「いらっしゃい。」
マスターの低い声が、店内に響く。その声に小さく頷くと、雨の香りと共に店内に滑り込んできたその人物は、かぶっていたキャップを乱暴に脱ぎ去った。
―――さらり。
厚い布地から、肩より少し長い髪が零れ落ちる。ユエのような鮮やかな金でも、レイのようなきっぱりとした漆黒でもなく、温かみを感じさせる、優しい栗色の髪。豊かに波打つそれは、おそらく生まれつきのものなのだろう。
細い指で髪をかき上げたその人物は、カウンターに腰を下ろしたユエに目を留め、驚いたように手を止めた。髪より若干色の薄い、鳶色の瞳が大きく見開かれる。
「あ、あんた、昨日の・・・・!!」
「・・・・うわぁ、すごい偶然。」
「は?昨日って・・・・まさか・・・・。」
ユエと、彼を見たまま固まっているその人物を見比べ、何故か絶句するレイ。その彼に、ユエはあっさりと言った。
「うん、この人ですよ。僕が昨日助けたの。」
「『この人です』って・・・・・・女じゃねぇかよ!?」
「まぁ・・・どう見ても、男性には見えませんよね。」
そう。そこに立っていたのは、うら若い女性だった。年齢は、ユエとレイの中間ぐらいだろうか。色が白く繊細な顔立ちだったが、鳶色の瞳に宿る強い意志が、彼女の纏う雰囲気を凛々しいものに変えている。着ているのはぼろぼろのジーンズで、特に背が高いわけでも抜群のプロポーションをしているわけでもなかったが、それでもなお彼女には、どんな着飾った美少女をも霞ませてしまいそうな、強烈な存在感が感じられた。
自分を見て素っ頓狂な声を上げたレイを睨み、彼女は細い腰に両手を当てて言った。
「ちょっと、何なのよその反応は!あたしが女なのがそんなに不服なの!?」
「ち、違う違う!ただ、俺はてっきり男だとばかり・・・・。」
「僕、男を助けたなんて一言も言ってませんよ?」
「そうだけど!お前の話聞いてたら、普通そう思うだろ!」
まあ、鉄パイプを振り回して乱闘していたなどと聞けばそれも当然で。
目の前の、自分より小柄な女性――しかも、かなりの美人である彼女がそうだと聞いて、レイは流石に少々驚いていた。
あの細腕の何処にそんな力があるのだろう?と、自分の外見を棚にあげて不思議がるレイを胡乱な眼で見ていた彼女は、何故か突然踵を返した。たった今くぐったばかりのドアを出て行こうとする彼女の背を、ユエは苦笑交じりに制止した。
「ちょっとちょっと・・・いきなり出て行くことないじゃないですか。」
「アンタが《よろず屋》だって知ってたら、依頼しようなんて思わなかったわ・・・。呼び出しといて悪いけど、この話は無かったことにして頂戴。」
「それは、僕では実力不足だということでしょうか?」
その問いに、彼女は小さく首を振った。
「違うわ。そうじゃない。」
「では、何故?」
「・・・いい奴だからよ。」
わずかに首を傾げるユエを見つめて、彼女は哀しげな微笑を浮かべた。
「あんた、いい奴だから・・・こんな事に巻き込みたくないの。」
「・・・けれど、貴女は追い詰められているのでしょう?こんな、得体の知れない《よろず屋》に、縋りに来るほどに。」
「・・・・・・・。」
答えず、彼女は無言で背を向けた。その華奢な後姿に、レイは静かに声をかけた。
「ねぇ、お姐さん。」
「・・・・何。」
「俺たちはさ。ボランティアやってるわけじゃないんだよね。」
「・・・・・は?」
思いもよらない台詞に、思わず振り返ってしまった彼女。鳶色の瞳が映し出した少年は、穏やかな微笑を浮かべていた。
先ほどまでの、くるくると変わる子どものような表情ではない。傷ついた者を包み込むようなその顔は、痛みを知る「大人」のものだった。
「コイツが昨日お姐さんを助けたのは、単なるお節介だから・・・お姐さんが『関わるな』って言うのも、もっともなんだよなぁ。いくら他意はないっつっても、自分からトラブルに首突っ込んでるのは確かなんだから。コイツの事、心配してくれたんだろ?」
「・・・・・・・・。」
