「・・・臓器の・・・闇市場?」
 「そう。それもかなり大規模な、ね・・・・。」

 足早に前を行くユエの背中を見ながら、アスカは硬い声で問い返した。
 裏ルートでの臓器移植と、それに必要な臓器の「採集」。それがこのビルで行われている事業の正体だった。
 臓器移植が一般化されたとはいえ、まだまだドナーの数は不足している。臓器移植に一縷の望みをかけ、自分に適合するドナーが現れるのを、首を長くして待っているレシピエントはいくらでもいるのだ。奴らはそうした患者たちの不安と希望につけ込み、不法な移植手術を行って金儲けをしていたのである。
 だが、そのためには新鮮な「材料」がいる。当然、事故などで脳死した人間など待ってはいまい。それでは一般の病院と大差ないのだから。そう疑問を呈した彼女の問いに、ユエは振り向かないまま問いを返した。

 「夏木さん、一酸化炭素中毒って知ってますか?」
 「は?・・・確か、火事で逃げ遅れた人とかがなる・・・。」
 「そう。一酸化炭素は、空気中にわずか0.05%含まれているだけで急性中毒を起こす危険な物質です。中毒を起こすと、頭痛、眩暈、顔面の紅潮、吐き気などの症状が現れ、放置すればそのまま人事不省となり・・・やがては呼吸が停止し、死に至る。」
 「だって・・・死んだら移植は出来ないんでしょ・・・?」
 「そう。だから殺しはしない。死亡するギリギリ手前のラインで一酸化炭素を止めるんです。そうすると、人間はどうなるか。」
 「どうなるの・・・・?」
 「・・・中枢神経系に、重い障害が残るんです。」
 「・・・・?」
 「要するに、脳と感覚器との仲立ちが出来なくなってしまうんですよ・・・平たく言えば、植物人間です。」
 「!!・・・・そんな・・・・。」

 悲痛に顔を歪めた彼女に構わず、ユエは淡々と言葉を続ける。

 「臓器を摘出するだけなら、そんな面倒な事をする必要はないんですけどね・・・彼らの商品には、血液も入っているようですから。」
 「栄養だけ与えて・・・血液作りの道具として使ってるっていうの?」

 震えながら彼女が呟いた答えを、ユエは小さく頷いて肯定した。
 あまりにもおぞましい事実。「獣(けだもの)」といったら獣(けもの)たちに対する侮辱となろう。自らの命を支える糧とするためではなく、ただ自分たちの快楽のためだけに他者の命を屠り、その身体を切り刻む外道ども。平和で豊かに見えるこの街には、こうした闇が棲む一面が、確かにあるのだ。そしてその闇は、時に穢れた触手を伸ばし、光の中にいる者さえ引きずり込む――この女性の、弟のように。
 足を止め、ゆっくりと振り向いたユエは、頭ひとつ分以上低い小柄な女性を見下ろした。アスカの背中に、すうっと寒気が走る。
 何とも薄気味悪い、背筋が寒くなるような感覚。例えるならば、そう・・・まるで、静まり返った深夜に突然鳴り出した電話のベルのような、言いようのない不吉な感じ。受話器を上げる前から、これは良くない報せだとピンと来てしまうような事は確かにある。彼女は、それと同じ感覚が、確かに身体を通るのを感じた。

 「・・・さっき、ここのメインコンピュータからデータを引き出して確認しました。貴女の弟さん――『夏木勇人』君は、約一ヶ月前にここに連れてこられ・・・九日前に、心臓を摘出されて亡くなっています。」
 「・・・・・・・・・。」

 彼女は、何も言わなかった。どこかが麻痺してしまったような頭の中を、彼の台詞が通り過ぎていく。
 ・・・勇人が死んだ。言葉の意味は分かるのに、それが事実として心に伝わってこない。遺体をこの目で見ていないからだろうか。彼の死はひどく現実感がなかった。そう、まるでテレビニュースの中で、そういう名前の若い男が殺されましたと耳にしたような、自分とは無関係な出来事であるかのような感覚。

