安らかな孤独

 

 ――はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・。

 顔を引き攣らせて走り続ける女。何度も背後を振り返り、周囲を窺うその目には、紛れもない怯えがある。息を切らし、暗い建物の中を逃げ惑う彼女は、辿り着いた小部屋へと必死に逃げ込み、震える指で扉をロックした。

 ――ぺた・・・ぺた・・・ぺた・・・・。

 遠くから、微かな足音が近づいてくる。廊下を裸足で歩くその音に、震えながら後ずさる女。自分を追う存在が徐々に近づいてくる。息を殺し、身体を縮めて、彼女は足音がドアの前を通り過ぎるのを待つ。

 ――ぺた・・・ぺた・・・ぺた・・・・・・・・・ぺた。

 ――!!!

 だが、願いも虚しくドアの前で止まった足音に、女が息を呑んだ。ドア越しに感じる異形のモノの視線。怯えきった彼女は、凍りついたように扉を見つめたまま、無意識のうちに後ろへ下がる。
 だが、前方のみを凝視するその背後から、不意に青白い腕がすうっと伸びてきて・・・・。

 

 

「「・・・・ッッギャ―――――ッ!!!」」
「やかましいっ!!」

 ・・・ブラウン管の中の女があげたけたたましい悲鳴は、それ以上にけたたましい男の悲鳴(しかもユニゾン)にかき消された。間髪いれずに、それを叱りつける声と頭を張り倒す音がダブルで入る。と、最高潮に盛り上がった雰囲気をぶち壊す雑音に微かな苦笑が重なり、部屋に鳴り響いていたおどろおどろしい音楽のボリュームが、少しだけ落とされた。

 「・・・やれやれ。そんなに怖いなら、わざわざホラー映画なんて借りてこなきゃいいでしょうに。」

 言葉とともに、真闇に近かった部屋に明かりが灯される。普段より若干明るさを落としてあったが、それでも緊張に凝り固まった精神を解すには十分な照明が、淡い苦笑を浮かべた金髪の青年の姿を照らし出す。テレビと電灯のリモコンを両手に持ったユエが肩を竦めて見やる先には、微妙に青い顔をしているツインズと、呆れ顔のアスカの姿があった。

 「ったくもぉ、バカ双子の悲鳴がうるさくて映画楽しむどころじゃないわよ。ああっ、ちょっと、ツッコミ入れてる間にクライマックス終わりかけてるじゃないのー!?」
 「戻しましょうか?」
 「あー、もういいわ・・・野郎の悲鳴を耳元で聞かされるのはいい加減うんざり。」

 本当にうんざりした表情で呟くアスカに笑い、ユエはテレビの音量をさらに下げた。ちょっとした映画館並みの大音量から、通常テレビを楽しむ程度のそれにまでボリュームを落として、お茶でも淹れようかと席を立つ。気温からすればアイスでもいいくらいだが、血の気の引いている双子たちの事を考えれば、いっその事ホットで血流を良くしてやった方がいいかもしれない。

 此処は、レイとユエが住むマンションのリビングルームだ。時刻は既に深夜の二時を回り、室内にはビールの空き缶やスナック菓子の空き袋が散乱している。明日――否、もう「今日か」――は、たまたま全員の休みが重なっているという事で、双子とアスカはレイたちの自宅に泊りがけで遊びに来ているのだ。その手土産として、双子たちが本日持参してきたのが、現在五人が鑑賞していたホラー映画のDVD。巷でかなり話題となっただけあって、その純和風のストーリーや演出の細やかさは、見る者の恐怖を煽るには十分なものだった。
 ・・・少なくとも、借りてきた張本人である双子たちにとっては。

 「はぁ〜・・・・あー、怖かったぁ〜!!」
 「途中マジで三回くらい心臓止まったよ!!ヤバイってこれ怖すぎだって!!」
 「あんた達は怖がりすぎ!何よギャーギャー騒いじゃって、情けないわねぇ。」

 ユエを手伝って戻ってきたアスカが、胸を押さえて興奮気味に騒ぐ二人に手厳しい意見を述べる。温かい紅茶を配る彼女に礼を言いながら、アラシは額に薄く浮かんだ汗を拭って大きくため息をついた。

