*この話は、いちおうNo.03「行方」の続きとなっております。

   読んでない方は、そちらを先に読んでから見ていただけると解りやすいかと思います。 コチラからどうぞ〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――走る、走る、走る。

 何度もすれ違う人間とぶつかって、罵声を浴びせられたような気もするけれど、そんなことはどうでもいい。

 死ぬほど走れば、この腹の底でくすぶる黒い感情が吐き出せるんじゃないかと。

 そんな子どもっぽい考えに囚われたまま、ひたすら走り続けた。

 

 たったひとつ

 

 ざあざあと音を立てて降り注ぐ雨。雷を伴って突然降り出した雨に、慌てて店の軒先に逃げ込む人々の悲鳴が、遠くから雨音に混じって聞こえてくる。大いに慌てながらもどこか楽しげな声に耳を傾けながら、壁にもたれて座り込んだ少年はぽつりと呟いた。

 「・・・・あーあ、サイアク・・・・・。」

 自分の耳にすら届かないような、力ない呟き。どこか虚ろに鈍色の空を見上げる瞳には、いつもの鋭さはない。普段の、生気に満ち溢れた彼を知っているものが見たなら、驚きに目を見張ったに違いない。それほどに、今の彼は弱々しく、儚げに見えた。  

 「さみ・・・・。」

 ぞくりと背筋を這い上がる寒気に、レイは自分の肩を抱いて身震いをした。いつもは薄っすらと紅いその唇は、今は血の気を失って蒼ざめている。
 それもそのはず。彼は全身ずぶ濡れだった。服は重く濡れて肌に張り付き、漆黒の髪からはぽたぽたと雫が滴っている。日暮れとともに急激に下がり始めた気温と、全身に纏わりつく水滴は、確実に彼の体温を奪っていく。このままでは確実に風邪を引くだろうに、彼は一向にそこから動こうとはしなかった。
 ビルとビルとの狭い隙間。その片方の建物の外面に取り付けられた非常階段の下に、彼はうずくまっていた。雨宿りをしようにも、財布も携帯電話も持たずに飛び出してきてしまったため、店に入ることも知り合いに連絡することも出来ず、仕方なく突然の雷雨を避ける為にここに逃げ込んだのだった。人目を避けるようにして適当に潜り込んだ場所だったが、鉄錆の浮いた古びた階段は、かろうじて彼を降り注ぐ雨から守ってくれている。埃と錆の匂いに包まれながら、レイは爪先の少し先に滴り落ちる水滴をぼんやりと眺めていた。 

 (今日、これからどうすっかな・・・・。)

 ・・・家には帰れない。きっと、彼はまだ怒っているだろうから。

 些細な意地の張り合いから、四歳年上の同居人と盛大な喧嘩をしたのはつい一時間ほど前のこと。互いにムキになって、ついカッとなって彼に手を上げて。
 そんなに力は入っていなかったはずなのに、思いがけず響いた派手な音に、頭に上っていた血がさあっと下がった。

 (・・・結局、謝らないまま出てきちまった。)

 ―――わがままを言ったのは自分。暴力を振るったのも自分。どう控えめに見ても、謝らなくてはいけないのは自分だったのに。

 殴られてから、レイが部屋を飛び出そうと背を向けるまで。彼は一度もレイを見なかった。
 殴られた体勢のままに床に落とされた視線が、何よりも鮮やかに自分を拒絶しているような気がして。見ていられなかった。
 だから、逃げ出した。

 「・・・小学生の喧嘩かっつーの・・・・。」

 ため息をついて、立てた膝に顔を埋める。相変わらずの激しい雨と、慣れない自己嫌悪に疲れ果て、なんだかもう立ち上がる気力もない。
 ああもう、いっそのことここで眠ってしまおうか。半ば自棄気味にそう思い、目を閉じたとき。

 ―――ふみゃあ。

 「・・・・あ?」

 間の抜けた鳴き声とともに、ズボンをかりかりと引っ掻く微かな力。思わず顔を上げたレイは、自分にじゃれ付いてきている毛玉を発見して目を瞬かせた。
 ひょろりと痩せ細った、みかん色の猫。一見して野良と解るぼろぼろの毛並みだが、緑がかった目は綺麗に澄んでいる。やけに人懐っこく、地面に座り込んでいる彼の膝に上ろうとして、脇の下にぐいぐいと頭を突っ込んでくるそれに、レイはくすぐったげに肩をすくめた。

 「こら・・・食い物なんてねーぞ?」

 ―――ふみゃあ、ん。
 ぐりぐり。

 「解った解った・・・ほら。」

 苦笑とともに腹の上に乗せてやると、ごろごろと胸に頭を擦り付けてくる。手袋をしていない右の人差し指で喉を擽ってやると、気持ちよさそうに緑の目が細められた。幸せそうなその様に、冷え切った唇にほんの微かな微笑みが浮かんだ。

