―――捜し求めていた少年の姿を見出した瞬間、彼女は僅かに残っていた血の気が、一滴残らずひいていくのをはっきりと感じた。

 「レ、イ・・・・!」

 点々と散った血痕。床に転がる死体。そして、見覚えのある男が組み敷いている少年の顔は真っ青で、ひどい苦痛に歪んでいる。そして、しなやかな身体の脇に、黒い手袋が丸まって落ちている――まるで、動物の死骸か何かのように。

 (・・・手袋?)

 それがあるべきはずの場所に視線を動かし、彼女は小さく息を呑んだ。出会ってからずっと隠されていた、その左手。闇に慣れた眼は、黄ばんだ頼りない明かりに浮かび上がるそれを、はっきりと捉えていた。

 (き・・・傷痕・・・・?)

 そう。彼の左手には、無数の傷痕が刻み込まれていた。長いものや短いもの、既に消えかかったものからくっきりと色濃く残っているもの。程度はさまざまだったが、指先から手首に至るまで、あらゆる場所に残された凄惨な傷痕の全てが、鋭利な刃物で繰り返し刻み込まれたものである事はすぐに分かった。そして、それが戦闘の最中に不注意で負った傷ではなく、明らかに何者かの――ひょっとしたら彼自身の――意志によってつけられたものだという事も。
 白くほっそりとしているが、少年らしいしなやかな強さを感じさせる彼の手を、彼女は素直に綺麗だと思っていた。だからこそ、その傷痕にはひどく違和感を感じる。間違っているという感覚を拭えない。健やかな彼の手に、あんな偏執的な傷痕は似合わないと、彼女はある意味場違いな感想を抱いた。
 一方、彼女の横でその様を見つめていたユエは、相棒を押さえ込んでいる男に視線を向けて静かに言葉を発した。

 「死体が転がる廊下で力尽く、ですか。お盛んな事でと言うべきか、随分といいご趣味でと言うべきか、甚だ微妙な所ですね?柳さん。」
 「ふふふ・・・求め続けた宝石を目の前にして、手を伸ばさぬ者はおらんさ。」
 「何を寝惚けた事を。彼は宝石じゃない、意志を持った人間です。」

 音楽的な、耳に心地よい声は穏やかで、端整な顔には何の感情も浮かんでいない。しかし、ユエの横に立つアスカは、彼の周囲に渦巻く凄まじいほどのオーラの流れを、敏感に感じ取っていた。触れたら切れてしまいそうなほどに、冷たく冴えた月光を思わせる、澄んだ金色の光だ。
 彼は怒っている。心底怒っている。大切なものを傷つけた、目の前の男に対する狂おしいほどの怒りを、並外れた自制心で無表情の仮面の下に抑えこんでいるのだ。何気なく立ち尽くしているようだが、その鍛えられた長身が、全身の筋肉を緊張させている。今すぐにでも彼を取り戻したいのだろうが、下手に動けば、柳が彼にどんな危害を加えるか解らないので耐えているのだ。青年の心中を察し、隙あらば飛び掛って蹴りつけてやろうと思っていたアスカは、思わず一歩後退した。
 その理由は、素人である自分が邪魔をしてはいけないと思ったのが半分。そしてもう半分は、彼が本気で怒りを爆発させた時、とばっちりを受けないよう退避しなければと思ったのが半分だった。
 だが、細い手首を押さえつけている男は、そんな彼の心には全く注意を払わず、力なくもがく美しい獲物をうっとりと見下ろしている。どこか狂気の気配を感じさせるその視線は、じっとその左手に注がれていた。

 「見たまえ、美しいと思わないかね・・・?彼が自らの手で刻んだ聖痕(スティグマ)だ。どんな珍しい装飾品より、この少年にふさわしい。」
 「・・・貴方は、随分とレイのことを良くご存知のようだ。」
 「勿論、色々と調べさせてもらったよ。玖月君、君と出会った後の事、出会う前の事・・・・」

 ぎり。骨の軋む音が響く。

 

 「・・・彼の目の前で殺された、育て親の事もね。」

 

 (な・・・・。)

 衝撃的な柳の言葉の数々が、アスカの心臓を大きく跳ねさせる。咄嗟に傍らの青年を見上げるが、サングラスで顔の上半分を隠した、彼の思考は読めなかった。浮かれたような男の声だけが、虚ろな空間に響き渡る。

