―――がしゃん。

 ―――ぱたぱた、ぱた。 

 きらきらと光る硝子の破片。

 紅を纏ったそれが、鋭い切っ先を自分に向けているのをぼんやりと見ていた。

 

   欠片

 

 「・・・ったくー、何やってんだよお前は。」

 涼しげな声が、呆れの色を含んでリビングに響き渡る。慣れた手つきで救急箱を開く彼の隣では、金髪の青年が、赤く染まった自分の左手をタオルで押さえていた。
 夕飯の後片付けをしていた最中のこと。硝子のコップを洗おうと、ユエがスポンジを押し込んだ瞬間に。

 がしゃん。

 ・・・どうやら、コップにヒビが入っていたらしい。突然粉々に砕けたコップの破片は、ナイフ並みの切れ味でユエの左手を切り裂いた。音に驚いてキッチンを覗いたレイは、慌てて彼を引きずり出し、現在手当ての真っ最中である。
 ぱっくりと開いた傷口から滲む血と、脳天に響く鋭い痛みに眉をしかめつつも、ユエは端正な顔に苦笑を浮かべた。

 「いやー、まさかいきなり砕けるとは予想外で。ビックリして、一瞬思考停止しましたよ。」
 「ビックリしたのはこっちだっつーの。覗いてみれば、流しは血の海だしお前はじーっとそれ見て固まってるし。」

 リビングのソファに並んで腰掛け、レイはユエの傷を押さえて止血しながら言った。自分の手からぽたり、ぽたりと滴る血を見つめて立ち尽くす青年。はっきり言って怖すぎる。相手が長年付き合った相棒でなければ、速攻で回れ右しているところだ。レイのもっともな意見に、ユエは肩をすくめた。

 「結構出血したんで、ちょっとショック受けちゃいまして。」
 「そう?俺はうっかり、うわーこいつとうとう危ない趣味に目覚めたよー、とか思ったけど。」
 「好きなコをいじめるならともかく、自分をいじめて喜ぶ趣味はありませんね、残念ながら。」
 「・・・今、さらりと問題発言が飛び出したような気がするんだが、ユエ。」
 「いやいや、気のせいですって。」

 会話を交わす間にレイの手はてきぱきと動き、傷を消毒してガーゼを押し当てていく。レイは『血の海』といったがそれは大げさで、手が濡れていたため出血は少々多かったものの傷自体はそれほど深いものではなさそうだった。十日もすれば、大体治るだろうか。
 ユエがぼんやりとそう考えていると、包帯を手に取りながら、レイが目を伏せたまま尋ねた。

 「そういや、何が割れたんだ?見たとこガラスみたいだったけど。」
 「レイのグラスです。僕と色違いの、黒いラインが入ってるやつ。」
 「マジ!?引っ越し祝いにマスターがくれたやつ!?」
 「はい。」
 「うっそぉ〜、あれ気に入ってたのに〜!」
 「ごめんなさい。あ、もうちょっと包帯きつくてもいいですよ。緩みそうかな。」
 「あぁ、はいよ。はぁーあ、超へこむ。明日から何使おうかな。」
 「・・・女子高生じゃないんだから、『超』はやめて下さいよ。」
 「うっさいよ。小姑かお前は・・・よし、左手は終わり。」

 ぱたんと救急箱を閉じる音とともに、傷ついた左手を支えていた手が離れた。きちんとテープで固定された包帯に緩みがないことを確認し、ユエは礼を言った。

 「ありがとうございます。じゃあ、台所の片付けしてきますね。」

 泡まみれ血まみれの食器類を放置しておくわけにはいかない。幸い怪我をしたのは利き腕ではないし、手袋をすれば問題ないはずだ。だが、ソファから立ち上がろうとしたユエの行動は、ふいに圧し掛かってきた影によって妨害された。

