「・・・ねぇユエ。」
「何ですか?」
外を眺めたままのユエは、背後からのアラシの呼びかけに、振り向かぬまま応えた。砕けた左腕に対する気遣いなど一片も無いままに手足を拘束され、失神した柳を監視しているアラシもまた、彼には視線を向けぬままに話しかける。
「良かったの?一人で行かせてさ。」
「いいんですよ。ふたりだけで話して、初めて解る事もあるでしょうから。・・・まあ、平手の一発くらいは食らうかもしれませんけどね。」
「・・・それが納得いかないよ、僕は。」
目を伏せ、アラシは呟いた。彼らしくもない平坦な声音に、ユエは窓から目を離し、サングラス越しの視線を彼に向けた。
「レイも・・・お前も。あの子に何も悪い事してないじゃないか。ううん、それどころか、危険を冒してまで助けてあげてるじゃないか。
狙われてる所を助けてあげて、首突っ込むなって警告してあげて、それでも引き下がらないと解ったら、動きやすいように陽動までやってあげて・・・。レイが、あの子は自分の仲間だって嘘ついたのも、彼女を守るためだったんだろ?そう言っとけば、レイに執着してるこのオヤジは、レイに対する切り札としてあの子には危害を加えないでおくだろうって・・・そう考えたんじゃないの?」
「さぁ、それはどうでしょうね?・・・まあ、レイがそう嘘をついていなければ、彼女はあの廃工場であっさりと消されていたであろう事は想像に難くないですが。」
煙に巻こうとするような迂遠な物言いに顔を顰めたアラシは、眉間にきつく皺を寄せてユエを睨んだ。だが、その目にあるのは敵意ではなく、もどかしさと苛立ち、そして悔しさである。
「命を助けた相手に感謝されんならともかく、なんで怒られなきゃいけないんだよ!?お前たちは何にも悪い事してないだろ!?」
「・・・・・・。もしかして、アラシ。僕たちのこと、心配してくれてるんですか?」
「悪い?」
「・・・いいえ。ありがとうございます。」
「ふん。」
どかりと胡坐をかき、照れたように顔を背けた彼から敢えて目を反らしながら、ユエはほんの微かに笑った。優しさと苦さを、等分に含んだ微笑を湛え、彼は独り言のように呟いた。
「・・・生きるより、死ぬ方が楽な場合もありますよ。」
「僕には解らない。」
「僕にも解りません・・・。けど、たとえ実際に死にたいと思った経験があったとしても、今の彼女の気持ちは絶対に解らないんじゃないでしょうか。どんなに似てはいても、所詮他人の気持ちはその人にしか解らないんですから。」
「・・・その人の痛みも知らないで、ただ『生きろ』って言うのは・・・残酷かな?」
「・・・かも、しれませんね。」
優雅な仕草で、再びユエは窓の外へと視線を投げる。厚い雲が広がる夜空を見つめながら、小さく呟いた。
「生かすのが残酷なのか、死なせるのが残酷なのか・・・答えは、レイが持って来るでしょう。」
静かな声に、アラシも顔を伏せて黙り込む。ふたりの間に、沈黙が落ちた。
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窓枠を掴んだ手を、そっと放す。三秒後には、彼女の身体は十数メートル下のコンクリートに叩きつけられ、無残な血塊と化しているはずだった。
・・・だが。
「え・・・・・・・?」
彼女の身体は、三秒後にも、相変わらず五階の廊下の上にあった。
手を放した瞬間、突然身体に衝撃が走って、それから・・・・?しばし茫然としていた彼女は、身体の半分に伝わる冷たさと硬さから、自分がコンクリートの廊下に横たわっている事を知った。だが、もう半分に感じる温かさと柔らかさは、一体何だ?
