―――目の前に迫った男を、思い切り蹴り飛ばす。
怒号と、うめき声と、人体が地面に叩きつけられる音で飽和した空気の中。
「―――レイっ!!」
切羽詰ったような彼の叫び声と同時に、背中を強く押されるのを感じた。
優しい嘘
完全武装の成人男性が30人。
たったふたりへのお礼参りにしては、随分と気合が入っていたと思う。肩を怒らせた相方にずるずると引きずられながら、ユエはそう考えて苦笑した。
仕事の性質上、あちこちから恨みを買っているだろうという自覚はある。闇討ちされることに対して覚悟も備えも出来ているとはいえ、実際来られて嬉しい相手ではなかった。襲われたのが自宅ではなく仕事帰りの路上だったこと、そしてふたり一緒だったことがせめてもの幸運だ。
右手をジャケットのポケットに突っ込んだまま歩いていたユエは、左の手首から捻じりあがってきた軋むような痛みに眉を寄せた。
「っつ・・・レイ、痛いですよ。」
「あっそ、痛いか・・・自業自得なんじゃねぇのか。」
普段の抑揚豊かな響きを無理やり押さえつけたような、氷のように冷たく平坦な声音。早足で歩を進める少年に掴まれている左手が、ぎり、と音を立てた。血の気を失って白くなっている指先から、相当な力で掴まれていることがわかる。だがユエは、黙って痛みを甘受するだけで、決してその手を振り払おうとはしなかった。
・・・彼の怒りの原因が、自分にあるのはわかっていたから。
彼が苦い笑いを唇に浮かべたとき、捕らえられた左手がぐいと引っ張られ、背中が壁に叩きつけられた。いくら細身とはいえ、男の力で思い切り叩きつけられ、一瞬息が詰まる。小さく咳き込んだユエは、睨み上げてくる加害者に一言呟いた。
「痛いですって。」
「・・・痛いのは、背中じゃねぇだろ。」
「背中ですよ。あと左手。もー、貴方が思いっきり掴むから。明日になったらきっと手の形の痣が出来・・・・」
「ユエ!!」
悲鳴に近い叫び。怒りの炎を宿していた瞳が、ふいに泣き出しそうに揺れた。彼らしくもないその表情を見つめながら、ユエは静かに言った。
「・・・痛くないですよ、どこも。」
「嘘だ。」
「嘘じゃ、ありません。」
「・・・嘘じゃないってんなら・・・右手、見せろよ。」
――ずっとポケットに入れられたままの右手。
――戦闘で敏感になった五感は、彼に纏わりつく血臭をはっきりと感じ取っていた。
隠された右手に手を伸ばすより早く。そっと、しかし有無を言わせない強さで抱き寄せられる。後頭部に回された手に促されるままに、少年は乱れた金糸が貼り付いた首筋に鼻先を埋めた。夜風にさらわれてしまいそうなかそけしい声が、青年の耳元を擽る。いつもは凛とした強さを感じさせる声が、ほんの僅かに震えていた。
「・・・庇ったりするなと、言ったはずだ。」
「庇ってませんよ。」
(・・・本当は、分かってる。)
「自分のことだけ心配してりゃいいのに、人のこと気にしたりして。」
「気にしてません。」
(貴方が、自分の怪我より、身近な人間が傷つくことを怖れる人だってことは。)
「・・・挙句の果てに、俺を庇って怪我するなんて、さ・・・。」
「・・・・・。」
(だから。)
「・・・怪我なんて、してませんよ。」
―――この傷は、あってはならないものなのだから。
「・・・嘘つきは讃えられないよ、ユエ。」
―――それが、どんなに優しい嘘であっても。
吐息のように呟くと、少年は鉄錆の匂いのする服に頬を寄せる。
片腕の抱擁は、どこまでも優しく、哀しいほどに温かかった。
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<2004.9.7 アップ>