 ・・・そう。無関係であるはずだった。世間の片隅でひっそりと暮らしてきた自分たちが、こんな事件に巻き込まれる事になるなんてどうして想像できただろう?今日も、明日も、明後日も。変わり映えのない、しかし何より大切な日々が繰り返されていくものだと、何の疑いもなく信じていた。
 一週間前ならば、馬鹿を言うなと笑い飛ばす事もできただろう。だが、『あれ』を――人が人を切り刻むという、あの悪夢のような光景を目にした後では、彼女もそれが事実である事を信じないわけにはいかなかった。
 あの廃工場で、漆黒の少年に同じ事を言われた時は、怒りと狼狽でただ否定するしかなかった。だが今、金色の青年の声を聞いた時に感じたあの寒気。十七年前、両親の死を告げられた時にも感じたあの感覚が、彼の言葉が真実である事を告げていた。

 「お気の毒ですが・・・遺体は既に、火葬処分にされたものと思われます。」
 「・・・そう、でしょうね・・・空っぽの体に、用はないんだもの。」

 彼女は、ぽつりとそう呟いた。ひどく乾いた、そっけない物言いであるのに、自分自身驚く。
 涙も出なかった。弟の死を認めていないわけではない。判断を下したのが理性なのか第六感なのかは解らないが、彼女は既に、弟の死を確信していた。それなのに、哀しいという感情が沸き上がって来ない。ただ、胸の奥にぽっかりと空いた空洞に、ひゅうひゅうと風が吹き抜けているような気がするだけだ。

 「変なの・・・どうして涙が出ないのかな・・・?それとも、そんなに冷淡な女だったのかな、あたし・・・。」
 「別に、変でも冷淡でもないと思いますよ。」
 「そう、なの?」
 「ええ。・・・本当に泣きたい時ほど、泣けないものなんです。人間は。」

 あまりにも酷い怪我をすると、痛みを感じなくなってしまう事がある。心もそれと同じだ。心を壊しかねないほどの哀しみや喪失感をすぐに涙という形で処理しきれるほど、人間の精神は頑丈もしくは高性能には出来ていないないらしい。
 全てが終わり、自らの傷に、その痛みに向かい合えた時、人間は初めて涙を流すことが出来る。彼は身を以って、それを知っていた。

 「いつか・・・あの子のために泣けるかしら・・・?」
 「ええ、きっと・・・。貴女が、弟さんの死に涙を流す時・・・貴女の中で、この事件は終わるんでしょうね。」

 その深すぎる傷を癒せず、悲嘆と絶望の中で『死んで』いく人間を、彼は嫌というほど見てきた。だが、目が潰れるほどに泣き、喉が枯れるほどに叫んで、彼女がそれでも立ち上がることが出来たなら。その時彼女は、弟の死を乗り越えて進む事が出来るのだろう。
 ・・・たとえ、傷痕は残っても。その痛みごと引き連れて、歩み続ける人間もいるのだから。

 (・・・貴女がそうなる事を、祈っていますよ。)

 心の中で呟くと、ユエは再び彼女をいざなって歩き出した。アスカがそっと尋ねる。

 「何処行くの?」
 「ここから出るんですよ。もう、ここでの用は済んだでしょう?貴女を無事に保護して外に連れて行くのが、僕の仕事のひとつですから。」
 「『ひとつ』?って事は他にも仕事があるわけ?」
 「『あった』ですよ。もう終わりましたか、ら・・・・・。」
 「?どうしたの?」

 突然、ユエがぴたりと立ち止まった。広い背中に追突しかけた彼女が驚いて問うも、答えはない。無反応な彼を訝しみ、正面に回って顔を覗き込んだ彼女は、端整な顔がひどく緊張しているのを見て背筋を強張らせた。どうしたの、と再度問いかけ、アスカは彼が左の耳朶に指をやっているのに気付いた。
 鮮やかな金の髪に飾られたその耳に嵌められているのは、紫水晶が嵌め込まれた金のカフス。色こそ違うが、彼女はその形に見覚えがあった。彼女の顔がさっと蒼ざめる。

 「レイに何かあったの!?それ、レイのと同じ型の通信機なんでしょ!?」
 「どうやらそのようですね・・・ったくもう、絶不調だっていうのに無理するから・・・!」
 「・・・・へ?」

 あれで?ひとりで完全武装の大の大人を十人以上も病院送りにしといて、暴力のプロを相手に脱獄から陽動までやらかしといて、絶不調?