 (あったかい、な。)

 濡れた服越しに伝わる、柔らかなぬくもり。腕の中の小さな生き物をそっと抱き締めると、彼――または彼女――は、迷惑そうに一声鳴いた。寄ってきたのは自分なくせに、と少しだけ可笑しくなる。

 「ゴメンな・・・もうちょっとだけ、こうさせててくれよ・・・・。」

 何気なく呟いたはずのその言葉は、何故か少しだけ震えていた。自分の声とも思えない、まるで泣いているようなトーンに、微かな動揺を覚える。感情の揺らぎ自体を押さえつけるように、猫を抱く腕に力がこもった。

 (バッカみてー・・・相方と喧嘩したってだけなのに、何マジでヘコんでんの?俺。)

 茶化すように心の中で呟いてみても、震えは収まらない。雨に打たれた身体ではなく、さらにその奥が冷たく冷え切ってしまっている。まるで、身体の奥が空っぽになってしまったような薄気味悪い喪失感。

 (何だこれ・・・気持ち悪い・・・。)

 ぞくぞくと背筋を這い上がる悪寒に、軽いパニック状態に陥りそうになる。馴染みの薄い感情に本能的な恐怖を覚え、縋るように汚れた毛並みに頬をすり寄せたレイは、ざらざらとした毛皮越しに伝わるぬくもりに、ほんの少しだけ安堵を覚えた。

 (こういう気持ちって、何て言うんだっけ・・・・?)

 怖い。違う。
 痛い。違う。
 苦しい。違う。

 「なんだっけ・・・・。」

 ―――どうして、今ユエはここにいないんだろう。
 何の脈絡も無く、レイはそう思った。あいつが傍にいれば、こんなつまらない感情に囚われることは無い。その感情がなんだったかなんて、哲学もどきの疑問に頭を悩ませることも無いのに。

 (肝心なときに・・・なんで傍にいないんだよ・・・・。)

 ほんの少しでいい。
 あいつが、ほんの少しだけ抱き締めてくれたら、この空っぽはきっと埋まる。

 (・・・駄目だ。)

 明日までなんか待てない。今すぐに戻らなければ、きっと凍えて死んでしまう。

 (早く帰ろう。んでもって謝らなきゃ。)

 悪かったのは自分なのだから、彼に許してもらえるまで謝らなければ。大体、彼と離れて、行く場所なんて無いのだから。
 うずくまっていたそこから立ち上がるべく、猫の背中に埋めていた顔を勢いよく上げる。その瞬間。

 がんっ!!

 ・・・目の前に星が散った。くわんくわんと揺れる視界に、額というか頭というか、ちょうど前髪の生え際辺りを、何かにしたたかぶつけたのだと気付く。頭上の階段までの距離は確かに短いが、頭を上げただけでぶつかるほど低くは無かったはず。一体何だ?
 じんじんと痛む前頭部を押さえて見やると、涙で滲んだ視界に、金色の輝きが映った。

 (・・・・・え?)

 まさか、そんな。痛みを忘れて呆然と見やる彼の耳に、聞き慣れた音楽的な声が届いた。

 「っつ―――!!貴方ねぇ、いきなり頭上げないで下さいよ!舌噛んじゃったじゃないですか!?」
 「ユ、エ・・・・・?」

 そこにしゃがみこんでこちらを見ているのは、紛れもなく玖月故その人で。ここにいるはずの無い相棒の姿に、レイは呆気にとられた。

 「おま・・・なんでここに・・・。」
 「貴方を探しに来たに決まってるでしょう・・・ったくもう、散々探し回ってみればこんな狭いトコに潜り込んでるし。しかも声かけようと思えば頭突き食らうし。」

 そう言って薄っすら紅くなった顎――多分レイの頭が激突した箇所――をさすりながらぼやく彼は、レイと同じく全身ずぶ濡れだった。いつもきちんと着ているシャツはよれよれで、よくよく見れば右の袖にかぎざきが出来ている。お気に入りの白いスラックスの裾は、跳ね上がった泥水で茶色に変色していた。
 身だしなみに気を使う彼にしては珍しいその様子と、僅かに乱れた息が、彼が散々街を走り回ってここに辿り着いたことを物語っていた。 

 (探しに・・・来た?)

