柔らかな雨音に満たされた店内に、馥郁たるコーヒーの香りが漂う。カウンターに腰掛けた青年の金糸が、微かなライトを受けて輝くのを見ながら、マスターは濡れた手をタオルで拭った。

 「・・・で、昨日はあの雨の中、大立ち回りして帰ったわけかお前は。」
 「おかげで財布の中の紙幣が水没して大変でした・・・携帯が無事だったからまだ良かったですけど。」

 今日も降り続ける雨の音に、微かな笑い声が混じる。コーヒーカップ片手に悠然と笑ったユエに、洗いあがった皿をごつい手で拭いていたマスターは苦笑を返した。明らかに「スジ者」な連中との乱闘をにわか雨より軽く話す辺り、彼は紛れも無く、冴羽零の相棒であった。いい根性をしている。
 依頼人との待ち合わせの為に訪れた《The Plow》で、ユエは世間話のついでに、マスターに昨日の出来事を話していた。その片割れであるレイの姿は、今日は彼の隣には無い。といっても店に来ていないわけではなく、カウンターの向かいにある2つのボックス席の片方に陣取り、冷め始めたコーヒーをくるくるとスプーンでかき回していた。
 ユエから離れたところに座っているのはいちおう仕事上の理由あってのことだったが、ミルクや砂糖を溶かしこむという本来の目的からかけ離れたその仕草は、単に彼の不機嫌さの表れだ。仏頂面を通り越して無表情になっている少年を眺めて、マスターは目の前の青年に囁いた。

 「レイが怒ってるのは、それが原因か?」
 「昨日は早く帰って、パエリア作ってあげるって約束してたんですけどね・・・なんだかんだで遅くなって、結局作れなくなっちゃって。」
 「それで猫の機嫌を損ねたわけか、やれやれ・・・ヤクザの相手よりこっちの方が難題だな。」
 「おかげで、今朝の洗濯と皿洗いの当番肩代わりさせられちゃいました。でも、あの状況で襲われている人を見捨てて帰ったなんてレイに知られて、軽蔑されるよりはマシですから。」
 「お前も苦労するな。」
 「ま、覚悟の上ですけどね。」

 声をひそめながらも和やかに交わされていた会話を、かしゃん、という甲高い音が遮った。くるりとユエが振り返ると、弄んでいたスプーンをソーサーに乱暴に投げ出したレイが、ため息と共にテーブルに突っ伏していた。

 「おーい、寝ないで下さいよー。」
 「・・・・・ウルセェ。」
 「もうすぐ客が来るんだろ、レイ。しゃんとしろ。」

 苦笑交じりに窘めるマスターに、レイは不機嫌そうに唸りながら身を起こした。解れた髪が目元に零れているせいか、いつもの精彩に翳がさしているように見える。前髪をかき上げる仕草も、どこか気だるげだ。
 だが、それが体の不調ではなく精神面の問題だと知っているマスターは、あえてその事には触れず、いつも通りに接した。

 「パエリアはまた今度作ってもらえばいいだろう?人助けしたんだ、大目に見てやれ。」
 「っ、あのな・・・俺が怒ってんのはそこじゃねぇよ。」

 とん、とテーブルをひとつ叩いて、レイは言った。

 「ずぶ濡れになって、俺との約束を反故にしてまで助けた相手に、引っぱたかれた挙句逃げられるっつーコイツの器用貧乏さに呆れてんだよ、俺は。」

 びし、と指を突きつけられて、ユエは苦笑を浮かべてコーヒーを啜った。

 

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 ―――ダンッ!!

 「・・・はい、ラストっと。」

 地面に叩きつけられた男が白目を剥いているのを確認して、ユエは息を乱すこともなく、間違った用途に使っていた傘を、改めて頭上に広げ直した。
 微妙に開きにくいのでよく見れば、骨が少し曲がってしまっている。強く殴りすぎたか、と苦笑するが、まあこの程度なら使えないこともないだろう。
 自分の背を雨が叩くのにも構わず、壁に凭れて座り込んだままの若者の頭上に、ユエはそっと傘を差しかけた。

 「大丈夫ですか?お怪我は?」

 大分呼吸が整ったらしいその人が、ゆっくりと立ち上がる。濡れて変色したキャップの下から、綺麗な鳶色の瞳がユエを見つめた。
 ・・・次の瞬間。

 ―――ぱんっ!!

 「・・・うわ、痛。」
 「余計なことすんな!!」

 叩き落された傘を見ながらひらひらと手を振るユエを睨み、若者は怒鳴った。細い肩を怒らせてユエを見上げる瞳には、はっきりとした拒絶の色が浮かんでいる。

 「状況も分からないのにしゃしゃり出て来て・・・!誰が助けてくれって頼んだよ!!?」
 「いや、別に誰も。言ったでしょ?見てしまった以上、黙って通過したら夢見が悪そうだって。突き詰めて言えば自分のためです。」
 「余計なお世話!」
 「余計でしたか。」
 「余計だよ!!」
 「それは失礼。でも、ね。」

