―――ああ、何でこんな事になったんだ。
冴羽零、19歳。彼は今、身をもって、世の無常を噛み締めている所であった。
「・・・あのさ、アスカ。」
「ん、なーにー?」
「・・・・俺、ちょっとだけ泣いてもいい?」
「嬉し泣き?」
「なんでだよ!」
「あんたねー、この状況でなんで泣くのよ失礼な。大抵の男は大喜びするわよ?このシチュエーション。」
「ああそうだね若くて美人なお姉さまと小さな密室でふたりきりであまつさえこっちは服を剥がれかけてるって普通それは美味しいシチュエーションだよね男からすれば!!」
「わーノンブレス。すごい肺活量ねあんた。」
少年の猛抗議にけろりとそう返すと、鳶色の瞳のうら若い美女は、再び彼のジャケットに手を掛けた。黒い厚手のそれは既に大きく前が肌蹴られ、ずり落ちた襟元から、少年の白く細い左の肩が覗いている。「下、ランニングで寒くないのー?」などと言いながら、さらに服を剥ごうとしてくる彼女に、少年の頬が紅潮する。
「あーもー、やめいっ!!自分で脱ぐから痴女みたいな真似はよせ――っ!!!」
―――彼の悲鳴は、階下にも響き。
店でコーヒーを啜っていた本郷とマスターは、顔を見合わせて苦笑した。
知らないひと
先ほどから、何やら頭上で響いている騒音。その合間に時折聞こえてくる、聞き覚えのある少年の声に、本郷は口に含んだコーヒーを嚥下して天井を見上げた。
「・・・台詞だけ聞いてると、色っぽくない事もないんだがな。どう聞いても、レイが襲われてるようにしか聞こえないのは俺だけか?」
「いや、俺にもそう聞こえる。」
「やっぱり?」
多分、実際の光景を見てもそう見えるに違いない。心底楽しそうな顔で少年の服を剥ごうとしている女性と、させまいと抵抗する少年。あまりにもリアルな想像に、本郷は思わず苦笑した。まったく、自由奔放で無意識に男を惑わすあの黒猫を、あそこまで困惑させられる人間など、今の所は黒猫自身の相棒を除けば彼女くらいである。この店に来てそれほど長いわけではないが、持ち前の明るさと物怖じしない度胸の良さで、あっという間に常連たちに馴染んだ彼女。なかなか人に懐かない黒猫も、年上で姉御肌の彼女の事は気に入っているらしく、店に来た時は楽しそうに話し込んでいる時もあった。
だが今は、レイの声にはそんな明るい響きなど欠片もない。また何やら悪戯を仕掛けられたのか、早く出てけっとレイが叫ぶのが微かに聞こえた。その声に含まれているのは怒りというより、マジでもう勘弁してくださいという懇願の色が強い。半泣き一歩手前のその声に、本郷はくっくっくと押し殺した笑いを零しながら、煙草を一本口に咥えた。
「あーあ、いつもの小生意気な顔は何処にやったんだかねェ。まるでいじめられっ子じゃねぇかアイツ。」
「実際、レイにとってはいじめられてるようなもんだろうよ。」
「?マスター、二階で何やってるか知ってるのか?」
「ああ。女装だと。」
「・・・・・は?」
ぽろり。フリーズした本郷の口から、煙草が落っこちた。
「・・・・女装?」
「そう。」
「・・・・誰が?」
「普通女装って言ったら、男がするもんだと思うが。」
「って事は・・・・ええええ―――!!?」
本郷の驚愕の声が店内に響く。間髪入れず、二階から「勇うるさい!!」というレイの罵声が飛んできた。自分も散々騒いでおいて言う台詞ではなかったが、本郷はそれに突っ込みを入れる余裕もなく、半ば八つ当たり的に投げつけられた罵声は無視して、マスターに詰め寄った。
「嘘だろ!?あいつ、女装なんて仕事でもなけりゃ絶対やらないはずなのに!」
「ああ。現に今、死ぬほど嫌がってるよ。」
「何でまたそんな展開に!?」
「・・・いや、最初はただのからかいだったんだけどな・・・・。」
「?」
乾いた笑いを零したマスターは、視線をどこか遠くに彷徨わせながら訥々と語った。
「この前、夏木君が何かの折に、『レイって女装似合いそうだよね』とか何気な〜く口にしちまってなァ・・・勿論冗談だったんだが、レイはほら、自分の中性的な容貌をからかわれたと思ったんだろうな。結構きつく言い返しちまって、それにまた彼女もカチンと来たらしくて・・・ちょっとした口喧嘩になっちまったんだわ。」