 「ていうか、アスカは肝座りすぎだよ・・・一度くらい悲鳴上げたって良かったと思うんだけど、僕。」
 「普通こういうのを女の子と見る醍醐味ってさぁ、女の子が『きゃー、怖い!』とか言って縋りついてきてウハウハ、とかそういう点なんじゃないの?」

 本命は別にいる双子たちだが、美人な彼女に抱きつかれればそれはそれでとても嬉しい。ちょうど彼女を挟む位置に座っていた二人は、少しだけ期待していたのに、と不満げにぼやいたが、しかしアスカはそんな彼らに対して「何言っちゃってんのこのヘタレども」と辛辣な一撃を食らわせた。

 「初めてのデートを計画する中学生じゃあるまいし、いい年こいて何夢見がちな事言ってんだか。第一、女より先に悲鳴上げられたら縋りつく気も失せるわよ。」
 「僕が耐えてれば縋りついてくれたわけ?」
 「第二に、あたしあの手の映画って、見てても怖さよりムカつき度の方が高いのよねー。『なんで近づくなって言われてる部屋にわざわざ入んのよ』とか、『悲鳴ばっか上げてないで少しは立ち向かえやコラ』とか、『そもそも幽霊の方も勝手に自殺しといて無関係な他人を次々呪い殺すって八つ当たりもいいトコでしょ』とか。」
 「・・・・・・・・・・・・。」

 勝気な彼女らしい言い分に、アラシは魂の抜けたような笑いを返す。そんな彼に、笑みを含んだ涼やかな声がかけられた。

 「諦めるんだな、アラシ。アスカに抱きついてもらえるには、お前じゃちょっとオトコが足りないってこった。」
 「あ、レイまでそんな事言う〜!」

 ぱっと顔を上げたアラシが、それまで会話の外にいた家主の片割れをふてくされたように眺めた。実のところ、今日のDVDは、「本命」たる彼が怯える表情を少しくらい見れるかと思って持ってきたものだったのだが、彼もまたアスカと同じく、鑑賞中には一度も悲鳴を上げなかったのだ。レイは一番壁際のソファに陣取っていて、ずっと隣に座っていたユエの陰になっていたので、鑑賞中に彼がどんな表情をしていたのかは三人には解らなかったが、彼が大きく肩を跳ねさせたり息を呑んだりする気配は、結局一度もしなかった。

 「あ〜あ、ユエも平然としてたしなァ・・・・結局、一番ビビってたのは僕たちか。あー、情けな。」

 目論み失敗、と肩を落とす双子たちに、アスカがくすくすと笑う。と、濡れた手を拭いながら戻ってきたユエが、寛ぐ四人に柔らかく声をかけた。

 「・・・さ、明日は皆で遊びに出るんでしょう?映画も見終わったことだし、そろそろお開きにしましょう。」
 「そうね、もう遅いし。」

 時計を確認したアスカが、しなやかな仕草で伸びをする。とりあえず、散らかったリビングを全員で大雑把に片付け、明日の簡単な予定を確認すると、ユエは客用の布団を二組、リビングへと運び込んだ。客人に提供する、今夜の寝床である。と、それを見ていたアスカが、ふと鳶色の瞳を瞬かせて首をかしげた。

 「あれ?ねぇユエ、布団一組足りなくない?」
 「ああ、うち、もともと客用布団って二組しかないんです。」
 「おいコラ、まさか僕らのうち片方に床で寝ろって言うんじゃないだろうね?」
 「夏木さんを除いた点は評価してあげますが、貴方女性と一緒にリビングで休むつもりですか。夏木さん、申し訳ないんですが、今夜は僕のベッドで寝て頂けます?」
 「「「・・・え?」」」
 「え?」

 聞きようによってはものすごく意味深なユエの発言に、本人とその相棒を除いた三人が、ぴしっと固まった。室内に、なんともいえない漂白された沈黙が落ちる。が、のんびりとした口調で爆弾発言をかました男の方はといえば、そんな友人たちの反応に、逆に不思議そうな顔をしている。
 その素朴な表情から、聞き間違いでも冗談でもないと気づいた双子たちは・・・次の瞬間、わなわなと拳を震わせて絶叫した。