 ざぁあああ。激しい雨が、対峙するふたりの肩に降り注ぐ。

 「・・・あなたは、死にたがっているようには見えませんでしたよ。」
 「・・・何、を・・・・。」
 「『まだ死ねない』『死にたくない』・・・僕には、貴方がそう叫んでいるように見えました。」

 淡々とした口調には、労わりも同情も正義感も優越感も無い。むしろそっけないほどに乾いた口調だったが、それが逆に、彼が本心からそう思っていることを物語っていた。
 この若者を助けたのは、深い意味あっての事ではなく、ユエにとってはごく自然な行動であった。別に博愛主義者ではないし、自分の命を犠牲にして他人を助けるほどの情熱も持ち合わせてはいない。ましてや、死にたがっている人間を引き止めてやるほど、世話焼きでもない。
 だが、死にたくないと思っている者が危険に瀕し、自分にそれを止める力があるなら、とりあえず助けるくらいの気持ちはある。たとえ、他人にそれは偽善だと言われても、自分の良心とパートナーに顔向けできない結果になるよりはマシだった。

 「・・・関わっちゃいけない。」

 地面に転がった傘を拾い上げると、頭上から雨粒に交じって落ちてきた呟き。顔を上げると、怒りの消えた鳶色が、ぼんやりと濡れたアスファルトを見つめていた。

 「それは、貴方にですか?それとも、この人たち?」長い指が、路上の半死人たちを指し示す。
 「両方だ。今夜のことは忘れて・・・・それが、アンタのためだから。」

 そう言って、すっと背を向けた若者。走り出したその背を、ユエは引き止めなかった。
 後に残されたのは、曲がった傘と転がる負傷者たちと。

 「・・・・ありがと、助けてくれて。」

 去り際に呟かれた、小さな小さな言葉だけだった。

 

 

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 「・・・バカだな。バカ。ほんっとバカ。」
 「バカバカ言わないで下さいよ・・・お礼は言ってもらえたんだからいいじゃないですか。」
 「買ったばかりの傘とお気に入りのジャケットと財布の中の紙幣と俺との約束との代償としては安すぎるんじゃねぇのか?」
 「損得の問題じゃないですって。」

 ふんぞり返って悪口雑言を投げつけてくるレイに、ユエは穏やかな苦笑を返した。サングラス越しに、温かい視線をレイに向ける。

 「その人見捨てて帰って、パエリア作った方が良かったですか?」
 「今日からひとりでよろず屋やる気ならな。」
 「ほらね。貴方に見捨てられるような真似が出来るわけないじゃないですか。」

 そう言って笑う彼を呆れたように見やり、レイは再びバカだな、と呟いた。だが、その目は先ほどとは違って、どこか優しい。
 見ず知らずの人間を助けるために雨の中大立ち回りをして、その結果約束を破ったからと家事当番を押し付けられて、それでも文句ひとつ言わない彼の不器用な誠実さが、レイは好きだった。マスターの言うとおり人助けをしたのだから、本来はレイの無理難題を聞く必要なんて無いにもかかわらず、彼は当然のようにそれを受け入れた。
 それはユエが、自分の行動を「いい事」だとはこれぽっちも思っていないからだ。自分のしたことはきわめて当然のことだと思い、ヒロイックな幻想に浸かることもないからこそ、守れなかった小さな約束に罪悪感を感じ、それを償おうとしていた。
 聡明な彼が隠し持つ、思いがけないほど真っ直ぐで不器用な一面を、彼の周囲の人間は皆好ましく思っている。気付いていないのは本人だけだ。
 くすりと小さく笑ったレイを見て、マスターも口元を緩ませた。どうやら同じ事を考えていたらしい。

 「何ですかふたりして・・・気持ち悪いなぁ。」
 「ヒ・ミ・ツ。」
 「ひっどー、僕だけ除け者ですか?」
 「ふふふ・・・しかし、何者だったんだろうな。その、キャップの若者は。」

 マスターの問いかけに、ユエは緩く首を振った。

 「さぁ・・・名前も聞きませんでしたしね。また危ない目に遭っていなければいいんですが・・・。」
 「お前が伸した奴らは?」
 「はい。」
 「?何コレ・・・『東亜警備保障 警備部 名越篤郎』?社員証か?」
 「気絶した彼らから拝借しました。」
 「おめでとう。暴行罪から強盗罪にランク・アップだ。」
 「嫌なこと言わないで下さいよ。身分を確認しておくのは必要でしょ?」

 大分テンションが上がってきたらしいレイは、その声にはふっと笑っただけで答えなかった。六人分の社員証をトランプのように広げて見渡すと、ざっとひとつにまとめてユエに返す。

 「警備会社ってのは、犯罪者から善良な市民を守るのが仕事だと思ってたんだがな。リンチだの目撃者の抹消だのが任務だったとは知らなかった。」

 痛烈な皮肉に、ユエは社員証を仕舞いながら苦笑を返した。

 「ここを普通の警備会社と比べては、真面目なガードマン達に失礼ですよ。」
 「調べた?」
 「昨晩ね。ここは・・・。」

 ユエが言いかけたとき。

 ―――ギイイイィィ。

 微かな軋みと共に、店のドアがゆっくりと開いた。

 

 

 

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