「へえ・・・・。」
「それで夏木君も、何が何でもレイに女装させてやるって息巻いちまってな。『カードであたしが勝ったら、一日あたしの選んだ服着なさい!』って啖呵切ったんだ。」
「うわ、やるう。・・・・彼女が負けたら?」
「『バニーガールでも裸エプロンでも、あんたの指定どおりの格好で一日仕事してやるわよ』、ってさ。」
「・・・・ご立派です。」
女性であるアスカが男物の服を着ても、大した罰ゲームにはならない。彼にとっての女装と同じくらい抵抗のある服装を、自ら提示した辺り、勝負に公正を期する彼女のスポーツマンシップが表れている。
「レイも最初は軽く流してたんだが、『あんた実は勝つ自信ないんでしょ』とか言われて、とどめだな。本気になって勝負してたよ。」
「で、負けたわけだ。レイも結構どころじゃなく強いのにな、カード。」
「彼女、フルハウス以下は一度も出してなかったぞ。」
「・・・鬼だな、それは。」
レイとて、まさか負けるとは思っていなかっただろう。かといって、今さら逃げるのも許しを請うのもプライドが許さず、泣く泣く彼女の着せ替え人形になっているに違いない。
流石に彼に同情した本郷は、ついに諦めたのか、さっきからやけに静かになってしまった二階の様子を窺いながら、ふとある事に気付いてマスターに尋ねた。
「そういや、ユエはこの事知ってるのか?その・・・いくら他意はないとはいえ、若い女とレイがふたりっきりで・・・しかもその状況でレイが服を脱がされてるって、ちょっと問題じゃないか?」
「いや・・・まあそれは大丈夫だ、多分。ここで今何が行われてるかユエは知らないが、それで妙な誤解を招く事はないから。」
「?ならいいけど・・・・。」
マスターらしからぬ歯切れの悪い物言いが気になったが、彼が大丈夫だというなら大丈夫なのだろう。あっさりと心配事を完結させた本郷は、カウンターに落としたままだった煙草を拾い上げ、ライターを求めて懐をごそごそやりながら、にししと笑った。
「くくく、あのガキが女装かぁ・・・写真撮って流したら高値で売れそーだなー・・・・。」
「そうだなぁ・・・けどあの世に金は持って行けないんだぜ、勇・・・?」
不意に頭上から降ってきた、不気味なほどに静かな声。顔に笑いを貼り付けたままぴきっと凍りついた本郷の喉元に、ひたりと押し付けられた冷たい感触が、つつー・・・と肌の上を滑っていく。ぎぎぎ、とロボットのようなぎこちない動きで両腕を挙げ、本郷は背後から漂ってくる極寒の冷気にだらだらと冷や汗を流しながら、固まった舌を強引に動かした。
「うんそうだよな、人の肖像権を勝手に侵害するのは犯罪だよな!解ってる、解ってるよー俺は!」
「ああそうだよな、勇は法を守る警察官だもん、そんな事するわけないよなぁ。・・・・・・・・・・くだらねぇ事企んでんじゃねぇよこのタコ。」
最後に耳元でどすの利いた捨て台詞が吐かれると、喉元に押し付けられていたナイフがすっと引かれた。冗談抜きで、首を動かしたら即あの世逝きという位置に押し当てられていた凶器が外れた事に安堵の息をつき、本郷は背後の加害者に向かって勢いよく振り返った。
「レイッ!!テメェいくらなんだってナイフは危ねぇ、だ、ろう・・・・・・。」
喧嘩腰だった語尾が尻すぼみになり、消える。本郷はその人物を前に、目と口を最大限に開いたまま硬直していた。
何とも言えない沈黙の中。石像と化した本郷の手から、拾い上げたばかりの煙草が、再びぽろりと落っこちた。
+++
(―――遅いなぁ・・・・。)
ユエは何度目の事か、左手首の時計を覗き込んでため息をついた。顔を伏せた途端、ぱさりと目の上に落ちてきた茶色の前髪を、鬱陶しげにかき上げる。その仕草と、長めの前髪の下から現れた端整な美貌に、周囲の女性たちが頬を染めて見入っている。だが、当の本人はそんな反応など全く意に介さず、人ごみの中から待ち人の姿を探すべく、じっと周囲に気を配っていた。