僅かに身体を起こし、その正体を知った瞬間。彼女は引き攣った悲鳴を上げた。
「レ、レイ・・・・!?」
「う〜・・・・・。」
力ない呻き声。彼女の身体を抱きこむようにして倒れていたレイは、秀麗な顔を苦痛に歪めたままぐったりと伸びていた。先ほど手酷く殴られた腹部に、自分が全体重をかけてしまっていることに気付いたアスカが慌てて跳ね起きると、彼は僅かに身体を丸めてほっと息を吐いた。
「あ〜、助かった・・・マジで死ぬかと思った・・・・。」
口調は平静を装っているが、転がったままでいる所を見るとダメージは相当なものなのだろう。相変わらず血の気が失せたままの顔を見下ろして、アスカは泣きそうな顔になった。
飛び降りようとした瞬間、彼女にぶつかってきたのは、レイだったのだ。落ちる寸前に彼女の身体に飛びつき、その勢いのままに廊下に転がった。しかも、彼女が怪我をしないよう、自分の身体をクッションにして、だ。
『どうして・・・・。』
ここまで走ってきたせいで傷が開いたのだろう。彼の右足に巻かれている白い包帯が、みるみるうちに紅く染まっていく。その様を見ていた彼女は、搾り出すように呻いた。
「どうして・・・・?」
一度箍が外れてしまうと、もう止められなかった。きつく眼を閉じたまま、目の前に横たわる少年に、感情のままに言葉をぶつける。
「どうして・・・そんなになってまで助けたりするのよ・・・!!あんたの仕事は、もう終わったんでしょ!?あたしが死のうがどうしようが、もうあんたには関係ないじゃない!!」
違う、こんなことが言いたいんじゃない。彼に言わなければいけないのは、感謝と謝罪の言葉。たとえここに来たのが仕事のためだったとしても、彼が自分を助け、そのために負わなくてもいい傷を負って倒れていることは事実なのに。
心の片隅で、どこか醒めているもう一人の自分がそう囁く。だが、哀しみと怒りと絶望でぐちゃぐちゃになっている今の自分には、その声に耳を傾ける余裕はなかった。
「どうしてよ・・・・。」
・・・ここから落ちれば、楽になれると思った。解放されると思った。やっと終わりに出来ると、そう思ったのに。
別に、死にたいわけじゃない。ただ、もう生きている事に飽いていた。疲れきっていた。
喪う事も、哀しむ事も・・・憎む事も。もうたくさんだった。ただ、何も考えず、静かに眠りたかった。
それが、死者への冒涜だという事は解っている。ここで、生への渇望を抱きながら殺されていった人間が、一体何人いたことだろう。自らの意志に反してその命を奪われた者たちからすれば、自分の行動は、許しがたい生への冒涜以外の何物でもない。解っている。そんな事は、痛いほどに解っている。
・・・それでも。それでも、自分は。
「ひとりで、生きていけるほど・・・あたしは・・・・強くないっ・・・・!」
―――勇人。
助けられなかった・・・たったひとりの弟。
『あの子がいないのに・・・・これから、どうやって生きていけばいいの・・・・?』
枯れたはずの涙が、また彼女の白い頬を濡らす。俯き、嗚咽を漏らす事も無く、ただ涙を流す彼女の頬に、そっと冷たい指先が触れた。
「・・・・・?」
「泣くな、とは言わねぇけど・・・あんまし泣きすぎると、目が開かなくなるぜ。」
どこか拙い口調で呟いたレイが、ゆっくりと身体を起こす。いてて、と小さく呻きながらも、埃で汚れた自分の顔に構う事無く腕を伸ばし、細い指先で零れる雫を掬い取った。
体温の感じられない、その指先。それでもどこか優しいその仕草に、そっと眼を閉じた彼女に、レイはぽつりと呟いた。
「・・・・ごめんな。邪魔をした。」
「・・・・・・・・。」
「あんたが怒るのは解ってたけど・・・死ぬのはいつでも出来るから。あんたが死ぬ前に、どうしても一度話がしたかった。」
「馬鹿ね・・・そんな事の為に、重傷の身体を引きずって走ってきたの・・・・?」
「当たり前だ・・・飛び下りちまった後じゃ遅いんだからな。」
大真面目にそんな事を言う少年に、彼女は力なく微笑った。彼の言いたい事が何なのかは知らないが、そこまで必死になってくれた事が嬉しかった。
「死ぬなって・・・・お説教しに来たのかしら?」
「まさか・・・俺はそこまで傲慢にはなれない。」
「あら、意外・・・。」
「平手の一発もかまして、『甘ったれんじゃねぇ、弟の分まで生きるのがお前の義務だ!!』とか言って欲しかったのか?悪いが、そいつは俺のキャラじゃない。」
「そう・・・?」
こくりと、幼女のように首を傾げた彼女を引っ張り、レイは彼女と並んで廊下の壁に背を預けた。はぁ、と息を吐き、薄っすらと開いた眼で虚空を見やる。
厚く重い雲に覆われ、星のひとつもない暗黒の夜空。自分たちを包み込もうとしているそれを見ながら、彼はゆっくりと眼を閉じた。
「『死ぬな』なんて・・・・言えねぇだろ・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・俺は、あんたじゃない。あんたが今感じてる痛みの百分の一も、俺には解らない。それでどうして、『死ぬな』なんて言える・・・?