 「そちらの彼女は知らないようだね?冴羽君を育てた義父は、彼が十三歳の時、彼の目の前で殺害されているんだよ・・・こうして、銃で頭を撃ち抜かれてね。」

 顔を背けたままのレイの表情は、彼女からは見えない。

 「キリストが十字架に架けられた時・・・フランチェスコ等聖人達の体には、神の子と同じ傷が現れたという。この傷も同じだ。血を流して死んでいった義父(ちち)の死が、彼の身体に残した聖痕。神聖さと背徳を併せ持つ、聖なる傷痕だ。」
 「・・・・・・・。」
 「美しい・・・が、目障りでもある。彼が、かつて愛した男のために残した傷なのだからね・・・・。」
 「どうするつもりです。皮でも剥ぐつもりですか。」

 乾いた口調で怖い事を言わないで欲しい。それ以前に、何故柳を止めないのか、好き勝手な事を言わせておくのかと、アスカは内心歯噛みをしていた。

 「まさか、そんな勿体ない事をするわけがないだろう?幸い、仕事柄医療方面には伝手があってね。腕のいい整形外科医も何人か知っている。一年後には、痕ひとつない綺麗な手に戻してやれるだろう。」
 「そして、レイの記憶から『彼』のことも消してしまうのですか。傷を消すのと同じように。」
 「当然だろう?これからは私のことだけ見ていればいいのだから。」

 そのあまりにも利己的な台詞に、アスカは「なんて奴なの・・・」と深刻な嫌悪感を露にした声を漏らした。自分は、彼の過去を何も知らない。彼がどういう経緯で育て親を亡くしたのか。どんな気持ちで、自らの手を切り裂いたのか。そもそも実の両親はどうしているのか。・・・・何も、知らない。
 けれど、何も知らないなりに解る事はある。それは、彼にとってその傷と――『義父』との記憶が、特別なものであるのだろう事。そして、それは間違いなく、彼の心の基盤の部分に関わっているのであろう事だ。
 若者が悪戯半分で入れる刺青とはわけが違う。痛みに耐えて自ら刻み付け、今日まで消そうとすらしなかったそれが、何の意味もないものであるわけがない。それを、いともあっさりと消し去るという柳に、彼女は殺意にも近い、純然たる怒りを覚えた。

 (―――殺意。)

 そう。殺意だ。彼女は、震える拳を血が滲むほど強く握り締めた。
 目の前の、この男。レイを傷つけ、たくさんの人たちの命を奪い―――弟を切り刻んで、殺した男。自分から全てを奪った男。

 (・・・許せない。)

 殺してやる。弟と同じように、こいつに殺された人たちと同じように、腹を切り裂き、内臓を引きずり出して殺してやる。
 自分にはもう失うものなどない。たとえ刺し違えて死ぬ事になったって、別に構いやしない・・・自分が死んで悲しむ者は、もういなくなってしまったのだから。

 暗い炎を宿した鳶色の瞳が、冷たく光るナイフを映し出す。自分たちと柳の距離は約五メートル。そのちょうど中間に落ちているサバイバルナイフは、レイが先ほどまで使っていたものだったが、今の彼女にはそんな事はどうでも良かった。問題なのは、それが人一人殺害するのに十分な殺傷能力を持っていること。そして、自分がそれを拾い上げてから、一瞬で標的まで飛びかかれる位置に落ちているという事だけだった。

 (殺してやる)

 殺意は明確な形を取り、彼女の足を動かした。自分に背を向けているユエの脇をすり抜け、ナイフを拾い、その勢いのままに、あの男の首筋に刃を突き立てる。ほら、なんて簡単。ものの三秒もあればケリがつく。

 (殺してやるわ)

 人を殺したら、天国に行った弟とは逢えないかもしれない。それでもいい。この人間の皮をかぶった悪魔を葬り去れるなら、喜んで地獄へ飛び込んでやる。

 (―――あんただけは・・・許さない!!)

 全身の力を爪先に込め、ナイフめがけて地面を蹴る。突然行動を起こした彼女に、柳がはっとしたように顔を上げるのが解った。
 床のナイフに、彼女の手が伸びる。華奢な指先が無骨なグリップに触れかけた、まさにその瞬間。

 「―――きゃあっ!?」

 ぐいっ、と背後から物凄い力で引き戻され、彼女は思わず悲鳴を上げた。ジーンズの背中を引っ掴み、片腕で無造作にその身体を引き戻したのは、当然のことながらユエであった。アスカの背後にいたのは彼だけなのだから当たり前なのだが、何故彼が自分を止めるのか解らない彼女は、髪を掻き毟って叫んだ。