何しろ、彼は自分が待っている人間がどんな人なのか、全く知らない。と言っても、別に出会い系サイトで知り合った女性と初めて逢うとかそういうわけではなく、純粋な仕事である。今日は鳶色の瞳の美人さんに、ある人に手紙を届けて欲しいと頼まれてやって来たのだ。
彼女から渡されたのはごく小さな封筒と、待ち合わせの場所と時間を書き付けたメモだけ。そこが人通りの多い、待ち合わせに多用されるスポットだと知っていたユエが、これでは誰に届ければいいのか解らないと言った所、彼女はその人の非常に解りやすい目印を教えてくれた。それは。
(左手だけに手袋、ねぇ・・・?まるでレイみたいな目印だな。)
いつも左手に黒い手袋を嵌めた少年を思い出し、ユエはくすりと笑う。そう言えば、彼は今朝、何やらひどく浮かない顔で出かけていったが、一体何の用事だったのだろう。自分に何も言わないという事は、深刻なトラブルというわけではないのだろうが。
(帰ったら、訊いてみようかな・・・・ついでに、ちょっと驚かせてやってもいいかもしれない。)
今の姿のまま家に帰ったら、彼は一目で自分だと解るだろうか。悪戯を企む子どものように、少し楽しくなりながらそんな事を考えていたユエは、周囲が不意にざわついたのに気付いて顔を上げた。彼らが一様に、ぽかんと視線を送る方向に目をやれば、そこには。
「え・・・・・・・。」
―――息を呑むほどに可憐な、一輪の華が佇んでいた。
極上の絹糸を思わせる漆黒の髪は、一筋の乱れもなく梳られ、サイドの髪だけがふわりと後頭部で纏められている。背中に流されたままになっている大部分の髪は、持ち主の些細な動きに合わせてさらさらと揺れ、見るものの視線を惹きつけた。
着ているのは、温かそうなセーターと、繊細な襞が入った長めのスカートだ。まるで愛らしい少女のような装いに、黒のレザーで揃えたブーツとジャケットが、ほんの少しのアクセントを添えている。かつかつとブーツの踵がアスファルトを打つ度、スカートの裾が花びらのようにふわりと舞う。それを軽やかに捌く様といったら、まるで花の精のようだった。
着飾った女性たちが闊歩するこの場において、一瞬で人々の目を釘付けにしたそのひとは、誰かを探しているように、そっと周囲を見回した。ごく淡い化粧に彩られた繊細な美貌に、一瞬視線が合った男たちが赤面し、次いで色めきたつ。だが、「彼女」はそんな男たちの反応には目もくれず、じっと周囲に視線を流している。その視線が、同じく「彼女」を注視していたユエのそれと、真正面からぶつかった。きらきらと輝く大きな眼が、驚愕にさらに見開かれる。
「!!?」
白磁のような頬にぱっと朱が差し、「彼女」が素早く踵を返す。足早に立ち去ろうとしたその人の手を、ユエは咄嗟に掴んでいた。
まさか、そんな。頭の中で信じられないという言葉が踊り回るが、掴んだ細い手首の感触は、彼のよく知っているものだった。ユエの視線から逃れようと、首を捻って顔を伏せるそのひとに苦笑して、ユエはそっと声をかけた。
「・・・・待っていましたよ。」
「・・・・・・。」
おずおずと上げられた視線が、絡み合う。戸惑ったような光を浮かべる黒曜石に微笑んだユエは、そっと掴んだ手首を引き寄せた。逆らうように、僅かに手首を引こうとした「彼女」に、そっと囁く。
「場所を変えましょう。ここは人の目が多すぎる。」
「・・・・・・。」
躊躇いがちに、それでもこくりと頷いた「彼女」が、そっとユエの手を握り返す。寒風に晒されていた掌に、黒い手袋越しの体温を感じながら、ユエは一回り小さな手を引いて、足早に歩き出した。今さらながらに、自分たちに浴びせられる周囲の視線――その中でも特に、男たちが「彼女」に向ける好色な視線が気になったのだ。このひとを、そんな視線に晒しておくのはごめんである。
軽く、しかしはっきりとした意志を持って、黒いレザーに包まれた肩を抱き寄せた彼に、背後のギャラリーから再びどよめきが起こった。羨望と嫉妬が入り混じったそれを綺麗に無視して、一刻も早くここから離れようと、「彼女」に合わせつつも足を速める。
