―――ばしゃばしゃばしゃ。

 三人分の足音が勢い良く水を跳ね上げながら疾走していく。激しい水音に混じって聞こえてくる若者たちの声に、アスカは思わず眉を寄せた。

 「・・・おっ前なぁ!!もうちょっと手加減とかしろよ、思いっきりドアぶち壊しやがって!誰が修理すると思ってんだよアレ!?」
 「僕がやりますよ。ま、生きてあの店をもう一度訪れることが出来たら、ですけどね。」
 「はいそこ不吉な台詞をさらりと言わない!!」
 『な、なんでこいつらこんなに余裕なのよー!!?』

 全力疾走しながら交わされる漫才。普通なら笑うところだが、あいにくと今のアスカにはそんな余裕はなかった。ぜぇぜぇと息を切らしながら、今にも崩れそうになる膝を叱咤して走り続ける。顔に吹き付ける雨が呼吸を妨げ、濡れて絡みつくジーンズに思わず舌打ちが漏れた。
 いや、本当に舌打ちしたのは、余裕綽々で笑みすら浮かべているこのふたりに対してなのかもしれない。

 ―――だって、普通笑ってはいられないだろう。つい20分前に、殺されかけた人間が。

 

 

 ―――伏せろ、という声に腰を浮かせた瞬間、アスカはスツールごと床に引きずり倒された。

 「うわっ・・・・・!!」

 床に激突する寸前、彼女の腕を引っ張った張本人――レイが、彼女の体を抱きとめた。アスカが礼を言うべきか、いきなり何しやがると怒鳴りつけるべきか迷った瞬間。

 ―――ガシャ――ン!!

 さっきまで彼女が口をつけていたカップが、突然粉々に砕け散った。

 「なっ!?」
 「ちっ、来やがった!」

 鋭く舌打ちしたレイの視線が、店のドアに向けられる。古びてはいるが、コーヒーの香りと煙草の煙に燻された木の色が綺麗なドア。その中央にはめ込まれた色濃いガラスに、さっきまではなかった奇怪な蜘蛛の巣が描き出されている。その意味するところを悟った瞬間、アスカの顔から音を立てて血の気が引いた。

 「ま、さか・・・銃!?」
 「そのまさかだ。つーか、こんなトコでぶっ放すんじゃねぇよクソどもが・・・・!!」
 「本人に言ってあげてくださいな、そういう事は。」

 最初の銃撃と同時に飛びずさったユエが、ふっと上半身を反らす。びし、という鈍い音と共に、今度はユエの背後の壁に不気味な穴があいた。

 「うーん、ちょっと形勢不利かな?」
 「もしかしなくてもメチャメチャ不利だ!ユエ、一旦出るぞ!!」
 「了解!」

 言うが早いか、ユエは長い脚を繰り出して、床に転がったスツールを蹴り飛ばした。一片の躊躇いもなく蹴飛ばされたそれは、物凄い速さで宙を飛んでドアに激突する。耳をつんざくような大音量に混じって、ぎゃああっという悲鳴が微かに聞こえた。

 「アスカ、こっちだ!!」
 「え!?」

 ぐいっと腕を掴まれ、店の奥へと引きずりこまれる。視界の隅で、おまけとばかりにもうひとつスツールを投げつけたユエが後を追ってくるのを見たのが、彼女の最後の記憶だった。
 凍りつきそうな脚を必死に動かしながら、アスカは背後で怨霊のうめき声のような怒号が響くのを、かすかに聞いたような気がした。

 

 

 ―――そして今。気付けば、アスカは左右をよろず屋たちに挟まれて、乱れた息を必死に整えようとしていた。

 彼女たちがいるのは、ビルとビルとの間にある、細い路地だった。濡れたジーンズ越しに、腰を降ろしている鋼鉄製の非常階段の、ひんやりとした温度が伝わってくる。顔を上げると、ぽたぽたと滴る水滴が目の前を通り過ぎた。どこをどう走ったのか、そもそもどうやってあの店を抜け出したのかすら思い出せないが、気付けば見慣れたJRの駅が道路の向こう側に見えていた。時間的には随分と長いことマラソンしていたが、それは追っ手を撒くために寄り道をしていただけで、距離的には大して移動はしていなかったようだ。雨に霞む緑色の文字をぼんやりと眺めながら、アスカはやけに冷静にそう思った。

