―――守りたい、ものがあった。

 自分に、全てを与えてくれた人。
 憎しみと猜疑心と、壊すことしか知らなかった自分に、色んなことを教えてくれた。

 淡い光のヴェールから現れる、朝日の美しさを。
 包み込むように抱きしめられる時の、腕の温かさを。
 楽しいときは笑い、哀しいときは泣くのだという、感情の表し方を。

 

 ・・・ひとを愛し、愛されるという、その幸福を。

 

 ―――守りたかった。

 たったひとつの、願いだった。それだけで良かった。あの人さえいれば生きていけると、そう思った。
 それは、何よりも幸福だった日々。

 ”両手を濡らす熱い血”

 あの時の自分は、哀しいほどに幼かった。いつしか、明日を疑うことを忘れ、この日々が永遠に続くものと思い込んでいた。
 ・・・分かっていたはずなのに。永遠など、この世界には存在しないのだと。

 ”頭髪ごと弾け飛んだ頭から、血と脳漿が流れ出す”

 自らの、無力さすら知らなかった。
 自分は、大切な人ひとり救えはしない。自らの手の小ささに絶望し、泣き叫ぶことしか出来なかった、あの夜。

 ―――耳を突く、ノイズのような雨音を引き裂いて。

 ―――不意に、一発の銃声が轟いた。

 

 

 

 

 

 『やれやれ・・・随分と、昔のこと思い出しちまったな・・・・・。』

 まだ薄く煙の立ち上る銃を手にしたまま、どさりと倒れた男を見やりながら、レイはぼんやりとそう考えた。ずきりと疼いた左手の手首を、無意識のうちに握り締める。
 銃声と硝煙の匂い、そして遠くから聞こえてくる雨音が、嫌でも昔の傷痕を刺激する。わずかにふらつく頭を一振りし、レイは強引に思考を現在に引き戻した。
 どうやら彼らは、レイを殺してもいいという許可を与えられていないようだ。折角銃という強力な武器があるのに、多くは素手で彼を捕らえようとしてくる。稀に銃口を向けてくる者がいても、狙いは足に集中しており、弾道を見切るのはいとも容易い。そんなわけで、レイは今のところ、悠々とビル内の逃避行を続行していた。完全に姿を眩ませることはせず、時折姿を見せながらも決して捕まらない。それが、敵の目を自分に引き付けるには最も有効な方法だった。
 暗い廊下を疾走していたレイは、前方の階段を駆け上がってくる複数の足音に急ブレーキをかけた。鋭く周囲を見回し、手近な部屋に飛び込んで叩きつけるようにドアを閉める。じっと息を殺して板切れ一枚向こうの気配を探っていたレイは、ばたばたとその部屋の前を通り過ぎて行った足音に、ほっと息を吐いた。流石に少々乱れてしまった息を整えながら、薄い闇を透かしてぼんやりと室内を眺める。
 そこには、かなり異様な光景が展開されていたが、彼は今さら驚かなかった。ここに来るまでに、幾度となく目にした光景だったからだ。表情一つ変えず、レイは目の前に並ぶ「それら」を眺めたまま、心の中で呟いた。

 『・・・彼女は、無事だろうか。』

 頭に血が上った彼らは、今のところは自分を捕らえることしか考えていないようだが、それも長くは持つまい。彼女の不在に不信感を覚え、このビル内を探そうとする者が現れるのも時間の問題だ。一応手は打ってあるとはいえ・・・そうなったら、彼女が危ない。
 一瞬でそこまで計算して、レイはふと苦笑した。ひょっとすると、今は仕事のときより真剣なんじゃないだろうか。大きく息をついたレイは、地下牢を脱出する間際の、彼女の問いを思い出した。

 ―――どうして、助けてくれるの?

 不思議そうに瞬く、鳶色の瞳。弟を助けてくれと、透明な涙を零した瞳。
 ・・・片割れを失う恐怖と哀しみに、揺れていた瞳。

 ―――俺は、あんな眼をしていた奴を知っていた。

 滑稽だな。苦い笑いが彼の唇を歪ませる。結局のところ、自分は彼女のことなど見てはいないのかもしれない。ただ・・・彼女の姿が、あまりにも似すぎていたから。
 救うことも出来ないくせに、放っておくことも出来ない。自分に出来るのは、ただ、見届けることだけ。

 (俺はあの時から・・・何も変わっちゃいない・・・。)

 「・・・ごめんな。」

 誰にともなく、ぽつりと呟いて。
 レイは、目の前に広がる室内の光景に、そっと黙祷を捧げるように目を閉じた。

 

 