ほんの少し緊張しつつも、肩を抱く手を振り解こうとはしないそのひとに微笑んで、ユエは歩きながら、思わずぽつりと本音を零した。
「やれやれ・・・・彼女も、もう少し待ち合わせ場所を考慮してくれればいいのに。」
「?」
「だって勿体ないと思いませんか?大勢のギャラリーに、あなたのこんな艶姿を公開するなんて!」
「・・・・・・・。」
バカ、と言わんばかりに、脇腹を小突かれる。くすりと笑ったユエは、角を曲がり、大通りから一本外れた、静かな裏通りへと「彼女」を連れ込んだ。表の喧騒が嘘のように、しんと静まり返っている路上に人の姿がないのを確かめて、そっと腕の力を緩める。途端、スカートの裾を翻して、美しい蝶がひらりと腕の中から逃げ出した。
自分に背を向けて顔を覆ってしまったそのひとに、ユエは優しい視線を向けた。
「どうして隠してしまうの?もっとよく見せて下さいよ。」
「っあー、もうサイアク・・・・・頼むから見ないでくれよ、もぉ・・・・。」
水晶の鈴を弾いたような、澄んだ声。女性にしては少し低めのそれは、乱暴な言葉遣いであってもなお、ひどく心地よく聞く者の耳を擽った。
聞き慣れた声。聞き慣れた言葉遣い。それがなおさら今の姿とは不似合いで、ユエはこみ上げてくる笑みを抑えることが出来なかった。
「僕は見たいんですけど」
「俺は見られたくない」
「まあ、こんな事言ってもあなたは喜ばないと思いますけど。その姿、とても綺麗ですよ?―――レイ。」
「バカにされてるとしか思えないよ・・・・。」
気のせいかちょっと涙ぐんだ声で呟いて、のろのろと顔を上げた「彼女」――否、長年連れ添った相棒である冴羽零その人に、ユエは満面の笑みを浮かべた。
「バカになんかしてませんよ、本気ですって。・・・うわー、どうしよう本気で可愛い。帰ったら写真撮っていいですか?」
「い、いいわけあるか!!んな事したら速攻でパートナー解消してやるからなっ、絶交だ絶交!!」
「・・・・そこまで嫌ですか。」
絶交ってアンタは小学生かと心の中で突っ込みつつ、どう見ても本気で言ってる彼に苦笑して、ユエはひょいと一歩下がった。証拠を残せないならせめてこの眼に焼き付けておこうと、じっくりと爪先から頭の先まで観賞する。
カジュアルかつシックにまとめられた装いと、艶やかな髪の美しさを活かしたシンプルな髪型。そして何より、ベージュやピンクを中心としたごく淡いものであるにもかかわらず、彼本来の顔立ちの美しさを最大限に引き出しているメイク。ごてごてと飾り立てるのではなく、彼自身の魅力をさらに輝かせるその手法に、ユエは感嘆の吐息を漏らした。
「・・・それやったの、夏木さん?」
「?うん。」
「・・・いい仕事してるな。」
「何の!?」
真顔で呟かれた台詞にもう嫌だと頭を抱え、レイは力ない動きで、肩に掛けていた小ぶりなバッグ――勿論女性用だ――を探った。取り出した小さな封筒を、無造作にユエの胸元に押し付ける。
「何ですかコレ?」
「アスカから預かってきた。・・・・ったくもぉ、渡す相手がお前だなんて聞いてねぇっつーの・・・・・。」
「?じゃあ、どんな人に渡せって言われたんですか、コレ。」
「待ち合わせの場所だけ言われて・・・『そこにいる中で一番目立ってる、茶髪で茶色い眼の若い男に渡して来い』って。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・まさか、そんな妙な変装してるお前が立ってるなんて予想外だった。」
胡乱な眼で見上げられ、ユエは苦笑した。確かにその指定から、自分を連想するのは不可能だったろう。
月光を紡いだような金糸は、今は優しい茶色に染められ、軽く後ろに流してある。トレードマークのサングラスも外し、アメジストの瞳には鳶色のカラーコンタクトを嵌めているので、普段の彼とは別人のようだ。いつもは隠されている端整な美貌を惜しげもなく晒しているせいで、別の意味で注目は集めていたが、彼が《よろず屋》の玖月故だと気付く者はまずいないだろう。
