ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。小さな電子音が、作業の完了を知らせる。
ひょいと体温計を抜き取って、ユエはディスプレイに表示された数字に「うわあ」と顔をしかめた。
「・・・38度6分。」
「・・・うえ、聞いたら余計にだるくなったかも・・・・。」
そう言って、赤い顔をしたレイは、ぐったりとベッドに沈み込んだ。
歌声
「まったくもう・・・こんなになるまで放っとくなんて。いい加減にも程がありますよ。」
「・・・ワリ。」
もぞもぞと布団の中でうごめいているレイを軽く睨み、ユエは体温計をケースに仕舞いこんだ。ぼんやりと虚空を見上げている彼の額からタオルを取り上げ、汗に濡れた首筋を拭ってやる。気持ちよさそうに目を細めるレイに、眉間の皺がわずかに緩んだ。
「最近忙しかったですからね・・・疲れが出たのかな。」
「もう、ちょっとは大丈夫だと、思ったんだけど・・・・。」
「自分の体力ぐらい、いい加減に把握してくださいね。」
「へぇ〜い・・・。」
目を閉じたまま、力なく呻くレイ。病人をいじめているようで気が引けるが、このくらいは言う権利があるはずだ。帰ってきてキッチンを覗き、床にうずくまっている彼を発見したときは、冗談抜きで心臓が止まったのだから。
レイは、見た目よりは遥かにタフだが、その分疲労が見た目に出にくいという欠点があった。なまじ我慢が利きすぎる分、本人すら気づかないうちに体力の限界を超えてしまうときがあるのだ。その結果、脳より先に体が白旗を上げ、こういう風に突然高熱を出して倒れることになる。きちんと休めばすぐに下がるのだが、周囲の人間にとっては、心臓に悪いことこの上ない体質だった。
自分がいれば、ここまでひどくなる前に忠告をしたのだが。そう考えて、ユエは小さくため息をついた。生憎と、ここ一週間ほど遠方での仕事で家を空けていたため、彼の異常に気づくのが遅れたのだ。それが悔やまれてならない。いや、それとも、レイが倒れたときにギリギリ帰って来れたことに感謝すべきなのだろうか。
そんな事を考えていると、レイがふと苦しげに眉を寄せた。
「う〜・・・・・。」
「大丈夫?」
「あ、っつい・・・。干からびそ・・・・。」
「こら、布団を剥がない。我慢して・・・そう。もう眠っちゃいなさい。」
こういう時は、下手に解熱剤など飲むより、睡眠を取るのが一番だ。冷やしたタオルを額にぽんと乗せて、そう言ってやると。
「・・・・いやだ。」
がくり。
「あのね、治りたくないんですか?ちゃんと眠らなきゃ、熱は下がらないのは分かってるでしょ?」
こればっかりは、我侭を言われてもどうしようもないのだが。そう思いながら顔を覗き込むと、熱で潤んだ、漆黒の瞳と視線が合った。普段の鋭さを失った、焦点の曖昧な眼差しに、ユエの鼓動が小さく跳ねる。と、薄い唇が微かに開いた。
「こういう時、って・・・ろくな夢、見ねーから・・・寝たくない・・・。」
その言葉に、ユエがわずかに目を細めた。その手に、ふと熱い指が触れる。縋るように伸ばされた手を、ユエは大きな手でそっと包み込んだ。安心したように目を閉じたレイに、ユエの口元がふわりと綻ぶ。
めずらしく弱気になっているレイに、どうしようもない愛しさが溢れてくる。高熱に苦しんでいる彼には申し訳ないが、普段強気な彼にこんな風に素直に甘えられるのは、とても嬉しいわけで。
ひどい相棒だな、と自嘲しながら、ユエはそっと屈みこみ、レイの唇に触れるだけのキスを落とした。驚いたように薄目を開けた彼に、穏やかな微笑を向ける。
「怖い夢を追い払う、おまじないですよ。」
