世間には、労働基準法という法律がある。まぁ、往々にして無視されがちな努力目標ではあるけれども、それでもそれを盾にしてしかるべき場所へ訴え出れば状況の改善が望めるというのだから、やっぱりないよりはあった方がいい。ハードワークは仕事の効率を下げるし、やはりいい仕事というのは適度な休息と自由時間を得てこそ出来うるものだ。
・・・けどまぁ、そんな小難しい理屈を。
「なにも疲労で死にそうになってる時に考えなくてもいいだろう、僕・・・・。」
大きなベッドに身を投げ出し、ぐったりとシーツに頬を埋めたまま、ユエは蚊の鳴くような声でそう呟いた。
因果
依頼人と直に交渉を行い、報酬次第では法に触れるような仕事も平気で行う《よろず屋》稼業。カレンダーも労働基準法も関係ないこの仕事は、依頼が重なれば何時間でも何日でも働きづめになる因果な商売だ。ここ半月ほど、ユエは久しぶりにやってきた怒涛の依頼ラッシュに巻き込まれ、ほとんど寝る間もなく街を駆けずり回っていた。
(・・・最初が家出した放蕩娘の捜索で、次が年配の男性のボディガードで、その次がチーム組んでの暴力団事務所殲滅作戦。その合間合間に情報収集やらセキュリティホールのパッチ作りやら逆にセキュリティ破壊用のウィルス作りやら・・・・ていうか、殲滅作戦に関しちゃ僕後方支援担当のはずだったのに、なんでいつの間にか実働部隊に回されてたんだろう・・・?絶対リーダーが肉体労働めんどくさがったんだ。ああもう、若いからって何でもかんでも僕に仕事回すの止めてくれないかなぁ・・・・。)
疲れていると、思考も愚痴っぽくなる。任務遂行中は、増やされた仕事にも文句一つ言わず黙々と片付けていた――ただし、仕事が終わった後には、しっかりその分を上乗せした報酬をリーダーからぶんどって来た――ユエだったが、その分の疲労は確実に彼の体に蓄積されていた。貴公子のような外見とは裏腹に、ユエは意外と雑草精神旺盛で体力もあり、同業者の中でもかなりタフな方だが、それでも超人というわけではない。自宅に帰ってきた途端、それまで疲労の欠片も見せずにてきぱきと仕事をこなしていた反動がきたらしく、ユエは半分足をもつれさせるようにしてベッドに転がり込んでいた。
「う〜ん・・・・・うっかりすると、背筋が攣りそう・・・・・。」
形の良い唇から、情けないうめき声が漏れる。酷使された全身の筋肉は未だにきつく張り詰め、ぎしぎしと軋んでは眠りに落ちそうな意識を引っ掻いてくれる。辛いのを我慢して、今のうちに軽くストレッチでもしておけば、明日に持ち越す疲労度が格段に減るだろうという事はよく分かっているのだが、その少しの運動をするだけの体力が既に残っていない。
(なんか・・・今寝たら、死んだように眠るどころか眠るように死んでしまいそうだ・・・。)
・・・まんざら冗談でもなく、そう思ってしまえるのが怖い。
ちなみに、体格で勝るユエがこんな惨状となっている今、細身で体力的にやや劣るレイがどうしているかといえば、実はそれほどには疲労していなかった。確かに、彼もユエと同じ仕事をこなしてきていたが、ユエがこまごまとした雑用を片付けていた「合間合間」には、レイは結構のんびりと休憩をとっていたからだ。さらに、最後の殲滅作戦においては、精巧にでっち上げた偽の取引情報を敵の情報網に密かに潜り込ませるという細工を徹夜でやり遂げた挙句に、戦闘にまで駆り出されたユエとは違い、もともと戦闘要員だったレイは自分の仕事を行えばそれで終わりだった。最終的なトータルの仕事量で言えば、二人の間には結構な差が出ていたのだ。