あんたの辛さは、あんただけのモンだ。この先の人生放棄してでも、あんたがその辛さから逃れたいと思ったからって・・・・誰もそれを責められねぇよ。生命の尊さだとか倫理だとか、そんなモンは・・・実際に何もかもを失くした人間にとっちゃ、ガキの戯言みてーなモンなんだからよ・・・・。」
静かな、淡々とした口調だったが、そこには確かに苦味が混じっていた。単なる理屈を語る声ではない。自身の傷に、自身の経験に根ざした「真実」を語る者の声だった。
透明でありながら深いその声に、彼女は虚空を彷徨っていた視線を、ゆっくりと彼の左手に落とした。
『ああ・・・・そうか・・・・。』
手袋に包まれた左手。その下に隠された、無残な傷痕。
「あんたも・・・・・。」
「?」
「あんたも・・・そうだったの・・・?育て親、だったんでしょう・・・・?」
「・・・・・ああ、これか。」
一瞬戸惑い顔になったレイは、彼女の視線を追って小さく苦笑った。
「育て親・・・じゃ、ねぇなぁ・・・・。」
「?」
「義父なんかじゃない・・・そんな言葉じゃ、足りない。」
「・・・・・・。」
「あいつは・・・・霜真は。あの頃の俺の全てだった。」
彷徨う夢幻を追うかのように、そっと漆黒の双眸が細められる。切ないほどの愛おしさを滲ませたその横顔は、埃と疲労に汚れていてもなお、とても綺麗だった。
「父親で。兄貴で。先生で。・・・初めての友達だった。
手負いの獣みたいだった俺を拾って、『零』って名前をつけてくれて・・・ひとの心を、教えてくれた。ずっと否定されてきた俺に、『ここにいてもいいんだ』って、初めて言ってくれたんだ。」
「・・・・・・。」
「嬉しかったよ・・・。本当に、嬉しかった。霜真さえいれば生きていけると・・・・そう、思ってた。」
口元に浮かんでいた幸せそうな微笑が、ふっと掻き消える。その表情の変化に、彼女は胸を抉られるような思いをした。
「・・・あの時、許されるなら。あいつと一緒に逝きたかった。」
「だったら・・・・・。」
「・・・あいつは、それを望まなかったよ。」
その時の彼の表情を、何と言ったらいいのだろう。哀しみと、苛立ちと、悔しさと・・・見ているほうが苦しくなるような、切なさ。
「あいつは、俺を連れていってはくれなかった。『生きろ』と・・・あいつのいないこの世界で、生きていけと。そう言い残して逝った。
ホント・・・残酷なヤツだよなぁ・・・。死なせても、謝らせてもくれないんだから。」
―――残された者と。
―――残して逝く者。
―――本当に辛いのは、どっちなのだろうか。
顔を伏せたアスカ。その手を、レイが不意に握った。
不安と迷いに揺れるその漆黒の瞳は、それでも祈るような真摯な光を宿している。
「それでも・・・それでもさ。俺は、今、ひとりじゃないんだよ。」
掴んだ彼女の手に視線を落としたまま、彼はもどかしげに言葉を綴る。ひどく頼りないその表情は、この想いをどうしたら伝えられるのかと、途方に暮れているようだった。
「霜真が死んだ時、俺は心底死にたいと思った。あいつ本人がそれを望まない事が解ってたから、思い止まったけど・・・泣いて、喚いて、自分で自分を傷つけて・・・ある意味、死ぬより性質が悪かったかもしれねぇ。あと何日生きれば死ねんのかなって、指折り数えて生きてた時もあった。
・・・でも、そんな時期を超えて生きてたからこそ、俺はユエに逢えた。もう一度、誰かと寄り添って歩いてみようと・・・もう一度、ちゃんと『生きて』みようと、そう思えたんだ。」
ぎゅっ、と。掴まれた手に、力が篭った。
「全身全霊を賭けて守ってくれるひとを、俺はふたりも見つけた。それが、途方もないラッキーだったって事は、自分で解ってる。そんな幸運が、全ての人間に与えられてるわけじゃない事も。
・・・・でも、確率はゼロじゃないんだぜ?あんたの全てを預けられるひとが、未来全部を賭けられる目的が、生きてさえいれば見つかるかもしれないんだ。」
痛いほどに握り締められた手。震える声。
「俺は・・・あんたの弟を助けられなかった。あんたから、復讐の相手も奪った。それで・・・あんたが俺を恨むなら、それでもいい。何年でも、憎まれ役を引き受けるよ。
・・・だから、今死ぬなよ。死ぬのは、いつだって出来るから・・・・。」
「・・・さっきは、『死ぬな』なんて言えないって、言ったじゃない・・・。」
「言えねぇよ、言えるわけない!それでも・・・それでも、あんたには死んで欲しくねぇんだ!!