 「あの喫茶店のマスター、無事かしら・・・・。」
 「あぁ、それは平気さ。あのオッサン、あの辺じゃちょっとした顔だから。中立な人間だって事はよく知られてるから、奴らもわざわざとっ捕まえて拷問したりはしねぇよ。・・・・それより、自分のことを心配しな。奴らの狙いは、明らかにアンタなんだから。」
 「そう、ね・・・・。」

 そうだろうと思う。あの銃撃は、明らかに自分を狙ったものだった。レイが警告してくれなければ、今頃は・・・・。そこまで考えて、今さらながらに膝が震えた。
 うん、と伸びをするレイをぼんやりと眺めながら、濡れた髪をかき上げているユエにそっと尋ねる。

 「・・・あいつら、昨日の奴らね?余計なことをするなっていう警告?」
 「ええ、そうでしょうね。貴女が喧嘩を売っている相手は、そのくらい性質の悪い連中です。」

 ふう、と息を吐くと、ユエはじっとこちらを見つめた。サングラス越しでも、彼がひどく真剣な目をしていることは分かった。
 戸惑い、思わず口をつぐんだ彼女に、ユエは淡々と、こう言ってのけた。

 「喫茶店での貴女の依頼に、まだ応えていませんでしたね。」
 「ええ。受けてもらえる?」
 「いいえ。お断りします。」
 「え!?ちょっ、ユエ!?」

 驚いたように声を上げたのは、アスカではなくレイだった。信じられないという顔で何かを言いかけるレイを視線で抑え、ユエはそっと首を振った。躊躇いがちに、しかし何かを察したように黙り込んだレイから視線を外し、ユエは何かを諦めたような微笑を浮かべるアスカに目を向けた。

 「・・・やっぱり、相手が悪すぎるか。ろくに報酬も支払えない女の為に、命張る義理はないよね。」

 ははっ、と小さく笑うアスカ。だが、ユエはゆっくりと首を振った。

 「報酬云々とか、相手の問題ではないんですよ・・・貴女のためです、夏木さん。」
 「は?」
 「悪いことは言いません。この件からは、手をお引きなさい。」
 「なっ・・・・!!」

 アスカの形の良い眉が跳ね上がる。勢い良く立ち上がると、段差の関係でユエとの視線が同じ高さになったのをいいことに、その襟首を引っ掴む。ぐい、と力づくで引き寄せ、彼女は無表情を崩さないユエを、至近距離で怒鳴りつけた。

 「ふざけんじゃないわよ!!たった一人の弟を見捨てられるわけないでしょ!?」
 「・・・見なくてもいいものを、見ることになりますよ。」
 「『見なくていいもの』?はっ、お笑いだわ。」

 嘲るように吐き捨てた彼女は、突き放すようにユエの襟首を解放した。

 「あたしだって、この歳まで温室の中でホケホケ生きてきたわけじゃないのよ。ガキの頃から施設をたらい回しにされて、そこから出たら出たで食い物にしようとするクズどもから身を守って・・・ずっと地面を這いずりながら、ドブネズミみたいな暮らしを続けてきたんだ。見なくていいものなんて、もう嫌ってほど見てるわ。」
 「・・・・・・。」
 「・・・でもね。そんな散々な生活でも、勇人が一緒だったから耐えられた。どんなに辛いことがあっても、あの子が傍で手を握っていてくれたからやって来れた。勇人がいなければ、あたしはとっくの昔に人生捨ててたわ。」

 

 ―――自分に残された、たったひとつの「守るべきもの」。
 たとえ相手がどれほど厄介な相手であっても、弟を見捨てて逃げるなどという選択肢は、彼女の中には存在していなかった。

 

 とん、と階段を蹴ると、アスカは手摺を飛び越えて、雨の中に飛び出した。ざぁざぁと降りしきる雨が、彼女の全身を再び濡らしていく。
 シャワーのようなそれを受けながら振り返った彼女は、鳶色の瞳に、冷ややかな視線を向けて言い捨てた。

 「残念だけど、交渉は決裂ね。話聞いてくれただけでも嬉しかったわ。面倒ごとに巻き込んで悪かったけど、もう逢うこともないでしょう。元気でね。」
 「・・・まだ、弟さんを探す気ですか?」

 ぽつりと呟いたユエに。

 「・・・依頼を断った以上、あんたには関係ないでしょう?」

 鮮やかな拒絶の言葉を残して。
 彼女は、雨のヴェールの中へと消えていった。

 

 

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