 『・・・・嘘だろオイ。』

 心の中で呟いた彼女を余所に、ユエは慎重に通信機の向こうの様子を窺っている。同時に手首に嵌めた腕時計のようなものを何やら操作していたが、その蓋をぱちんと閉じると彼女に向き直った。サングラス越しでもはっきりと解るほど、その眼光は鋭い。

 「今すぐ選んで下さい。寄り道なしでまっすぐ脱出するか、それとも・・・・」
 「却下。あたしも行くわ。レイはどこにいるの?」

 彼を――否、彼らをこの事件に巻き込んだのは自分だ。自分に関わったせいで危険に直面している人間がいるのに、自分だけ脱出できるわけがない。

 「レイまで・・・あの子まで死なせるなんて絶対ゴメンよ!勇人のような被害者を、これ以上出してたまるもんですか!!」
 「全く同感です。では、行きましょうか。」
 「ええ!」

 疾走するふたりの足音が、冷たいコンクリートに響いた。

 

 

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 「っ・・・はぁっ・・・ったく、次から次へと・・・アクションゲームやってんじゃ、ねぇんだぞ?」

 延髄に鋭い手刀を受け、白目を剥いて倒れた男を冷たく見下ろしながら、息を荒げたレイは呆れたようにぼやいた。拳で乱暴に額の汗を拭う。
 これで一体何人の敵を倒したのか数える気にもならないが、ビル内は当初に比べれば随分静かになっている。鋭敏な聴覚をさらに研ぎ澄まして、建物内の気配を探っていたレイは、その事実を確認してほっと安堵の息をついた。通信機から聞こえてきた会話の内容から察するに、ユエもどうやらアスカと合流するのに成功したようだし、自分の『仕事』はそろそろ終わりだろうか。頃合を見て、適当におさらばするとしよう。
 そう考えて踵を返した瞬間。レイの背筋がぞわりと粟立った。

 「―――っ!!?」

 彼の身体は、長時間の陽動と戦闘でかなり疲労しており、ごく僅かではあるが、反射神経や瞬発力が低下していた。そうでなければ、彼がこんなミスをすることは考えられない。
 レイの手刀を受け、気絶していたはずの男の左手が、突然横薙ぎに空を切った。本能で危険を悟り咄嗟に横に跳んだものの、宙を走った銀色の光が、彼の右足を深く切り裂く。焼けるような激痛に、レイは押し殺した悲鳴を上げた。

 『くっそ・・・完全に落ちてなかったのかよ・・・・!?』

 「この・・・・!!」
 「がぁぁああ!!」

 左足一本で着地し、どうにか転倒は免れたものの、レイが体勢を整えるより男がタックルしてくる方が早かった。傷ついた右足で蹴りを繰り出そうとした刹那、岩のような巨体に思い切り突き飛ばされ、背中からコンクリの床に叩きつけられる。その手から弾き飛ばされたナイフが、硬い音を立てて床を滑っていく。後頭部を強く打ちつけ、一瞬視界が揺らいだその隙を逃さず、圧し掛かった男の両手が、彼の細い首を鷲掴みにした。至近距離まで近づいた血走った両目が、ぎらぎらとした憎しみの光をレイにぶつける。

 「このクソガキが・・・・殺してやる!!」
 「・・・・っ、ぁ・・・・・っ!!」 

 憎悪にひび割れた男の声と、別人のように掠れた自分の声が、途切れ途切れに聞こえる。必死に男を跳ね除けようとするが、いかんせん体勢が悪すぎた。頸骨をへし折らんとするかのように、ぎりぎりと締め上げてくる両手。その手に渾身の力で爪を立てるも、箍のような両手は全く緩まない。とどめとばかりに強められた力に、気管が押し潰され、レイの視界が徐々に暗くなる。弱々しくもがいていたその手が、完全に力を失いかけた、その時。

 

 ―――ガンッ。

 

 ―――びちゃり。

 

 ・・・一発の銃声とともに、首を締め上げていた力が、消えた。

 「げほっ!!か、はっ・・・はぁ・・・はぁっ・・・・。」
 『何、が・・・・・?』

 急激に肺に吸い込まれた酸素に激しく咽せたレイは、ふと床についた手が、ぬるりと滑るのを感じた。呆然と見やれば、そこにあるのは―――

 『赤い・・・・・・。』

 ―――真っ赤に染まった、自分の右手と。

 「――――っ!!!」

 ―――頭が弾け飛んだ、男の死体。

 細い身体に寄りかかるようにして、絶命している男。先ほどまで力任せに頸を締め上げていた無骨な手が、だらりとコンクリの床に垂れ下がっている。凍りついたようにそれを見つめるレイの耳に、嘲るような男性の声が響いた。

