『睨む』――――身長差にも関わらず向けられる、鋭い視線。
『眺める』―――半分意識を余所にやりながらの、曖昧な視線。
『見つめる』――何かを求める意志を込めた、熱い視線。
・・・・さて、今の彼の視線はどれに当てはまるのだろう?
まなざし
―――さっきから、視線を感じていた。
別に不快なものではない。視線の主は、僕の部屋の隅に蹲っている黒猫なのだから。
僕の部屋は決して狭くはないのだが、パソコンその他の周辺機材、及び本棚から溢れて床の上に小山を形成している書物のため、露になっている床の面積はかなり狭い。だが、彼はそんな室内の状態にも慣れたもので、積み上げられている本の山の隙間に潜り込んで、大きなクッションの上に丸くなっていた。その体勢のままに、ぼんやりと開かれているその瞳は、さっきから僕の横顔に固定されたまま動かなかった。
(・・・・飽きたな、あれは。)
十分前までは、部屋にあるCDをとっかえひっかえしていた彼だったが、どうやら音楽鑑賞にも飽きたらしい。そもそも、プレーヤーならば自分の部屋にもあるのだから、別に音楽が聞きたかったわけではあるまい。わざわざここに来たのは、多分僕に遊び相手になって欲しかったのだろう。
彼は構って欲しい時、じっとこちらを見るという癖がある。普通にじゃれ付いてくる時もあるが、こちらの都合で相手になってあげられない時や、喧嘩をしていて素直に構って欲しいと言えない時など、少し離れた所から黙ってこちらを見ている時があるのだ。そう言うと否定されるので、どうやら本人は意識してやっているわけではないらしいが・・・まるで捨て猫のようなその様子を見ていると、どうしても放っておけなくなってしまうのだから性質が悪い。傍でぎゃあぎゃあと騒がれた方がまだ無視しやすいというものだ。
そんなわけで、普段ならばその「構ってコール」を出されたら、多少忙しかろうが疲れていようが相手になるのだけれど・・・・。そう考えて、僕は手の中の分厚い紙の束に視線を落とした。
(これ、まだ読み終わってないんだよなぁ・・・・。)
本ではない。さっき届いたばかりの、最先端の遺伝子研究に関するいくつかの論文である。未発表なのだが、とある伝手を辿って入手したもので、非常に興味深い内容だ。前々から気にしていた資料である事もあり、正直な気持ちを言えば、今日のうちに一気に読みきってしまいたい所であった。
こちらを気にしながらも大人しくしているところを見ると、彼もそれは承知しているのだろう。じゃれかかりたいのを我慢して、僕の用が済むのを待ってくれている。静かに気配を消している彼に心の中で謝り、その頭をぐりぐりと撫で回してやりたいのを抑えて、僕はさっさと読み終えるべくページをめくった。
・・・と、その時。
―――へくしっ。
・・・小さなくしゃみの音が、沈黙を破った。
資料から目を離して音源へと視線を向ければ、ばつの悪そうな顔をした彼が鼻の下を擦っているのが見えた。子どものようなその仕草に、思わずくすりと笑みが零れる。その声に目を上げた彼と、真っ直ぐに視線が合った。
―――睨むというほど鋭くはなく。
―――眺めるというほど無関心ではなく。
―――見つめるというほど、真剣でもない。
あえて言うならば、親に「仕事があるからちょっと大人しくしてなさい」と言われた子どものような、許可さえあれば喜んで飛びつくぞーと言わんばかりの視線とでも言おうか。床の上に転がりながら笑みを含んだ目で見上げてくる彼に、僕はとうとう白旗を揚げた。
(あーもう・・・ダメだこりゃ。)
視線が気になって集中するどころではない。天を仰いで嘆息すると、僕は資料を膝の上に置いて彼を手招いた。
「・・・ほら、おいで。」
ぴくん、と反応した彼が頭を起こす。さらっと零れた髪にも気付かぬように首を傾げる彼を、さらに呼んだ。
「クッションに乗ってたって、床じゃ寒いでしょう?」
その言葉に嬉しそうに笑い、クッションを引きずりつつ四つん這いで近寄ってきた彼が、ぽすりと僕の膝に頭を乗せた。結われていない髪が、ぱらぱらとスラックスの上に散らばる。僕は座椅子に腰掛けているので、頭が高くなりすぎぬようにと自分の下半身にクッションを宛がって高さを調節し、体勢を落ち着けると、彼は僕の腰に片腕を回して抱きついて満足そうな吐息を零した。腹の辺りにぐりぐりと鼻先を押し付けてくるので、くすぐったくてしょうがない。