(でもまぁ、忙しかったのが僕だったならまだいいか・・・。レイにこれだけの負担かけたら、また熱出して倒れちゃいそうだし。)
まさに今現在倒れている自分の事は棚にあげて、ユエはくすりと唇を緩めたが、その微かな笑みは、次の瞬間には盛大な欠伸に取って代わられていた。
(・・・・眠いー・・・・。)
流石に、明日は朝と呼べる時間帯には起きれないかもしれないが・・・まぁ、今日まで頑張ったのだからそれくらい許してもらおう。心身を削るハードな仕事をこなした後なのだから、このくらいの報酬があってもいいだろう。
内心でそう一人ごちると、ユエは覚束ない手つきで引き寄せた枕に、おもむろに頭を預けた。久方ぶりのベッドの感触を楽しみながら、穏やかな眠りの世界へと旅立つべく、ゆっくりと目を閉じる。
・・・が。
――コンコン、コンッ。
彼が意識を手放し、眠りの淵まで垂直落下しようとした、まさにその瞬間。
軽やかなノックの音が、幸福なダイビングを無情にも中断させた。
「・・・・・・・・・・。」
・・・ユエが思わず恨めしげな顔になってしまったからといって、それを責めるのは酷というものだろう。
ノックの主が誰なのかはよく解っていたが、流石に歓迎できる時と出来ない時がある。ユエは、眉間に皺を寄せて声もなく呻いたが、ノックに気づいてしまった以上無視することも出来ない。仕方なく、彼はおざなりな返答を返すと、悲鳴をあげる身体に鞭打って、どうにか上体をベッドの上に起こした。
それと同時に、開いたドアの隙間から、たっぷりとしたルームウェアに着替えたレイが、のんびりと姿を現した。数枚の紙を片手にやってきた彼は、室内の暗さに軽く面食らったような顔をして、ベッドの上のユエに視線を向けた。
「ありゃ?もう寝てたんか?」
「今、まさに、寝ようとしてた所でした・・・・。何か?」
「いや、今しがた、リーダーからFAX来ててさ。依頼人との交渉上手くいったって報告やらギャラの正式分配率やら書いてあったから、一応見せとこうかと思っただけ。」
「あぁ、どうも・・・。ていうか、なんでわざわざFAXなんかで?そんなの、メールでしてくれればいいのに。」
「あの機械オンチのオッサンに、そんな高度な技術を期待するな。」
「・・・・FAXが送れるようになっただけで、進歩だと思うべきですかね。」
淡く苦笑するユエ。笑い返しながら歩み寄ってきたレイは、パソコンデスクの上に手にした書類を無造作に放り出し、ユエの肩に軽く触れた。
「悪かったな、もう寝てるとは思わなくて。」
「ええ、流石に、眠さも限界・・・。それ、見るの明日でもいいですか。」
「いいさ、ただの事後報告だからな。ずっと働きづめだったんだし、今日はゆっくり休みな。」
「はい・・・・。」
肩の手に軽く押され、ユエは素直にベッドに横たわった。紫暗の瞳を眠たげに瞬かせ、小さく欠伸などしている様子は、常になく無防備で子供っぽい。ううん、と軽く唸って、首の凝りをほぐすように頭を傾ける様に、レイはくすりと笑みを零した。こちらに顔を向けたまま大人しくなったユエの頭を、労わるように撫でてやる。こんな風にふたりきりになれるのは久しぶりだったので、本当はもう少し話したり触れ合ったりしていたかったのだが、ユエがどれほどの激務をこなしてきたか良く知っているレイは、無理に起こそうとはしなかった。
