―――自分以外の体温。呼吸。
そんなものに安らぐ日が来るなんて、思っても見なかった。君以外じゃ、こうはいかない。
だから少しでいい、そばにおいでよ。
眠り
「レイ?お風呂空きましたよー、って・・・・あれ?」
首にかけたタオルで、金髪を無造作に拭いながら戻ってきたユエは、無人のリビングを目にして小首を傾げた。視界に入るのは、真正面にあるつけっぱなしのテレビと、こちらに背もたれを向けているソファの後姿だけ。自分がバスルームに向かう前には、ここでテレビを見ていたはずの相方の姿が無い。
つけっぱなしのテレビの中には、安っぽい茶髪の男とやたらに化粧の濃い女のラブシーン。自分は全く興味が無いが、彼はこのドラマを毎週面白がって見ていたから、さっさと部屋に引き上げてしまうのは珍しい。
『それにしたって、テレビくらい消していってくれればいいのになぁ。』
仕事となれば、どんな事でもきっちりと正確にやってのけるくせに、家の中ではその反動のようにずぼらな所のある少年に苦笑しながら、ユエはソファに近づいた。とりあえず、彼がもう見ないならテレビは必要ない。そう考え、テーブルの上のリモコンに手を伸ばしたとき。
「・・・・ん・・・・・・。」
「え?」
小さなうめき声。視線を下げたユエは、ソファに丸まって眠り込んでいる黒猫を見つけ、目を瞬かせた。
「なんだ・・・いたんだ。」
テレビを見ているうちに眠くなったのか、レイはソファで熟睡していた。寝息がテレビの音でかき消されていたのと、その姿がソファの背もたれで隠れていたので気付かなかったのだ。伸びやかな手足を胎児のように縮め、無心に眠る少年。ユエは髪を拭いながら、しばしその寝顔を堪能していた。
『それにしても、よくこの狭いスペースで丸くなって寝れるよなぁ、この人は・・・。』
かなり無理のある体勢を苦にした様子も無く、幸せそうにすよすよと惰眠を楽しんでいる少年に、ユエは素直に感心した。自分がやったら確実に筋を痛めそうだ。きっと彼は、相当に身体が柔らかいのだろう。
そんなことをぼんやりと考えていたユエは、小さく身じろいだ彼の手が、何かを探すように周囲を探っているのを見て苦笑した。いくら室内とはいえ、そろそろ木枯らしが吹こうかという季節にTシャツ一枚では流石に寒かろう。
子どものようなその様に忍び笑いを零し、足音を立てないように気遣いながらリビングを横切って、ユエは自室から薄手の上掛けを持ってきた。ふわりと肩に掛けてやると、無意識のうちに寄せられていたレイの眉が緩み、ごそごそと鼻先まで潜り込んでしまう。その様子を眺めながら、ユエはそっと床に座り込み、頬に零れた髪を耳にかけてやった。指先をくすぐる吐息に、唇が綻ぶのが解る。
優しく、優しく。彼の穏やかな眠りを妨げないように、艶やかな黒髪を指先で梳き流して、ユエは指の隙間からさらさらと零れ落ちる感触に目を細めた。
―――人の憎しみや、欲望や、裏切りを嫌でも見なければならない商売だけれど。
こんな何気ない時間が、人間をやっているのも悪くないと思わせてくれる。
『なんだか、信じられないな・・・・。』
人との接触を疎んじて生きてきた自分が、誰かの眠りを守ろうとするようになるなんて。
そして、たったひとり求めたその人が、同じように自分を求めてくれたなんて。
―――それは、何億分の一の確率で手に入った奇跡。
それを手に入れた自分は、誰よりも幸せ者だと、心から思う。願わくば、自分に与えられたこの幸福が、いつまでも続きますように。
心の中で呟いた青年は、祈るように、そっと目を閉じた。
・・・浅い眠りの中で。何かが、髪に触れているのを感じていた。
さざ波のように繰り返し、繰り返し。まるで羽根が触れるような、優しく、柔らかな感触。この上なく無防備なところを晒しているというのに、飛び起きようという気はさらさらなかった。眠気のカーテンがかかった意識はそれが何なのかすら教えてはくれなかったが、その感触が、決して自分を傷つけようとするものではないと、自分は心の奥でよく知っていた。
(何だ・・・・?)
