傘を打つ雨音が心地よい。人気のない路地を歩きながら、ユエは気持ちよさそうに深呼吸をした。
仕事帰りの帰り道。昨夜から降り続く雨に、排気ガスにまみれた空気も少しだけ浄化されたように感じる。靴やスラックスの裾が濡れるのには閉口するが、彼はこの湿った空気が嫌いではなかった。
頭上に広げた半球状の盾から白い手が伸び、灰色の空から降り注ぐ水滴を掌に受ける。指の隙間から零れ落ちる水晶のような雫を見つめながら、サングラスの下の瞳が静かに細められた。
――夜に止んでくれさえすれば、言うことはないんですけどね。
冷たい雫を払いながら思うのは、部屋で自分の帰りを待っているだろう少年のこと。彼が、雨の夜を苦手としていることを知ったのはいつのことだっただろう?悪夢にうなされ、飛び起きる彼を、その都度抱きしめて眠りに就かせたのは、今では随分前のことだけれど。・・・自分の部屋を訪れることは減っても、雨の夜の彼の眠りが、平安とは程遠いものであることには違いない。
規則的に動かしていた足を止め、泣き続ける空を見上げながら、青年は無益とは知りながらも願った。
――今夜だけでも止んで。彼を安らかに眠らせてやってください。
・・・無論、それで劇的に雨が止んで虹がかかるなんて事はなくて。むしろ勢いを増したような雨に、ユエは苦笑した。メルヘンチックにお空にお祈りしてる暇があったら、一秒でも早く家に帰って美味しい食事でも作ってやったほうがずっといい。そう考え、足を速めて角を曲がろうとした――その瞬間。
どがぁっ!!
「・・・やっぱり、お空にお祈りしておいて良かったなぁ。」
おっとりと呟くユエ。彼の視線の先には、酒瓶が入っていたと思しき木箱の残骸と、そこからにょっきり生えている二本の足があった。たった今、ユエの目の前を右から左へと吹っ飛んでいったそれはどうやら黒スーツを着た男であるようだが、ぴくりとも動かない。もしさっき、空を見上げて立ち止まっていなかったら、角を曲がった瞬間に巻き添えを食っていたかもしれなかった――まあ、もろに直撃を受けるほど鈍くさくはないつもりだけれど。
傘を後ろ側に傾け、ひょいと角の向こうの様子を覗く。チンピラ同士の小競り合いなら、巻き込まれてもつまらない(どこぞの黒猫とは違って、トラブルに首を突っ込む趣味はないのだ)。多少遠回りになるが、速やかにUターンするつもりだった。相変わらず、向こうからは何やら言い争う声が聞こえてくる。どうやら、結構な人数がいるようだ。
ユエが歩いてきた裏道よりは多少広い路地。そこで合計6つの影がもつれ合っている。だが、見たところ状況は3対3というわけではない。6人中5人は制服のように黒のスーツを身に纏っており、彼らはキャップをかぶったひとりの若者を取り囲んでいた。どうやら、ひとりを寄ってたかってリンチしようとしているようである。
キャップの人物は、なかなか健闘していた。木箱と仲良くしている男のほか、路上には2人の半死人が転がっている。だが、さすがに体力が厳しくなってきているのだろう。かなり息が上がっていた。
「・・・おやおや。」
道端の花を見つけたかのような口調でユエは呟き、湿り気を帯び始めた金髪をかき上げた。対等な喧嘩なら放っておくが、多勢に無勢というこの状況を放置しておくのはやはり気分が悪い。
『あぁもう、一秒でも早く帰りたいって時に・・・・。』
思わず、深い深いため息が漏れる。こんな所で喧嘩をするなと八つ当たり気味に思いながら、おもむろに傘を閉じた。
――ごめんなさい。ご飯は少し遅くなりそうですよ。
心の中でそっと相方に謝罪すると、ユエは静かに足を踏み出した。
――体が重い。まるで、手足に鉛を括りつけられているみたいだ。
心臓が悲鳴を上げている。うるさいくらいの自分の呼吸音を聞きながら、自分を囲む男たちを睨みつけた。所々がへこんだ鉄パイプを握り締める手から、ともすれば力が抜けかかるのを必死で堪える。
大声を上げて飛び掛ってきた男の腹に、バットのスイングの要領でパイプを叩き込む。目をむいてひっくり返ったそいつは、胃液を吐いて動かなくなった。・・・あと、残り5人。
「――オラァ!!」
「ぅわっ!」
肩口を狙って振り下ろされた角材を飛びのいてかわ・・・したつもりだった。だが、長時間の取っ組み合いで、体力もいい加減限界に来ていたらしい。重く濡れたジーンズが絡み、足がもつれて転倒してしまった。パイプが鼓膜を引き裂くような金属音とともに転がっていく。跳ね起きようとしたが、疲労しきった腕には全く力が入らない。
耳障りな怒号。走り寄ってくる足音。煙草くさい手にぐいと腕を掴まれた。強引に上体を引き起こされ、薄汚れた壁に押し付けられる。勝ち誇ったような野郎の馬鹿面が、視界一杯に大写しになった。渾身の力を込めてもがいても、万力のような手は全く緩まない。肩の骨が軋む激痛に、顔が歪んだ。
――駄目だ・・・・。
ここまでか。覚悟を決め、目を閉じた瞬間。
「ぐぁっ!?」
「!!?」
濁った悲鳴とともに、肩を押さえつけていた手が離れた。おそるおそる目を開けば、そこには水溜りに倒れ伏している男の姿。呆気に取られていると、狼狽したような誰何の声と、それとは対照的な穏やかな声が聞こえてきた。
「な、何だテメェは!?」
「いや、何だと言われましても・・・・ただの通りすがりなんですけど。」
困ったように頭を掻いたのは、背の高い青年だった。身に着けているのは安物のジャケットとスラックスだが、綺麗に背筋の伸びた姿勢と、薄汚れた路地にあってもなお輝きを失わない鮮やかな金髪が、一流のモデルを思わせる。
畳んだ傘でとんとんと肩を叩きながら、青年はサングラス越しの視線をこちらに向けた。
「事情は解りませんが、一人を大勢で寄って集ってというのはいかがなものかと・・・話し合いで解決できないものですかね?平和的に。」
「ざけんじゃねぇ!外野はすっこんでやがれ!」
「僕の目の届かないところでやっているなら、大人しくすっこんでるんですけどね。見てしまった以上、そのまま通過しては夢見が悪そうなんで。」
「こ、この野郎・・・・!」
「かまわねぇ、やっちまえ!どのみち見られた以上は生かしておくわけにゃいかねぇんだ!」
「おお!」
「・・・や、止めろ!!」
必死に叫んだが効果はなく、標的を青年へと変えた男たちが、いっせいに襲い掛かる。――路地裏に、怒号が沸き起こった。