 勝手に怒って殴りつけて、挙句の果てに行き先も告げずに飛び出して行った相棒を、この雨の中わざわざ探しに来たというのか、この男は。嬉しさと呆れが半々といった微妙な表情を浮かべるレイの腕から、不意に温かい毛玉が取り上げられる。

 「あ、ちょっ・・・・。」
 「すいませんね。僕の方が先約なんで、この人返してもらいますよ。」

 レイの慌てたような声を無視して、つまみ上げた猫にそっけなく告げるユエ。とん、と地面に降ろしたみかん色の毛玉が、不満げに路地裏に消えるのを見送ると、ユエは未だ地面に座り込んだままの彼の腕を掴んで、強引に引き起こした。反射的にびくりと肩を竦ませるレイを腕の中に閉じ込め、その首筋に顔を埋めると、彼は乱れた呼吸を整えるように、数度大きく深呼吸を繰り返した。

 「あ・・・・ユエ・・・・?」
 「っは、すいません・・・なんか、やっと見つけたと思ったら、ほっとしちゃって・・・。」

 は、と息を吐き出して笑う彼は、全くいつも通りで、一瞬喧嘩をしていたことすら忘れかけた。家を出るときにはあんなにも険悪だったのに、今ではその残滓をこれっぽっちも見せないユエ。彼はこの状態を収拾するために、自分から折れてくれようとしている。
 甘やかされているというくすぐったい思いと、癇癪を起こした子どもを宥めるような扱いに対するほんの少しの悔しさ。甚だ微妙な感情に、レイは青年の腕の中で、困ったように空を見上げた。

 (・・・本当に、甘いんだから。)

 時には反発したり、手厳しい事を言うこともあるけれど、根本的なところで自分の全てを受け入れている彼。わがままも、弱さも、醜さも、自分が捨て去りたいと願う穢れを柔らかく包み込み、赦してくれる彼の強さに、どれだけ救われてきただろう。どんなに失敗しても、彼だけは自分を見ていてくれると信じているからこそ、自分は前を見て進むことが出来るのだ。
 同時に、だからこそ彼に依存しっぱなしにはなりたくないと思う。ここで有耶無耶にしてしまったら、きっと自分はすぐに同じ事を繰り返してしまうから。自分が悪かったことについては、ここでちゃんと謝っておきたいと思う。
 きゅ、と濡れたシャツの裾を掴む。解れた金糸に頬をすり寄せ、未だふてくされている子どもっぽい感情をねじ伏せて、掠れた声でそっと呟いた。

 「・・・ごめん、な。」

 感謝と謝罪の気持ちを、四つの文字に詰め込んで彼に贈る。生憎と、二回転半ほどひねりの入った自分の性格では、これ以上の言葉なんて紡ぎ出せないけれど。
 背中に回された腕の力が強くなったから、多分彼には伝わったのだろうと思う。

 きつく、きつく抱き締められる。シャワーのように降り注ぐ雨が再び全身を濡らしていくが、そんなことは全く気にならなかった。
 鼻先を押し付けた首筋から香る、雨と微かな汗の匂い。おずおずと広い背中に腕を回せば、濡れた髪に柔らかな唇の感触があった。
 冷えた全身を包み込む、激しく強く、優しい抱擁。

 (ああ・・・やっぱり。)

 彼に触れられた場所からじんわりと伝わる熱が、体の奥の冷たい空洞を満たしていく。求めていたのはこの暖かさなのだと、はっきりと知らされた。
 同時に、さっきまで霧の中に隠れているように正体の見えなかった不気味な感情の正体が、はっきりと、鮮やかに見えてくる。

 ―――彼を怒らせてしまうほどしつこく絡んだのは、ほんの少しでも彼に抱き締めて欲しかったから。
 ―――通りすがりの猫の存在に安堵を覚えたのは、そのぬくもりを通して、ひとりではないことを確かめたかったから。

 (そっか・・・・俺は、寂しかったのか。)

 久しぶりすぎて名前すら忘れていた感情を掘り起こして、レイは珍しいものを見るようにその想いを観察した。
 寂しいと思うのは、ひとりではないことの心地よさを知ってしまったから。彼に触れられない時間に不安を覚えるようになってしまった自分に、レイは漠然とした不安を感じる。

 ―――ああ、これでは、自分は彼なしではもう生きていけないということじゃないか。

 何が『依存しっぱなしにはなりたくない』だ、と苦笑が零れる。自分はすでに、こんなにも彼に依存しているじゃないか。
 彼の熱を、言葉を、笑顔を、愛情を、信頼を、空気のように摂取しながら自分は生きている。普段は意識もしていないけれど、ほんの少しでも欠ければこの通り、息苦しくて歩くことさえ出来なくなってしまうんだ。
 捕らえられた細い身体から、溶ける様に力が抜ける。強い腕に身を委ねて、少年はぽつりと呟いた。

 「・・・お前のせいだぞ。」
 「え、何が?」
 「何でも。責任は取れよ。」
 「だから何の?」

 疑問符を浮かべる彼に小さく笑って肩に埋めていた顔を上げ、いつもより若干色の失せた唇に、そっと自分のそれを重ねて言葉を封じる。
 いつもより冷たいキスは、雨の味がした。

 (―――このキスが、終わったら。)

 喧嘩を止めて、二人の家に帰ろう。
 雨は、いつしか止みかけていた。

 

 ―――俺の心が生きていく上で、必要不可欠なもの。

 ―――それはたったひとつ、君の存在。

 

 

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<2004.10.6 アップ>