「お疲れ。」
「ん・・・貴方も・・・・。」
半分夢うつつで応じる青年の肩に、柔らかく手を這わせる。布越しに伝わる硬い感触で、酷使された彼の身体が悲鳴をあげているのが分かった。頑張ったもんな、と微笑んだレイは、ふと何かを思いついたように、虚空に視線を彷徨わせる。やがて、彼はおもむろにベッドに膝をかけると、何を思ったのか微睡むユエの腹の辺りにひょいと馬乗りになった。そのまま、全体重をかけないよう気遣いながら、身体の位置を調節する。と、自分の腹部にかかる軽い圧力に気づいたユエが、薄目を開けてレイを見上げた。
「・・・ごめんなさい・・・今日は、ちょっと・・・・。」
「アホ、疲労困憊の相棒を襲うほどケダモノじゃねぇよ。そこまで切羽詰ってねぇし。・・・楽にしてやっから、大人しく寝てろ。」
「?」
訝しげな顔をするユエの両肩に、レイの掌が置かれる。その手に、不意に適度な力が篭り、ユエは思わず低く呻いた。硬く張り詰め、ぎしぎしと鈍く痛んでいた筋を、彼の掌がゆっくりと揉み解し始める。思わぬレイの特別サービスに、ユエは少し驚いたように、しかし嬉しそうに唇を綻ばせた。
「わぁ〜・・・大サービスですねぇ。」
「特別、だぞ?今回は頑張ったから、ご褒美。」
「ありがとうございます・・・。」
ここまで来て遠慮などしても仕方ないので、ユエは素直にレイの奉仕を受ける事にした。働きづめで相手の体温が恋しくなっていたのはユエも同じであったし、レイのマッサージはなかなか心地良かったからだ。指先で筋肉の流れを探っては、掌全体を使って丁寧に揉んでいき、小さな凝りを見つけると指先で優しく力を加える。慣れているとは言いがたいが、ユエの身体の作りを丁寧に探り、その疲労を癒そうとしてくれる仕草は、それだけでもユエの心を解きほぐすのには十分だった。心地よい愛撫に身を任せ、ユエは全身からゆっくりと力を抜く。軽く喉を反らし、リラックスして満足そうな吐息を零す彼を見つめるレイは、その反応を確かめながら、丁寧なマッサージを繰り返した。
「どうだろ・・・こんな感じか?」
「ん・・・・。」
ユエの返事は、ほとんど吐息だ。だが、その気持ち良さそうな表情から、決して不快に思っているわけではないと読み取ったレイは、するりと掌を彼の脚へと滑らせる。引き締まった太腿を押し解し、そっと膝を持ち上げてふくらはぎを揉むと、ユエの眉が軽く寄った。
「っ・・・・ん・・・・。」
「!」
痛かったか、と、レイは咄嗟に手を止めたが、ユエの目が不思議そうに数ミリだけ開いたのを見て、苦痛を感じたわけではないようだと一安心する。力を込めすぎないように、押し所を間違えないように心がけながら、長い脚に丁寧に掌を這わせると、再開された愛撫に薄い瞼がとろりと閉ざされた。
「・・・ふ・・・・。」
「・・・・・っ・・・・・。」
喉の奥で、吐息を転がすユエ。なんだか妙に艶かしいその響きに、レイはぎくりとする。思わず、ふくらはぎを揉む手に力が入りそうになるのをどうにか回避すると、レイはマッサージを続けながらちらりと彼の様子を窺い・・・・
・・・そして、次の瞬間、盛大に赤面した。
(・・・・う・・・・うっわ〜!!)