 「何で止めるの!?」
 「すいませんが、ちょっと大人しくしてて下さい。」
 「これが大人しくしていられ・・・っ!!」

 言葉が不自然に途切れたのも、無理はなかった。サングラスを冷たく光らせて彼女を見下ろすユエには、身長差というだけでは説明のつかない、尋常でない迫力があった。
 気圧されたように黙り込んだ彼女から視線を外したユエに、柳は嘲りの言葉を投げた。

 「今のは彼女の方が正しいな。ここで私を殺せば、彼は君の手に戻ったというのに。」
 「安心して下さい。貴方の穢れた血を流さずとも、レイはきっちり返していただきますから。」

 形の良い唇の淵が、薄っすらと上がる。傍から見ていても背筋が寒くなるような、絶対零度の微笑だ。

 「『痕ひとつない綺麗な手』?『私のことだけ見ていればいい』?・・・・はっ、馬鹿馬鹿しい。貴方はレイの事など何ひとつ解っちゃいないんですね。」
 「何だと・・・!?」
 「・・・・あぁ、全くだな。」

 不意に響いた、凛とした少年の声。澄んだその声に、対照的な濁った異音が重なった。

 「ぐはっ・・・・!!」

 顔面に思い切り叩きつけられた頭突きが、柳の鼻骨を見事に砕いた。鼻血を撒き散らして仰け反った彼の目に、一瞬で肉薄した金色の青年の姿が映る。次の瞬間、再び響いた異音と左腕を襲った激痛に、柳は絶叫した。

 「ぎゃぁぁあぁあ!?」
 「・・・五月蝿いなぁ、腕の一本や二本で騒がないで下さいよ、見苦しい。」

 鮮やかな手つきでへし折った左腕を、放り投げるようにして解放したユエの台詞は、のた打ち回る柳には聞こえてはいなかっただろう。そちらを警戒しつつも、ユエは素早く屈み込み、力なく壁に凭れた相棒をそっと抱き起こした。

 「この状況で大丈夫ですかって訊くのも何なんですけど、大丈夫ですか?」
 「辛うじて生きてるよ・・・。ま、お前が時間稼ぎしてくれたおかげで大分回復したけどな。」
 「それは良かった。僕もこんな所でまな板ショーに遭遇するとは思いませんでしたよ。」
 「あはは、ちょっとドジっちまった。」

 明るく笑う様は全くいつもの彼であったが、まだ微かに青い顔色が痛々しい。その左手に拾い上げた手袋を嵌めてやりながら、ユエはぽつりと呟いた。

 「・・・ごめんね、レイ。」

 転がる死体の様子と、ここに駆けつけた時の彼の様子を見れば、何があったかなど一目で解る。仕事があったとはいえ、彼を自らの辛い過去にひとりで立ち向かわせてしまったことに、ユエは辛そうに顔を歪めた。
 自分より遥かに痛そうな顔をした相棒にふわりと笑ったレイは、くしゃりとその金髪をかき回して感謝の言葉に代えた。

 「・・・・な、何故だ・・・・!?」

 ユエに肩を借りて立ち上がったレイは、陰惨な響きを滲ませた呻き声に足を止めた。ありえない方向に曲がった腕を抱え、額に脂汗を浮かべながら、柳はぎらぎらとした光は失っていない目を彼に向けた。

 「何故、私のものになろうとしない!?金も、地位も、名誉も、そんな若造にはないものの全てを私は持っている!!私の所に来れば、全ての辛い過去を忘れて、幸せに生きる事が出来るのに・・・そう、義父の死の記憶からも解放されるんだぞ!!」
 「・・・そこがもう間違ってんだよ、あんたは。」

 レイの澄んだ声には、怒りも憎しみも篭ってはいなかった。ただ、どこまでも透明な・・・ほんの僅かな哀しみと、憐れみだけを感じさせる声。血に塗れながらも決して濁らない漆黒の瞳が、うずくまる男を真っ直ぐに映し出す。

 「俺は、一度だってそんなものを望んだ事はない。忘れたいなんて、誰が言った?俺は・・・『あいつ』の事を永遠に忘れないために、この傷を刻んだのに。」
 「冴、羽く・・・・。」
 「『あいつ』は・・・霜真(そうま)は、俺が殺した。」
 「え?」

 小さく声を上げたのはアスカだ。小さいが驚愕の色を滲ませたその呟きに、レイはふっと視線を落とした。

 「実際に手を下したわけじゃないけれど・・・あらゆる意味で、引き金を引いたのは俺だった。俺の無知と、無力が。身を守る事すら出来ない俺の馬鹿さ加減が、霜真を逃れようのない死地に追いやった。そして・・・あいつは死んだ。頭を銃弾で吹っ飛ばされて。」
 「・・・・・・!!」

