――紫水晶(アメジスト)。
硬度7、化学式SiO2。水晶に微量の鉄分が混じる事で、本来の無色透明から紫色へとその色を変えた、有色水晶の代表格。
その名の通りに深い紫に輝くそれは、古来より、見る者を魅了して止まない。その高貴な紫色から、かつては王や高僧しか身につける事を許されなかったという、美しい宝石。
――だが、その紫色は、きっと宝石だからこそ美しいのだ。
鏡を覗く度に、僕はいつも・・・そう思っていた。
紫水晶
(・・・・いつ見ても、気味の悪い眼だ。)
細い顎から滴り落ちる水滴を拭いながら、僕は鏡の中の男に向かって、心の中でそう呟いた。ざあざあと蛇口から流れ落ちる水を、機械的な手つきで止める。
平らな鏡面に映し出されているのは、もう嫌になるほどに見慣れた自分の顔だ。今は無造作に上げられている金の前髪も、いささか血色の悪い、陶磁器のような白い肌も、いつもと何も変わらない。生まれてからずっと付き合ってきた、玖月故という名の男の顔。
・・・でも。
(・・・この眼にだけは、どうしても慣れない。)
洗い終わった顔をタオルに埋め、僕は紫の眼を視界から追い出した。乾いたタオルに包まれ、視界が闇に包まれる。それでも、脳裏に浮かぶ紫が疎ましくて、暫く顔が上げられなかった。
(・・・気持ち悪い。)
こめかみが、ずきずきと疼く。レトリックではなく、ほとんど身体的な吐き気を覚えて、僕は背後の壁に凭れる事でどうにか座り込むのを堪えた。
――紫の眼は、人ならざる「モノ」の証。
今どき、そんな迷信を信じている者はいないけれど、この瞳がどの国にあっても、異質な存在である事は事実だった。
通常の遺伝では起こり得ない・・・遺伝子の異常によって、偶発的に発現した瞳。それは、時には賛美の対象となる事もあったけれど、奇異の目で見られる事の方が圧倒的に多かった。――そして時には、もっと深刻な嫌悪感の対象となることも。
――『この、バケモノ!!』
「・・・・・・・・。」
夢の中で浴びせられた拒絶の声が、脳裏で反響する。
あれは、遥か昔に・・・実際に自分に投げつけられた言葉。
(・・・嫌ーな事、思い出しちゃったな・・・・。)
僕はぶんぶんと頭を振って、不健康な回想を強引に断ち切った。余計に吐き気が酷くなって目が回ったが、拳を握り締める事でどうにかやり過ごす。
のろのろと顔を上げると、鏡に視線は向けないままサングラスを顔に押し込み、湿ったタオルを洗濯籠に放り込んだ。溜まった洗濯物を見て、今日は一日家事に費やさなければならないなと、ひどく気分が滅入った。家事は決して嫌いではないし、もともと休日だからといって一日中だらだらしているタイプでもない。それでも、今日は、なんだか働くのが異様に億劫だった。バイオリズムが極端に低下しているのか、やる気が全く沸いてこない。
(今朝は、夢見が悪すぎた・・・・。)
最悪の気分で目を覚まし、なんだか寝る前よりも疲労が増したような、なんとも理不尽な思いを味わいながら、気だるい手足を引きずるようにしてベッドから降りた。その名残が、未だに身体の奥底に沈殿している。
それでも、家事をしないで不貞寝していた所で、かえって余計な事ばかり考えて憂鬱になるだけだという事は解っていたので、僕は自分を叱咤しながら、とりあえず山のような洗濯物を仕分けして、タオル類を中心に洗濯機に放り込んだ。ゴウンゴウンと音を立て始めた洗濯機の唸り声を聞きながら、ようやく気合を入れて動き出す。
(洗ってる間に朝ご飯作って、レイを起こして、食べて片付けて。・・・干すのと二回目の洗濯は、レイを送り出した後だな。)