 「ちょっと、レイ?何してるんですかあなたは。」

 ソファに膝をかけ、ユエの両肩を押さえつけて再びソファに沈めた少年は、「お前こそ何してんだよ」とのたもうた。

 「まだ手当てが終わってないだろうが。」
 「終わってるじゃないですか。」ほら、と左手の包帯を示す。
 「『左手は』終わりって言っただろ?ちゃんと聞いてろよ。」

 ・・・確かに、そんなことを言ってたが。

 「でも、ほかには怪我はないですし。第一救急箱だってもう閉めてるじゃ・・・・・!」

 言いかける口が、ふいに柔らかなもので塞がれた。驚きに目を見開くユエ。綺麗に揃った長い睫毛と白磁のような肌が、至近距離で視界に飛び込んできた。さらりと零れ落ちた漆黒の髪が、優しくユエの頬をくすぐる。
 重ねた唇をそっと離すと、少年は吐息がかかるほどの距離でささやいた。

 「・・・ご機嫌斜めな相棒殿の、心の手当てが必要じゃない?」

 厳密に言うなら、機嫌が悪いわけではない。だが、なんとなく彼の感情の動きが不安定になっているのを、レイは鋭く感じ取っていた。
 いつも微笑しているような彼だから、その裏の真意を掴むのは至難の業である。感情の揺れは感じられても、その原因など言葉にしてくれない限りは理解不能だ。レイの言葉に、ユエの唇に苦笑が浮かぶ。細い背中に腕を回して抱き寄せると、黒猫はくすくすと笑って身体をすり寄せてきた。

 「・・・なんで、分かっちゃうかなぁ?そんなに分かりやすいんですかね、僕。」
 「そりゃね、お前だもん。・・・どうしたんでちゅか〜、お兄ちゃんに話してごらん?」
 「・・・犯しますよ?」
 「すんません。真面目にやります。」

 深いため息をついて、黙り込んだユエ。レイは急かす事無く、無言でその髪を梳いていた。
 やがて、穏やかな沈黙を破って、ぽつり、ぽつりと、静かな声が言葉を紡いだ。

 「・・・あのグラス、僕らがこの家に越してきて、最初に手に入れた食器だったじゃないですか。」
 「ああ、そうだったな。『最初の食器が貰い物かよ』って、俺突っ込んだっけ。」
 「ふふ、そうでしたね。でもね、たとえ貰い物だろうが・・・いいえ、貰い物だからこそ、僕にとっては特別だったんです。あのグラスは。」
 「・・・なんで?」

 思わず顔を上げたレイ。目の前のユエは、いつもと同じ穏やかな微笑を浮かべている。こつん、とレイと額を合わせて、金髪の青年はささやいた。

 「・・・あなたと、家族になれたような気がして嬉しかったんですよ。自分のための食器の隣に、同じ形の、でも別の誰かのための食器が並んでるっていうのがね。・・・初めての、経験だったもので。」

 その言葉に、レイは彼の生い立ちを思い出した。・・・それまで、彼のグラスは、ひとつだけぽつんと放置してあったのだろうか。
 目を細め、無言で広い背中に腕を回す。ぬくもりを分け与えようとするかのようなその仕草に、ユエの目が優しく揺れた。

 「貰い物だとよけいに特別っていうのは?」
 「僕があなたと一緒にいることを認めてくれてる人が、一人はいるってことじゃないですか。」
 「何だ、俺が認めてるだけじゃ不満かよ?」
 「あ、いえ、そういうわけでは・・・」
 「・・・バーカ、冗談だって。」

 小さく苦笑したユエは、しかしすぐに笑いを収めた。

 「・・・だから、あれが割れたのが、ちょっとショックで。自分でも、子供じみてるとは思うんですけどね。」

 苦笑を含んだ声とは裏腹に、両腕はきつくレイを抱きしめている。だが、レイは文句ひとつ言わず、息苦しいほどの抱擁に身を委ねた。

 ――レイの想いを疑ったわけではない。彼が、自分を必要としてくれていることは分かっているのだから。
 ただ、不安だった。自分が何に怯えているのかも分からない。けれど、何か暗く、禍々しいものが、ある日突然彼を連れ去ってしまうのではないかという思いが、不意に胸を灼いたのだ。自分の意志も、彼の想いも関係なく、この生活が壊れてしまう日が来るのではないかと。
 ・・・そう。ちょうど、砕け散ったあのグラスのように。
 まるで幽霊に怯える子供のようだと嘲う理性とは裏腹に、軋む感情が悲鳴を上げている。縋るように細い身体を抱きすくめるユエに対し、腕の中の少年は情け容赦ないコメントを発した。

