縮まるかというと大いに疑問が残るのだけれど。
 とりあえず、煙草を止めても彼が口寂しくないように、今のうちにキスの練習でもしておこうかなと、レイは圧し掛かる熱を愛おしげに撫でながら含み笑いを零したのだった。

 

 

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<2005.10.10 アップ>