ふう、と。水面から顔を出すように、意識が覚醒する。眠気で焦点のぼやけた目を瞬かせたレイは、身体を覆っている上掛けに気付いて微笑んだ。いつの間に眠ってしまったのか知らないが、ユエが気を利かせてくれたらしい。世話焼きな相方に礼を言おうと起き上がったレイは、思いのほか近くに探していた金色を見つけ、動きを止めた。いつも傍にある、見慣れた光。
「ユエ・・・?」
自分が横たわっていたソファに背を預けて、床に座り込んでいる青年。その頭が、妙な角度に傾いている。器用に片胡坐をかいた体勢で、彼は眠っていた。
「俺に毛布掛けといて、自分は床で寝てるって矛盾してるよな・・・。」
自分に布団をかけて、そのまま眠ってしまったのだろうか。そっと髪に触れると、湿り気を帯びた金髪はひんやりとした感触を伝えてきた。湯上りにこんな所にいたら、湯冷めから風邪への最短コース直行だろうに。まあ、基礎体力づくりはきっちりしているから、簡単に体調を崩しはしないだろうが、身体に良くないことに変わりはない。
―――ぎし。
ソファが微かに軋む。上掛けを纏ったまま床に下りると、レイはまじまじとユエの寝顔を覗き込んだ。
『こいつが、居眠りしてるなんて何気に珍しいかも。』
見れば見るほど、綺麗な顔をした男だと思う。普段は大抵穏やかな微笑を浮かべているのでそれほど気にならないが、こうして黙って目を閉じていると、彼の美貌はほとんど人形めいた美しさを帯びて見えた。
「・・・ま、こんな口うるさい人形はいねぇけど。」
ぼそりと呟いたその口調に照れが混じっていることに、彼自身は気付いていたかどうか。何だかんだ言いつつも、自分を心配したり、時には叱る青年の言葉は、彼にとっては何よりも大切なものだったから。
『言ったら付け上がるから、当分の間はナイショだけどな。』
くつくつと笑い、普段より冷たい頬に掌を当てる。いつもならユエの方が若干体温が高いのだけれど、今は布団に包まっていた自分の方が温かい。いつもユエがしているように、自分の体温を分け与えるように、そっと首に腕を回した。冷えた身体に優しく寄り添った温もりに、金色の睫毛が微かに揺れ、深い紫の瞳が薄っすらと覗いた。
「・・・・ん・・・・あ、レイ・・・・。」
「おはよ。」
「あー・・・寝ちゃってましたか・・・・。」
「いいじゃん、もう少し寝ようぜ。」
「ベッド行きません・・・?」
「ヤだ。ここがいい。」
「・・・・・。」
まだ半分眠りの中にいるらしいユエは、反論するのも面倒とばかりにあっさりと目を閉じ、レイの身体を抱き寄せた。上掛けで二人の身体を包み込んだレイが大人しくその肩に頭を預けると、こつん、という音と共にその頭に重みがかかる。自分の頭を枕にして眠り始めたユエに、身動きが取れないなぁと思いながらも、レイも静かに目を閉じた。たまにはこんな夜もいい。
世界から隔絶されたような、小さな小さな空間の中。
互いの体温だけをただ感じながら、二人だけの夜は、静かに更けていった。
・・・次の朝、けろりとしていたレイとは裏腹に、ユエは背中と腰の痛みに顔をしかめていたとか。
・・・それを見たマスターに、あらぬ誤解を受けて弁明するユエの姿があったとか。
まあそれは、また別の話である。
←back
<2004.10.19 アップ>