 「「こっ、この色魔―――ッ!!!」」
 「なんでっ!?」

 いきなり身に覚えのない暴言を喚かれ、ユエが目を剥く。
 が、彼の驚愕など綺麗に無視して、同じ顔をした兄弟はぎゃんぎゃんと彼に噛み付いた。
 

 「レイというものがありながらなんて事を!!イヤー、フケツよーっ!!」
 「ほ、本人の目の前でベッドに女連れ込むなんて・・・見損なったぞこのヤロー!!」
 「つ、連れっ・・・・!?何考えてるんですかっ、一緒に寝るわけないでしょ!?」

 そこでようやく気づいたユエが、枕を双子の顔面にそれぞれぶん投げる。かなり容赦なく投げつけられたそれを顔面に食らい、ツインズが揃ってひっくり返るのを冷たい目で睨みつけると、ユエは頭痛を堪えるように額を押さえた。その左腕に薄い上掛けがかかっている事に、アスカはその時ようやく気づいた。

 「僕はソファで寝るんですよ。言っておきますが、アラシ、アズマ、いびきがうるさかったりしたら顔面に濡れ布巾かぶせて黙らせますからね。」
 「たかがいびきで永遠の沈黙を強いる気か!?
 「え、ていうか、そんなの悪いわよ!あたしがソファで寝るから、ユエベッド使ってよ。あたし小柄なんだから、ソファで寝たってどうって事ないし。」
 「いいんですよ。女性をこんなのと一緒の部屋に転がしておくわけにはいきませんから。」
 「こんなのって言うなー!!」
 「・・・あぁもう、うっせぇなー。」

 揉めていた四人は、面倒くさげなその声に何となく口をつぐみ、声の主を見た。解いた髪をがりがりと掻き毟っていたレイは、すっくと立ち上がって四人を見回す。威圧的ではない威圧感に自然と気おされた友人たちを一瞥し、レイは簡潔に告げた。

 「要するに、四枚の布団に五人納めりゃいいんだろ?俺とユエが一緒に寝れば万事解決だ。貴重な時間をくだらない揉め事で浪費すんじゃねぇよ、勿体ない。」
 「・・・う゜。」
 「・・・いや、それはそうだけど・・・。」

 確かに名案だが、一つ屋根の下でそんな光景が展開されていると思うと寝付けなくなりそうだ。「自分の布団に来てくれればいいのに・・・!!」と歯噛みする双子を他所に、レイはてきぱきと采配を進める。

 「じゃあアスカ、悪いんだけど寝るの俺の部屋でもいいか?ユエの部屋の方がベッドでかいから、ふたりで寝ても窮屈じゃねぇんだ。」
 「勿論、あたしは何処でもいいわよ。悪いわね、あんたの寝床取っちゃって。」
 「いいっていいって。もしも心配だったら、ドアに鍵ついてるから。」

 からからと笑いながら、レイはユエの腕から上掛けを奪う。そのまま、視線で相棒を促して廊下へと向かったレイは、ドアの所でふわりと振り向いて微笑った。

 「朝は8時に朝飯だからな、寝過ごすなよ。・・・・じゃ、おやすみー。」
 「・・・・・おやすみ。」

 ひらりと手を振って廊下へと消えた彼に、諦めた風情のアラシたちもそれぞれに就寝の挨拶を返す。アスカも寝床へと向かうべく席を立ち、賑やかな時間はそこで一旦打ち切りとなった。

 

 

 ***

 

 

 ――だが、何事もなく終わった、ささやかな宴の後。

 ユエの部屋の中では、少々おかしな光景が展開されていた。

 

 「まぁ、本当にねぇ・・・・。」
 「・・・・・・・・・・・。」
 「貴方も本当に意地っ張りというか何というか・・・。回避する方法なんていくらでもあったでしょうに、そんなに皆に弱みを見せたくないんですかねぇ・・・。」
 「・・・・うっせぇよ・・・・。」

 唇に苦笑を溜めたユエがそう呟くと、蚊の鳴くような微かな微かな唸りが、背中側から返ってくる。だが、視界に入らない声の主が今どんな表情をしているのか、その程度の事はユエにはお見通しである。たぶん緊張に強張っているのであろう彼の顔を想像して、ユエは声には出さずに忍び笑いを落とした。

 ちなみに、現在の彼らの体勢は――先ほどのホラー映画のワンシーンを、ちょっとだけ思い出させるようなもの。
 レイが、ユエの背中に、背後霊よろしくべったりとひっついている。

 「レイ、二秒でいいから手を離して下さいよ。これじゃシャツが脱げません。」
 「・・・・・・・・。」
 「・・・・・・・・。」
 「・・・・・・・・。」
 「・・・代わりに、ズボンに掴まってていいですから。」

