砂糖菓子
午後三時。
それは、昼食と夕食の丁度狭間にして、ちょっとばかり小腹が空く時間。美味しいお菓子をつまんで一息入れたくなる、そんな誘惑に忠実に、まさにこれから優雅なティータイムを楽しもうとする者達がここにいた。
「・・・わっ、おいしそー!」
そっと開いた紙箱の中身を覗き込んだアスカが、目を輝かせて歓声を上げる。そこに慎ましく鎮座していたのは、艶やかな表面にちょこんと置かれた金箔も美しい、焦げ茶色のチョコレートケーキだった。向かいから彼女の手元を覗き込んだ本郷も、ヒュウッと短く口笛を鳴らして感嘆を示してみせる。
「おぉ〜、ホントだな!アスカちゃん、早く切ってくれよ。」
「まぁまぁ、そう急かさないで。」
普段は紫煙とコーヒーの匂いしかしない店内に、ふわりと漂う甘い香りが、くすぐったいような幸せなような、何ともほのぼのとした雰囲気を醸し出す。
ご機嫌な顔でその香りを堪能しつつ、アスカはナイフを入れるのが勿体なくなるような艶やかな表面に、そっと熱した刃をあてがった。脆い殻を切り開けば露になるのは、その下に隠されていた、しっとりと柔らかな中身。きめ細やかな、完璧な仕上がりに感嘆のため息を漏らし、彼女は適度な大きさに切り分けたチョコレートケーキを、丁寧に各々の小皿へと取り分け始めた。その鳶色の瞳が、斜め向こうで静かにコーヒーを楽しんでいる金髪の青年に、笑みを含んだ視線を送った。
「まったく・・・ザッハトルテをここまで上手に作る男なんて、初めて見たわね。」
「ふふっ、お褒めに預かり光栄です。・・・・あ、僕の分は家にあるので、結構ですよ。」
そう言って上品に微笑んだのは、よろず屋の片割れである玖月故だ。実は、見事な仕上がりのこのケーキは、彼が本日のおやつにと自宅で作った手作りケーキなのだ。
本来ならば、真っ先にそれを味わう権利を持つはずのその相方は、今日は仕事があるとかで店には来ていない。甘い物好きな彼の黒猫の分も含めて、自分たちの分は自宅に確保してあるからと言う彼に、アスカはにっこりと明るい笑顔を返した。
「そう?じゃあ失礼して。・・・はい、本郷さん。甘いの平気でしたよね?」
「おう、サンキュー。」
受け取った本郷も、専門店で売っているものと比べても遜色ない仕上がりに、思わず驚嘆する。つい先ほど店で泡立てたばかりの生クリームを添えて、さっそくぱくりと口に入れた。すると、上品な甘さと芳醇なカカオの香り、そして表面とスポンジの間に塗り込まれたアプリコットジャムの酸味とが溶け合って、口内でなんとも甘美なハーモニーを奏でた。
まさに絶品。これが一般家庭、しかも男の二人暮しである家庭で作られたものだとは、ちょっと信じがたいくらいだった。マスターとアスカも、なんとも幸せそうな顔で舌鼓を打っている。アスカが、フォーク片手に歓声を上げた。
「う〜ん、美味し〜いvv」
「ユエ、また腕を上げたなぁ。」
「本当ですか?嬉しいですねぇ、そう言って頂けると。」
実直なマスターの賛辞に、ユエが口元を綻ばせる。だが確かに、優れた味覚を持つマスターが納得するだけの事はある作品だった。
料理好きな彼の守備範囲は食事に限らず、お菓子などもよく作っているのだが、こういうものを家庭で作るのは、うっかりすると大量に作りすぎてしまうという危険を伴う。クッキーやパンケーキなどならばまだ量の加減も出来るが、今回のように型を使うケーキなどの場合は、半端な量を作るより一台丸々作ってしまった方が簡単なのである。だが、彼らの所は二人暮し。いくらレイが甘いもの好きだとはいえ、ワンホールのケーキは、食べきるにはちょっと多すぎるのだ。
そんなわけで、ユエは作り過ぎたお菓子類を、時折この《The
Plow》に差し入れてくれる。特にアスカがこの店にやって来てからは、店に篭りがちでそうそう外には食べに行けない彼女を気遣ってか、わざわざ多めに作って持ってきてくれる事もあって、アスカは大変に喜んでいた。