まるで、霜真を失くした時の俺みてぇで・・・見てらんねぇよ・・・っ!!」
支離滅裂な言い分なのは解っている。けれど、言わずにはいられなかった。
全てを失い、憎しみをぶつける相手も無く・・・ただ嘆くしか出来ない彼女。その姿は、数年前の自分そのものだった。
『・・・助けて、あげたかった。』
出来るなら、彼女の弟を取り戻してやりたかった。それが叶わぬと知っても、どうしても放ってはおけなかったのだ。
彼女に、過去の自分を重ねて見ていただけかもしれない。それでも、放っておけば間違いなく壊れてしまうだろう彼女を・・・見捨てる事は、出来なかった。
たとえそれが、自分のエゴだとしても。助けてやりたかった。
『結局は・・・何も出来なかったけれど。』
苦い自己嫌悪と無力感に唇を噛み、俯いたレイ。その頬に、そっと、華奢な指が触れた。
「・・・・?」
「馬鹿ね・・・・。」
さっきレイが涙を拭っていたように、今度は彼女の指が白い頬を汚している埃を拭う。細い顎のラインをなぞるように辿っていたアスカは、ふっと透明な微笑みを浮かべた。
細い腕が、そっと少年を抱き寄せる。汚れ、傷ついた身体を労わるように抱きしめて、彼女は涙声で囁いた。
「こんなに哀しそうな顔をした子を・・・憎めるわけがないじゃないの・・・。」
勇人を助けられなかったのは、自分の責任。彼には一片の責任もない。それなのに、自らの無力を嘆き、綺麗な瞳を曇らせる少年が可哀想でならなかった。
乱暴に見えても、誰よりも優しい彼。他人の痛みまで引き受け、傷を増やす少年。自分が死んだら、彼の傷はもっと深まるのだろうか。
そう聞いてみると、彼はこくりと頷いた。
「責任云々を別にしても・・・俺はアスカが好きだよ。いなくなったら・・・死んじまったら、哀しいさ・・・。」
間違っても恋愛感情の「好き」ではないだろうが、そう呟く彼の口調には一片の偽りも無かった。おとなしく抱きしめられたままの彼の髪に頬を寄せて、アスカは涙に濡れた瞳をそっと閉じた。
『勇人・・・・。』
もう、生きる理由は何もないと思っていた。自分が死んでも、哀しむ者はもういないと。けれど、そうではなかった。
自分の死が、この優しい少年を哀しませるのだと言うなら。とりあえず、ここで死ぬのは止めてみようかと、彼女は考えた。彼の言うとおり、死ぬのはいつだって出来るのだから。
『あったかい、な・・・・。』
触れ合った体から伝わる体温。彼は生きている。自分も、生きている。なんでもないはずのその事実に、何故か涙が溢れた。
「っ・・・・・。」
「アスカ・・・・・?」
肩口に目頭を押し付けて黙り込んだ彼女に、レイが不思議そうに身じろぐ。それを押さえつけ、彼女はくぐもった声で呟いた。
「ごめんね・・・・すぐ、終わるから・・・・。」
「・・・・うん。」
黒衣の少年が、躊躇いがちに華奢な背中に手を回す。微かな嗚咽が響く暗い廊下を、不意に柔らかな光が照らし出した。
顔を上げたレイの眼に映るのは、厚い雲間から姿を現した月。傷ついた心身を包み込み、癒すようなその光に、レイは祈るように眼を閉じる。
―――どうか。どうか、この人に。
自分に、あの金色の青年を与えてくれたように。
・・・この傷ついた女性にも、傍らで見守ってくれるひとを――壊れた心を預けられるひとを、与えてあげて欲しい。
―――祈る少年と、静かに涙を流す女性を。
優しい月の光だけが、静かに見下ろしていた。