 リビングでの悠然とした挙措は何処へやら、レイは妙に切羽詰った顔で、ユエの広い背中にしがみついている。指先が白くなるほどの力を込めて相棒のシャツを握り締めているのだが、その顔はなんだか若干青ざめているようだ。一瞬でも離れるのを拒むかのように、しっかと胸元のシャツを握り締めている手をぽんぽんと叩き、ユエは宥めるようにその手を握ってやった。

 

 (まったく・・・素直に、ホラーは大の苦手なんだって言ってしまえば良かったのにねぇ・・・・。)

 

 実は、下手をすればぎゃーぎゃー騒いでいた双子たちを上回るくらい、レイはホラー物に弱いのだ。レンタルビデオ屋に寄っても、その手のコーナーの周辺二メートル以内には絶対に近寄らないし、テレビでCMが映ろうものなら速攻でチャンネルを変えてしまう、そのくらい苦手だ。普段ならば、あんなDVDなど、何をどう間違っても見はしない。だが、ホラー嫌いなのと同じくらい意地っ張りでもあるレイは、友人たちにそれを知られるのも絶対に嫌だったので、見たくないとも言い出せなかったのだ。特に、女性であるアスカが混じっている、今日の場では。・・・ささやかな男のプライドである。

 「くっそ・・・怖いわけじゃねーぞ・・・・。」
 「うん?」
 「ただ、ちょっと・・・出たり消えたり浮いたり壁すり抜けたりするのが気持ち悪いだけなんだからな・・・・。」
 「・・・・・・・・。」

 同じじゃん、というツッコミをどうにか呑み込む。ただでさえ緊張しきっている彼の精神を、これ以上刺激する事はない。これでもしレイとユエの立場が逆であったなら、悪戯な黒猫は散々相手をからかって脅かして遊び倒している事だろうが、ユエにはそれはできない。怯えている相手に追撃をかけられるか、かけられないか、その辺はふたりの性格の違いが出るところだ。

 「ああ、寝巻き用のTシャツ、取ってくるの忘れてましたね・・・。もう夏木さん寝ちゃってるでしょうし、しょうがない、僕のシャツで我慢し・・・」
 「ギャアアアッ、ちょっ、クローゼット開けんなー!!」
 「・・・別に、子供の霊とか入ってないですから。大丈夫ですってば。」
 「条件反射で寒気が走るんだよ・・・!!」

 マジで幻覚見そうだ、と引き攣った声を出すレイ。鏡に映る人影、隙間から覗き込む目、暗がりから突如突き出す手といった、ある意味ホラーの常道ともいえる表現が満載だった映画のおかげで、視線を向ける場所にも困っているらしい。スプラッタ映画は平気な顔で見るくせに、どうして幽霊物だけこんなに駄目なのやら。三十センチだけ開けた扉の隙間からシャツを引っ張り出しながら、ユエはそう考えて苦笑半分のため息をついた。

 「よい、しょっと・・・・。」

 とりあえず、一向に離れようとしない少年を宥めすかしながらどうにか就寝の準備を整えたユエは、背中に彼をへばりつかせたままベッドに潜り込んだ。しがみついている腕を解いて向きを変え、逆に細い身体を自分の腕の中に収める。少しの隙間もないようにと、全身ですり寄ってくるレイをしっかりと抱きしめて、ユエは照明のボリュームをひとつだけ下げた。普段ならば完全に明かりを落とすところだが、ここでそんな事をすればレイの恐怖を煽ってしまう。代わりに、上掛けを光除けとしてレイの頭近くまで引っ張り上げてやり、ユエは未だに強張っている彼の背中をぽんぽんと叩いた。

 「さ、早く寝ましょう。隈でも出来たら、明日の朝みんなに質問責めにされますよ。」
 「・・・無理だ・・・・。」
 「目を閉じるだけでもいいですから。・・・ね?」
 「・・・・・・・・。」