また、売り物にはしないが、たまたま居合わせた客がいるときにはお裾分けをする事もあり、甘い物好きな常連客の中には、密かにそれを楽しみにしている者も居るくらいであった。余談だが、ユエと犬猿の仲である某双子なども、口にこそ出さないものの、彼の作るお菓子の隠れファンである。
「ご丁寧に金箔まで乗せるとは・・・。お前も大概凝り性だな。」
「金箔って、一度にあまり大量には使わないでしょう?以前買った物が未だに残ってたので、ついでにね。」
素人パティシエの本日のメニューは、ザッハトルテ。平たく言えば、チョコ味のスポンジの表面を、さらにチョコレートでコーティングしたケーキである。
このケーキ、簡単そうに見えて、実はかなり高度なテクニックを要する。最初はカリッと歯触り良く、次にトロッと口の中でとろける、独特のチョコレートの食感を出すためには、コーティングに使うチョコレートを上手い具合に練ってやらねばならないのだ。結構コツがいるそれをいとも簡単にやってみせる辺りに、彼の料理人としてのセンスの良さが表れているといえた。
「何だかなぁ・・・俺なんて、普段カップラーメンくらいしか作らねぇのにな。同じ男でも、こんなにマメな奴もいるんだよな。」
「僕だって、一人暮らしの時にはお菓子なんて作りませんでしたよ?外食は高いですから自炊はしてましたけど、本当に最低限の食事だけ作っておしまいでしたから。」
嘆く本郷を慰めながら、ユエは困ったように笑う。フォークで生クリームを掬いながら、アスカが興味津々といった顔で尋ねた。
「ねぇ、あんた一体何種類くらいお菓子作れんの?」
「え?さぁ・・・何種類でしょうね?美味しそうなら、和洋中なんでも作りますし、時には勝手にアレンジして作ったりもしてますし。ほら、料理って、基本を押さえれば後は応用じゃないですか。」
「いや、それはセンスのある人間だけが出来るやり方だと思うぞ。」
「つーか、それで失敗しない時点で、俺からしたらもう十分スゴイ。」
「いや、そりゃたまには美味しくないものも出来ますけど・・・。まあ、失敗は成功の元ですからね。」
和やかに会話を交わすうちに、三人の前にあった小皿は綺麗に空になった。幸福なため息とともにごちそうさまを述べ、アスカは改めてユエの腕を褒める。くすぐったそうに礼を返したユエは、安心したように呟いた。
「良かった・・・初めて作ったから、心配だったんですけど。」
「え、マジ!?初めてなのかコレ?」
本郷が驚愕の声を上げる。完璧な仕上がりに思えた今のケーキが初挑戦の作品だとは・・・いやはや、恐れ入る。
彼がそう言うと、ユエははにかんだように、けれどとても嬉しそうに、ふわりと綺麗な微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。これなら、自信を持ってレイに食べさせてあげられますよね。」
「なによー、あたし達は実験台って事?」
「あー、いえいえそういうわけでは・・・・ありますかね、やっぱり。」
首を傾げてそう呟いたユエを拳骨で殴る振りをして、アスカは大げさに怒ったような顔をしてみせた。
「最悪!今の台詞で有り難味が半減したわね。」
「まぁいいじゃないか、夏木くん。実験台だろうが試作品だろうが、美味いモンは美味いんだし。」
「まぁ、それもそーですけどね。」
「第一、レイのおかげでこのケーキは存在するんだから。レイにはむしろ感謝すべきだと思うよ。」
「「え?」」
「!」
マスターの言葉に、アスカと本郷が疑問符を浮かべる。一方、それを聞いたユエの方は、ばつの悪そうなというか照れたようなというか、なんとも微妙な顔をしていた。形の良いその眉が、少しだけマスターを咎めるように寄せられていたのは、多分気のせいではあるまい。
そんな彼を微笑を含んだ目で見つめると、マスターは彼の前のカップにのんびりとコーヒーを注ぎ足してやる。そのままのっそりとカウンター奥に戻ろうとするマスターの太い肩を、アスカは焦れたようにぽかぽかと叩いた。