「でもさ、今日は違う。今日、俺たちは《よろず屋》として、《依頼人》であるアンタの話を聞くためにここに来たんだ。もちろん、依頼を引き受けるかどうかは話を聞いてから決めるし、引き受けたならそれなりの報酬も支払ってもらう。けど、その結果トラブルに巻き込まれたって、それはこっちも承知の上のリスクだ。だから、アンタが気に病む必要はないよ。」
淡々と、しかし力強く言い切られた言葉。真っ直ぐな視線に、漆黒の双眸を見つめ返していた彼女の目が、ふと揺れた。糸が切れたかのように、ふらりとドアに凭れかかりそうになった彼女の肩を、歩み寄ったユエがそっと支える。
「『信じてくれ』なんて、おこがましくてとても言えませんけど・・・。話してみてくれませんか?貴女が抱えている、重荷のことを。」
温かい声に、彼女がそっと俯く。やがて、しばしの沈黙の後、小さく小さく呟かれた声は、ほんの少し震えていた。
「・・・昨日は、この男もバカだと思ったけど。」
「ん?」
「・・・その相方も、やっぱり相当な大バカだったわ。」
その言い分に、呆気に取られたように顔を見合わせた二人は、同時に小さく吹き出した。
「・・・だからパートナーやってんのさ、俺たちは。」
微笑を含んだその声に、顔を上げた彼女は、泣き笑いのような笑顔で応えた。
―――その女性は、夏木 飛鳥(なつき・あすか)と名乗った。
「・・・・弟を、助けて欲しいの。」
組み合わせた両手をきつく握り締めながら、彼女は絞り出すようにそう言った。手を付けられていないコーヒーが、強ばった彼女の顔を鏡のように映し出している。
彼女の隣のスツールに腰掛けたユエと、ふたりの横顔が等分に見えるボックス席に座ったレイは、静かにその声に耳を傾けていた。
「弟は、勇人(ゆうと)っていって・・・あたしの4つ下だから、17歳ね。学校には行ってなかったんだけど、隣町のコンビニでバイトとして働いてるわ。あたしとふたりで、その近くのアパートで暮らしてるんだけど。」
「ご両親は?」
「勇人が生まれてすぐ、ふたりとも交通事故で死んだわ。親戚もいなかったし、あたしが中学出て働けるようになるまでは、施設を転々としてたの。」
淡々とそう言って、彼女はコーヒーを口に含んだ。カップを持つその細い指先は、よくよく見れば、かなり荒れている。ささくれだらけのその指は、彼女が経験してきた苦労を物語っているように見えた。
彼女の話が正しければ、彼女は4歳かそこらで両親を失ったことになる。生まれたばかりの弟を抱き、頼れる大人もいない中で、精一杯肩肘を張って生きてきたのだろう。そこらの若い女性とは比べ物にならない苦労を重ねてきただろうに、ひねるでもなく世の理不尽さに嘆くでもないその強さに、ユエは素直に感嘆した。
「・・・彼が、いなくなったのはいつですか?」
「1ヶ月くらい前よ・・・いつも通り家を出てったのに、様子のおかしいところも無かったのに、帰ってこなかったの。その晩も、その次の日も・・・。」
「警察へは?」
「行ったわ。けど、何もしてくれやしない!一通りはいはいって話を聞いて、書類書いて、それでおしまいよ。捜査も何もあったもんじゃない!自分でビラ配りでもした方がまだましだったわ。」
苛立たしげに声を荒げるアスカ。だが、警察の対応も無理ないことだと、ユエは心の中でそっと呟いた。
この街では、毎日毎日無数の人間が姿をくらましている。自分の意志で姿を消す者もいれば、事件や事故に巻き込まれた者もいるだろうが、その全ての行方を追っていけるほど警察は暇ではない。事件に巻き込まれたという確固たる証拠があるわけでもなく、しかもそれが若い男だとなれば、家出でもしたんじゃないのとスルーされるのが関の山だ。
心の中でため息をつくと、ユエは少しだけアスカの方に向き直った。
「だから・・・ご自分で調べたんですね?弟さんの居場所を。」
「・・・・・・。」
彼女は、『弟を探して欲しい』ではなく、『弟を助けて欲しい』と言った。それはつまり、弟の居場所は既に分かっているということだ。