 「出来るわけねぇだろ」と顔に大書きしてはあったが、ユエの言い分が正しいという事も解っていたのだろう。硬い表情のまま、それでもごそごそと胸元に鼻先を埋めてくるレイに、ユエは声に出さずに忍び笑った。この黒猫は、まったく変な所で可愛らしい。
 悲鳴を押し殺し、全身を石のように硬くしてやり過ごした地獄の二時間で、レイは心身ともにぐったりと疲弊している。だが、しがみつかれているユエには、未だに不規則に脈打っている彼の鼓動がはっきりと伝わってきていた。この調子では、今夜はなかなか寝付けはしないかもしれない。それでも少しでも彼の緊張を解してやろうと、ユエは子供をあやすように、強張った背中をゆったりとしたリズムで叩いてやる。眠気を誘う、緩やかで規則的な振動からユエの意図を読み取り、レイもその振動に自らの呼吸を合わせて、少しでも鼓動の乱れを宥めようと試みた。

 「・・・・・・・・・・。」

 努めて規則的な呼吸を繰り返していると、前髪の生え際辺りに、やわらかく唇が押し当てられる。穏やかなユエの吐息に、そっと髪をくすぐられて、レイの背中からほんの少しだけ力が抜けた。彼が生きている証であるそれを、もっとはっきりと感じたくて、レイは彼我の距離をさらに縮めようと身を寄せる。既にぴたりと重なりあっていた体が、それでも足りないと落ちつかなげに身じろぐ気配に、ユエは今度こそくすりと笑った。

 「そんなに一生懸命捕まえなくても、大丈夫ですよ。」
 「・・・うるさい。お前がしっかり抱かないからだろ。」
 「・・・この状況でその抗議は、不埒な気分になるんでやめてくれます?」
 「そういう意味じゃねぇよ!おまっ、ダチが一つ屋根の下にいるって状況でよくもまぁ・・・!」
 「いたた、ちょっ、ストップストップ!『なる』って言っただけで『なった』とは言ってませんから!」

 「引っ繰り返せばいつなってもおかしくないって事だろーが!・・・もういい、やっぱり今夜はあっちに行く!」
 「・・・え、ちょ、何所行く気!?」
 「居間!」
 「や・・・やめてやめて、それだけは!」

 なんでよりにもよってオオカミ(しかも2匹)の居場所を選ぶのだ。だってアスカんトコに行けるわけないだろ!?と毛を逆立てるレイをどうにか腕の中に引き戻し、逃がすまいときつく抱きしめると、レイは苦しそうにじたばたともがいた。

 「も・・・離せってば!」
 「ダーメ。・・・あの二人の所にだけは、行かせません。」
 「な・・・っ、ん!」

 多少強引に組み敷いて、唇を奪う。一回り大きな身体に圧し掛かられて、レイは驚きと戸惑いに身を硬くしたが、閉じ損ねた唇を割って舌を絡め取られてしまうと、慣らされた身体からは自然と力が抜けてしまう。無造作に掴まれたしなやかな手首は、それでも暫くは無益な抵抗を続けていたが、ユエがその気になればその程度の抵抗は簡単に抑えられるのだ。レイの好きな所を舌先で探り、唾液を啜り取るように舌を吸い上げてやると、彼の抵抗は徐々に弱まり、やがてはおとなしくユエの掌の中に収まった。

 「ふ・・・ぁ・・・・。」

 唾液を混じり合わせるようなキスに、レイの息がかすかに上がる。合間に零れ落ちる吐息に、隠しきれない甘さが混じり始めたのを確かめてから、ユエはゆっくりと唇を離した。つうっ、と、細い唾液の糸がふたりを繋ぐ、その様がやけにいやらしい。
 レイが鼓動を落ち着かせるように息をつくたび、ほっそりとした喉元が緩やかに上下する。そっとそこに口づけると、小さな声とともに、レイの全身がひくりと震えた。

 「や・・・ま、さか、お前・・・。」

 ここで抱く気じゃないだろうなと、レイの瞳が不安に揺れる。いくら相手が彼でも、友人たちに最中の声を聞かれかねない状況で触れあうのは流石に御免である。

 (つーか、そんな声聞かれたら、あいつらと明日っからどんな顔して会えばいいんだよ・・・!)