 『銃は嫌いなんだ』と言った時の、彼の後姿を思い出す。硬く張り詰めた、あの時の声。彼は、育て親の命を奪った武器を前にして、一体何を考えただろう。

 「あの時、俺の命で霜真の命が贖えたなら・・・俺は喜んでこの心臓を抉り出しただろう。でも、そんな事はあり得ない。死んだ人間は、二度と戻らない。・・・この傷痕が、決して消えはしないのと同じように。
 ・・・柳。あんたはこの傷を美しいと・・・聖なる傷痕だと言ったが、それは違うぜ。これは聖痕なんかじゃない・・・罪人に刻まれる、烙印なんだよ。
 決して消えない、俺が一生背負っていくべき罪の証なんだ。」
 「あ・・・・・。」

 そこまで言うと、レイは表情を緩め、ふっと息を吐いた。傷ついた足に負担がかからぬよう、傍らの相棒がそっとその身体を支える。

 「完全に受け入れられたわけじゃない。でも、俺は逃げるつもりもない。今の俺が、この傷の上に創られたものだというなら・・・この痛みごと引き連れて歩き続けるだけだ。俺が『俺』であるために、この傷は必要なんだから。
 ・・・そして、それが解らないあんたに、俺のパートナーになる資格はない。」
 「その、男には・・・その資格があるというのか・・・?」
 「ある。こいつはこの傷からも、俺の生き方からも、一度も目を反らさなかった。そして全てを知った上で、俺の傍にいることを選んでくれた。・・・それまで持っていたものを、全て捨ててな。だから俺は、こいつに全てを預けることにしたんだ。」
 「・・・・・・・。」
 「覚悟が違うんだよ。あんたと、こいつとじゃな。」

 一片の迷いもなく発せられた、信頼の言葉。がくり、と柳が項垂れる。その肩が小さく震えているのを見て、アスカは不意に、追い詰められた獣を目の前にしているような危機感を感じた。

 「そうか・・・どうあっても、私のものにはならないというわけだな・・・・。」
 「だから最初からそう言ってるだろうが。」

 流石に苛立ったようにそう言ったレイの声も耳に入らない様子で、ゆらりと立ち上がった柳の右手に小さなスイッチのようなものが握られている。爆弾の起爆装置を思わせるそのフォルムにぎょっとしたアスカに、柳は不気味な薄ら笑いを向けた。

 「そんな顔をしなくても、爆弾などではないよ・・・そう・・・ただ、この施設内にいる全構成員に、緊急指令を出しただけだ。」
 「命令内容は、『侵入者全員の完全抹殺』ですか?」
 「そうだ。無傷で捕らえろと言っておいたのだがね・・・どうあっても手に入らないというなら、組織のためにも、ここで全員消しておくのが良かろう。実に残念だよ、冴羽君。君が賢い選択をしてさえいれば、彼らは無事に脱出できたかもしれんのにな。」
 「真顔で嘘つくんじゃねぇよ。俺がそっちについたら、なおさらこいつは用無しじゃねぇか。俺の気が変わって、やっぱりよろず屋やりますって言い出さねーように、それこそ完全抹消してたんじゃねぇのか、え?」
 「と言うか、完全に僕らが死ぬ事を前提にしてお話しになってますけど。まだ僕らは生きてますよ?」
 「ふん、逃げられると思うのか?この施設内には、百人からの構成員がいる。いくら君たちが百戦錬磨とはいえ、敵うわけがなかろう。ましてや、肝心要の冴羽君は、足をやられて戦闘不能だ。」
 「まぁ確かに。暫くは家の中で休養ですね、こりゃ。」
 「!ちょっとユエ、向こうから誰か来るわよ!!」

 柳の背後の階段から、リズミカルな足音が近づいてくる。苦痛の色に染め上げられていた柳の顔に、どぎつい優越感が上塗りされた。足音の方に向かって一歩、二歩と後ずさりながら、三人をじろりと一瞥する。

 「これで、君たちも終わりだ。まあ喜びたまえ、神に祈る暇くらいはあるはずだ。」
 「生憎と、僕たちには祈るべき神がいないものでね。」
 「そうそう。それにさ、祈らなきゃいけないのは俺らじゃないと思うぜ?」
 「?何を馬鹿な・・・・」
 「・・・・馬鹿はどっちなのかなー?こーのマッド野郎が☆」
 「っ!!?」

 突然その場に、聞き覚えのない声が響き渡った。

 

 

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