ユエの確認に、アスカはこくん、と小さく頷いた。
「・・・一人でやるしか、ないと思ったの。あたし、一時期悪い仲間と付き合ってたことあってね。今でも結構、あっちこっちにツテがあるのよ。それを頼りに、勇人を見たやつがいないか、手当たり次第に聞いて回って・・・・。」
「・・・見つけた。」
「うん。ほとんど偶然だったんだけど、町外れの廃工場のそばで、勇人らしい若い男を見たって人がいたの。そいつが言うには、一年位前から、その工場跡に黒ずくめの怪しさ爆発な連中が出入りしてるって言うんだけど。」
「まさか、それでそこに潜入したのか?ひとりで?」
「当たり前じゃない!そんな危ないトコに勇人がいるなら、一刻も早く助けなきゃ!!」
「・・・・それで昨日追っかけられてたんですか貴女。で、何か収穫はあったんですか?」
「・・・勇人は見つからなかったけど・・・ゴミ捨て場みたいなところで、これを見つけたわ。」
彼女が、ジーンズのポケットから取り出したのは、ぼろぼろになった、薄い水色のお守りだった。正月に神社で大量生産されるような安っぽいものだが、紐だけは新しいものに替えてある。ぼろぼろなのも、乱暴に扱ったからではなく、長い間人の手に触れられて自然にそうなったのだろう。退色の割には損傷が少ないところから、このお守りの持ち主が、これをとても大切に扱っていたことが窺い知れる。
「これ、勇人のものなのよ・・・ほら、裏に名前書いてあるでしょ?」
「本当だ・・・これ、女性の字みたいですけど、あなたが書いたんですか?」
「ううん・・・これ、死んだ母の字なの。勇人が生まれた日に買ったやつでね。あの子にとっては、唯一の母の思い出だから・・・こんなぼろぼろになっても、絶対捨てようとしないで、鞄にぶら下げてたの。紐が色あせてくると、『姉さん、切れたら困るから紐替えてよ』って・・・・。」
「・・・・・・?」
だんだんと小さくなったアスカの声が、途切れた。不思議そうに顔を覗き込んだレイは、一瞬息を呑んだ。
「アスカ・・・・。」
「ありえないわよ・・・・。」
彼女は、泣いていた。口調も、少し怒ったような表情もそのままに、静かに涙だけが白い頬を流れる。水晶のような涙が、ぽつりとカウンターに落ちたのにも気付かぬように、彼女は小さなお守りを両手で握り締めて叫んだ。
「あの子が・・・あの子が、これを失くすわけない!!勇人はあそこにいる、あいつらに捕まって無理やり連れて行かれたのよ!!そうでなきゃ・・・っ、そうでなきゃ、何でこれがあそこにあるのよっ!!」
血を吐くような叫び。ぶるぶると震える肩を見つめていたレイは、ふっと漆黒の双眸を細めた。
大切な者が危険に晒されているというのに、その居場所も分かっているのに、救い出すことは出来ない無力感。必死の思いで廃工場に乗り込んだ彼女は、敵に発見されて撤退するしかなかった自分の非力さに打ちのめされたことだろう。
―――自分に力があれば、守れたのに。
あまりにもよく知った感情に引きずられかけ、レイは無意識のうちに左手を強く握り締めた。同時に、その様を視界の隅で見ていたユエは、ほんの僅かに眉を寄せる。
ふたりの微妙な変化には気付かず、アスカはひとつ大きく息を吐くと、ぐいっと拳で涙を拭って顔を上げた。涙に濡れてはいても、凛とした強さを失わない瞳がユエを見据える。
「・・・お願いよ、力を貸して。お金は・・・あんまりないけど、何年かかっても絶対払うわ。あたしに出来ることならなんでもする、だから・・・・!!」
「・・・・・・・。」
困ったように、そして何故か、どこか辛そうに眉を顰めたユエ。しばし黙り込んでいた彼が、躊躇いがちに口を開こうとしたとき。
「・・・・・!!」
ぴくん、と。
それまでテーブルに視線を落としていたレイが、弾かれたように顔を上げた。
「―――伏せろっ!!」
「・・・え!?」
彼女が、驚いたように腰を浮かせた、その瞬間。
―――ガシャ―――ン!!
・・・甲高い無機物の悲鳴が、店内に響き渡った。