水飲み鳥
「・・・どうしたの?」
躊躇いがちにそっと呟かれた言葉は、静謐な空間に穏やかな波紋を広げた。先ほどまで保たれていた完璧な空間に、微かに入り込む異分子。
だが、その只中にいた青年は、不快な表情をするでもなく、酷く静かな瞳で来訪者を見つめた。腕の中の生き物を労わるように撫でながら、彼は吐息のような囁きを零す。
「いらっしゃい、アズマ。・・・こんな姿で失礼ですけれど。」
「安心しなよ。今さらお前に客扱いなんて期待してないから。」
「ま、それもそーですね・・・。」
そう言ってくつりと微笑うと、彼は少しだけ頭を動かし、顎の辺りにあった漆黒の髪に、そうっと頬を寄せた。長い腕を静かに伸ばして、自分に寄り添っている存在を、ゆっくりと、包み込むような仕草で懐に抱き込む。まるで親鳥の羽に包まれる雛のように、おとなしく青年に身を預けるその姿に、アズマは微かに目を見開いた。
(珍しい、な・・・・。)
金の髪の青年が腕に抱いているのは、闇の如き黒衣を纏った少年だ。その陰気な服装とは裏腹に、普段は溌剌とした笑顔と歯切れのいい物言いで、周囲に華やかな明るさを投げかける彼。そんな少年の伴侶が、月の化身のようなこの青年であるという事は、彼らに近しい人間たちには既に周知の事実であった。
だが、普段の彼らは、そんな甘やかな素振りを他人に見せる事などほとんどない。いくら此処が彼らの住家だとはいえ、普段の彼らであれば、他人が入ってきた時点で対外用の姿を装うはずなのだ。たとえそれが彼らの関係を知っている人間であっても、彼らがその視界の範囲内で触れ合う事など極めて稀な話で。
(・・・それなのに・・・・。)
今日は、どうした事だろう。アズマという侵入者が、気配も消さずに部屋の入り口に立っているというのに、少年は一向に青年の胸から顔を上げようとしない。気配には気付いているだろうに、彼はそちらに視線すら向けようとはしなかった。他人の気配に対して緊張の欠片も見せず、ただ静かに青年に寄り添う彼の姿は、単純に青年を信頼しきって身を預けているというのとは少し違うように、アズマには思える。
それはまるで、張り詰めていた何かがふつりと切れてしまったような、何かに疲れきってしまって立つ事も億劫になってしまったかのような、そんな危うさを含んだもの。普段の彼とはあまりに違うその姿に、アズマはほんの少しの気遣わしさを含んだ、労わりの視線を向けた。
「具合が悪いわけじゃ、ないんだね?」
「ええ。・・・ただ、少しだけ、哀しい事がありましたから。」
静かにそう言って、艶やかな髪を撫でた青年の背後に、きちんとハンガーに掛けられた黒のスーツが見えた。アズマの鋭敏な嗅覚は、見慣れぬその衣服から微かに香る、線香の匂いを感じ取る。彼の視線を追った青年は、淡い微笑みを浮かべて、そっと呟いた。
「・・・随分前に、仕事で知り合った方でした。」
「そう・・・。」
「かなりの高齢でしたけれど、とても気さくな方で。・・・特にレイには、良くして頂いたんですよ。」
「・・・・・・・。」
老衰だったのか、それとも何かの事件に巻き込まれたのか。そんな事を、尋ねる気はない。
涙よりも、悲哀の叫びよりも雄弁なふたりの沈黙が、つまらぬ問いを無音のうちに拒んでいた。
(レイ・・・疲れちゃったのかな。)
なんとなく、解るような気がする。アズマ自身も、時々、兄にこうして凭れかかる事があるから。
それは大抵、仕事で後味悪い思いをした時とか、辛い事があった時とか、精神的にキツい事があった時だ。身体ではなく心が疲れきってしまって、笑う事すら面倒になってしまう、そんな瞬間。この稼業に入って長いアズマでさえ、そうしたしんどい瞬間はなくなる事はない。人間の暗い面に直結しているような仕事に手を染めているのだから、当然といえば当然なのだけれど。
そういう時、アズマは自分の片割れに寄りかかって、一切の思考を放棄する。ただ兄の温もりだけを感じて、頭を空っぽにして、傷ついた心を癒すのだ。
それは、傍目から見れば単なる現実逃避。けれど、色々なものを詰め込みすぎて破裂寸前の心には、まずは換気が必要だ。自分を奮い立たせ、再び前を向いて歩き出す力を蓄えるための、暫しの休息。人の心を持つ以上、誰にもそうした時間は必要なのだという事を、アズマは経験から知っていた。
(・・・ゆっくり、休めばいいよ。)
誰も咎めはしない。少なくとも、この場にいる人間は。
この年下の少年が、いつも頑張りすぎるほどに頑張ってしまうきらいがある事を、二人はよく知っている。
――強気なくせに繊細で、ひとの痛みにとても敏感で。
――そして、親しいひとを喪うのを、何よりも厭う彼。
(この子が悲しんでるのは・・・見てて、辛いな。)
アズマの瞳が、苦笑と切なさを含んで揺れる。想いを寄せる相手が肩を落とす姿を目の当たりにして、何も出来ない現状に、もどかしい思いが募る。
本当は、抱きしめてやりたい。漆黒の瞳が再び開かれるその時まで、自分の腕の中でせめてもの安らぎを与えてやりたい。
――けれど、それが自分の役目ではない事も、アズマには解っている。
沈黙の内で寄り添いあうふたりの姿は、まるで一枚の絵のようだった。
透明な繭に守られているかのような、神聖なまでの静謐さ。そこでは確かに、世界はふたりだけで完結していた。
