―――ざあぁぁん・・・・ざあぁぁん・・・・。
寄せては返す波の音。目の前に広がるのは、視界一面に広がる海原。
微かな月光に照らされたそれはどこまでも広く、自分が踏み出す世界の広さを垣間見たような気がした。
旅立ち
人気のない、寂れた港。身を切るような冷たい潮風が吹きすさぶ深夜の港に、ひとりの青年が立っていた。
丈高く均整の取れた体つき。鮮やかな金糸をなびかせた顔はとても端整だったが、未だ少年の面影を留めていた。20歳になっているかいないか、青年と少年の狭間にいるような年若い人物だった。
古ぼけたジャケット姿だというのに凍える様子もなく立ち尽くしていた彼に、ひとりの男が声をかけた。日に焼けた厳しい顔立ちを、頬から唇にかけて刻まれた刀傷がさらにいかめしいものにしている。外見にふさわしい男の濁声に、彼は静かな表情で耳を傾けた。
「そろそろ出航だ・・・二名だったはずだが、連れはどうした?」
「さぁ・・・ここで待ち合わせてますから、そろそろ来ると思いますけど。」
耳に心地よい、音楽的な声が闇を震わせる。一向にあせる気配のない彼に、男は興味深げな視線を注いだ。
「似あわねぇな。」
「?」
「お前さん、こんな闇夜に紛れてこそこそ密入国するような人種には見えねぇが。育ちの良さそうなツラしてやがる。」
「あなたは船に人を乗せる度に、その人の経歴を調べているのですか?」
口調は穏やかだったが、彼の目は『こっちの事情はあんたには関係ない』とはっきりと告げていた。氷のように冷たく澄んだ視線に、男は苦笑してひらひらと手を振った。
「解ってる、詮索はしねぇよ・・・だが、船は時間通り出すぜ。連れが来なくても、乗る気があるならあんただけでも乗船しろ。」
「ええ、解っています。」
船に戻る男の背に答えながら、彼は手首の時計に視線を落とした。出航時刻まで、あと10分。10分後には、この船は日本へ向けて出発する。
―――彼は、未だ現れない。
このまま彼が来ないかもしれない、とはこれっぽっちも思っていない自分が不思議だった。
彼と過ごした時間は、たったの数ヶ月。自分が彼について知っていることなんて、ほんの少ししかない。擦りあった袖がほんの少し引っかかっただけの縁で、しかも相手は4つも年下の子どもで。・・・だが、今自分は、今までの生活を捨てて、その子どもとともに旅立とうとしている。
(そしてその相手はまだ来ない、と。このままばっくれられたら、僕はいい面の皮ですね。)
形の良い唇に淡い微笑を浮かべた彼は、ほんの微かに揺れた空気に笑いを収めた。幻想的な紫の瞳が、闇から溶け出るように現れた、小さな人影を捉える。組んでいた腕を解いた彼の耳に、銀の鈴を転がすような声が聞こえた。未だ変声期の終わっていない少年だけが発し得る高く澄んだ声が、微かな困惑の響きを帯びている。
「―――本当に来るなんて、思わなかった。」
「おかしなことを。『お前も来い』と言ったのは貴方でしょう?レイ。」
ついでに言うなら、僕は『行きます』と答えたはずです。
淡々とそう言う彼の元に、体重を感じさせない軽やかさで歩み寄った少年は、闇色の双眸で青年を見上げた。青年の胸辺りまでしかない小柄な肢体は折れそうなほどに華奢で、所々がほつれた黒のジャケットがだぶついている。成長期に入ったばかりの未発達な身体は、少女めいた繊細な美貌とあいまって、不用意に触れたら壊れてしまいそうな儚さを醸し出していた。
その頼りなげな容姿とは不釣合いなほどに強い光を宿した瞳を、少年はふっと反らした。巨大な岩のように佇む船影に目を向けたまま、ぽつりと呟く。
「・・・本当に、いいのか?」
「何が?」
「今なら、まだ引き返せる・・・あの船に乗ったら、もう後戻りは出来ないんだぞ。」
「愚問ですね・・・ここに来た時点で、心は決まっています。」
外見にそぐわぬ大人びた話し方をする少年に答える、揺らぎのない、強い意志を秘めた声。真っ直ぐに海を見つめる青年に、少年は首を振った。