 ユエが理由もなく無体を働くはずがない、という信頼がなければ、とっくに逃げ出していただろう。組み敷かれている現状と彼への信頼に挟まれて、レイはユエの出方を窺うように全身を強張らせている。だが、そんな彼の緊張を余所に、顔を上げたユエの眼は色事とは無縁そうな、どちらかといえば落ち着いた光を宿していた。

 「どう?まだ怖い?」
 「え?・・・・・・・・・あ。」

 その一言で、レイはあれほど気になって仕方なかった周囲の気配が、あまり気にならなくなっていることに気づいた。神経が張り詰めているせいで、部屋の隅の死角や扉の向こうの空間に何かが潜んでいるような気がして仕方なかったのだが、目の前のユエに完全に気を取られてしまったせいで、そちらに向ける注意は自然と遮断されたらしい。死角から今にも手が伸びてくるのではないかという嫌な緊張は、いつの間にやら雲散霧消してしまっていた。

 (コイツ・・・それが目的か。)

 気遣いは嬉しいがまんまと乗せられたのは少し悔しかったので、レイの目つきは少々悪くなる。だが、ユエにはそんなレイの反応もお見通しだったようで、恐れ入る色はこれっぽっちもなかった。

 「逸らしたくても逸らせない注意をどうにかしようと思ったら、もっと気を惹く対象を他に作るのが一番です。・・・あんまり、怖くなくなったでしょ?」
 「ああ、幽霊なんかより目の前の男の方がよっぽど曲者だって事がよ〜く分かったからな。バカバカしくて恐怖も飛んだわコノヤロー。」
 「そうそう。結局のところ、幽霊なんかより生きてる人間の方がよっぽど怖いものですからね。」
 「・・・・・・・。」
 
 しれっと開き直ると、ユエは呆れたように絶句したレイを再び腕に抱き込んだ。さっきと同じ体勢だが、レイの身体からは、格段に力が抜けている。リラックスしているというよりは、単に呆れ返って怖がるのもバカバカしくなってしまっただけだが、落ち着いている事には違いなかった。

 「幽霊への恐怖を払ってくれるのはいいが・・・今度はそれより怖い男の腕の中で寝ろっての?」
 「まぁ、ある意味では危険かもしれませんけどね。四年かけて手懐けられている分、制御不可能な幽霊よりはましかと思いますよ?」
 「嘘つけよ、未だに『待て』も満足にできないくせに!過去に何回俺を抱き潰したと思ってんだ!」
 「人をそんな駄犬みたいに言わないでほしいなぁ。本当に貴方が嫌がっている時は、抑えてきたつもりなのに。」

 そう言って苦笑すると、ユエは腕の中から睨んでくるレイの顔を覗き込み、形の良い鼻の先にちょんと唇を触れさせた。思いがけない所に落とされたキスに面食らうレイを抱きしめ直して、ユエは細い背中をぽんぽんと叩いた。

 「僕の部屋で寝るっていうのがいやらしい意味じゃなかった事も、皆が泊まってる時に貴方がそんな気分になれないって事も、ちゃんと分かってますよ。今夜はキス以上の事はしないって約束しますから・・・リビングに行くのは止めて下さい。」

 どんなに近くに寄り添っていても、夢の中までついていく事はできない。だが、隣にいれば、彼が安心して眠れるように体温を分け与え、うなされたらすぐに起こしてやる事は出来る。
 たとえ狭量だと言われようが、友人であると同時に恋敵でもある双子に、そんな役目を任せる気はさらさらないユエだった。

 「ったく・・・いいか、寝てる間に妙なイタズラしやがったら、ぶっ飛ばすかんな。」
 「はいはい。」

 不機嫌な顔は崩さないながらも一応納得したらしいレイが、ごそごそと胸元に顔を埋めてくる。偉そうな台詞とは裏腹な可愛らしい仕草に口元を緩め、ユエはパートナーの額に、もう一度だけ唇を落とした。
 ・・・きっちりと閉じられたベッドルームの扉に、何故かちらりと視線を投げながら。





 ――その頃。

 『・・・なんか聞こえる?』
 『なんかぼそぼそ言ってるのしか聞こえない・・・。くそう、もうちょっとはっきり喋ってくれれば・・・!』
 『まぁいいじゃない、はっきりした喘ぎ声が聞こえてくるよりは。』
 『そんなモンが聞こえたら速攻でドア蹴り破るよ僕は!』

 新聞紙を丸めた即席メガホン片手に無音声で力説するアズマに対し、やる気のない欠伸で応じるアスカ。よろず屋のふたりの同衾状況が気になるのは分かるが、いい加減眠いというのに廊下での盗み聞きという行儀の悪い行為に付き合わされ、アスカは少々ご機嫌斜めである。「だって万が一見つかった時、アスカがいた方が報復の手も緩みそうだし」という情けない理由で連れてこられた彼女は、明日の外出にかかる費用は全額こいつらに奢らせようと心に決めつつ、隣で諦め悪く扉に耳をつけているアラシを横目で眺めて内心で呟いた。