今日は僕はオフだが、レイの方は、朝から近所でバイクの修理を頼まれている。そろそろ朝食の準備をしないと間に合わないなと、洗面所のドアを勢い良く開けた瞬間、「うわった!」という奇声が向こう側から飛んできた。ぎょっとして覗き込むと、そこには突然開いたドアに顔面を殴られそうになり、海老反りに仰け反ったレイの姿があった。予定より早く起きだしてきたらしい彼は、ぐいっと元の体勢に戻るや否や、軽く眉を吊り上げてこちらを睨みつける。心構えを全くしていなかった所にあまりにも真っ直ぐな視線を向けられ、反射的に視線を外して俯くと、横顔に元気のよい抗議の声が飛んできた。
「あっぶねーなぁ、いきなり開けるなよ!」
「す、すみません!大丈夫でした?」
「おう、どーにか。おはよ、ユエ。」
「おはようございます。今朝は早いですね。」
「ん〜・・・なんか、目が覚めちまって。」
所々寝癖のついた頭を掻きながらそう答えたレイに、僕は努めて普段どおりの笑顔を装った。聡い彼は、ほんの些細な事からでも、容易く僕の異変を見抜いてしまう。それは、感情がダイレクトに表れる眼を隠していても変わらない。たかが夢ごときのために、これから仕事に出て行く彼を心配させてしまうのは嫌だった。
「すぐに朝ご飯作りますね。何食べたいですか?」
「ん〜、卵。」
「・・・できれば原材料名ではなく料理名でお願いします。」
「じゃあ、茶碗蒸し。」
「・・・原型とどめてないですね。」
「文句が多いぞお前。」
そりゃあ卵が入っているには違いないし、作れといわれれば作るけれど。普通、卵料理といわれてこう答える人がいるだろうか。
苦笑しつつも、いつも通りのふざけた会話は、凝り固まった心を解してくれるようでなんだか楽しい。すったもんだの末、結局目玉焼きに落ち着いたので、僕は彼の脇をすり抜けて台所へと向かおうとした。その時、僕と入れ違いに、顔を洗うために洗面所へと入ったレイが、ふと僕の肘を軽く掴んだ。
「?何ですか?」
「なぁ、お前さ・・・・」
まさか、これだけの会話でバレたのか?
一瞬そう思って驚いたが、続いて彼が言ったのは全然別の事だった。
「・・・今日、夕方って時間ある?」
「夕方?ええまあ、やらなきゃいけないのは夕飯の準備くらいですから、どうにでも。・・・何か?」
「あぁ、それは良かった。」
悪戯っぽく笑ったレイは、僕の肘を放して、手早く髪をまとめ始めた。顔を洗うために、ピンなどを使って器用に前髪を上げながら、鏡越しに僕を見てこんな事を言う。
「俺も、夕方前には仕事終わるんだ。ちょっと付き合えよ、ユエ。」
「夕方に、ですか?」
「うん。お前に見せたいものがあるんだ。」
「?」
たまに、彼からはこういう唐突なお誘いがある。そしてそれは大抵楽しいものなので、僕は迷う事無く頷いた。満足そうに微笑んだレイは、場所と時間を手短に告げると、さっさと顔を洗い始めてしまった。そこに何があるのか、何をするつもりなのか、教えてくれる気はないらしい。
まあ、実際に行ってみれば解る事だ。こちらもあっさりとその話題は完結させて、今度こそ台所へと向かう。
(家を出る前に、夕飯の準備まで終わらせておきたいな・・・。じゃあ、いつもより2割増のスピードで家事を片付けなくっちゃ。)
食事の準備及び後片付け、掃除、洗濯、そして買出し。最近仕事が忙しくて家事をさぼり気味だったせいで、やる事は山積みだ。
頭の中で効率的なこなし方を考えつつ、残り少ない食材を冷蔵庫から取り出す。へこんでいる暇などなくなってしまったなと苦笑しながら、手にした卵をフライパンに割り入れた。
(一体、何があるのかなぁ・・・。)
ばりばりと景気良くレタスを千切りながら、僕は夕方の約束について、ぼんやりと想像を巡らせていた。