 「ホントに子供じみてるな。頭いいくせに、時々すっげぇバカだよなお前って。」
 「・・・バカって・・・もうちょっとこう、慰めとかフォローとかないんですか・・・?」

 がっくりと項垂れるユエ。くだらない考えなのは自覚しているが、あっさりと切り捨てられると流石に寂しい。と、少々ブルーになった彼の頭に、ごつんという衝撃が伝わってきた。。

 「慰める必要なんてないだろ?目の前に俺がいるのに、なんで未来のことを心配してるんだお前は。とりあえず、今ここにいる俺を見ろよ。」

 拳骨で頭を小突いたレイは、拳を握ったまま言い放った。吸い込まれそうなほど深い漆黒の双眸が、至近距離からユエを映し出す。

 「先のこと考えて不安になることねーよ。不安になったら、そん時そん時で俺がちゃんと傍にいるかどうか、その手で確かめればいい。
 ・・・未来なんて、今の積み重ねなんだからさ。そうやって確かめながら生きてれば、お前が恐れてる『未来』なんてすぐ過ぎちまうよ。」

 

 真っ直ぐな言葉。

 真っ直ぐな心。

 ――どうして彼は、いつも一番欲しい言葉をくれるのだろう。

 

 眩しいような思いで見つめるユエの髪を、レイは癇癪を起こした子供をあやすようにくしゃくしゃとかき回した。

 「だいたい、俺がお前を置いてくわけねーだろ?・・・もし、ここを離れることがあるなら、その時はお前も一緒だ。今さら自由になんかしてやらないぜ。」
 「・・・怖いですね。」
 「そうだよ、今頃気づいたのか?お前はもう、俺から逃げられないよ・・・逃がさないから。」

 白い右手が、真っ白な包帯に包まれた左手をとる。

 「俺たちの関係は、グラスほど簡単に壊れたりしねぇよ。グラスより、それを持つ手がここにあるってことのほうが、重要じゃないか?」

 布越しに、その甲に口付けを落として。レイは自分の頬へと導く。

 「ほら、確かめてみろよ・・・俺が、ちゃんとここにいるか。」

 傷ついた左手が、そっと滑らかな頬をなぞる。頬から唇へ、細い顎へと滑り落ちたその手が、ゆっくりと白い首筋にかけられた。
 そのまま力を込めれば、簡単に頸骨を砕けるであろう、その体勢。だがレイは振り解こうともせず、無防備に喉元をさらしている。抵抗されないというそのことに、ユエは嬉しそうに微笑んだ。
 人懐っこいようでいて、実はかなり警戒心の強いレイ。他人に不意に触れられるのをひどく嫌う彼が、こうして急所を許すのは、相手に対する最上級の信頼の証だった。

 とくん、とくん、とくん。薄い皮膚越しに伝わる、力強い鼓動。温かい体温。・・・彼が、生きている証。
 絡み合う視線。微笑を含んだ黒曜石の瞳に、意志と祈りをこめた言葉を贈る。

 「・・・レイ。僕は、あなたと一緒にいたい。」
 「ああ、知ってる。・・・一緒にいようぜ、ずっと。」
 「・・・はい。」

 子供のような稚拙な約束に、切ないほどの思いを託して。首筋から離した手を、細い背中に回した。

 彼といる限り、再び不安はこの胸に巣食うに違いない。彼を大切に思えば思うほど、失いたくないと思う気持ちも高まるのだから。けれど、彼が自分を必要としてくれる限り、自分はきっと耐えられる。――半端な覚悟は、何より自分を選んでくれた彼に失礼だ。

