―――驚愕に目を見開き、立ち尽くす柳の首筋に、ぎらりと光る獣の爪が押し当てられていた。
「な、な・・・・。」
「おーっと、動かないでねー?下手に動くと、頭が胴から落っこっちゃうよ?まぁ僕は別にどっちでもいいんだけどサ。」
場にそぐわぬ軽い口調で、笑いながら言う若い男。軽くブリーチした髪に一筋だけ赤いメッシュを入れて、アスカと同じような古ぼけたジーンズ姿という、極めてラフな格好をしている。それにふさわしい明るい声は、それだけ聞くと、ちょっと前髪切ってみない?と尋ねているかのような何気なさだったが、口にしている内容とその手にある凶器は、そんな日常性とは百万光年ほどかけ離れた代物だった。
彼が右手に嵌めているずっしりと重そうなグローブには、獣の爪を思わせる、十五センチはありそうな太い鉤爪が三本装着されている。今は柳の首筋に押し当てられているそれは、持ち主がその気になれば、確かに人間の腕や首のひとつくらいは簡単に切断するだろう。
突然現れた見知らぬ男の行動に、アスカが目を白黒させていると、レイがその男に向かって不機嫌そうに言い放った。
「ったく、遅いぞアラシ!」
「ごめんごめん、けっこー手間取っちゃってさー。今アズマが残党整理してっけど、まあもうすぐ終わるから大目に見てよ。」
「『アラシ』?それに『アズマ』・・・!?ま、まさか・・・お前は、『ツイン・リーパー』か!?」
「厳密に言うならその片割れね。僕たち、ふたりでワンセットだから。」
柳の顔から、完全に血の気が引く。その襟首を掴んで壁に叩きつけると、アラシと名乗った若者は、ずるずると座り込んだ柳を冷たく見下ろした。
「あんたが、警備部長の柳哲郎だね?このビル内にいた構成員は、既に僕らが全滅させたよ。残ってるのはあんただけ。大人しく警察に捕まってくれるなら、命だけは助けてやるよ。・・・ま、ここで死ななくても、どうせ裁判で死刑判決が下るだろうけどね。」
「ぜ、全滅・・・・!?馬鹿な!!戦闘が起こっているような気配はなかったはずだ!!」
「だから馬鹿はあんただろー?何のためにレイがド派手に暴れまわってたと思ってんだよ?陽動の陰で動いてたのはそっちの彼女だけじゃない。僕らも、あんたらの目がレイに向いてる隙に侵入して、こっそり敵の数を減らしてったわけ。ま、思ったよりあんたらの捕捉能力が高くて、敵がいっぱいレイの方に行っちゃったのは誤算だったんだけどさー。」
「ったく、おかげでこっちはメチャクチャしんどかったんだぞ。」
「僕らは楽だったよホント。敵さんが持ち場離れて散らばってたせいで時間はかかったけど、奴ら完全に浮き足立ってたし命令系統も混乱してたし、もーやり放題。やっぱりふたりに手伝ってもらって正解だっ・・・・って、そうだ忘れてた。ユエ、ディスクの方は?」
「ああ、入手済みですよ。はいこれ。」
ぽーん、と宙を飛んだフロッピーディスクが、アラシの手に収まる。破顔して「サンキュ」と言ったアラシに、アスカは「ねぇ」と声をかけた。
「ん、何?」
「訊いてもいいかしら?貴方は誰で、ここに来た目的は何で、あのフロッピーは何なの?」
恐ろしく端的な質問に目を見張ったアラシは、次の瞬間けらけらと笑い出した。鉤爪の付いた右手で腹を抱えるものだから、見ている方が冷や汗ものである。
「すっごいポイント押さえた質問だねー。じゃあ、その順番で答えよっか。
僕は御堂嵐。弟の雷とセットで『ツイン・リーパー』と呼ばれてる壊し屋だ。ここへは、こいつらに殺された被害者の遺族からの依頼を受けて、この施設をぶっ潰すために来たんだ。これ以上被害者が出ないように、東亜警備保障を根こそぎ叩き潰してくれって言われてね。
ただ、ここにいる構成員をただ倒すだけなら僕らふたりでも何とかなるんだけど、生憎東亜はあっちこっちに似たような施設を隠し持ってて、一個一個潰してたんじゃ埒が明かなかったんだ。ひとつ潰しても、また別のアジトに逃げ込んで活動を続けるって具合でね。
となれば、一網打尽にする方法はただひとつ。被害者と顧客のリストを手に入れた上で警察にタレ込んで、全施設を一斉検挙させる事だ。植物状態にされた人たちは、まだ心臓は動いてるって言うし・・・彼らのケアのためには、どっちみち警察の介入を避ける事は出来ないだろうしね。
まあそんなわけで、僕らだけの力では依頼遂行は難しいと踏んで、レイとユエに協力を頼んだわけ。」
「そこまでは解ったけど、最後の質問には答えてもらってないわよね?さっき、ユエは『仕事があった』って言ってたけど、それに関係する事?」
「お姐さん、頭いいねぇ〜。その通りだよ。」
促すようにアラシに視線を向けられ、レイの足の傷に応急処置を施していたユエは顔を上げた。
「断片的ではありましたが、被害者のリストはネット上に流れていたんです。・・・勇人君の名前も、そこで見つけました。」
「それはいつ?あんたは、あたしが依頼に行った時には、もう勇人が死んだ事を知ってたはずよ。」
「貴女と初めて会った日の夜です。トラブルに首を突っ込んでしまった以上、逆恨みを受ける可能性もありましたからね。襲撃者たちから拝借した身分証明書から、必要と思われるデータはその日のうちに入手してありました。」
「・・・そのデータに勇人の名前があったって、いつ照らし合わせて調べたのよ。あたしが勇人の名前を教えてから襲撃を受けるまで、そんな時間なかったはずよ?」