ユエが浮かべていたのは、安堵と快感にとろけた表情。うっとりと目を閉じたその美貌は、ほのかに紅潮した頬も相まって、なんだか目のやり場に困るほど色っぽい。
無防備に投げ出された肢体といい、時折零れる艶めいた吐息といい、その様子は・・・・その、何というか・・・・。
(・・・エ、エロい。)
長い付き合いとはいえ、彼のこんな表情を見た事はほとんどないと言って良く、レイは完全に不意打ちを食らった気分でぎこちなく視線を逸らした。頬が熱いのは、この際気づかぬ振りをする。
(いやいやいや、落ち着け、俺。こいつの色っぽいカオなんて、今までいくらだって見てきただろ。)
努めて冷静を装いながら、自分にそう言い聞かせる。数え切れぬほどの夜を共に越えてきた仲なのだから、彼の色を帯びた表情など、既に見飽きるほどに見てきたはずなのに。それなのに、たかがマッサージにうっとりしている程度の表情に、何故こんなにもどぎまぎしなくてはならないのか。
と、そんな事をつらつら考えていたらうっかり力加減を間違ってしまったらしく、不意に「痛たたた」という声が上の方から降ってきた。はっと気づいて慌てて力を緩めると、ほっと安堵の息をついた気配が伝わってくる。力を込めて押しすぎた足の裏を、今度は労わるように、優しく親指で押していってやると、くすぐったさと心地よさが半々といった感じのくすくす笑いが漏れた。
自分の力加減ひとつで、痛みと快感、どちらにでも転ぶ身体。その様子を、何となく上目遣いで窺っていたレイは、やがて不可解な動揺の理由に思い当たって、内心ではたと膝を打った。
(あぁ、そっか・・・・やってるかやられてるかの差か、これは。)
普段のベッドでは、レイはユエが施す愛撫を受ける立場だ。レイは、自分からもかなり積極的にアクションを起こす方だが、それでも最終的な行為の主導権はユエが握っている事が多い。そんな普段のふたりの関係性からすると、今のようにユエが完全にレイの支配下にいるという状況は、かなり珍しい状態と言えるのだ。自分に預けられた身体にレイが動揺したのは、たぶんそういった慣れない状況に、落ち着かない気分になったというのもあるのだろう。
動揺の理由が解ってしまえば、無闇に慌てる必要もない。ユエに気取られぬよう、レイはそっと深呼吸をして、やや不規則になっていた心臓の鼓動を落ち着かせた。
正直言って、今のユエの姿は目の毒だ。先ほど、「切羽詰ってはいない」と彼に言ったのは嘘ではないが、ずっと仕事にかかりきりで、最近は触れ合うことすらろくに出来ていなかった分、今の彼の姿を見ていると、レイはなんだか身体が騒いだ。
(くっそー、ヤりてぇなぁ・・・。)
下世話ながらも正直な欲求を、内心で呟く。このまま襲ってやろうか、とかなり本気で考えたが、流石にそれはマズイだろうなぁと、レイは頬を掻いた。
ユエも結構強引な所があるが、レイが体調を崩している時に行為を無理強いした事は一度もない。レイが熱を出している時、精神のバランスを崩している時、あるいは今回のように疲れきって体力が残っていない時などは、たとえ自分がどれほど切羽詰っていようが、抱擁やキス以上の接触を迫ってくることはなかった。それは、求めていないのではない。レイを気遣って、自分の衝動を抑えてくれているのだ。
恩着せがましくもなく、ごく自然な様子でレイを労わってくれる。ユエのそういう所を見て、出来た相棒だよなと何度もくすぐったく思った事を、レイは思い出した。
(それなのに、俺が襲ったらな・・・・やっぱ、恩知らずだよなぁ。)
大切にされている自覚はある。それ故に、その自分が疲労困憊の相棒に迫ったりしたら、やはり色々とまずいだろう。
タフな彼がここまでグロッキーになる事など滅多にないのだから、よりにもよって今、さらなる体力の消耗を強いる事はない。こんな事なら、いっそ自分も、余計な事を考えずに済むくらいクタクタになってれば良かったと、レイは半ば投げやりにそう考えた。
(くそぅ・・・一眠りしたら、絶対つき合わせてやる。)
こうなったら、とっとと眠らせてとっとと体力を回復してもらって、この生殺し状態に早いとこケリをつけてやろうじゃないか。