「こらこら・・・大人しくしてなさいって。」
膝にかかる心地よい重みとぬくもりを感じながら、細い髪に指を差し入れてゆっくりと梳いてやると、彼は全身から力を抜いて大人しくなった。髪から耳へ、細い首筋へと掌を滑らせると、彼は嫌がるどころか軽く喉を反らせてみせる。ごろごろと喉を鳴らす猫のような仕草に目を細めて、僕は柔らかい髪を手遊びのようにいじりながら、再び手元の活字へと視線を落とした。
(今日は、随分と甘えたがりな事で・・・・。)
まあ、寒い日は人肌が恋しくなるものだし。
左手で彼の頭を撫でながら、右手でページをめくる。僕は再び、資料の内容へと意識を集中させていった。
―――そして、二十分後。
「・・・・・どうすればいいのかな、これは。」
読み終えた資料片手に、僕はぼんやりと呟く羽目になった。
分厚い資料も読み終えた。いい加減膝も痺れてきた。そろそろ気分転換にコーヒーでも飲みに行きたいところなのだが・・・・。
「・・・・起きてー、レイー・・・・。」
「・・・・・・・・。」
返事はない。僕の腰に抱きついたまま気持ち良さそうに寝入ってしまっている彼をそっと覗き込んで、僕は小さくため息をついた。やけに静かだと思ったら、いつの間にか夢の世界に旅立ってしまっていたのだ。あまりにも幸せそうな寝顔に、起こしてしまうのもなんだか可哀想な気がするのだけれど、これでは動くに動けない。紙の束でぽんぽんと自分の肩を叩いて、ぐったりと天井を仰いだ。
(・・・・あー、これはもしかして、アレか?)
俗に言う、猫が膝で丸まっちゃって動けなくなるというあの状態か。
暖かい毛並みを何となく撫でている時、ふとある事を思い出した。数年前――まだレイと出会う前に、僕の数少ない友人の一人が言っていた言葉だ。無類の動物好きであった彼は、自宅で5匹ほどの犬や猫を飼っていて、事あるごとにその動物たちについて嬉しそうに語るのが常だった。
”・・・・もう、僕にくっついてぐっすり寝ちゃってさー。身動き取れなくて困った困った!三十分くらいトイレにも行けなくて死にそうになったよ!!”
困ったと言いながらも豪快に笑っていた彼。当時の僕は、それに適当に相槌を打ちながら、たかが小動物の一匹や二匹、邪魔ならば引っ剥がして放り投げてしまえば万事解決だろうにと内心思っていたものだった。
・・・だが、今なら解る。
こんな、自分のそばで安心しきってふにゃふにゃになっている動物を前にして、そんな行動に出られるわけがない。何の躊躇いも無くそんな事が出来るのは、相当な動物嫌いか、血液の代わりに血管に氷水が流れている人種くらいなものだ。
あまつさえ、その動物に対して少なからぬ愛着を持っていたら?・・・結果など、火を見るより明らかだ。最初からこちらに勝ち目などあるわけもない。
「・・・やれやれ。」
どうにかこの状況から脱出しようと検討を重ねていたのだが、それもなんだか馬鹿らしくなってきて、僕は座椅子の背もたれに体重を預けて思考を放棄した。彼が起きるまで付き合う覚悟を決めて、身体から力を抜く。
膝に伝わる体温と、深い呼吸の度に緩やかに上下する肩。起こさぬようにそっと腕を伸ばし、傍らにあるベッドからそっと毛布を引きずり落として、細いその肩に掛けてやった。
”・・・・・でもさぁ。足が痺れても、身動きできないのがしんどくてもさ、こっれがまた可愛いんだよな〜・・・・・・。”
(・・・・確かにね。)
君は正しかったよと、心の中でかつての友に語りかけ、くすくすと笑った。膝に伝わる微弱な振動に、彼がむずかるようにごそりと身じろぐ。
(早く起きて欲しいけど・・・・ま、暫くはいいか。)
―――自分のそばで安らげるというなら、ゆっくりと穏やかな眠りを楽しめばいい。
―――その瞳が、再び自分を映すその時まで。ここで君の眠りを見守るから。
今は閉じられている双眸を覗き込んで。僕は手にした論文を、無造作にベッドの上へと放り投げたのだった。
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<2005.2.18 アップ>