「記憶力は結構いい方なんです。あの日の調査結果も全て頭の中に入れてありましたから、お名前を聞いた瞬間に解りましたよ。」
「・・・・・・。」
普段からそんな膨大なデータを頭の中に入れているのだろうか。この青年の頭脳はどうなっているのかと、アスカは軽い頭痛を覚えた。
「まあいいや・・・・で?」
「で、ですね。被害者のリストは多少閲覧できたものの、それは完全なものとは程遠い代物でした。しかも、肝心の顧客リストはネット上には存在しない。完全なリストは、あらゆる回線から切り離された、この建物のメインコンピュータに保管されていたんです。
・・・回線が繋がってないんじゃ、ハッキングも出来ないわけでしてね。リストを手に入れる唯一の手段は、直接ここのメインコンピュータにアクセスして、セキュリティを解除することだったんですよ。僕はレイが敵さんの目を引き付けてくれている間に、制御室に乗り込んでその作業を行っていたわけです。」
「その成果が・・・あのフロッピー?」
「ええ。」
「そ、そんな・・・・そのリストには、厳重なプロテクトがかかっていたはず・・・!!」
「あぁ、確かに何重にもかけてありましたね。けど、ひとつひとつのプロテクトがへっぽこじゃあ全然意味ないですよ。もっと破られにくいセキュリティシステムの構築法、教えましょうか?」
「わー、超イヤミー!!」
賑やかな会話を聞きながら、アスカは体中の力が抜けていくような感覚を味わっていた。ぼんやりと、アラシの左手に収まっているフロッピーを眺める。
ふたりの言う通りならば、奴らはもう終わりだ。あのフロッピーがあれば、あちこちに点在するアジトは一斉に摘発され、東亜は壊滅する。柳の顔色からして、それはほぼ確実だろうと思われた。
奴らは、自分にとっては憎んでも憎みきれない仇である。奴らの破滅を喜びこそすれ、悲しむ理由など一欠片もない。それでも、素直に両手を挙げて喜ぶ気になれないのは、憎しみと怒りの矛先が突然なくなってしまったからであった。奴らへの憎しみと復讐心が、弟を失った哀しみから目を反らす口実になっていたことに、彼女はそこで初めて気付いた。
柳は、呆然と床に蹲っている。十分で十年分ほども老け込んだように見える惨めなその姿に、さっきまではあれほど激しく荒れ狂っていた殺意が消えていくのを感じて、彼女はひとつ頭を振ると踵を返した。誰かに呼び止められたような気がしたが、それでもあの場にはいたくなかった。柳の、惨めな姿を見ていたくなかったのだ。
『関係ない・・・』
走りながら自分に言い聞かせる。その視界が滲むのは、汗が流れ込んだせいだと無理やりに思い込んだ。
『あいつが何を失おうと、あたしには関係ない。あいつは人殺しで、勇人の仇。あいつがどうなろうと、自業自得じゃないの!!』
・・・あんな老人のような姿は見たくなかった。彼への憎しみを失ってしまいそうな自分が怖かった。愛する弟も、生きる理由も、未来への展望も何もかもを失った自分に、奴らへの憎しみだけが生きる力を与えていたということに、明敏な彼女は既に気付いていた。
たとえ負のエネルギーではあっても、怒りや憎しみは人に強い力を与える。それを無くした彼女に残されたのは、どうしようもない喪失感と・・・絶望だけだった。
足を止めた体が、ずるずると冷たい床にへたり込む。膝を抱え、目頭を思い切り膝小僧に押し付けて、彼女は「関係ない」と、呪文のように繰り返した。その言葉に、何の意志も感情も篭っていない事に――彼女自身、気付いてはいたのだけれど。
いつしか、機械的なその呟きも止まっていた。のろのろと顔を上げた彼女は、正面にあるひび割れたガラス窓に視線を留め、そっと目を細めた。
『もう・・・疲れた。』
全部、無くなってしまった。精一杯肩肘張ってここまで来たけれど、それももう終わり。自分の役目は、もう終わったのだ。
『・・・・勇人。』
―――いっその事、ここで全てを終わらせてしまうのもいいかもしれない。
ゆっくりと、立ち上がる。錆びた鍵を外し、そっと窓をスライドさせると、僅かな軋みとともに開いた空間から、湿った空気が流れ込んで頬を擽った。ここ数日降り続いていた雨は止み、空にはどんよりとした重い雲がわだかまっている。
どうせなら、雨が降っていてくれたほうが良かったな。心の中でそう呟く。昨日のように激しい雨であったなら、地面に流れ出た自分の血もすぐに洗い流され、さほど見苦しくはなかっただろうに。
『あたしって、最後の最後まで神様にキラわれてんのね。』
小さく笑った声は、自分でも不思議なほどに落ち着いていた。遥か下方にあるコンクリートの地面を、彼女は静かな眼差しで見つめる。高さは五階程度だが、下がコンクリならば死に損なう事はないだろうと、理性はやけに冷静な判断を下した。
ぎゅっ、と。窓枠を掴んだ手に力がこもる。風の香りを吸い込もうとしているかのように、窓枠の外に大きく上半身を乗り出して、彼女は目を閉じた。
体重を支えているのは、両手のみ。ここから力を抜けば、彼女の身体はその瞬間、頭から真っ逆さまに落ちていく事だろう。
―――勇人。守ってあげられなくて、ごめんね。
―――でも、独りにはしないよ。姉さんも・・・今、そっちに行くから。
蒼ざめた唇に、穏やかな微笑が浮かぶ。不思議なほどに優しく、幸せな顔で微笑んで。
・・・彼女の両手が、窓枠から離れた。