内心でそんなとんでもない決心を固めたレイは、既にかなり長い事続けていたマッサージの終了を告げるように、ぽんとユエの向こう脛を叩いた。
「はい、終わり!」
「ん〜・・・・?」
幸福そうな笑みを湛えたまま、半分寝ていたらしいユエが薄目を開けてレイを見た。もう終わり?と名残惜しそうに尋ねてくる紫水晶に絆されかかりながらも、レイは心を鬼にして宣言する。これ以上、もともと大して豊富でもない忍耐心を試されるのは御免である。
「もう十分楽になっただろ?俺だって、お前ほどハードじゃないにせよ仕事明けなんだから、いつまでも無料サービスやってらんねぇよ。ほら、とっとと寝た寝た!」
「・・・・・・・・・。」
立てさせていた膝を解放し、その上に上掛けを放り投げると、レイはさりげなくユエから視線を外した。室内は薄暗いが、ユエは夜目が利く。あまりまじまじと見られると、顔が赤くなっているのを気取られてしまうかもしれなかった。
だが、レイがベッドから降りるより一瞬早く、すっと伸びてきたユエの手が、彼の手首を優しく掴んだ。温かく、さらりと乾いた掌の感触に、思わずぞくりと震えてしまう。動揺をあからさまにしてしまった事に内心舌打ちしたレイは、落ち着け、と自分に言い聞かせ、微妙に焦点を外した視線をユエへと向けた。
「んだよ、早く寝ろっつってんだ・・・」
ちゅ。
「!!!??」
レイの目が、零れ落ちそうなほど見開かれた。「真っ白になる」という表現が、これほど実感できたのは久しぶりだ。
台詞を言いかけた形のまま、薄く開いたレイの唇を、押し当てられた柔らかなものが優しく啄ばむ。漂白されたような数秒間の沈黙の後、それは完全に意表をつかれて固まるレイを余所に、大して名残惜しそうでもなくのんびりと離れた。
「あー、気持ちよかったー・・・どうも、ありがとう、ございました。」
ふんわりと気の抜けた笑みを湛えて、眠たげに言うユエ。再びどさりと枕に頭を落とし、幸せそうな顔で眠りにつこうとする青年に、今度こそ完全に頬を染めたレイはぎこちなく視線を向ける。・・・すると、その視線に気づいたか、ユエは薄目を開けてぼんやりと呟いた。
「・・・マッサージのお礼は、明日、しますから・・・・今日は、とりあえず、手付け金だけ。」
「・・・・・・・!」
――こいつ、寝惚けてやがる。
不意打ちでキスをされた唇を噛み締め、レイは視線を落として肩を震わせた。なんなんだ今のは。人が珍しく自制心を働かせて色々我慢してやってる時に、そういう事すんのかお前は。
そんな彼の内心の叫びを余所に、ユエはごろりと寝返りを打って、完全に寝る体勢に入ってしまう。自分に背を向けて無防備に横たわる青年を、レイは暫し無言で見下ろしていたが・・・やがて、噛み締められていたその唇が、つうっと危険な微笑を刻んだ。
「・・・・・?」
ふいに、ベッドがギシリと軋んだ。うとうとと微睡んでいたユエは、わずかに背中側に傾いたベッドの表面と、またもや服越しに触れてきた掌の感触に気づき、目を閉じたまま軽く眉を寄せた。横たわるユエを、後ろから片腕で抱き込むような姿勢で、レイの掌が腹の辺りに当てられている。半分頭が寝ているため、「さすがに腹筋は凝ってないよ」等と阿呆な事を考えていたユエ。だが、その手が不意に下へと滑り落ちるに至って、ようやく不穏な気配を悟ってぎょっと目を開いた。
「なっ・・・・!!」
咄嗟に起き上がろうとしたが、レイが真上から体重をかけて圧し掛かってきているので、どうにも身動きが取れない。ユエが対応に困って固まっていると、しどけなく解かれたままの彼の髪が、さらりと涼しげな音を立てて耳元に落ちてきた。洗ったばかりの長い黒髪からは、使い慣れたシャンプーの香りがする。
と、次の瞬間。髪を追うようにして、僅かにかさついた唇が耳朶に落ちてきた。それが、明らかに卑猥な意図を持って肌を辿り始めるに至って、ユエはようやく抗議の声を上げた、が。
・・・たぶんそれは、ちょっとだけ遅すぎた。
「ちょっ・・・待っ、待ってください!」
「ダメだ、待てねぇ。」
「僕は眠いんですって、ば・・・!って、手!手!だから何処触ってるんですか!」
「全部俺がやってやるって。お前寝てていいから。」
「っ・・・!!」
それは何ですか?僕に最初から最後までマグロでいろと、そういう事ですか?