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 ―――レイが、ある一室に逃げ込んで追っ手をやり過ごしていた頃

 「・・・な、何よこれ・・・?」

 彼と別れてビル内を探索していたアスカもまた、彼が目にしたのと同じ光景を前にして、呆然と立ち竦んでいた。
 そこを一口に表現しようとするなら、病院のようとしか言いようがないだろう。小学校の教室ほどの面積を持つ部屋に、ずらりと粗末なパイプベッドが並べられている。そして、二列に並べられたそれの上には、腕に何らかのチューブを取り付けられた人間が、ベッドと同じ数だけ並んでいた。
 空いているベッドはひとつもない。全てのベッドに、年齢も性別も国籍も――明らかに出稼ぎ労働者風の色黒な男もいた――ばらばらな人間たちが、全く同じ姿勢で横たわっていた。彼らの顔色は、血色こそ悪いものの明らかに生者のものである。耳を澄ませば微かな呼吸音も聞こえてくるし、よくよく見ればシーツ越しに胸が緩やかに上下しているのも見て取れる。だが、どう見ても寝ているだけのように見えるというのに、突然部屋に飛び込んできた彼女の気配や呟きに反応して目を開ける者は、誰一人としていない。あまりにも異様な光景に、アスカの背筋を薄気味悪い冷たさが這い上がった。

 「あの・・・ちょっと・・・・?」

 今すぐに回れ右したくなる気分を押さえ込み、すぐ傍のベッドにそっと歩み寄って、そこに横になっている三十そこそこの男の肩を恐る恐る揺さぶってみる。だが、普通なら目を覚ますだろうその刺激にも、彼は眉ひとつ動かす事無く、静かに眠り続けているだけだった。
 まるで死んでいるかのようなその様子と、それとは対照的に掌に残った体温。状況がつかめず戸惑ったように手を放した彼女の背後で、きい、という軋むような音が響く。普段なら気にも留めないほどの微かな音だったが、緊張に張り詰めた今の彼女の耳には、それは雷鳴のように大きく聞こえた。

 「・・・・・・っ!!?」

 ざわりと項の毛が逆立つような感覚に、アスカは反射的に前方の床へと身を投げ出す。突然消失した彼女の姿に、背後から忍び寄っていた男が振り下ろした銃把は空を切った。コンクリートの剥きだしになった床を転がり素早く起き上がった彼女は、すらりとした脚を跳ね上げ、掴みかかってきた男の股間を渾身の力を込めて蹴り上げる。急所に、しかもカウンターで叩き込まれた痛烈な一撃に悶絶している男の横をすり抜け、部屋の外へと飛び出した。

 「・・・いたぞ、こっちだ!!」
 「げっ!!」

 部屋から出た瞬間遠くから聞こえてきた声に、アスカは舌打ちした。咄嗟に踵を返して走り出したものの、この先の構造など分からない。行き止まりに追い詰められたら終わりだと、彼女の背筋を冷たい汗が伝う。

 捕まえろ。
 回り込め。
 ―――殺せ。

 死霊の呻き声のように轟く怒号。迫る足音。立ちはだかる人影、伸ばされる両腕。
 まるで子どもの頃に見た悪夢のような光景が、今、現実となって目の前にある。

 ―――おばけが、つかまえにくるよ。

 あの時、怯える自分を抱きしめてくれた父も、甘いホットミルクを作ってくれた母も、もうこの世にはいない。自分は一人。誰も、守ってはくれない。それが当たり前だったはずなのに、守られるのではなく守るのが自分の役目だったはずなのに、今はその事実がひどく恐ろしい。
 怒り、憎しみ、殺気。叩きつけられる強烈な負の感情に足が竦みそうになる。幼子のように、その場に蹲って泣き出してしまいそうになる自分を意志の力だけで押さえつけ、捕らえようと伸ばされる腕をかい潜って、彼女はひたすら駆け続けた。
 そして。体力も精神力も尽きかけた彼女は、目の前にあったそのドアを、何も考えないままに押し開けた。

 

 ―――バタン。

 

 (赤い・・・・・)

 最初に目に入ったのは、視界を染める真っ赤な液体。

 (鉄錆びの匂い)

 どこかで嗅いだような気がする。錆びたような、生臭いような、不快な臭気。
 室内にいた男たちが、こちらを見て何か叫んでいる。こんな廃ビルの中だっていうのに、彼らはなんでこんな格好をしているんだろう?まるで・・・そう、これではまるで医者のようだ。小4の時、盲腸を起こして病院に運び込まれた時、手術室で見上げた医者はこんな格好をしていたっけ。薄い緑の上下とか、顔半分を覆う大げさなマスクとか、手に嵌められたゴム手袋とか。
 その手に握られたメスが、頭上のライトを受けて冷ややかな光を放っている。その刃に絡む、赤い液体。刃先から滴り落ちた赤い雫が、ぱっくりと開かれた腹の中へと落ちて消える。

 (開かれた・・・?)