「好きでやってるんじゃないですよ。依頼主の指定ですからね、この変装は。・・・はい。」
「へ?」
「こっちは、僕が夏木さんから預かってきた手紙です。『左手に手袋を嵌めた君』への便り。」
「!!」
自分たちが彼女によって、それぞれ変装させられた上でここに集められた事を知ったレイは、何企んでやがるあの女と歯軋りした。差し出された封筒を引ったくり、びっと破いて中身を取り出す。
中に入っていたのは、小さなメモが一枚きり。そこに綴られたごく短いメッセージに、素早く視線を走らせる。曰く。
《レイへv
あたしの選んだ服、気に入ってもらえた?とりあえず、これで勝負の結果はチャラね。このメモ読んだら、いつ着替えてもいいわよ。
・・・でもせっかくだから、そのままユエとデートでもしてあげれば?きっと喜ぶと思うわよー☆ by アスカ》
・・・・・・・・・・。
「・・・出来るかァ――!!」
読み終えた途端メモを真っ二つに引き裂いたレイは、憤然として踵を返した。かつかつとブーツを鳴らし、付き合ってられるかと言わんばかりの勢いで歩き出したレイの腕を、ユエがひょいと掴み取る。
「レイ、何処行くんですか?」
「帰るに決まってるだろ!?こんな悪趣味な服、一秒でも早く着替えたい!!」
「えー、そんな勿体ない。夏木さんもこう言ってる事ですし、ちょっとその辺ぶらついていきません?」
どうやら同じ内容だったらしい自分宛てのメモをひらりとかざし、爽やかな笑顔で言ってくる相棒の言葉に、レイの額にぴきっと青筋が浮かんだ。
「・・・・ユエ。そんなに俺を怒らせたい?」
「いえいえいえ、そんな事は決して。」
「そっちは面白がってんのかもしれねぇけどな〜・・・こんな格好で街中歩くなんて、こっちにとっちゃ屈辱もいいとこなんだよ!!やってられるか!!」
「貴方がその格好を嫌がってるのは解ってますけど。でも・・・・」
「でも!?」
「・・・貴方と寄り添って歩ける、滅多にないチャンスじゃないですか。」
「!?」
思いもかけないことを言われ、レイが虚を突かれたように黙り込む。その肩から滑り落ちた髪を一房、指に絡めて弄びながら、ユエはほんの僅かに苦味を含んだ微笑を浮かべた。
「今の姿でなら・・・誰も僕達だとは解らない。寄り添って歩いたって、誰にも咎められない。そうでしょう?」
「・・・・それは・・・・・。」
言葉が出てこない。認めたくない事ではあったが、彼の提案に、心が揺れるのが自分でも解った。
自分たちは男同士で、仕事上のパートナー。世間に公開できる関係ではないのだから、人目を憚らずに彼に甘えるなど、普段ならば決して出来ない。
それが不満だと言うわけではない。自分たちの家という、何よりも安心できる場所があり、自分たちの関係を受け入れてくれる友人たちもいる。それだけで、十分すぎるほど恵まれた環境だと、レイは心から思っている。
それでも・・・・時々。本当に時々、ごく普通の恋人たちが羨ましくなる事もある。仲睦まじく指を絡め、寄り添って歩く恋人たち。幸せそうなその様に、自分と彼の姿を重ねた事が一度もないと言ったら嘘になる。これほどに惜しみない愛情を捧げてくれるひとを手に入れておいて、さらにそんな触れ合いまで求めるのかと、自らの欲深さに自嘲の笑みを浮かべた記憶が、ふと蘇った。
―――でも、今だったら。
ふわふわとしたセーターの胸元を、ぎゅっと握り締める。落とした視線の先で、長いスカートの裾がひらりと揺れた。
普通ならば絶対に身に纏う事のない衣装。その力を借りて、ほんの少しだけ、彼に甘えても許されるだろうか。
ちらりと見上げれば、彼はにこにこと笑いながらこちらを見ている。こちらの答えを待っているように見えるが、促すようなその瞳は、半ばその答えを予期しているようでもあった。素直に彼の望み通りの答えを返してやるのも癪で、レイはその視線から逃れるように、ふいっと顔を背けた。