親切といえば親切だが、見方を変えればカラダ――しかも下半身――だけあればよろしいと言いたげな台詞に、ユエの顔が少々引き攣る。不届きな手が足の間に潜り込もうとするのを、ユエは身を捩ってどうにか阻もうとしたが、レイもかなり本気を出してその抵抗をねじ伏せにかかった。暫しの間、身の安全を図るユエと、それをいなそうとするレイとの間に真剣極まる攻防が繰り広げられたが、五分後のユエの腹の上には再びレイが乗っかっていたので、ユエの抵抗が時間と体力の無駄であった事は割合すぐに証明されたことになる。まぁ、そもそも半死人である今のユエに、大した抵抗が出来るはずもなかったのだが。
心底しんどそうな顔で眉を寄せるユエを、色っぽい体勢とは裏腹な剣呑な目つきで睨みつけると、レイはなんだか怒ったような顔で彼のジーンズに手を掛けた。強引かつ勝手な行為に、もはや抵抗する気も失せて遠い目になってしまったユエは、首筋に顔を埋めてくる彼を仕方なさそうに抱き留めながら、ため息混じりに呟く。
「ねぇ、ちょっと・・・疲労困憊の相棒を襲うほどケダモノじゃないって、貴方ついさっき言いませんでしたっけ?」
「うるせぇな、だからサービスしてやるってば。つか、元はといえばテメェが悪いんじゃねーか!人の理性を試すような真似しやがってからに!!」
「なっ、なんで僕のせいなんですか!?僕はどう見ても被害者でしょ!?」
「『なんで』!?『なんで』とか言うか!?お前、ちょっとは自分の色気を自覚しろこのバカ!!」
「何逆ギレしてんですか貴方は!?」
大体色気って何さ!と目を剥くユエを、レイは完全に据わった目でじろりと睨んだが、不意にその手がユエの金髪を無造作に鷲掴んだ。喧嘩を思わせる野蛮な仕草に、流石にユエがぎょっとしたように口を閉じる。そのままぐいと引き寄せられ、二人の顔が、吐息が触れ合うほどの至近距離まで近づいた。
「・・・・・・・・・・。」
僅かな青味を見せるユエの瞳を、レイは真っ直ぐに覗き込む。先ほどの喧騒が嘘のような、奇妙な緊張を孕んだ沈黙。
やがて、予想のつかないレイの行動に戸惑い、軽く息を詰めて固まるユエの耳朶を、レイの低い囁き声が擽った。
「・・・いい加減、黙れよ。」
「っ・・・・。」
言いかけた言葉を柔らかく断ち切る、薄い唇の感触。触れているだけなのに、やけに熱く感じられるキスが、ユエの背筋をざわりとざわめかせる。
何度も角度を変えて、繰り返し繰り返し押し当てられる唇。表面を軽く啄ばむそれを受けながら、ユエは内心でため息を吐いた。
(・・・やれやれ・・・・。)
――ここで、口づけを拒む事も出来た。
だが、強引な態度とは裏腹に、触れるだけで中へは侵入してこようとしないキスが・・・まるで、ユエの拒絶を恐れているように見えて。
(誘い方はえらく男前なくせに・・・こんなトコだけ可愛いんだよなぁ、この人は。)
最後の最後でユエに選択の余地を残してしまう辺りに、彼を本気で怒らせてしまう事に対する、レイの怯えが垣間見えたような気がした。強引極まるやり方で迫ってくるくせに、ユエに本気で拒絶されれば傷つくのだ、この黒猫は。・・・気ままで気まぐれな猫とて、懐いている主人に嫌われるのは怖いのだから。
――受け入れて、と。
触れる唇から伝わってくる、声にならない囁き。
(もぅ・・・それって、ちょっとズルイ。)
拒んだら、彼を傷つけてしまった罪悪感を抱えなくてはならない。了承したら了承したで、残り僅かな体力を削られた挙句、許したのは自分という事で彼に恨み言すら言えない状況に陥ってしまう。