 思考が凍りつき、状況を把握できないままに、その雫の軌跡を機械的に目で追った彼女は。
 ―――ぽっかりと空洞が空いた、空虚な双眸と視線を合わせた。

 

 ・・・両の眼球を抉り取られ、腹を切り開かれたまま手術台に横たわる、その男の双眸と。

 

 「――――!!」

 絶叫したつもりだったが、声は出ていなかったかもしれない。自分が目にした光景の意味を理解した瞬間、耐え難い嘔吐感が彼女を襲った。

 (これは何?)

 さほど広くはない部屋に立ち込める血の臭い、中央に置かれた手術台に横たわる若い男。それが医療行為であるはずがない。たった今両の目を抉られたのであろう男の頬には、未だ乾ききらない血の痕が、涙の痕のように残っていた。
 ふらりと後ずさった彼女は、とんと背に触れたドアの感触に、弾かれたように部屋を飛び出した。慌てたような声や、何か指示を出す大声が聞こえたけれど、そんなものを気にしている余裕はない。おぞましかった。一刻も早く、あの場所から離れたかった。自分が追われているという事すらその時は考えられず、ただ逃げるように走り続けた。

 「ぐ・・・・・っ!!お、ぇ・・・・・!」

 腹の底で疼く不快感に耐え切れずとうとう立ち止まった彼女は、壁に手を付き、身体を二つに折って胃の内容物を吐き出した。ここ数日ろくなものを食べていない身体は、吐き出すものなどほとんどなく、僅かな胃液が滴っただけだ。それでも嘔吐感は収まらず、彼女は何度も苦しげに背中を波立たせた。

 「ふっ・・・・ぅ・・・・・。」

 鳶色の目に、涙が滲む。それが嘔吐の苦しさゆえなのか、何らかの感情ゆえなのかも分からなかったが、一度溢れた涙は、もう止めようがなかった。蹲ったままの彼女の唇から、引き攣ったような泣き声が漏れる。床を濡らす胃液にぽたぽたと滴り落ちる涙を見下ろしながら、彼女は壊れたように泣き続けた。
 どんなに気丈でも、彼女は未だ年若い女性であった。弟の失踪以来、たった一人で街を捜し歩き、幾度となく命を狙われたこの一ヶ月で、彼女の精神と肉体はすでにぼろぼろだった。弟に逢いたいと、その想いだけでここまで来たが、それももう限界に近づいている。あの悪夢のような光景は、気力だけで動いている今の彼女を打ちのめすには十分すぎた。
 どれくらいの間、そうして蹲っていたのだろう。気力を搾り出すようにして流していた涙がようやく止まり、垂れていた頭を力なく起こした彼女は、何か温かいものに身体が包まれているのを感じて虚ろな目を彷徨わせた。縺れてぐちゃぐちゃになった髪をそっと撫でる、大きな手。やっとの事で上げた視線は、静かにこちらを見つめる、紫水晶の瞳を見出した。

 「・・・ユエ・・・・・。」
 「・・・だから言ったでしょう。見ない方がいいものだって、この世にはあるんですよ。」
 「・・・・・っ・・・・・。」

 見開いた大きな目から、またひとつ、ぽろりと透明な涙が零れ落ちる。それにも気付かぬように、彼女は涙声で小さく呟いた。

 「あれは・・・・あれは、何なの・・・・?人が、人を切り刻んでた・・・それに・・・あの眠りっぱなしの人たちは・・・・!!」

 自分の言葉で先ほど見たおぞましい光景が蘇ったか。自分の肩を抱きしめながら、うわ言のように呟く。ユエが、かたかたと震える肩にそっと手を置くと、彼女は縋るようにその手を掴んだ。

 「お願い、教えて・・・あんたは知ってるんでしょう?」
 「・・・・・・。」

 ユエは、静かに腕の中の女性を見下ろした。俯いたまま、震える声で懇願する彼女。その肩がひどく華奢であることに、彼は今さらながらに気付かされた。真実は、この細い肩に背負わせるにはあまりにも重過ぎる。けれど、彼女が前に進むために、それは避けて通ることの出来ない道だということも、彼には分かっていた。
 ・・・だから。彼はひとつ重いため息を落とすと、そっと口を開いた。

 

 

 

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