 (・・・ていうか、ドアの外に三人もたむろしていたらレイもユエも気づくでしょ、絶対。)

 まぁ、かなり平静さを失っていたらしいレイは、ひょっとしたら自分の神経過敏だと思ってスルーしているかもしれないが、少なくともユエは確実に気づいているだろう。咎めに来ないのは、おそらく、単にこれ以上レイの神経を刺激したくないからだ。あれほど必死に恐怖を押し隠して平静を装っていたのだから、その甲斐もなく友人たちに弱点を知られてしまったと知ったら、きっとレイは羞恥と怒りで暴れ狂うだろうから。

 そこまで考えてくすりと笑うと、アスカは音をたてないように慎重に立ち上がった。ドアにへばりついている双子の髪を両手でそれぞれ引っ張って、「行こう」とジェスチャーで促すと、二人はしぶしぶと立ち上がって彼女に続いた。やっている事は小学生並みだが、無造作に歩いているように見えるのにアスカより気配がないのは、流石というべきなのかもしれない(明らかに使いどころは間違っているが)。

 やがて、名残惜しそうに振り返りながらもリビングに辿り着いたアラシは、畳んで置いてあった蒲団を蹴飛ばして伸ばしながら言った。

 「ま、レイがホラー嫌いだって事が分かっただけでも今夜は収穫あったかなー。ねぇアズマ、次はお化け屋敷でも狙ってみよっか?」
 「さぁ、どうだろうね・・・。また今回みたいに根性で乗り切られて、ろくな結果にならない気がすんだけど。」
 「レイも意地っぱりにも程があるよなー。」
 「も〜、あんたたち、意地悪も大概にしときなさいよ。レイが今夜、陰でどんだけ消耗してたか分かったでしょ?好きな子いじめて許されるのは小学生までよ。」
 「「はいはい。」」

 アスカの苦笑交じりの諫言に、双子たちは笑って頷いた。布団の上に胡坐をかいて枕を抱え込んだアズマが、ゆらゆらと身体を揺らしながら美しい友人を見上げる。

 「ねーねーアスカー、僕たちもホラー怖かったんだよー。ちゃんと寝れるか分かんないよー。」
 「添い寝の相手はお互いで十分でしょ。これ以上あたしを巻き込まないでよね。」
 「冷た!それ冷たくね!?ちょっとくらい慰めてくれてもよくね!?」
 「あーうっさいうっさい、分かったわよ。・・・ほら、イイコだからおとなしく寝なさい。」

 子どものように駄々を捏ねる双子に苦笑してそう言うと、アスカは二人の頬にちゅっと軽くキスをした。弟がいた彼女にとって、こういう「おやすみのキス」はごく身近なものだったため、およそ照れというものがない。
 それでも、やわらかな唇とふわりとした栗色の髪の感触に、二人は「「うひょう!」」と歓声を上げた。

 「わーい!言ってみるもんだね!」
 「今夜はいい夢見られそうだよ!」
 「はいはい、よござんしたね。・・・テンション上げすぎて寝付けませんでしたとかいうオチはやめてよ?」
 「「はーい!」」

 先ほどまでの渋い顔は何処へやら、すっかり上機嫌で布団に潜り込む双子に手を振って、アスカも自分に割り当てられたベッドへ向かう。小さく欠伸をした彼女は、口元を隠した手の陰でくすくすと忍び笑った。

 (・・・なんだかんだ言って、全員十分すぎるほどにホラーを満喫してたわね。)

 我慢大会を強いられたとはいえ、パートナーに上手に宥められて今頃は穏やかな眠りに落ちたであろうレイと。
 危なげなくライバルを排除して、想い人とともに夜を過ごす権利を確保したユエと。
 そして、自分の子供騙しなキスで、それでも結構ご機嫌になっていたらしい双子。

 (たかがDVD一枚でも、こいつらと見るとホント面白いわー。)

 見ていて飽きない、愛すべき友人たち。
 彼らの今宵の眠りが穏やかなものである事を願いながら、彼女も明日に向けて英気を養うべく、レイの部屋の扉を開けた。




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