・・・勝手なものだとは、思うのだ。けれどそれ以上に、ユエは彼の哀しい顔に弱く、さらにそれ以上に彼の笑顔に弱かった。自分が我侭を受け止めてやった時、この少年がどれ程嬉しそうな顔で微笑うか、ユエは知ってしまっている。
(・・・ここで甘やかすからまた付け上がるんだって事は、解ってるんだけどね。)
重ねられたままの唇が、薄い苦笑を刻む。その動きを感じ取った相手が、そっと顔を離すのを視線で追い、ユエは少しだけ困ったような微笑を彼に向けた。
「しょうがない・・・一回、だけですよ?」
「・・・いいの?」
突然色好い応えを返したユエに気勢を削がれたか、レイが呆気に取られたようにぽつんと呟く。全力で嫌がられたから全力でねじ伏せようとしていたのに、前触れなく物分りのいい態度にチェンジされてしまったので、上げたテンションの行き場がないという感じだ。なんだか肩透かしを食わされた気分で、嬉しいというよりは戸惑ったような顔をしたレイにこつんと額を合わせて、ユエは小さな声で囁いた。
「あんまり協力は出来ないし、最悪、途中で寝ちゃうかもしれませんけどね。・・・・・それでも、良ければ。」
「・・・・・・・・・。」
いらっしゃい、と軽く両手を広げてやると、なんとも言えない表情になったレイが、それでもぎこちなく身を寄せてくる。ユエが重い腕を持ち上げ、馴染み深い身体を軽く抱いてやっていると、背中の辺りを彷徨っていた掌が遠慮がちに服の裾を掴んだ。
「くそぅ・・・・なんでそんな物分りいいんだよ、お前〜・・・・。」
「なんでと言われても。・・・・ひょっとして、最後まで往生際悪く抵抗して欲しかったんですか?そんな体力残ってないですよ、悪いですけど。」
「・・・いや、別に陵辱プレイとか好みじゃねぇから。」
眠気のせいかそれとも天然か、微妙にズレた事を言うユエに脱力気味にそう返すと、レイはユエの肩を優しく押した。どさり、と、おとなしくベッドに沈んだ相棒に覆いかぶさって、その頭を大事そうに抱きしめる。薄い胸元に顔を埋めたユエが、服越しに伝わる体温に気持ち良さそうに目を細めていると、前髪の生え際辺りに柔らかく唇が押し当てられるのが分かった。
「・・・ごめんなー。」
「ん・・・・?」
「・・・お前ほど、優しくも我慢強くも・・・・イイ男でもなくて、さ。」
「・・・・・・・・。」
・・・ああもう、なんだろうなこの可愛いひとは。
ばつの悪そうな声で呟く少年に、ユエは口元を綻ばせた。こんなふうにしおらしげに言われたら、怒る事も出来なくなってしまうではないか。
性欲より、睡眠欲の方が勝っている状態なのは確かなのに・・・年上として、年下の我侭を聞いてやるのも悪くないかなぁなんて、そんな気分にさせられてしまう。
(・・・これは、彼自身の力なんだろうな、きっと。)
相手を気遣って手を引ける、自分の衝動をコントロール出来るというのも、確かに「イイ男」だろうけれど。
・・・問答無用で相手を絆しまくってその気にさせてしまう、というのも、それはそれで「イイ男」と言えるのかも知れない。
(・・・完敗、かな。)
強引な態度としおらしげな顔であっさり落とされてしまった、自分の馬鹿さ加減がいっそ愛おしい。
とことん相棒に甘い自分に苦笑したユエは、ジーンズの留め金にかかる指をおとなしく眺めながら、内心でこっそり一人ごちた。
――僕、無事に明日の朝日を拝めるかなァ・・・・?
結構真剣に、そんな事を考えながら。
ユエは、遠ざかってしまった眠りの国を惜しみつつも、相棒の服の裾に手を伸ばしたのだった。
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<2007.1.19 アップ>