「・・・もっと、早く来るつもりだったんだ。」
紫煙のように、白く煙った息が風に流れる。
「でも途中で、やっぱり俺は行っちゃいけないんじゃないかって思って・・・立ち止まってた。」
「貴方が来なかったら、僕はこの寒い中待ちぼうけなのですが?」
「でも、朝になれば家に帰っただろう。」
瞬きもせず見つめてくる、たじろぐほどに深い色の瞳。そこに微かな哀しみが揺れているのは、きっと見間違いではない。
「俺は、お前から全てを奪う。平穏な生活、安楽な未来、親しい友達・・・お前が今持っているもの、これから手に入れるもの。俺と来れば、お前はその全てを失うんだ。」
目の前に立つ青年。多少変わった生い立ちをしているとはいえ、日のあたる場所で、穏やかで平和な暮らしを営んでいた彼。自分はその青年を、これから闇の世界に引きずり込もうとしている。
これからの自分たちを待っているのは、きっと想像以上に危険で慌ただしい毎日。ここに留まれば何の苦労もなく手に入る幸せが、手の届かないものとなる事もあるだろう。
彼に来て欲しいと思った気持ちに嘘はないけれど。一人の人間の人生を狂わせ、その結果彼が失うものの大きさを想像して、今さらながらに足がすくんだ。
―――来て欲しい、来て欲しくない。
―――行きたい、行きたくない。
相反する感情に揺れ動きながら、ここに来るまでに何度も立ち止まった。自分が港に行かなければ、彼は今の生活を守ることが出来る。彼ほどの能力があれば、どんな分野でだって成功できるだろう。彼からそれを奪う権利が、自分にあるのか。
答えの出ないままに、それでもここまで来たのは、自分のエゴだ。唇を噛み締めた少年は、ふいに大きく柔らかいものに頭を叩かれ、驚いたように顔を上げた。
「何を一人でシリアスになってるんですかね、このお子様は。」
大きな手が、絹糸のような黒髪をくしゃくしゃとかき回す。呆れたような声音とは裏腹に、その目は優しかった。
「バカにしないで下さいよ?これから何があろうが、何を失おうが、それは僕自身が選んだ未来だ。それを貴方のせいにする気なんて毛頭ありませんよ。」
「・・・誘ったのは俺だ。」
「応じたのは僕です。」
きっぱり言い切ると、青年は長身を屈めた。ふたりの視線が、同じ高さで絡み合う。
「僕は、貴方と一緒に行きたいから、ここまで来た。自分の意志で、自分が求めるもののために。・・・貴方に強制されたわけでも、連れ去られたわけでもない。」
「全てを失ってまで、何を求める?」
「僕が僕でいられる居場所、かな。」
「酔狂だね。出会って半年も経たない人間に、居場所を求めるのか?」
「間違ったとは思いませんね。現に今貴方は、僕を心配して悩んでくれている。」
とん、と一歩離れて。端整な顔に小さな微笑を浮かべて、金髪の青年は告げた。風に舞う金糸に彩られた姿は、とても、とても綺麗だった。
「僕は、欲しいものを求める。貴方もそうすればいい。」
―――本当はとっくに、彼と離れたくないと思っている自分に気付いていた。
「知らないぜ、後悔したって。」
「望むところです。」
ふっと笑った青年に、少年は細い手を差し出した。その顔に、もう迷いはない。確固たる意志を秘めた、夜の星のように輝く双眸が、青年を見つめた。
「お前の欲しいものは、いくらでも与えてやる・・・俺と一緒に来い、ユエ。」
「・・・はい、喜んで。」
大きな手が、しっかりとその手を掴む。照れた様に、ぎこちなく微笑みあったふたりは、出航を告げる船長の濁声に、旅立ちの刻が来たことを知った。放そうとするユエの手をしっかりと握り、レイはひらりと身を翻す。
「―――行こう!」
―――これからどんな困難にあっても、この手があればきっと平気だから。
「これからよろしくお願いしますね、レイ。」
「うん、よろしく!」
―――どこまでも行こう、君とふたりで。
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<2004.8.24 アップ>