「マスター!そこで切らないで下さいよ、気になるじゃないですか!『レイのおかげ』って、どういう事ですか?」
「言ってもいいか、ユエ?」
「・・・この状態でノーと言えると思うんですか?」
マスターが言わなければ、自分自身がアスカの質問責めに遭うだろう事は目に見えている。ため息をついたユエは、お好きにどうぞとばかりに手を振って見せた。
そんな彼に温和な微笑を向け、マスターは遥か下方から見下ろしてくる女性に、ゆっくりと種明かしをしてやった。
「二日前に、テレビで流行の菓子を紹介する番組をやってただろう?『話題の新作スイーツ!高級スイーツも目白押し!』とか煽りつけて。」
「あーあー、そういえば。・・・・あ、そう言えば、そこでザッハトルテの特集やってました、ね・・・・?」
「その通りだ。ついでにいうと、昨日までこいつらは休暇中だった。家でごろごろしててもおかしくない。」
「なるほど。・・・甘いものが好きなレイなら、暇つぶしにその番組を見てもおかしくないですね。」
「そしてザッハトルテを見て、『あーこれ美味そー』とか、ぽつんと呟いてみてもおかしくない。」
「それを聞いた、お菓子作りが得意でしかも腰の軽いユエが、『じゃあ作ってみるか』と思い立ってもおかしくない、と。」
「はい、良く出来ました。以上、証明終了。」
「なぁるほどー。大変よく解りました。」
「・・・・・・・・・・。」
軽妙な会話を交わす美女と野獣を眺めながら、ユエは渋い顔でコーヒーを啜った。訂正の余地もない。そんなに自分たちの行動パターンは解りやすいのだろうかと、ユエはちょっとだけへこんだ。そんな彼を眺め、本郷が呆れたような顔で言う。
「動機は解ったが・・・何もわざわざ自分で作らなくたっていいんじゃねぇの?」
「・・・だって、テレビで紹介されてたやつ、やたらと高かったんです。材料はほとんど家にありましたし、だったら作り方調べて自分で作った方が安上がりかなって。」
「そんな気軽に作れるモンなのか、アレ・・・・。」
さして舌の肥えていない本郷でも、さっきのケーキが随分と手の込んだものである事はよく判った。自分で作れば材料費だけで済むとはいえ、それにかかる手間を考えたら、買ってくるのと五十歩百歩のような気もする。
だが、本郷のもっともな意見に、ユエは言いにくそうにこう答えた。
「・・・レイ、買ってきたものより、僕が作ったものの方が喜ぶんです。失敗してても、そっちの方がいいって。」
「・・・・・・・・・・。」
もちろん、新しい味の研究のために、いろいろと店から買ってくることはある。けれど、基本的には、彼はユエの手作りのものを喜ぶのだ。
失敗した時には盛大に――そりゃあもう容赦なく――不味いだのなんだのと文句を言うが、たとえどんなに不味くとも、きちんと完食してくれる。また、美味しければ、そりゃあもう嬉しそうな顔で綺麗に平らげ、ついでに手放しで褒めてくれる。一つ一つの料理に敏感に反応してくれるのだから、料理人としては非常に腕の磨き甲斐があるのだった。
「確かに、手間はかかりますけどね。・・・それを喜んでくれる人がいるなら、安いものですよ。」
そう言って笑うユエに、本郷は苦笑交じりに尋ねた。
「もしかしてよ・・・。」
「?」
「甘いのが苦手なお前が、ここまでお菓子作りが得意になったのって・・・レイのためにいろいろ研究した結果だとか言う?」
「・・・・・・・・・・。」
――答えは、ない。
しかし、ほんの微かに血の色を透かした彼の耳朶が、本郷の言葉が図星である事を物語っていた。
「・・・お前って、意外と尽くすタイプなのな・・・・。」
「・・・放っといて下さい・・・・。」
この、年下の少年にメロメロ(死語)な青年が、以前は名うてのプレイボーイで鳴らしていたのだとはとても信じられない。
だが、思わず苦笑してしまう反面、実に微笑ましくもあった。今まで数多の女性に言い寄られてきたこの美青年が、たった一人のためにあれこれ努力している所など見てしまうと、聡明で落ち着いた雰囲気を持つ彼にも可愛い所があるのだなぁと、視線が生温くなってしまうのも当然である。