 「・・・馬鹿者が。無傷で捕らえろとあれほど言っただろうに。」
 「お、お前・・・・。」

 ―――『柳 哲郎』。

 未だ硝煙の立ち昇る拳銃を手にしたまま、柳はにこりと、人の良さそうな微笑を浮かべた。たった今人を殺したとは思えない、朗らかなその笑顔。端整な顔に貼り付いたそれが、吐き気がするほどおぞましい。
 こつり、こつり。虚ろな空間に、硬い靴音がひどく響く。近づいてくる男から逃れようと、レイは重石となっている死体を押しのけようとした。と、力なく項垂れていた頭部がごとり、と動き、隠れていた傷口が露になった。柘榴のように弾け飛んだ頭部と、血に塗れた虚ろな眼球を目にした瞬間。

 「・・・・っ・・・・・!!」

 レイの双眸から、焦点が消えた。
 蒼ざめた唇から、音にならない絶叫が上がる。

 ―――両手を濡らす熱い血。

 過去の記憶が、目の前の光景と重なる。腕の中の見知らぬ顔の死体が、よく知った人のそれにすり替わる。

 ―――頭髪ごと弾け飛んだ頭から、血と脳漿が流れ出す。 

 「全く・・・無能なだけに留まらず、せっかく捕らえた貴重な獲物に手を出すとは・・・」
 誰かが喋っている。一体誰?喋っているのは。引き金を引いたのは。殺したのは。

 ―――自分の腕の中で死んでいるのは、誰だ?

 「ァ・・・・・ぁ、ぁ・・・・・・。」 

 違う、これは違う。これはただの死体、『あいつ』じゃない。
 頭では解っているのに目が離せない。鼓動が早まる。身体が震える。

 ・・・怖い。

 「・・・・っ!!」

 耐え切れず顔を背けようとした瞬間、腕の中の死体が突然ごろりと転がり、湿った音を立てて床へと落ちた。無造作に死体を蹴り除けた柳は、ひっと小さく息を呑んだレイの身体を壁に押し付け、動きを封じる。恐怖と驚愕に見開かれた瞳が、暗い微笑を貼り付けた男の顔を映し出した。

 「どうだね・・・懐かしい光景だろう?冴羽君。」
 「・・・・な・・・・・ぁ・・・・・っ!!」

 ぎり、と細い手首を締め上げられる痛みに、レイの瞳に僅かな光が戻る。身を捩りかけ、レイは左手に走った違和感に、ぞわりと背筋を粟立たせた。
 常に彼の左手を覆っている、革の手袋。決して外では外さないそれを、男の指がゆっくりと剥ぎ取ろうとしている。裾から入り込んだ指先が、相棒以外には滅多に触れられる事のない左の掌を探り始めた瞬間。レイは呪縛から解き放たれたかのように、渾身の力を込めて暴れだした。

 「は、放せっ!放せよ、俺に触るなっ!!」
 「無駄だよ。私はまだまだ現役でね、筋力も若い者にはそうそう負けない。」
 「やっ・・・止めろ、嫌だ・・・・っ!!」

 傷ついた足から鮮血が散り、コンクリートに点々と紅い花を咲かせる。膝を割られ、その間に身体を押し入れられた今の状態では蹴りは届かないが、無駄とは知りつつもレイは抵抗を止めない。男の手から逃れようと、手負いの獣のように暴れ続けるレイに舌打ちし、柳は一瞬の隙を突いて、その腹部に拳を叩き込んだ。

 「がっ・・・・!!」

 腹部で炸裂した激痛に、レイが身体を折る。こみ上げてくる嘔吐感と、息も出来ないほどの苦痛。息も絶え絶えな少年が、秀麗な顔を苦しげに歪めるのを楽しそうに見下ろすと、柳は再び手袋へと手を掛けた。身動きすらできず、ただ苦痛に耐えているレイが、それでも嫌悪と憎悪のこもった声で呻く。

 「・・・や、めろ・・・・・・。」
 「そう言われて、はいと引き下がると思うのかね?」
 「・・・・・!!」

 ずるり。冷たい空気の感触に身震いをする。弱々しくもがく彼の抵抗は容易く抑え込まれ、ねっとりとした男の声がその耳を汚した。

 「・・・君の秘密を、見せてもらうよ。」
 「やっ――――!!!」
 「―――レイっ!!」

 

 ―――ぱさり。

 

 少年の左手から手袋が落ちる音は、女性の鋭い声と、駆けつけた複数の足音にかき消された。

 

 

 

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