「このスカート、脚に絡んで動きにくいんだぜ。」
「はい。」
「ズボンと違って、脚がすーすーするし。」
「はい。」
「・・・ファンデやら口紅やらで、顔は何となくべたべたして気持ち悪いし。」
「はい。」
「・・・だから、寄り道はしない。」
「・・・そうですか。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・・でも。」
「?」
「家に着くまでなら・・・・手ぐらい、繋いでやってもいい・・・。」
―――ああもう、その時の彼の満面の笑みと言ったら。
「十分ですよ・・・・では。」
恭しく差し出された左手に光っている、金色のリング。どうしてこういう時にそういう物を見せるんだよと頭を抱えたくなったが、今さら後には退けない。思い切って右手を重ねれば、逃がさないと言わんばかりに、しっかりと指を絡められてしまった。
何か言うより先に歩き出してしまった彼に、レイは文句を言うタイミングを逃した。諦めて、足を速めて彼の横に並ぶと、ぼそりと囁く。
「・・・そんなにしなくても、逃げやしねーよ。」
「逃げられると思ってるわけじゃないですよ?そもそも、一度オッケー貰った以上、逃がすつもりもないですし。ただ、折角だから思いっきりくっついていたいだけです。」
「・・・なんで?」
「『これは僕のだぞー』って、皆に見せびらかしたいから。」
にこっと笑った彼に、繋いだ手を軽く引かれる。慣れない靴のせいで少しよろめき、軽く彼の腕に掴まったレイの目に、ふとすれ違った女性二人組の表情が映った。
流行のファッションに身を固めた彼女たちの、ユエを見る時の陶酔したような表情。頬を染め、うっとりと見惚れていたその視線が、自分に向けられた途端に敵意と嫉妬のそれにすり替わるのを、レイは驚き半分に見返した。
彼の頭の先から爪先まで、敵愾心満々の視線で眺め回した二人が、ふいにがっくりと肩を落とす。敗北感を漂わせながら去っていく彼女たちを黙然と見送っていたレイは、戸惑いがちだった表情をふと緩め、くすりと小さく笑みを零した。
(・・・・なるほど、こういう事か。)
先ほどまでの緊張と不快感が嘘のように、愉快な気分がこみ上げてくる。くすくすと笑いながら、ぎゅっと左腕を抱え込むようにしがみついてきたレイに、ユエがどうしたの?と視線で訊いてきた。
笑みを含んだその瞳に、ふわりと花が綻ぶような微笑みを返し、レイは彼の肩に頬を寄せながら澄まして答えた。
「・・・『これは俺のだぞー』って、皆に見せびらかそうかと思って。」
今の彼は、いつもの彼ではない。今の自分も、いつもの自分ではない。お互い、仮初めの姿を纏っての逢瀬は、まるで架空の役柄を演じているような非日常感を内包している。
それは、確かに一抹の虚しさを感じさせるものではあった。この姿で何を言っても、何をしても、それは一夜の夢の中での出来事に等しく、現実の彼らの関係に何ら影響を及ぼすものではない。しかし、たとえ一時の事であっても、こうして彼と寄り添って歩いたという記憶を残せるのは、やはり嬉しかった。
(これはこれで・・・悪くはないかもしれない。)
・・・なんて言ったら彼が大喜びしそうなんで、そんな墓穴を掘るような台詞は口にしないけれど。
恥を忍んでこんな服を着た甲斐はあったなと、レイは淡く色づいた唇に、楽しそうな微笑みを滲ませた。好き放題してくれたアスカにも、ほんのちょっとだけ感謝しておく事にして、繋いだ指に力を込める。握り返される手と、時折脚を撫でる柔らかいスカートの感触がくすぐったくて、また小さく笑った。
本当の姿を隠したまま、ふたりで歩く裏通り。甘い甘い、ニセモノの恋人たちを演じながら。
―――ちょっとだけ、回り道して帰ろうか?
(・・・先にそう言い出すのは、どっちかなぁ。)
わざとゆっくり歩きながら、ふたりしてそんな事を考えていた。
とある小春日和の、午後のお話。
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