 そっと抱き寄せ、しなやかな身体の感触を確かめる。くすぐったげに身じろいだレイが、からかう様に尋ねた。

 「・・・分かったか?」
 「ええ・・・ありがとうございます、レイ。」

 少々の照れくささをこめてユエが礼を言うと、「礼は、形で示して欲しいんだけど」という言葉が返ってきた。

 「何か欲しいものでも?」

 あまり高いものは勘弁して欲しいのだが。財布の中身を思い出しながらユエが尋ねると、レイはあっさりと首を振った。

 「安心しろ、ものじゃないから。」
 「ん・・・・・・・・?」

 本日二度目のキス。だが今度は、薄く開いた唇の隙間から、熱い舌がするりと侵入してきた。包み込むように背に回されていた腕が、別の意志を持って、ゆるりと首に絡みつく。一瞬びくりと身体を強張らせたユエだったが、すぐに濃厚な口付けに夢中になった。
 深く深く舌を絡め合い、零れる唾液も熱い吐息も、すべてを貪る。艶やかな黒髪に挿し入れられた長い指が、皮紐を床に落とした。涼しげな音を立てて流れ落ちる髪をかき乱しながら、角度を変えて何度も口付けを繰り返す。ほどなく息が上がったふたりは、名残惜しく思いながら唇を離した。透明な糸が、一瞬ふたりの間を繋ぐ。
 濡れた唇をゆっくりと指でなぞりながら、乱れた息を隠そうともせずレイは微笑した。先ほどまでの、柔らかな笑みではない。男の本能を掻き立てる凄艶な微笑に、ユエの身体が熱くなる。

 「お前が欲しい・・・しようぜ、ユエ。」
 「・・・今からですか?」
 「この状況で、明日の夜の予約をするわけないだろ。今ったら今。嫌か?」
 「いや、実に嬉しいお誘いですが。どうしたんです?随分積極的じゃないですか。」

 わずかに戸惑うユエ。その膝に跨りながら、レイはそっとささやいた。

 「・・・お前が血ぃ流してるの見たら、なんか欲情してきた。」
 「・・・サドっ気ありますね、あなた。」
 「まぁ、それは否定しないけどさ。」

 ゆっくりと、ユエのシャツに手を掛ける。ボタンを外す微かな音に、笑いを含んだ声が重なった。

 「お前、綺麗だからさ。血の色がやけに扇情的なんだ。なんか、すごく・・・穢したくなるっていうか。」

 熱っぽいささやきが、不意に小さな悲鳴に変わった。白い首筋に強く歯を立てたユエは、くっきりと刻まれた痕に舌を這わせる。微かに走った電流に、レイの身体がひくりと揺れた。

 「・・・綺麗、ね。」

 低い声。突然強く抱き寄せられたレイが、戸惑ったように眉を寄せる。その耳元に、静かな声が聞こえてきた。

 「僕がどれだけあなたに囚われているか、ご理解頂けてないようですね・・・?あなたを抱きしめたい。誰にも渡したくない。この部屋に閉じ込めて、一日中この体を貪りたい。そう思う僕が綺麗だと、あなたは仰るんですか?」

 熱い手が、シャツの裾から入り込んでくる。素肌に触れられた瞬間、レイは小さく息を詰めた。

 「教えてあげますよ・・・僕が、どれだけ浅ましいか。その体に教え込んであげます。」

 ぞくり。滅多に見れない、ユエの「男」の顔を目にして、レイの背筋に寒気が走り抜けた。だが、それは恐怖ではない。これから始まる行為に対する、期待だ。

 「・・・いいね。そう来なくっちゃ。」

 不敵な微笑を浮かべて、彼の唇をなぞる。ユエの瞳に蒼い炎が宿るのを見つめて、レイは深いキスを仕掛けた。

 

 リビングに、衣擦れの音が響く。

 夜はまだ、始まったばかりだ。

 

 

 

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<2004.6.17 アップ>