「・・・子供じゃ、ねーんだぞ・・・・。」
「おや、大人用のキスのほうがいいんですか?」
からかうように言ったユエ。もちろん、本気ではない(相手は病人だ)。ところが。
「うん。」
「・・・はい?」
「こんなんじゃ、足りない。」
「・・・あのね。ご自分が今どういう状態だか分かってます?レイ。」
「熱、あるな。」
「だったら・・・。」
「別に、伝染は、しないだろ・・・?それに・・・。」
絡み合った指に、力がこもる。
「・・・会うの、一週間ぶりじゃん・・・お前に、触りたいんだ。」
沈黙していたユエが、そっとレイの顔の横に手をついた。ぎしり、とベッドが軋む音がやけに大きく響く。
「・・・あんまり、挑発しないでくれませんか?襲っちゃいますよ?」
「だから、しようって、言ってるんだよ・・・。」
「ふぅん・・・じゃあせっかくの据え膳だし、頂こうかな。」
「・・・・ん・・・。」
ふいに細い顎に指を掛けると、ユエは深いキスを仕掛けた。一瞬体を強張らせたレイも、すぐに力を抜き、彼の舌を受け入れた。
綺麗に揃った歯列を舌先でこじ開け、柔らかい口内の皮膚をゆっくりと蹂躙する。いつもよりかさついた唇と、燃えるような粘膜の熱さが、彼の体調の悪さを物語っていた。
「ん、ん・・・・・っふ・・・・。」
解かれた髪の流れから覗く耳朶を指でなぞってやると、繋いだ指がぴくりと震えた。腕を回そうとするレイの肩を柔らかく押さえつけ、ベッドに縫いとめる。
激しくはないが深く長い口付けに、レイの眉が苦しげに寄せられ、うっすらと上気した肌に汗が滲む。最後に、絡めあった舌をひときわ強く吸って唇を解放してやると、レイは大きく息をついた。
「ふぁ・・・・はっ、あ・・・・。」
いつもより容易く息が上がった彼が、必死に呼吸を整えているのを見ながら、ユエはあっさりと体を離した。
「ん、ごちそうさまでした。」
「・・・・やんねーの?」
その言葉に、ユエはレイの鼻の頭をぴんと指ではじいた。「ふぎゃ」とつぶれた悲鳴を上げる少年に言う。
「病人相手にコトに及ぶほど、ケダモノじゃありませんよ。」
「・・・俺が、いいって、言ってるのに?」
「その台詞、全快してからもう一回聞かせてください。その時は遠慮なく頂きます。」
「あ、そ・・・・。」
気だるげに髪をかき上げると、レイは布団にもぐり込んだ。その額のタオルの位置を直しながら、ユエは静かに告げた。
「大丈夫・・・ずっと、傍にいますから。」
「・・・バカ。」
くすぐったげに布団にもぐりこむレイの耳が赤くなっているのは、熱のせいだけではあるまい。小さく笑ったユエが、繋いでいた手を布団の中に戻し、ゆっくりとその体を叩く。規則的な振動に、レイの瞼がゆっくりと閉じられた。
――――――
「・・・・・・?」
ふと聞こえてきた、小さな旋律。
うっすらと目を開けると、微笑を含んだアメジストの瞳がこちらを見ている。
聞いた事のない、けれどどこか懐かしいメロディー。
歌詞さえないそれは、たぶん思いつくままに歌われているのだろう。決して洗練されたものではなかったけれど。
――――――
それでも、低めの声でゆったりと紡がれる旋律は、どこまでも優しくて。
”子守唄って、こんな感じかな・・・・。”
温かい手の感触と、包み込むような歌声に、レイの意識はゆっくりと闇に沈んでいく。
「――明日は元気になってくださいね、レイ。」
眠りに落ちる瞬間。微笑を含んだ声が、そうささやいたような気がした。
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<2004.7.7 アップ>