(・・・こーゆーの見ちゃうと、やっぱ敵わないなって気になるよね・・・。)
自分が異分子でしかない事を、嫌というほど実感させられる。一種ギリギリのこの状況において、レイが頼るのはやはり彼なのだ。
黒手袋に包まれた細い手が、金髪の青年のシャツを緩く掴んでいるのを見て、アズマの胸が鈍く痛む。その手の先にいるのが自分ではない事に、彼は確かな嫉妬と羨望を覚えたが、そこには一抹の安堵の思いも混じっていた。
・・・だって、もしも今日、ユエが仕事で家を空けていたら。
きっとレイは、ひとりきりで、この喪失感を処理しなくてはならなかっただろうから。
(・・・それは、辛いものね。)
肩を貸してくれるひとがいる。たったそれだけの事が、こういう時には大きな力になる。
ましてや、変な所で意地っ張りで、誰彼構わず甘える事のできない少年だから・・・こんな時に、片割れがいないのは可哀想すぎる。
正直言って、目の前で彼らの絆の深さを見せ付けられるのは、かなり悔しい。けれど、それでレイの痛みが少しでもやわらぐのなら、ちょっとばかり切なくても我慢しようと思う。
彼がこうして抱き合う事で、癒され、力を分けてもらえているのなら。この青年が傍にいる事で少しでも救われているのなら、それでいい。・・・いや、あんまり良くはないが、まぁ我慢してみせよう。
――この子には、いつも、幸せな顔で笑っていて欲しいから。
アズマの唇に、淡く複雑な、笑みにも似た波が揺れる。彼自身、自分の心に芽生える感情が、どんな名で呼ばれるものなのか解らなかった。
その複雑な表情を、金髪の青年は静かな眼で見つめている。この部屋の雰囲気そのままの、静謐な湖面にも似た瞳に見つめられ、アズマは内心を見透かされているような気がして苦笑した。
アズマがいる廊下と、彼らがいる部屋の、狭間。物理的にはなんの引っかかりもないその境界線を、アズマは越える事が出来ない。
そこを越えた向こうは、きっと彼らしか入れない聖域。金髪の青年が守る、傷ついた少年のためだけの癒しの空間だから。
「・・・・・・・・・。」
――苦笑を含んだため息を、ひとつ落とし。アズマは、そっと足を引いた。
「ごめん、邪魔して。」
「・・・お帰りで?」
「うん。」
今のレイに、自分は必要ないから。
瞳でそう語るアズマに、ユエはひとつだけ瞬きを返す。いつになく素直に退いたアズマを訝しんでいるような、戸惑っているような、そんな曖昧なリアクション。そんな彼に向かって、アズマはわざと意地の悪い表情を作り、軽く鼻を鳴らしてみせる。
(・・・ちゃんと、慰めてやんなよね。)
挑発的な仕草に、青年の眉が片方だけ持ち上げられる。それを言語化するならば、『貴方に言われるまでもないですよ』と言ったところか。
そんな無言の応酬を忍び笑いで打ち切ると、アズマは音を立てずに踵を返す。見送りも別れの言葉もなかったが、感謝の念にも似た青年の視線を、一瞬だけ背中に感じた。
・・・そして、アズマもまた、振り返らない。
この青年とともにいる事が、傷ついた黒猫には一番の薬なのだという事を、よく知っているから。
彼に任せておけば、大丈夫。その事実を認めるのは癪だけれど、事実なんだから仕方ない。
苦味と安堵と嫉妬と恋心と、色んなものを一緒くたに噛み締めながら、アズマは彼らの繭を離れた。静かに彼らの自宅のドアを閉め、冷たいそれに背中を預けて、アズマはそっと息を吐く。燦々と降り注ぐ午後の陽光に眼を細めた彼は、微かな笑みを浮かべてがりがりと頭を掻いた。
「あ〜あ・・・・。」
その唇から漏れるのは、苦笑を含んだ舌打ちの音。
――こんな「いいヒト」やってるから、いつまで経っても「男」として見てもらえないんだよねぇ・・・。
本気でモノにしたいなら、本当はあの青年の腕から攫ってしまえばいいのだ。
単純な戦闘能力だけならば、青年はアズマには敵わない。アズマが本気を出せば、たぶん力尽くで奪う事は不可能ではない。
――けれど、それが他ならぬレイの心を壊す事だという事も、不幸な事にアズマは知ってしまっているから。
(・・・あの子の抜け殻だけ手に入れたって、しょうがないっしょ。)
好きだから、手を出せない。手に入れた瞬間が永遠に失う瞬間。
どうしようもない、甘く苦いジレンマ。
・・・だが。
(とりあえず今のところは、あの子が相方に愛想つかす日を、気長に待つしかないかな。)
こちとら、想い人の笑顔を目の前にして何も出来ないという生殺し状態に耐えつつ、随分と長いこと片想いをしてきているのだ。
今さらそんな障害を確認してへこむほど、ヤワではない。
――あのふたりが別れた日には、ソッコーで口説きに行くんだから。
その日に備えて、一番近しい「友人」の地位はキープしておく。いつかあの繭の中に踏み込める、その日が来るまで。
アズマの双眸が不敵に煌き、挑戦的な微笑がその唇に浮かんだ。
(・・・隙が見えたらすかさず行かせてもらうから、覚悟しときなよ?)
明日になったら、馴染みの喫茶店に行こう。きっと元気になった彼がやって来て、いつも通りの明るい笑顔を見せてくれるはずだから。
今日遠慮したご褒美に、その笑顔を一番最初に観賞させてもらおうと、アズマは煌く太陽を仰いで眼を細めたのだった。
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