――こんなに真面目に愛されてるんだから、レイはホント幸せ者だよなぁ。
口には出さねど、三人の心中の声は見事にシンクロしていた。
「恋人のために苦手な料理をこなす男・・・微笑ましいっつーかなんつーか。」
「中学生日記?」
「せめて純愛とか言ってやれ。」
「もう、いい加減その話題から離れて下さいよ!」
言いたい放題の三人にそう訴えると、ユエは大きな左手で表情を隠すように覆ってしまった。お菓子を差し入れた挙句にからかいの集中砲火を浴びているのだから、彼にしてみれば理不尽もいいところである。
何なんだこの状況、と頭を抱えてしまったユエに、三人は笑って揶揄の手を緩めた。
「まぁ、そう怒るなって。実際のトコ、このケーキいい出来だったぜー。早く帰ってレイに食わせてやれよ、な?」
「レイの帰りは夜ですからね・・・。夕食の後ですよ、食べるのは。」
照れの残滓が残った、微妙に低い声音で彼が答えると、マスターは三人分のコーヒーを用意しながら楽しげに笑った。
「いいじゃないか、豪華な食後のデザートで。けど、いくら美味しくてもあんまり食べ過ぎるなよって、レイに言っておけよ。夜に喰うと太るぞ?」
「大丈夫ですよ、毎日こんな高カロリーなもの食べてるわけじゃないですから。それに、食べるのは一切れだけですからね。」
「というか、あの子の場合は、むしろもうちょっと太った方がいいような気もするけど。・・・・でもまぁ、仮にレイが残りのケーキ全部食べても、肥満の心配はないと思うけどね。」
「「?」」
「なんで?」
訝しげな顔を見合わせる男三人に対し、うら若き美女は、無邪気な口調で言ってのけた。
「・・・だって、どうせ今夜はベッドで運動するんでしょ?カロリー蓄えておいて損はないわよ。」
「「「・・・っ!!!?」」」
色んな意味でギリギリのその台詞に、三人は同時にコーヒーを吹き出した。いきなりなんて事を言うのかこのお嬢さんは。
ひとしきり盛大に噎せ、それでも一番早く咳の発作を押さえ込んだユエは、一人悠然とカップを傾ける彼女をサングラス越しに軽く睨んだ。気配を察した彼女は、怯むでもなくにっこりと太陽のような微笑みを浮かべる。自身の相棒を思い出させるその度胸の良さに、ユエは思わずため息を吐いた。
(僕らの関係を拒絶されるよりは余程いいけれど・・・こうも開けっぴろげに受け止められても、ちょっと恥ずかしい・・・。)
『今夜はケーキより甘い時間を過ごすんでしょ解ってんだから〜☆』と、その鳶色の目は雄弁に物語る。ふうっと息を吐いたユエが、軽く片方の眉だけを上げて見せると、それを肯定と取ったアスカがくすくすと笑った。甘くはないくせに、親しげなやり取りだ。
それを見ていた本郷は、内心で思った。・・・今日、ユエが相方を連れて来ていなくて、本当に良かった。
(・・・甘い雰囲気の中でケーキなんぞ食ったら、胃もたれするに決まってるもんな。)
普段、よろず屋のふたりが身に着けている、「仕事上の相棒」という外出用の顔。
彼女は、その仮面を取り除き、互いを「人生のパートナー」として求め合う彼らの素顔を露出させてしまう事に関しては、どうやら天才的なようだから。
(・・・甘いモンはお菓子だけで十分だ、俺は。)
一人ごちて口直しに煙草を咥えると、マスターとふと目が合う。苦笑を浮かべたその目に、彼も自分と同じ思いを抱いたことを悟って、本郷はうっそりと苦笑した。ゴチソウサマ、と内心で呟き、彼が煙草の先に小さな炎を灯すと、苦い煙がふわりと店内に漂っていく。それを見送りながら、丈高い刑事は、傍らの青年をちらりと一瞥して、広い肩を竦めた。心の中で、ぽつりと呟く。
――煙草の煙は、チョコレートの甘い匂いは追いやってくれるが。
・・・どうやら、彼らに当てられた心の甘さには効果がないようだ。
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